【日時】2004年 6月某日 09:20
【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) エルメロイ教室 〜 カフェ・テラス
窓の外、200メートル先のカフェ・テラス。
そこに座る「もう一人の管理者(自分)」を検知した瞬間、茜の脳内で無数のタスクが優先順位を組み替えていく。
(――対応方針の変更。現在の最優先事項は、僕の《環境並列演算網(L4)》にアクセスしている未知の論理端末の特定、および排除。教室というパブリックな空間で迎撃を行うのは、情報漏洩(エントロピー増大)のリスクが高すぎる)
茜は視線を窓の外から手元のノートに戻すと、それをゆっくりと鞄にしまった。
「……悪いけどフラットくん、僕は早退するよ。先生には、深刻な魔力酔い(マナ・イントキシケーション)の症状が出たと伝えておいてくれ。頭痛が酷くてね」
フラットは目をぱちくりと瞬かせ、首を傾げた。
「ええっ!? 竜胆さん、全然そんな風に見えないですよ! むしろさっきから、体の中ですっごいスピードで計算機が回ってるみたいな音がしてるし!」
「気のせいだよ。君の直感は少し過敏になりすぎている。……あと、スヴィンくん」
茜は、忌々しそうにこちらを睨んでいる獣の顔を振り返った。
「僕の不快な匂いが消えるんだ、せいぜい静かに過ごすといい」
「チッ……言われなくてもそうするさ。さっさと失せろ、三流(バグ)野郎」
スヴィンが鼻を鳴らして机に突っ伏すのを確認し、茜は席を立った。
「お待ちになさい、竜胆茜」
ルヴィアが扇子で茜の行く手を塞ぐ。彼女のサファイアの瞳には、自分の「時計」が勝手に動き出そうとしていることへの不満が渦巻いていた。
「貴方、私を誤魔化せると思って? その回路の乱れ、ただの魔力酔いではありませんわ。逃げるつもりですの?」
「逃げる? いいえ。自分のシステムの不具合(バグ)は、自分でデバッグしに行くんです。ルヴィアさん、貴方の美しい調律を汚さないためにも、少し一人にしてください」
茜は淡々と、しかしルヴィアのプライドを完璧に突く「逃げ口上」を用意し、彼女が怯んだ隙に教室のドアへと向かった。
最後に、不安そうに見つめてくるグレイと一瞬だけ視線が交差する。
「……竜胆さん」
「……大丈夫です、グレイさん。少し、野暮用を片付けてくるだけですから」
それだけを言い残し、茜はエルメロイ教室を後にした。
【日時】同日 09:30
【場所】時計塔周辺 カフェ・テラス
ノリッジの校舎からカフェ・テラスへと向かう道中、茜は自身の内側に構築された仮想魔術刻印(OS)の挙動を慎重にモニタリングし続けていた。
(……奇妙だ。相手は僕の L4 の波長を完璧に模倣しているというのに、こちらへの攻撃的なハッキング(侵食)を仕掛けてくる気配がない。ただ、『そこにいる』という状態を維持しているだけだ)
茜の脳裏に、数日前のユリフィス(降霊科)の地下第零実験場での出来事がフラッシュバックする。
アトラス院の錬金術師が仕掛けた「論理爆弾」が組み込まれていた、幽霊演算機。それを解体した後に送られたアトラスのトラップ(黒い手紙)を作動させ、昨夜の脳内サイバー戦へと至った。
(……あの手紙の残骸が発した音声ログ。『近いうちに直接観測に行く』。……あれが降霊科の残党による探りでないことは、波長の違いから明らかだ。だが、相手の手札が全く見えない。あの男は、何を『入力(インプット)』として、何を『出力(アウトプット)』とする錬金術師なのか)
ロンドンの柔らかな朝の陽光が降り注ぐカフェテリア。
魔術師たちの溜まり場にもなっているその店の、通りに面したテラス席。
そこに、彼は座っていた。
灰色のコート。一切の装飾を排した、機能性のみを追求したような衣服。
年齢は二十代半ばほどだろうか。その顔立ちには、感情の起伏、疲労、あるいは魔術師特有の「神秘への渇望」といった、人間らしいノイズが完全に欠落していた。まるで、精密に作られた石像が、ただ風景の一部としてそこに置かれているかのようだった。
茜は足音を殺し、自然な動作で彼の対面の席へと腰を下ろした。
男はテーブルの上のブラックコーヒーに口をつけることもなく、ただ静かに、瞳の焦点すら合わせずに茜を見つめ返した。
「……相席、構わないかな」
茜が平坦な声で切り出す。
