境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第四片】灰色の所属

【日時】2004年 2月某日 17:00

 

【場所】時計塔・学生寮 竜胆茜の自室

 

ロンドンの街を濡らしていた雨は、夕刻を迎える頃にはあらかた上がり、厚い雲の切れ間から黄昏の光が薄暗い部屋に差し込んでいた。

 

竜胆茜は、自室の簡素なベッドに寝転がり、天井の木目を半眼で見つめていた。口に咥えたコーヒー味のキャンディを転がす音だけが、静寂な部屋に小さく響いている。

 

 

彼の意識は、現実の部屋にはない。

 

脳内のレイヤーをフル稼働させ、精神世界へ沈み混む。先ほど連絡回廊で遭遇した至高の魔術礼装――『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』の構造図(ソースコード)を、再展開し、深く、深く読み解いていた。

 

 

(……見れば見るほど、溜息が出るな)

 

 

茜の起源『解析』が、アーチボルト家の遺した神秘を一枚一枚、薄皮を剥ぐように解体していく。

 

連絡回廊で水銀の刃を突きつけられたあの瞬間、彼は極限の《思考加速》の中でその構造を視た。そして、地下修練場において自身の《流体制御》でそれを物理的に模倣し――己の底知れぬ無力さを思い知ったのだ。

 

茜の脳内に展開された概念世界において、月霊髄液のコードは、まるで生き付くように脈動する黄金の樹形図として描かれていた。

 

それは、単なる「水銀という重金属を魔力で操る術式」などという、陳腐なものでは決してなかった。

 

 

(水銀という質量と流動性を併せ持つ物質を媒体とした、自律型の疑似魔術回路……いや、違う。これは『流体演算機』だ)

 

 

茜の計算領域が、その真実に到達する。

 

あの水銀のメイドは、外部からの魔力供給によって動く単なる操り人形ではない。水銀そのものが無数の回路として機能し、圧力、温度、空気抵抗、敵の殺気や魔力流動を瞬時に演算し、最適な形状(刃、鞭、防御膜)へと自己完結で状態遷移を行っている。

 

 

さらには、経験を蓄積し、学習する「疑似的な脳」としての機能すら内包している。

 

(生前のケイネス・エルメロイ・アーチボルト……。どれほどの天才だったんだ。何百年という歴史の中で研ぎ澄まされた錬金術と流体力学の極致。魔力という神秘を、物理法則の極限まで昇華させた芸術品。……それに引き換え、僕のやっていることときたら)

 

 

茜は、キャンディの棒を少しだけ強く噛んだ。

 

自身の魔術――《関係性抽象式》や《元素転換》。それは確かに、出力と効率においては極めて高い水準にある。だが、そこに歴史はない。思想もない。ただ、質と量だけ。後天的変質(増築)がおこった魔術回路という「暴力的なハードウェア」に物を言わせ、力業で物理現象をハッキングしているだけだ。

 

 

(僕の魔術は、所詮『バグ』だ。アーチボルトの魔術が長い年月をかけて組み上げられた完璧な大聖堂だとするなら、僕の能力は、その設計図の隙間から無理やり侵入するシロアリみたいなものだ)

 

 

圧倒的な美しさを前にした、純粋な感嘆と、強烈な自己評価の低さ。

 

自分がどれほどの規模の演算能力を持っていようと、それは魔術師としての「格」にはならないと。自分は、彼らのような本物の天才たちが織りなす歴史の、ただの観測者でしかないのだと。

 

 

「……さて。観測者には、観測者なりの居場所を見つけないとな」

 

 

茜はゆっくりと身体を起こし、机に向かった。

 

 

 

机の上には、一枚の羊皮紙が置かれている。

 

『時計塔・所属学科選択届』。

 

全体基礎科(トランベリオ)での規定期間を満了し、いよいよ専門の学科を選択しなければならない期限が、目前に迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 17:15

 

【場所】同室

 

ペンを手に取り、茜はインクの匂いを静かに吸い込んだ。

 

本来であれば、魔術師たちは己の家系に連なる属性や、研究したい神秘の方向性に合わせて学科を選ぶ。しかし、茜にとって学科選びとは「どこが一番、自分が背景として溶け込めるか(=生存しやすいか)」という極めて消極的な防衛戦だった。

 

 

(……僕の『異常な平均値』に気づかれる、可能性がある貴族主義(バルトメロイ)の派閥は論外だ。あそこに入れば、確実に血統と才能の優生思想の中で解剖される。かといって、民主主義(トランベリオ)の派閥も政治闘争が激しすぎる。僕のような身寄りのない生徒は、いいように捨て駒にされるだけだ)

 

 

L3レイヤー《確定未来の選別(ルート・セレクション)》が、各学科に進んだ場合の自身の未来分岐を無数にシミュレートしていく。

 

 

鉱石科(キシュア)、天体科(アニムスフィア)、植物科(ユミナ)……どれも生存確率と「目立たない確率」が、茜の望む水準に達しない。

 

茜の脳裏に、図書館で会った不機嫌な男――ロード・エルメロイⅡ世の顔が浮かんだ。

 

 

『――もし、まともな居場所が欲しくなった時は、私の教室の門を叩くといい』

 

 

 

 

(……エルメロイⅡ世。そして、あの勘の鋭い義妹(ライネス)。彼らのテリトリーに入るのは、リスクが高い。だが……)

 

 

茜の脳内で、無数の計算式が一つの最適解へと収束していく。

 

 

現代魔術科(ノリッジ)。エルメロイ教室。

 

そこは、時計塔の中でも極めて異端な場所だ。歴史の浅い新しい魔術や、家系の後ろ盾を持たない新世代(ニューエイジ)の魔術師たちが集まる吹き溜まり。そして、エルメロイⅡ世という男は、生徒の隠された才能を引き出す天才であると同時に、「生徒のあり方を尊重する」という、魔術師らしからぬ甘さを持っている。

 

 

さらに言えば、フラット・エスカルドスのような「規格外の怪物」がゴロゴロしている環境だ。

 

(……強烈な光(天才)のそばこそ、最も濃い影ができる。フラットや、他の問題児たちが目立てば目立つほど、僕という『少し演算能力が高いだけの凡人』のノイズは、彼らの引き起こす騒動の裏に隠蔽される。それに、あのロードなら、僕が望まない限り無理に表舞台に引きずり出すような真似はしないはずだ)

 

 

危険地帯のど真ん中こそが、最大の安全地帯(ブラインドスポット)。

 

《確率分布の整形(ルート・ウェイト・エディット)》が、その選択肢が最も「平穏な背景」として生き残れる確率が高いと弾き出した。

 

茜は迷うことなく、羊皮紙の空欄に万年筆を走らせた。

 

一切の感情を交えず、ただの作業として、流麗な文字を綴る。

 

 

 

『第一志望:現代魔術科(ノリッジ) —— エルメロイ教室』

 

 

 

インクが乾くのを待ちながら、茜は窓の外を見た。

 

完全に日が落ち、ロンドンの街に魔術の灯りとガス灯が入り混じった夜景が広がり始めている。

 

「……これで、少しは静かな日々が送れるといいんだが」

 

 

彼が望むのは、ただの日常だ。

 

だが、彼のような「世界をハッキングする特異点」を、時計塔という巨大な神秘の坩堝が、いつまでも観客席に座らせておくはずがなかった。

 

静寂の終わりを告げるように、遠くで時計塔の鐘が、重々しく時を刻んだ。

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