境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第四十七片】終末のデバッグ、完成された黄金

【日時】2004年 6月某日 09:35

 

【場所】時計塔周辺 カフェ・テラス

 

 

血まみれの論理戦。互いに深手を負いながら、竜胆茜とエル=ナハト・アズラエルは一歩も引かなかった。

 

だが、肉体(ハードウェア)への負荷は茜が圧倒的に重い。《物理条件の先行成立》という、世界の理に反する行為を終端の術式に強制干渉した代償。彼の七孔からの出血は止まらず、脳が焼き切れる直前の熱を放ち始めている。

 

「……君のハードウェアは限界だ、竜胆くん。美しいバグだが、所詮は人間という不完全な器(プラットフォーム)に依存している。……終わりにしよう」

 

 

エル=ナハトは、顎の骨が砕けた激痛を自身の分割思考から完全に切り離し、立ち上がった。

 

その瞬間、彼を中心に、カフェ・テラスの空間そのものが、論理の波となって急速に濁り始める。

 

 

「君が『確率』によって未来を宙吊りにするなら。……私は世界を『決定』し、未来を一本の終端へと固定する」

 

 

アトラス院、第七演算室・終末計算部門の最高位術式。

 

それは茜の L3《確率演算》や《確定未来の選別》のすべてを嘲笑う、概念の死神を呼び寄せるための『処刑場』の構築だった。

 

 

 

 

 

 

「――固有錬成領域、《終末固定圏(エンド・ロック・フィールド)》。展開」

 

 

 

 

 

 

カラン、と。

 

カフェ・テラスの喧騒が、一般客の姿が、ロンドンの柔らかな光が、世界の認識から一瞬で消え去った。

 

茜の視界を覆ったのは、かつて降霊科の地下実験場で見た「幽霊演算機」の残骸など児戯に等しい、圧倒的な質量を持った「終末の光景」だった。

 

 

 

茜の周囲。

 

無数の黒い巨大な岩や残骸が、重力を失ったように宙に浮き、カフェの石畳は果てしなく続く暗い瓦礫の道へと変貌している。

 

上空には、暗く巨大な構造物が何重もの円環を描き、あたかも世界そのものを観測し、押し潰すための巨大な天文時計のように回転している。

 

 

 

そしてその中心。

 

無限の闇を切り裂く、一本の、あまりにも巨大で眩い「光の十字架(クロス)」が、垂直に天へと伸びていた。

 

 

その光の十字架こそが、エル=ナハトの起源『収束(コンバージェス)』が具現化したもの。

 

無数の未来線がその十字架へと吸い込まれ、一本の黒い線(茜の敗北)へと収束していくのが、茜の《魔力視(マナ・サイト)》にははっきりと「視えた」。

 

周囲に浮遊する黒い残骸は、エル=ナハトの決定論によって「消滅」を選択させられた、茜の有利な未来分岐の死骸だった。

 

 

(……この空間。僕の L3 の未来分岐が、すべてあの光の十字架へ向かって強制的に一本に絞られていく。……回避不能。反撃不能。……この固有結界内では、『竜胆茜が敗北する』という一本の決定以外、存在できないように世界の設定が固定されている……!)

 

 

茜の L3《確定未来の選別》が、史上初めて「選択肢ゼロ」を弾き出した。

 

未来を「選ぶ」ことそのものが、この領域では物理的・概念的に不可能にされていた。

 

 

「――基盤は整った。これより、アトラス院・最高位演算を実行する」

 

 

光の十字架を背負うように立つエル=ナハトから、一切の感情が消え去った。

 

彼の中に『過程』はない。魔力回路の励起も、詠唱も、術式の構築も。ただ、この固定された世界において、一つのコマンドを送信するだけだ。

 

 

 

「《絶対終端命令(アブソリュート・ラスト)》」

 

 

 

茜という存在の「最終的に迎える死」という結果だけが、最初からそこに存在しているかのように突きつけられる。

 

茜からすれば、自身の存在 ID に対し、世界という管理者から「死亡確定(デリート)」のコマンドが直接送信されたに等しい。防御も、回避も、未確定化も、因果遅延(ディレイ)も無意味。なぜなら、その攻撃は「当たる」ものではなく、「すでに終わっている」という事実なのだから。

 

 

(――来る。僕の『死』という結果が、現在に強制コンパイルされる……!)