「構わない。君がその席に座ることは、すでに『収束』していた事実だからね」
男の口から発せられた声は、まるで機械の合成音声のように抑揚がなかった。
いや、違う。茜の L4 が、彼の声帯から発せられる物理的な音波よりも早く、ネットワーク越しの「デジタル信号」としてその言葉を受信しているのだ。この男自身が、一つの巨大な演算端末として機能している証拠だった。
「……僕の生活インフラ(L4)に、僕と同じ波長でログインしているのは君だね。アトラス院の錬金術師が、わざわざロンドンのオープンカフェで他人のルーターに相乗りするとは。極めて非効率的なアプローチだ」
茜は淡々と相手の矛盾を突く。
「非効率? いいや、これが最も無駄のないプロセスだ。君の演算基盤に接触し、君の『結果』を観測する。そのための最短距離を選んだに過ぎない」
男は瞬き一つせず、茜の無機質な瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「私の名は、エル=ナハト・アズラエル。アトラス院、第七演算室・終末計算部門に所属している」
「エル=ナハト……」
茜の脳内で、その名と所属の検索(クエリ)が走るが、時計塔のデータベースには該当する情報はない。純粋なアトラスの深奥に位置する存在。
「君がユリフィスの地下で我々のコードを解体し、昨夜の『思考剥製(タキシダーミー・ロジック)』すらも喰らい尽くしたバグ……竜胆茜くんだね。君の演算能力(ハードウェア)は、確かにアトラスが評価するに値する誤差だ」
エル=ナハトの言葉には、敵意も、賞賛もなかった。ただ、数式が正解を導き出したときの「確認」があるだけだ。
(……誤差、か。彼にとって、僕の行動はすべて『計算上のズレ』として処理されている。……情報を引き出す。彼の魔術基盤、回路の構造、その思考のアーキテクチャを)
茜はテーブルの下で右手の指先を微かに動かし、起源『解析』に根ざした彼の中核魔術の一つ――《構造解析(ストラクチャー・アナライズ)》を、眼前のエル=ナハトへと音もなく放った。
対象の魔術式、構造、回路を瞬時に読み解き、丸裸にする。トリムマウ(月霊髄液)すらも看破した、茜の絶対的な観測の目。
だが。
(――警告(Warning)。対象の構造情報の取得に失敗。
エラーコード:プロセス欠落。
対象の魔術回路内に『演算の過程(プロセス)』が存在しません)
「……なっ?」
茜の表情筋が、ほんの数ミリ、驚愕に引き攣った。
視えない。
エル=ナハトの中に、魔術が発動するための「原因」がない。魔力が練り上げられ、術式が構築され、世界に干渉するという『過程(ルート)』が、彼の内側には一切存在していないのだ。
「……奇妙な顔をしているね、竜胆くん。私を『解析』しようとしたのか?」
エル=ナハトは、まるで茜の失敗を最初から知っていたかのように、微かに首を傾げた。
「無駄だ。君の『解析』は、物事の構造を読み解き、無限の分岐から最善の未来を『選ぶ』ことにあるのだろう。……だが、私の前では、その行為自体が意味を持たない」
エル=ナハトが、テーブルの上に置かれていた自分の手を、ゆっくりと裏返した。
「私には、過程など存在しない。ただ『そうなる』という結果だけが、最初からそこに置かれているからだ」
瞬間。
茜の L3《確定未来の選別(ルート・セレクション)》が、激しい警報(アラート)を鳴らし始めた。
数秒先の未来分岐をスキャンし、最善のルートをなぞり続ける茜の「疑似未来視」。その視界の中で、無数に広がっていたはずの「安全な未来へのルート」が、バキバキと音を立てて黒く塗り潰されていく。
(……未来分岐が、消えている……!? 僕が回避する未来も、反撃する未来も、立ち上がって逃走する未来も……すべてが、消失していく……!)
「未来は『選ぶもの』ではない。ただ一つの終端へと『収束するもの』だ」
エル=ナハトの無機質な声が、茜の脳内に直接叩き込まれる。
「君の『未確定』は、私の前ではただの遅延行為に過ぎない。……さあ、竜胆くん。君という不規則なバグが、どこで『終端』を迎えるのか。私に見せてくれないか」
アトラスの「決定論」が、茜の「確率論」の首元に、冷たい刃を突き立てた。
竜胆茜という観測者が、生まれて初めて「解析できない未知」と「未来が消滅する恐怖」に直面した、絶対的な劣勢の開幕だった。