【日時】2004年 7月某日 10:35
【場所】ロンドン市街地・エーデルフェルト邸 地下工房
「さあ、覚悟を決めなさいな、竜胆茜。貴方が完全に『私のもの』として美しい数式を刻むまで、この解剖室(工房)からは一歩も出しませんわよ」
ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの背後に展開された三つの巨大なサファイアが、空間の魔力密度を暴力的なまでに引き上げる。彼女は、茜の脳内に巣食う「アトラスの砂(決定論のバグ)」を、自らの高純度な宝石魔術で物理的・概念的に洗い流し、完全にフォーマットするつもりだった。
(――警告(Warning)。対象の魔力波長を『敵対的フォーマット干渉』と断定。L2《論理矛盾の意図的生成(パラドックス・インストール)》、自動起動シークエンスへ移行――)
茜の Ver.6.4 の OS が、防衛本能からルヴィアの魔術基盤を内側から食い破るための「矛盾」を構築し始める。
だが、茜は残された自身の演算リソースのすべてを投じ、その自動防衛を力ずくで(マニュアルで)押さえ込んだ。ここでルヴィアの魔術回路を破壊すれば、彼女との関係値が破綻するだけでなく、彼自身の脳神経も反動で完全に焼き切れる。
「……ルヴィアさん。待ってください」
茜は、脂汗を滲ませながら、シーツの上で静かに口を開いた。
「フォーマットは非効率です。僕のシステムは今、アトラスの論理を取り込んだことで、熱量(エントロピー)が飽和状態にある。……今、強引に貴方の『美学(ルール)』を流し込めば、僕の防衛機構が暴発し、貴方の宝石ごとこの工房を吹き飛ばすことになります」
「私の美しさが、砂の呪いごときに負けるとでも?」
「勝ち負けの話ではありません。物理的な『熱暴走』の話です」
茜は、極めて冷静に、自身の置かれている構造的欠陥を提示した。
「現在の僕は、法政科や時計塔の監視から『アトラスの論理』を隠蔽するため、L4《環境並列演算網(レイライン・ボットネット)》によるロンドン市街への外部接続(アウトプット)を自ら遮断しています。自分の脳(ローカル)だけで、通常なら都市インフラに外部委託するはずの絶大な計算負荷を抱え込んでいる状態です」
「……」
「僕の頭脳(ハードウェア)はオーバーヒート寸前です。だからこそ……洗い流すのではなく、貴方のその魔力を、僕の『外部冷却水(クーラント)』として使わせてほしい」
ルヴィアの柳眉が、ピクリと跳ねた。
「……私の魔力を、貴方の冷却水にしろと?」
「正確には、僕の L4 の『安全な外部委託先(デリゲート)』としての同期です。貴方の極めて純度が高く、安定した宝石魔術の基盤に、僕の溢れ出ている計算負荷を一時的に肩代わりさせ、熱を逃がす。……そうすれば、僕のシステムはアトラスの論理を完全に消化し、貴方の審美眼にも適う『完璧な安定(Ver.6.4の固定)』を迎えることができます」
茜は無機質な瞳で、ルヴィアを真っ直ぐに見つめ返した。
「貴方は僕を『完璧に調律する』と言った。ならば、フォーマットによる初期化ではなく、僕というシステムの『完成』を、その手で手伝ってはくれませんか」
沈黙が落ちる。
ルヴィアは数秒間、茜の瞳の奥にある「一切の嘘偽りない純粋な論理」を見極めるように見つめ……やがて、フッと優雅な笑みをこぼした。
「……言葉遊びが上達しましたわね、竜胆茜。初めからそう言いなさいな。『ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの完璧な魔力がなければ、私は完成しない』と」
ルヴィアは空中のサファイアを収束させ、それを茜の胸元――魔術回路の中核に近い位置へと静かに添えた。
「よろしい。貴方のその生意気な L4 とやらを、私の回路に繋ぎなさい。……エーデルフェルトの宝石の海がどれほど深く冷たいか、その身で味わわせて差し上げますわ」
「……感謝します」
茜は目を閉じ、L4《環境並列演算網》の接続先を、『眼の前のルヴィアゼリッタ』へと一点集中で切り替えた。
ドクンッ、と。
二人の魔術回路が、目に見えない論理のケーブルで同期(シンクロ)する。
ルヴィアの背筋に、茜が抱え込んでいた『アトラスの決定論』の恐るべき計算の重みが、巨大な瀑布のように流れ込んできた。常人の魔術師なら一瞬で自我をすり潰されるほどの情報量。
