境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第五十片】隔離砂箱の構築、保険としての誓約

【日時】2004年 6月某日 10:15

 

【場所】ロンドン・某所 ロード・エルメロイⅡ世のセーフハウス(隠し工房)

 

ロンドンの街に降り始めた雨は、石畳を濡らし、あらゆる音を吸い込んでいく。

 

迷路のように入り組んだ裏路地。その突き当たりにある、看板も出ていない古びたレンガ造りの建物。ロード・エルメロイⅡ世が個人的に所有するそのセーフハウスは、法政科の監視網から外れた、数少ない「空白地帯」だった。

 

 

 

カチリ、と。

 

エンジンが停止し、車内に静寂が訪れる。

 

Ⅱ世は、ハンドルを握ったまま動かない。彼の視線は、助手席で頭からコートを被り、微動だにしない教え子に向けられていた。

 

血に染まったシャツ、炭のように変わり果てた左手の小指。その凄惨な光景に、Ⅱ世の心臓は今も早鐘を打っている。

 

 

「……着いたぞ、竜胆」

 

 

重く、湿り気を帯びた声。

 

その呼びかけに応じるように、茜の指先がわずかにピクリと動いた。

 

コートの下で、彼の意識は今、超高速の演算領域(Ver.6.4)から、五感の備わった現実(ハードウェア)へと帰還しようとしていた。

 

(――外部環境、認識開始。……ロケーション:セーフハウス。大気中の魔力密度、上昇を確認。……意識レベル、正常。各レイヤー、スタンバイモードへ移行)

 

 

茜は、ゆっくりと目を開けた。

 

網膜の裏側で明滅していた数式の残光が消え、代わりに目に飛び込んできたのは、フロントガラスを伝う雨粒と、自分を覗き込む師の、酷く疲弊した顔だった。

 

 

「……おはようございます、先生」

 

「『おはよう』だと? ……お前が寝ていたのは、たかだか十五分程度だ。……降りろ。まずはその指を、これ以上死なせないように処置しなくてはならない」

 

 

Ⅱ世は車を降り、足元のおぼつかない茜の肩を支えて工房の中へと運び込んだ。

 

重厚な木の扉が開くと、古い紙と香料、そしてどこかオゾンのような乾いた魔術的ノイズの匂いが鼻をくすぐる。

 

整然と並んだ本棚、鈍い光を放つ錬金術の器具、そして中央に置かれた使い古された作業台。そこは、外界の喧騒から切り離された、静謐な『聖域』だった。

 

 

 

 

 

 

【日時】同日 10:45

 

【場所】セーフハウス・地下工房

 

 

茜は作業台の隣にある古い椅子に座り、左手を差し出していた。

 

Ⅱ世がその指を覗き込み、手際よく、しかし慎重に防腐と再生の魔術式を編んでいく。

 

「……酷いな。細胞の死が、物理的な損傷ではなく『論理の確定』によって引き起こされている。治癒魔術を受け付けないはずだ」

 

 

Ⅱ世が苦々しげに吐き捨て、特別な触媒を含んだ包帯を茜の指に巻き付けていく。

 

「はい。ですから、その『確定』を黄金天球の演算で分散させました。……今は、ただの壊死(バグ)です。これ以上の進行はありません」

 

 

茜は、自身の指に走る火のような激痛を、L2《感覚遮断プロトコル》で強制的に一定値まで引き下げながら答えた。

 

「先生の処置のおかげで、システム(体調)の悪化は防げそうです。感謝します」

 

「……感謝など、不要だ。……今は、ただ……」

 

 

 

Ⅱ世は言葉を濁し、自身の震える手を見つめた。

 

時計塔のロードとして、これまでに数え切れないほどの神秘と危機に直面してきた。だが、これほどまでに「自身の無力」と「教え子の異常性」を同時に突きつけられたことはなかった。

 

 

「……いいか、竜胆。お前はこれから、徹底して『ただの三流』を演じるんだ。法政科や上層部には、私が嘘を重ねてでも、お前の正体を隠し通す。……彼らはアトラス院の介入には敏感だが、『平凡な学生が偶然拾った爆弾で大怪我をした』という話なら、政治的な落とし所を見つけられるはずだ」

 

 

 

Ⅱ世の瞳には、悲壮なまでの決意が宿っていた。

 

 

教え子を救うために、自らの地位と名誉、そして胃壁のすべてを賭けて立ち回る覚悟。その「善性」は、冷徹な茜の目から見ても、あまりにも眩しく、非論理的なまでに温かいものだった。

 

 

(……先生は、命を懸けて僕を隠蔽(デバッグ)しようとしてくれている。……その意志は尊重すべきだ。)

 

 

茜は、包帯を巻かれた左手をゆっくりと握りしめた。

 

師の士気を削がず、その覚悟を最大限に活かしつつ、同時に「師の手が届かない領域」での絶望的なエラーに備える。それが、今の茜にできる最大限の『敬意』だった。

 

