境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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まえがき

この先投稿する話は、全部、没案なので気にしないでください。


【第四十六片】矛盾の激突、結果と結果の殴り合い

【日時】2004年 6月某日 09:32

 

【場所】時計塔周辺 カフェ・テラス

 

 

「君の『未確定』は、私の前ではただの遅延行為に過ぎない」

 

 

エル=ナハト・アズラエルの無機質な宣告と共に、竜胆茜の脳内を覆う L3《確定未来の選別(ルート・セレクション)》の視界が、急速に黒く塗り潰されていく。

 

それは魔術による物理的な破壊ではない。アトラス院が誇る決定論の極致――《終端確定(ラスト・デシジョン)》。対象が最終的に迎える『敗北』や『死』という結果のみを計算し、途中のプロセスを一切無視して現在へと引きずり出す、概念的な処刑宣告だった。

 

 

(……来る。『僕の演算が破綻し、敗北する』という未来が、回避不能の事実として押し付けられる……!)

 

 

茜の 級魔術回路が、かつてない死の気配に悲鳴を上げた。

 

相手の術式には「弾道」も「魔力の波」も存在しない。原因(プロセス)がないのだから、防御のしようがない。

 

 

「……なら、その『結果』の到着を、永遠に保留させてもらう」

 

 

茜はテーブルの上に両手を置き、瞳孔を限界まで収縮させた。

 

自身を守る絶対の盾、奥義《確率地平》――その出力を極限まで絞り込み、自身とエル=ナハトを囲む半径 2 メートルの空間のみに圧縮して叩きつける。

 

 

 

「起動――《局所確率遅延(ローカル・プロバビリティ)》」

 

 

 

カチリ、と。カフェ・テラスのその一角だけで、世界の時計の針が狂った。

 

空間が濁化し、無数の光の線(未確定の因果)が放射状に展開される。テーブルの上に置かれたコーヒーカップから立ち上る湯気が、空中でゼリーのように固まり、静止した。

 

 

「……ほう」

 

 

エル=ナハトの石像のような顔に、微かな、本当に微かな『興味』の波紋が走った。

 

「私が確定させた『終端』へのプロセスを、強制的に【読み込み中(ローディング)】の状態へと突き落としたか。事象の分解能を極限まで低下させ、因果の確定を遅延させる……。なるほど、美しいバグだ」

 

 

エル=ナハトの《終端確定》という巨大な黒い杭が、茜の《局所確率遅延》という泥の盾に突き刺さったまま、バチバチと概念の火花を散らして硬直する。

 

決着をつけようとする力と、決着を拒絶する力の、真っ向からの綱引き。

 

 

 

だが、茜の鼻筋から、ツーッと一筋の赤い血が流れ落ちた。

 

(……重い。アトラスの収束力……次元が違う。僕の脳の処理能力(ハードウェア)が、物理的に削り取られていく……!)

 

 

「無駄だと言ったはずだ、竜胆くん。確率は甘えだ」

 

 

エル=ナハトが、卓上で組んでいた指をわずかに動かした。

 

瞬間、彼の思考がアトラスの錬金術の奥義とも言える《七分割思考・完全収束型》へと移行する。茜が未来の「分岐」を増やすために使う分割思考を、彼は逆方向に回し始めたのだ。七つの異なるアプローチから、ただ一つの「茜の敗北」という終端へと、凄まじい質量を持った演算のプレス機が落ちてくる。

 

 

 

 

ミシッ、と。

 

 

茜の展開していた《局所確率遅延》の空間に、致命的な亀裂(ヒビ)が入った。未確定であるはずの空間に、「敗北」という黒い染みが急速に広がっていく。

 

(……防ぎきれない。数秒後には、僕の遅延は突破され、敗北が確定する。……相手に『過程(プロセス)』がない以上、僕の《関係性抽象式》による相殺も、《構造解析》による弱点の看破も通用しない)

 

 

 

防戦はジリ貧。ならば、どうする。

 

相手が「過程を無視して結果だけを押し付けてくる」というのなら。

 

 

(――ならば、こちらも『過程』をすっ飛ばすまでだ)

 

 

茜の瞳から、人間らしい焦燥が完全に消え去り、極低温の純粋な殺意(ロジック)だけが残った。

 