 

 

 

茜の脳内で、致命的なエラーログが奔流となって走る。

 

必中概念ですら ID 参照をズラして重傷に格下げする 《定義緩衝膜》すら、この「世界そのものからの絶対の死」の前ではただのジャンクデータとして噛み砕かれようとしていた。

 

(……だが、待て。『死ぬ』という結果だけが存在し、それが強制されるなら。……『何が死ぬか』という ID の参照先だけを、強引に書き換える(ハック)ことはできないか)

 

 

茜の瞳から感情が完全に消え去り、極低温の純粋演算モードへと移行した。

 

彼は自身の L5《整合性管理層》を、自身の起源『解析』と、 回路の全出力をもってフルブーストさせる。

 

「――L5管理層、全システム、リミッター解除。……これより、僕の脳内領域(ローカル)だけで、世界の因果(ロゴス)に直接ハッキングを行う」

 

 

エル=ナハトが「茜の死」という決定を出力した、まさにそのコンマ数秒の空白。

 

茜は自身の L5《確率偽装》と《因果接続補完》の論理を、相手の《絶対終端命令》という巨大な黒いコマンドの「参照先(ID)」へと、自身の血と脳神経を焼き切る覚悟で割り込ませた。

 

 

 

(対象:「竜胆茜(ID:A7FF31DE)」という存在

 

  ↓

 

 IDをすり替え(マスキング)

 

  ↓

 

 対象:竜胆茜の『左手の小指の細胞』10万個(ID:D9E220B1))

 

 

「……起動。《結果正当化(リザルト・ジャスティファイ)》IDデバッグ」

 

 

 

瞬間、茜の肉体を「絶対の死」という概念が光の十字架となって貫いた。

 

 

だが、その死が彼の生命維持中枢に到達する直前。

 

茜の論理ハッキングによって、この固有結界内における世界の認識はこう正当化(補完)された。

 

『竜胆茜が死亡した』のではなく、『竜胆茜の左手の小指の細胞10万個が、急激な壊死によって完全に死滅した』と。

 

 

 

「……ッ、ぐぅ……!」

 

 

 

茜が苦悶の声を上げ、左手の小指から力が完全に抜け落ちた。小指だけが急速に黒ずみ、血の巡りを失い、壊死していく。

 

だが、彼の生命は、心臓の鼓動は、依然としてそこに存在していた。

 

 

「……馬鹿な。……私の《絶対終端命令》を、被弾した直後にIDの参照先をすり替え、世界の認識を書き換えることで『小指の細胞死』という極小の事実に格下げ(デバッグ)したのか……!? そんなバカげた論理補完、一介の魔術師にできるはずが……!」

 

 

エル=ナハトの石像のような顔に、ここに来て初めて「驚愕」を超えた「恐怖」の亀裂が走った。

 

概念干渉という絶対の結果を、世界の整合性(L5)を利用して事後的にハッキングするという、アトラスの錬金術ですらあり得ない因果のすり替え。

 

 

「……君の決定は『絶対』だが……参照先が間違っていれば、結果は正しく出力されない。……素晴らしい演算のバグ(小指の壊死)に、感謝するよ」

 

 

茜は血まみれの顔で、しかし勝利を確信した暗い瞳で、エル=ナハトを睨みつけた。

 

「……ここからは、僕の『完成』の時間だ。起きろ、『黄金天球(アウルム・テレイオス)』」

 

 

IDデバッグによって稼いだ、わずかな空白。

 

静止した時間の中で、茜は現実世界の肉体の右手をわずかに動かし、コートのポケットから取り出した掌サイズのアーミラリー天球儀――完成機構『黄金天球』に触れた。

 

ウェールズの錬金術遺構から奪い取った、三百年分の星の光を帯びた至純の黄金。

 

その指先が黄金の冷たい表面に触れた瞬間、茜の脳髄と黄金天球は、魔力という神経を介して「完全な同期(フル・シンクロ)」を果たした。

 

 

 

『――認証完了(アクセス・アクセプト)。製作者:竜胆茜。基幹術式《黄金機構演算(アウルム・ロジカ)》、起動』

 