 

「先生。……先生の隠蔽工作を成功させるために、僕からも一つ、必要な『保険(リソース)』があります」

 

「保険? ……何だ、言ってみろ。私のツケで買えるものなら、何でも用意してやる」

 

「……自己強制証明(セルフ・ギアス・スクロール)を、まとまった数、調達していただきたいんです」

 

「……何?」

 

 

Ⅱ世が、驚きに目を見開いた。

 

「自己強制証明……。あの、契約者同士を魔術的に拘束する、極めて強力な強制誓約のスクロールか? ……なぜ、そんなものを。しかも『まとまった数』だと?」

 

「はい。……先生が構築してくださる『三流学生のシナリオ』を、より強固なものにするためです」

 

 

茜は、正統な論理を巧妙に構築した。

 

「僕という存在が時計塔のシステム(日常)に復帰したとき、必ずそれを疑い、ノイズを撒き散らす人間が現れる。……もし、僕自身の口から説明できないような事態に陥った際、あるいは重要人物との接触を余儀なくされた際、相手を『沈黙』させ、僕の情報を完全に隔離するための壁(ファイアウォール)として使いたいんです」

 

 

「……なるほど。お前が三流であることを『証明』させるのではなく、相手に『疑うことを禁ずる』ために使うというのか。……確かにお前らしい、徹底した防御策だな」

 

 

茜は建前を口にした。今後のために。

Ⅱ世は納得したように頷き、顎に手を当てた。

 

「だが、あれは高価だぞ。法政科の管理外にある、出所の確かなものとなれば、それなりのコネも必要になる」

 

「先生のツテであれば、可能ですよね? ……今回の件で、僕が不用意に情報を漏らすリスクを最小限にするためにも、どうしても必要なんです」

 

「…………分かった。私の教え子の生命線だ。……何とかしよう。アドーラック(裏通りの魔術商)の伝手を使って、数日のうちに最高級のものを十数枚、用意させる。それで問題はないか?」

 

「感謝します。……これで、先生の構築してくださるシナリオが破綻する確率は、極めて低くなります」

 

 

 

茜は、静かに一礼した。

 

「……はあぁぁぁぁぁぁ、まったく竜胆。……君は私の胃を何度破壊すれば気が済むんだ。」

 

「………先生、日本には、『二度あることは三度ある』という慣用句があるらしいですよ。」

 

 

 

 

 

【日時】同日 11:30

 

【場所】工房の一角・休憩スペース

 

 

Ⅱ世がスクロールの調達のために使い魔を飛ばし、資料を整理し始めた頃。

 

茜は、工房の隅にあるソファに身を沈め、静止した黄金天球を見つめていた。

 

 

茜の脳内の Ver.6.4 は、無慈悲にシミュレーションを継続していた。

 

エル=ナハトが持ち帰った「竜胆茜」というバグのデータ。そして法政科が抱える、時計塔の秩序維持という名の「排除本能」。

 

 

どれほどⅡ世が政治的な防波堤を築こうと、いずれ彼らはその堤防を乗り越え、茜の首を掴みに来る。その時、師であるⅡ世は必ず、政治的・物理的に分断(パージ)される。

 

 

(……その瞬間に、僕が単独で法政科を屈服させ、先生の立場を守りながら平穏を勝ち取るための『手札』。……それが、今回先生に頼んだギアス・スクロールと、もう一つ……)

 

 

茜は、懐に隠された、あの特大の爆弾(バグ)のデータへと、意識の片隅でアクセスした。

 

(……これこそが、僕が独力で法政科と対等に渡り合うための、唯一にして最強の武器になる。……先生には、解体作業が終わるまでは詳細は伏せておこう。先生の胃を、これ以上壊すわけにはいかないからな)

 

 

師が自分を守るために戦ってくれているように。

 

自分もまた、師が守ろうとしている『生徒としての平穏』と、師自身の『ロードとしての地位』を、論理の裏側で守り抜く。

 

 

「……竜胆。茶を淹れたぞ。……少しは休め。午後からは、法政科への供述内容の『特訓』だ」

 

「……はい。よろしくお願いします」

 

 

茜は、師が差し出した、ひどく苦くて、しかし熱い紅茶を一口啜った。

 

《感覚遮断プロトコル》をオフにする。喉を焼く熱さと、紅茶の独特の渋み。

 

それが、今の茜にとって唯一の、自身がまだ「この世界の人間」であることを繋ぎ止める、確かな感触だった。

 

ロンドンの雨は、依然として止む気配を見せない。

 

 

 

だが、その雨音の向こう側で、茜の演算は、数日後の勝利を、すでに 99% の確率で確定させていた。

 

 

(……僕は、ただの三流だ。……そうでしょう、先生?)

 

 

茜は、もう一口紅茶を飲み、重く垂れ込めた窓の外を見つめた。

 

黄金天球の静かな歯車の音が、彼の精神世界に安らぎのノイズを刻み続けていた。

 

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