だが、ルヴィアは誇り高く微笑み、自身の魔術刻印をフル回転させてその熱量を受け止め、極低温の宝石魔力で包み込んで冷却(デバッグ)していく。
「……素晴らしい。これが、貴方の見ている世界(OS)……」
ルヴィアの意識が、茜の持つ「確率」と「解析」の果てしない宇宙に触れる。そして、その中に組み込まれた異質で凶悪なブラックホール(アトラスの決定論)が、自身の魔力によって徐々に安定し、茜の星図の一部として美しく定着していくのを観測した。
(……これで、システムの熱暴走は回避できる。Ver.6.4 の恒久的な固定が――)
茜が論理の完了を確信した、その時だった。
「……さて。OS の熱は引きましたわ。ですが、竜胆茜」
ルヴィアは、茜の左手を再び強く握りしめた。
その視線の先にあるのは、未だ黒ずんだままの、概念的死を迎えた「小指」。
「貴方はこれで『完成した』と思っているようですが……私の美学は、こんな醜いバグ(欠損)を放置することを絶対に許しませんわよ」
「……ルヴィアさん? それは概念的な細胞死です。魔術的な治癒では――」
「ええ、治りませんわ。ですから、『新しく創る』のです」
ルヴィアのもう片方の手に、彼女の財力の結晶とも言える、魔力を帯びた至純の黄金と、数粒の最高級サファイアが握られていた。
「貴方の傍らで回っているそのオモチャ(黄金天球)。あれと全く同じ『完成の哲学』で、この指を創り変えます。……少し、痛みますわよ?」
ルヴィアが自身の宝石魔術と、茜の《黄金天球》の機構を強引に連動させる。
茜の L5《結果正当化》が「小指の死」を規定しているのなら。ルヴィアは「小指が死んだ結果、黄金の指がそこに在る」という新たな結果を、莫大な富(魔力)と美学で上書き(コンパイル)したのだ。
「――ッ……!」
痛覚を遮断しているはずの茜の脳に、概念が焼き付くような熱い痛みが走る。
ルヴィアの手によって錬成された黄金とサファイアが、茜の壊死した小指を包み込み、そのまま新たな『骨』と『神経』として完全に融合していく。
魔力回路が繋がり、黄金の義肢が茜の意志(L4の演算)と直結した。
「……完成、ですわ」
ルヴィアが額に微かな汗を滲ませながら、誇らしげに微笑んだ。
茜は、自身の左手を見つめた。
そこには、元の肉体よりも遥かに高い魔力伝導率を誇る、美しくも無機質な『黄金とサファイアの小指』が、カチリと音を立てて繋がっていた。
それは、茜の OS が完全に安定した証明であり――同時に、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの魔力が、茜の肉体の一部として半永久的に(あるいは絶対の繋がりとして)刻み込まれたという『消えない契約』の証でもあった。
「……恐ろしい人だ、貴方は」
茜は黄金の指を曲げ伸ばししながら、小さく息を吐いた。
「まさか、他人の肉体のデバッグに、自分の刻印を物理的に埋め込むとは」
「光栄に思いなさいな。それは私が貴方を『私の時計』として正式に認定した証ですわ」
ルヴィアは優雅に立ち上がり、自身の金髪を払った。
「さあ、メンテナンスは終了です。少し休んでいなさい、。……紅茶を淹れてきますわ!」
【日時】同日 11:30
【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) エルメロイ教室
バンッ! と勢いよく教室の扉を開け放ち、ロード・エルメロイⅡ世が息を切らして飛び込んできた。
「――遅くなった!! 今朝の講義は自習としたが、諸君、問題は――」
彼の顔色は土気色を通り越して真っ青であり、その手には完全にひしゃげた胃薬の空箱が握りしめられていた。
彼はたった今、法政科の化野菱理を相手に、文字通り『胃を削るような論理の防衛戦』をギリギリで乗り切ってきたところだった。
『すべてはガス管の事故であり、竜胆茜はただの不運な被害者である』。
その言い訳を、何十もの捏造データと政治的圧力を駆使して、なんとか(一旦は)法政科に飲ませることに成功したのだ。
(……これでいい。あとは茜の奴が、頭に包帯でも巻いて『被害者面』をして教室の隅に座っていれば、この件は完全に事故として処理できる……!)