 

 

 

カチリ。

 

 

固有結界の重苦しい闇の中で、極めて美しく、絶対的な歯車の音が響き渡った。

 

 

「第一環(天体レイヤー)、第二環(風水レイヤー)、第三環(時間軸レイヤー)――全機構、連動開始」

 

 

黄金天球が、自律的に回り始める。

 

もはや茜は、限界を迎えた自身の脳で戦う必要はなかった。この礼装の回転と歯車の噛み合わせという物理的な機構運動そのものが、アトラスの論理を凌駕する超高度な演算を代行していく。

 

「最適解とは最初から完成された形としてあるべきだ」という、茜の哲学の極致。

 

 

「……空間配置、再定義。防御奥義、《固定結界展開(ステラ・バリア)》」

 

 

茜は、第一環の回転を物理的にロック(静止)させた。

  

「戦場(システム)は、すでに僕の天球儀の内側だ。……君の『絶対の収束』は、もはや僕という特異点(ゼロ)に交わる軌道を持たない」

 

 

 

『――第一環、物理ロック維持。遊星歯車(クラッチ機構)連動。防御奥義 <<軌道偏向防御(オービット・ディフレクト)>> 、最大出力。対象の「終端(結果)」を、【無限の漸近線(軌道)】へと強制修正』

 

 

 

茜が黄金天球の第二環を弾いた瞬間、固有結界内の空間が、物理的な歯車の回転音と共に凄まじい悲鳴を上げた。

 

上空から茜の肉体を押し潰そうと迫っていた「光の十字架」――エル=ナハトが確定させた『茜の敗北』という絶対の終端。

 

それが、茜の展開した《ステラ・バリア》の表面に触れる数ミリ手前で、極めて不自然に「横」へと滑ったのだ。

 

 

「……なっ!?」

 

 

エル=ナハトの無機質な瞳が、今日一番の驚愕に見開かれた。

 

光の十字架は茜を貫くのではなく、茜の周囲を囲む目に見えない「天体の引力圏」に捕らえられた。

 

エル=ナハトの《絶対終端命令》は、「茜が終わる」という一点に向かって無限に直進する力だ。対して茜の《オービット・ディフレクト》は、その直進する空間情報を捻じ曲げ、「絶対に中心(茜)へは届かない円軌道」へと変換し続ける力。

 

 

 

結果として何が起きたか。

 

エル=ナハトが放った「終末」は、茜の周囲を猛烈な速度で衛星のように公転し始めたのだ。無限に茜へと向かい続けながら、永遠に届くことのない円軌道。アキレスと亀のパラドックス。

 

「終わる」という結果が、「永遠に回り続ける」というプロセス(過程)へと、強引にダウングレードさせられた瞬間だった。

 

 

「……私の『終端』が、届かない……? いや、違う。君の周囲を永遠に回り続けて……軌道計算に囚われているのか……!」

 

 

『――対象の固有結界内に、致命的な論理矛盾(パラドックス)が発生。「到達しない終端」は、本領域の設定と相反します』

 

 

 

茜の脳内プロセッサが、冷徹に勝利条件の成立を告げた。

 

エル=ナハトの《終末固定圏》は、「すべての未来が一つに収束する」というルールで成立している空間だ。しかし今、その中心で「絶対に収束しない(回り続ける)事象」が誕生してしまった。世界のルールそのものが、矛盾に耐えきれず内側から悲鳴を上げる。

 

 

 

 

ピキッ、と。

 

 

 

空中に浮かぶ黒い残骸に亀裂が入り、頭上の巨大な構造物が不協和音を立てて崩れ始めた。

 

 

「……見事だ。本当に、見事だよ、竜胆くん」

 

 

 

崩壊していく自らの固有結界の中で、エル=ナハトは口から大量の血を吐き出しながら、しかしひどく恍惚とした笑みを浮かべた。

 

「私の『結果』を力で弾き返すのではなく、絶対に交わらない並行軌道へとすり替え、永遠の『過程』に閉じ込めるとは。君のその黄金の機構は、世界の終末すらも星の運行(システム)として飼い慣らすというのか」

 

 

 

 

パリンッ!!