「……君には過程がないそうだな、エル=ナハト。……奇遇だね。僕にも、君を殴るという『過程』は必要ない」

 

 

茜は、椅子に座ったまま、ピクリとも動かなかった。

 

拳を振りかぶることも、筋肉を収縮させることも、魔力を物理的な運動エネルギーへと変換することもしない。

 

 

 

ただ、彼の L2 レイヤーに組み込まれた、狂気の術式を解放した。

 

「実行(ラン)――《物理条件の先行成立(エディット・フィジクス)》」

 

 

設定時間は、0.05秒。

 

茜の術式が、物理法則の因果律に直接介入し、世界のルールの「順番」を書き換える。

 

 

『茜が拳を振るう(原因)』→『エル=ナハトの顔面に接触する(過程)』→『顎の骨が砕けるほどの衝撃が発生する(結果)』。

 

 

この絶対的な三段階のプロセスのうち、茜は前の二つを完全に消去し、『衝撃が発生した(結果)』という物理条件のみを、エル=ナハトの顔面に「先行して成立」させた。

 

「な――」

 

 

エル=ナハトの無機質な瞳が、初めて大きく見開かれた。

 

防御も、回避も、無意味。なぜなら、その攻撃は「飛んでくる」ものではなく、「すでに当たっている」という状態で世界に出現したからだ。

 

 

 

 

ドゴォォォォンッ!!

 

 

 

 

 

何もない空間から、突如として大質量に激突されたような轟音が爆発した。

 

アトラスの誇る終末計算、エル=ナハト・アズラエルの肉体が、まるで透明な巨人に横っ面を殴り飛ばされたかのように、凄まじい勢いで真横へと吹っ飛んだ。

 

 

 

彼が座っていた鋼鉄製の重厚な椅子がひしゃげ、カフェ・テラスのテーブルが真っ二つに砕け散る。

 

石畳の上を数メートル転がり、エル=ナハトはようやく受身を取って片膝をついた。その端正な顔の口元からは、鮮血がボタボタと滴り落ちていた。

 

 

 

「……ク……ハハ……」

 

 

 

感情が欠落していたはずの男の喉から、軋むような笑い声が漏れた。

 

彼は口元の血を手の甲で拭いながら、ゆっくりと立ち上がる。その瞳には、茜の「バグ」に対する、狂熱的なまでの知的好奇心が燃え上がっていた。

 

 

「……素晴らしい。本当に、美しいバグだ。私の『終端確定』が成立するよりも早く、君は『私を殴った』という物理的結果のみを世界に書き込み、私の演算を物理的衝撃で強制終了(クラッシュ)させたのか。……過程を無視する私に対し、同じく過程を無視した結果の殴り合いで応じるとは」

 

 

 

一方の茜も、無傷ではなかった。

 

 

《物理条件の先行成立》という、世界の理に反する行為を、アトラスの終端確定、その最高峰魔術式を強引に振り払い適用した反動。

 

茜の両目、両耳、そして鼻腔から、限界を超えた脳圧によって一斉に出血が始まっていた。真っ白なシャツの襟元が、自身の血で赤く染まっていく。

 

 

「……ハッキングの挨拶(デバッグ)としては、少し手荒だったかな。エル=ナハト」

 

 

茜は血まみれの顔で、しかし全く揺らぎのない冷徹な声で応じた。

 

「君の決定論は理解した。だが、僕の『解析』をナメるな。僕はまだ、君の敗北という未来の確率(ルート)を、一つも捨ててはいない」

 

 

カフェ・テラスに静寂が落ちる。

 

周囲の一般客は《認識阻害》によってこの異常事態に気づかず、ただ穏やかな昼下がりを過ごしている。

 

 

 

 

解析(アナライズ)VS収束(コンバージェス)

 

 

 

 

互いの起源のぶつけ合いにより世界の法則が塗りかわり歪んでいく。

 

その中心で、顔面を血で染めた「未確定」の観測者と、口元から血を流す「終端」の執行者が、互いの存在を消し去るための次なる一手を静かに演算し合っていた。

 

 

 

 




 ここでは関係のない話だが、この事象(歪み)をとある観測者は面白い物を見るように眺めていた。手に持つ宝石が微かに揺れる。

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