境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第四十八片】致命的なエラーログ、は胃を壊す保護者

【日時】2004年 6月某日 09:46

 

【場所】時計塔周辺 カフェ・テラス(事後処理)

 

 

「……事後報告になりますが、先生。アトラスのバグに対する物理的デバッグは、無事に完了しました。これで僕の平穏は守られましたね」

 

真っ二つに割れたテーブルの残骸の横。七孔から血を流し、完全に左手の小指を壊死させた教え子が、平然と青リンゴ味のキャンディを口に放り込みながらそう告げた。

 

 

その、あまりにも世界(常識)からズレた認識を前に。ロード・エルメロイⅡ世は天を仰ぎ、今日三錠目となる強めの胃薬を、水も飲まずに噛み砕いた。

 

「……平穏、だと? 貴様、自分のしでかした事の重大さが本当に分かっていないのか……!」

 

 

Ⅱ世の声は、怒りというよりも、純粋な戦慄によって微かに震えていた。

 

彼は周囲を見渡す。一般客たちは茜の《認識阻害》と、事態の異常性による本能的な忌避感から、このカフェの一角だけを避けて遠巻きに歩いている。物理的な被害は「テーブルと椅子の破損」程度に見えるかもしれない。

 

 

だが、時計塔のロードであるⅡ世の瞳には、この空間に刻み込まれた『致命的な論理の傷跡』がはっきりと視えていた。

 

「アトラス院の……。あの錬金術師の最高峰たちが、わざわざロンドンのど真ん中で『概念干渉』に等しい大魔術を展開したんだぞ!? しかもお前は、それを己の礼装(ハードウェア)と演算の暴力で、物理的にすり潰して破砕した! この空間の『物理法則(ルール)』そのものが、お前たちの概念の殴り合いでひどく歪んで(バグって)しまっている!」

 

 

Ⅱ世は葉巻を取り出そうとして、手が震えて上手く火をつけられず、舌打ちをしてそれを投げ捨てた。

 

「法政科の猟犬どもが、この『特大の異常』を嗅ぎつけないはずがない! 時計塔のお膝元でアトラスの最高位とドンパチをやらかすなど、神秘の秘匿(ルール)以前に、政治的な大事件だ! お前という存在(バグ)は、もはや『どこにでもいる三流』などという三文芝居で誤魔化せる領域を完全に超えたんだぞ!」

 

 

「……先生の懸念は非論理的です」

 

 

茜は、血で汚れたハンカチで顔を拭いながら、極めて平坦に反論した。

 

「L5《干渉痕消去(インターフェアレンス・クリア)》および《確率偽装》は既に実行済みです。法政科の観測機器がこの空間を走査しても、『地下の古いガス管が微小な爆発を起こし、偶然テーブルが破損した』という自然な物理現象のログしか出力されません。アトラスの砂(残滓)も、僕がすでに風水的な配置を操作してロンドンの霊脈のノイズへと散らしました」

 

 

茜の手の中で、カチリ、と『黄金天球』が静かに時を刻む。

 

この完成された機構が、事後の隠蔽工作すらも「最適解」としてすでに終わらせていた。

 

 

「そういう問題ではない……ッ!」

 

 

Ⅱ世は頭を抱え、文字通りその場にしゃがみ込んだ。

 

「機械や観測器は誤魔化せても、『魔術師(バケモノ)の直感』は誤魔化せん! 時計塔の化け物たちは、完璧すぎる隠蔽そのものを『異常』として嗅ぎつける。お前が教室を飛び出した直後、ルヴィアやフラットがどれほど騒いでいたか……お前、本当に分かっているのか……?」

 

 

その時、茜は初めて「しまった」というように、ほんのわずかに眉根を寄せた。

 

「……教室の面々のエントロピー上昇は、計算外でした。フラット君やルヴィアさんのノイズを避けるために早退したのですが、裏目に出たようですね。……デバッグの余地があります」

 

 

「デバッグなどと抜かすな! まずはその指と出血をどうにかしろ!」

 

 

Ⅱ世は立ち上がり、茜の胸ぐら……を掴むのはやめて、彼の肩を強く叩いた。

 

左手の小指は、IDをすり替えた代償として完全に黒ずみ、魔術的な壊死を迎えている。現代医療はもちろん、一般的な治癒魔術でも絶対に元には戻らない「概念的な死」だ。

 