そう確信して教壇に立ったⅡ世の視界に飛び込んできたのは。
「あれ? 先生、お帰りなさい!」
元気よく手を挙げるフラット。
眠そうに欠伸をするスヴィン。
静かにノートをまとめているグレイ。
その他、いつもと変わらぬ生徒たちの姿。
ただ。
「……おい。フラット」
Ⅱ世の声が、震えていた。
「……竜胆は、どうした。被害者である彼は……どこにいる?」
フラットは、あっけらかんとした笑顔で答えた。
「ああ、竜胆さんなら早退しましたよ! 教室に入ってきたと思ったら、急にパタンって倒れちゃって。そしたらルヴィアさんが『この時計は私がメンテナンスしますわ!』って言って、そのままお姫様抱っこ(正確には担ぎ上げ)して、自分の豪邸に連れて帰っちゃいました!」
「……」
Ⅱ世の思考が、完全に停止した。
「あ、ルヴィアさんも、今日の授業はサボりますって! 竜胆さんの基盤、すっごい真っ黒でかっこよかったなぁ。ルヴィアちゃんの家に行けば見れるかな?」
「…………フラット」
「はい?」
「私の、法政科での二時間を……返せ……ッ!!」
ロード・エルメロイⅡ世は、教卓に突っ伏し、そのままピクリとも動かなくなった。
『ただの被害者』として隠蔽しようとした教え子が、よりにもよって時計塔でも一、二を争う名門の令嬢に白昼堂々拉致され、二人揃って行方不明(無断欠席)になる。
これでは、事故の隠蔽どころか、さらに巨大な政治的・魔術的なスキャンダル(ノイズ)を生み出すことは火を見るより明らかだった。
エルメロイ教室に、Ⅱ世の絶望の呻き声だけが虚しく響き渡っていた。
【日時】同日 12:15
【場所】ロンドン市街地・エーデルフェルト邸 地下工房
一方その頃。
ルヴィアが紅茶を淹れるために一時的に工房を離れ、ベッドの上で一人静かに身体を休めていた茜の脳内に、突如として『それ』は現れた。
(……なんだ?)
ルヴィアの魔力を外部冷却水として利用し、Ver.6.4 のコンパイルが完全に終了し、OS が極限の安定(完成)を迎えた、まさにその瞬間。
茜がエル=ナハトから喰らい尽くし、吸収した『アトラスの決定論』のソースコードの最深部。そこに暗号化されて隠されていた「圧縮ファイル」が、システムが安定したことをトリガーとして、自動的に解凍(デコード)されたのだ。
それは、魔術的な干渉ではない。
純粋な論理の塊として、茜の網膜の裏側に直接、『因果混線(ノイズデータ)』の文字列(テキスト)を表示させた。
『――解凍完了。対象の演算基盤(OS)の完全なる安定を観測しました』
【――貴方のバ■は、世界に■ってあまりにも■しい。時計塔の■籠は、もは■貴方の■成を■■るには狭すぎるで■■う】
バグまみれの無機質な文字列
【――【1994年 ■■月■■日。第■■聖■■争。第七演算室】
文字列は、茜の記憶領域にその座標を焼き付けると、自己消去(デリート)されて完全に消え去った。
「……1994年? 過去の座標……いや、アトラスの演算が弾き出した『特異点』か」
茜は、自身の左手――新しく繋がれた黄金の小指を静かに握りしめた。
時計塔での平穏な日常の偽装は、もはや完全に崩壊した。アトラス院からの、逃げ場のない「砂の底からの招待状」。
彼の異常なまでの完成を求める旅は、魔術協会の政治争いという浅瀬を抜け、真なる神秘の深淵――アトラスの論理空間へと、確実に繋がり始めていた。