 

 

 

空間の矛盾が限界点を超え、《終末固定圏》がガラス細工のように木端微塵に砕け散った。

 

 

 

 

 

――元の、ロンドンのカフェ・テラス。

 

 

穏やかな朝の光の中、体感時間にして数年にも及ぶ論理の綱引きを終えた二人が、テーブルを挟んで対峙していた。

 

 

 

「……解析終了(チェックメイト)だ、エル=ナハト」

 

 

茜は、七孔から流れる血を拭うこともせず、手の中で静かに回転を止めた黄金天球を見つめながら淡々と告げた。

 

 

「君の決定論のロジック、そして『過程をスキップする』という演算のアーキテクチャ。……僕のOSをさらに完全なものにするための、良質なパッチとしてダウンロードさせてもらったよ」

 

 

「……あぁ。だろうね。君はそういう『観測者』だ」

 

 

エル=ナハトの肉体が、足元からサラサラと音を立てて、アトラス院特有の「砂」へと変貌し始めていた。IDデバッグで受けたダメージと、固有結界の矛盾崩壊による魔力逆流。もはやこの端末(アバター)を現世に維持することは不可能だった。

 

 

「今回は私の演算負けだ。君の『完成』は、私の『終端』を確かに凌駕した」

 

 

砂となって崩れゆく中で、エル=ナハトの瞳だけが、茜という存在を網膜に焼き付けるように光り続けていた。

 

 

「だが、これで終わりではない。君の異常性(バグ)のデータは、アトラスの深淵に持ち帰らせてもらう。……いずれ、砂の底で再計算(リベンジ)を行おう。その時まで、君が時計塔の凡庸な連中にデリートされないことを祈っているよ」

 

 

「非効率な約束だ。僕はただの学生として、平穏な日常を歩むだけだよ」

 

 

 

茜の無機質な返答を最後に。エル=ナハト・アズラエルは完全に砂と化し、朝の微風に乗ってロンドンの空へと消え去った。

 

残されたのは、血まみれの茜と、大破したテラス席の残骸だけだった。

 

茜は、完全に壊死して感覚を失った左手の小指を見つめ、小さく息を吐いた。

 

 

(……代償は小さくない。だが、アトラスの最高位演算のフレームワークを手に入れた。……僕の《疑似魔術基盤》さらに上の領域へと足を踏み入れることができる)

 

 

 

 

 

 

「……お、おい。……竜胆、茜。……何が、起きた……」

 

 

 

その時。

 

背後の通りから、信じられないものを見るような、震える声が響いた。

 

騒ぎと異常な魔力溜まりを察知し、教室から全力で走ってきたロード・エルメロイⅡ世だった。

 

 

真っ二つに砕け散ったテーブル。全身血まみれで小指を壊死させた教え子。そして、空間に色濃く残された「アトラス院の濃密な論理の残滓(砂)」と、茜の手の中でカチリと動く『黄金天球』。

 

それらすべてを「観測」した瞬間、Ⅱ世は胃痛を通り越して、顔面を蒼白にさせながらその場に膝から崩れ落ちた。

 

 

 

「お前……今度は、アトラス院を相手に、街中で概念の殴り合い(ドンパチ)をやらかしたのか……!?」

 

 

幽霊演算機の解体から、わずか数日。自分の生徒が、時計塔全体でもトップクラスの厄介な組織から「死の宣告」を受け、あろうことか白昼堂々、固有結界の張り合いを演じてそれを撃退したという、狂気のような事実。ロード・エルメロイⅡ世の胃壁は、もはや論理的な崩壊(エラー)を迎えていた。

 

 

「……事後報告になりますが、先生。アトラスのバグに対する物理的デバッグは、無事に完了しました。これで僕の平穏は守られましたね」

 

 

 

血まみれの顔で、ポケットから出したキャンディを口に放り込みながら淡々と報告する茜。

 

その極めてズレた認識の「バグ」を前に、Ⅱ世は静かに天を仰ぎ、今日三錠目の胃薬を噛み砕くのだった。

 




疑似固有結界・確率地平(プロバビリティ・ホライゾン)

【挿絵表示】


固有錬成領域・終末固定圏(エンド・ロック・フィールド)

【挿絵表示】


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