「……痛みはすでに神経を遮断(カット)しているので問題ありません。それに、アトラスの最高位演算のソースコードをダウンロードできた対価としては、小指一本の細胞死など、極めて安く、効率的な取引です」

 

 

茜の瞳の奥で、無数の数式と、新たに獲得した『決定論』の論理が青白く発光している。

 

彼にとって、この重傷すらも「アップデートするための必要経費」でしかなかったのだ。

 

「……お前という奴は。ロード・エルメロイの教室は、いつから化け物のデバッグルームになったんだ……」

 

 

Ⅱ世は深い、あまりにも深い溜息を吐き、自身のコートを脱いで茜の頭からバサリと被せた。血まみれのシャツと、その手にある異常な魔力密度を放つ『黄金天球』を隠すためだ。

 

「いいか、茜。歩けるな。今すぐ私の車に乗れ。学生寮ではなく、私の個人的な工房(セーフハウス)へ直行する。お前のその傷の処置と……これからの『言い訳』を、死ぬ気で構築しなければならない」

 

 

Ⅱ世の言葉の端々に、保護者としての切実な疲労と、教え子をなんとしても政治の暗部から守り抜こうとする強固な意志が滲んでいた。

 

「……了解しました、先生。ですが、一つだけ訂正(エラー修正)を」

 

 

 

茜はコートを深く被りながら、淡々と告げた。

 

「僕は化け物ではありません。ただ、最適な結果を選択し続けるだけの……平凡な観測者です」

 

「その口を縫い付けてから車に乗せるぞ、馬鹿者」

 

 

Ⅱ世の怒声と共に、二人は足早にカフェ・テラスを後にした。

 

(…………もしも、これの件で時計塔が執行に踏み切る判断をするのなら……。あの手札の切り時か……)

 

 

冷徹な計算外が、茜の内側にはしる。

 

後に残されたのは、完璧に隠蔽されたはずの空間に、どうしても消しきれずに漂う「黄金と終末」の微かな匂いだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

【日時】2004年 7月某日 09:05

 

【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) エルメロイ教室

 

ロード・エルメロイⅡ世の懸念は、最悪の形で的中した。

 

 

完璧な隠蔽工作。完璧なアリバイ。

 

しかし、事象の隠蔽が完璧であればあるほど、時計塔という「神秘を嗅ぎ回る魔窟」においては、逆に猛烈な噂(ノイズ)を生み出す。

 

 

『――聞いたか? 昨日、直ぐそこのカフェで、空間の霊子構造が完全に「書き換えられる」異常値が観測されたらしい』

 

『――ああ。法政科は「ガス管の事故」で処理したらしいが、そんなわけがない。あれは……大魔術の残滓だ。しかも、複数の異常な概念が衝突した痕跡があったと……』

 

『――誰がやった? 封印指定の執行者か? いや、あの時間にそこから立ち去ったのは……エルメロイ教室の生徒だけだったという話だ』

 

 

 

廊下を歩く学生たちの囁き声が、あちこちで交差する。

 

もはや、茜の Tier 0《可変存在解像度》による「背景への同化」は機能していなかった。

 

 

「平凡な三流」という偽装パッチは完全に剥がれ落ち、彼は今や『アトラス院と単独で事を構え、生き延びた正体不明の怪物』として、時計塔中の好奇心と警戒心の的となっていた。

 

そして、そのノイズの中心地であるエルメロイ教室の扉の前。

 

頭に包帯を巻き、左手に黒い手袋(壊死した小指を隠すため)を嵌めた茜が、無表情のままドアノブに手をかけていた。

 

 

(――教室内のエントロピーが、通常の400%を突破している。僕の入場(ログイン)に対する警戒、好奇心、そして怒り……。Tier 0《可変存在解像度》の出力限界。もはや『平凡な三流』という偽装パッチは、この特異点においては完全に機能不全(フリーズ)に陥っている)

 

 

茜が小さく息を吐き、扉を開けた。

 

 

 

 

 

「――ッ! 近寄るな!!」

 

 

 

「うわああああっ!? 竜胆さん! なにそれ、なにそれ!?」

 

 

 

「私の審美眼を舐めないでくださる!? 竜胆茜!」

 

 

 

 

 

 

無軌道な天才、審美眼の女王、そして野生の獣が、一茜へと牙を剥いた。

 

 

 

竜胆茜は現実逃避がてら昨日のエルメロイⅡ世との会話を思い出す。

 

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