【日時】2004年 7月某日 13:00
【場所】時計塔・現代魔術科(ノリッジ) ロード・エルメロイⅡ世の執務室
ロード・エルメロイⅡ世は、自身の執務室の分厚い革張りの椅子に深く沈み込み、冷え切った質の悪いコーヒーを胃に流し込んでいた。
法政科での二時間に及ぶ「ガス管爆発事故」というシナリオの構築と、化野菱理との冷酷な腹の探り合い。それがようやく終わり、這うようにして教室に戻った彼を待っていたのは、「被害者であるはずの竜胆茜が、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトに白昼堂々拉致されて行方不明になった」という、絶望的な報告だった。
神経性胃炎の限界をとうに超え、もはや痛覚すら麻痺し始めた腹部をさすりながら、Ⅱ世は火をつける気力すらない葉巻を指に挟み、虚空を見つめていた。
(……終わった。何もかも。ルヴィアの事だ、竜胆の肉体に残る『アトラスの痕跡』を許さず、彼女の強大な富と魔力で強引な解呪(ディスペル)を行ったに違いない。法政科の猟犬たちがエーデルフェルト邸の異常な魔力変動を嗅ぎつけるのは時間の問題だ……。私が血反吐を吐いて組み上げたロジックが、音を立てて崩れていく……)
コンコン、と。
控えめだが、一切の躊躇がない、機械的なノックの音が執務室の重厚な扉を叩いた。
「……入れ」
擦れ枯れた声で応じると、扉が音もなく開き、一人の少年が姿を現した。
「失礼します、先生。事後処理と肉体(システム)の安定化が完了しましたので、帰還の報告に参りました」
頭に痛々しい包帯を巻き、どこか血の気の引いた顔色ながらも、極めて平坦な声で告げる竜胆茜。
その姿を見た瞬間、Ⅱ世の死んでいた瞳にわずかな光が戻り、次いで、怒りと安堵と絶望が入り混じった複雑極まる感情が爆発した。
「……お前という奴は!!」
Ⅱ世は机を両手で叩いて立ち上がり、茜を指差した。
「私が法政科で胃をすり減らして『お前はただの事故に巻き込まれた不運な一般生徒だ』というシナリオを死に物狂いで構築している裏で、名門の令嬢に抱きかかえられて教室を後にするとはどういう神経をしている!あからさまに、何かありましたと自分から喧伝してるようなものだ。 その時点で隠蔽(シナリオ)は完全に破綻しているんだぞ!」
「申し訳ありません。肉体が排熱の限界を迎え、強制スリープモードに移行してしまったため、僕の意志で事態を制御できませんでした」
茜は淡々と謝罪しながら、執務室のソファへと歩み寄り、静かに腰を下ろした。
「ですが、結果としてルヴィアさんの極めて高純度な宝石魔力を『外部冷却水(クーラント)』として利用できたおかげで、僕のOSは完全にアトラスの論理を消化し、安定しました。感謝すべきイレギュラーです」
「感謝すべき、だと……? 貴様、気を失っている間にルヴィアゼリッタに一体何をされた?」
Ⅱ世の問いに対し、茜は黙って自身の左手を差し出した。
オーバーコートの袖口から現れたのは、黒い革手袋ではない。シャンデリアの光を反射して、カチリ、カチリと微細な歯車の駆動音を立てる、美しくも異質な『黄金とサファイアの小指』だった。
「――ッ!?」
Ⅱ世が息を呑む。
彼の一流の鑑識眼は、その義肢が単なる取り外し可能な魔術礼装ではなく、茜の肉体、骨格、神経、そして魔術回路そのものと完全に、不可逆的に癒着していることを瞬時に見抜いた。
「……アトラスの決定論によって迎えた『概念的細胞死』を、エーデルフェルトの莫大な富と魔術基盤で上書き(コンパイル)されました。僕の《黄金天球》の機構論理と彼女の宝石魔術の融合です。……少々独占欲の強いメンテナンスでしたが、機能的には元の肉体よりも魔力伝導率が30%ほど向上しています」
茜は、黄金の小指を滑らかに曲げ伸ばししながら平然と言ってのけた。
「お前……。自分がどれほど恐ろしい『呪い(パス)』を刻まれたのか、分かっているのか……」
Ⅱ世は頭を抱え、再び椅子に崩れ落ちた。
「ただでさえアトラス院の最高位と干渉した肉体に、今度はエーデルフェルトの次期当主の魔力を物理的に埋め込まれただと……? お前という存在の帰属が、もはや時計塔の政治的爆弾になっているじゃないか!」
「政治は僕の管轄外です。僕が優先するのは、自身のシステムの完成と、時計塔での平穏な学習環境の維持だけですから」
「その平穏を自ら粉砕していることに気づけ、この大馬鹿者が……ッ」
Ⅱ世の胃が、再び激しく自己主張を始める。
「それよりも、先生。報告すべき重要なエラー(異常事態)があります」
茜の無機質な瞳が、スッと冷たさを増した。
「僕のシステムが安定した瞬間。エル=ナハトから吸収したアトラスの論理の最深部から、圧縮されていた不可視のログが自動解凍されました。……誘い込むための座標などではなく、ただのバグまみれの情報体(テキスト)です」
「……情報体。アトラス院からの、か」
Ⅱ世の顔から怒りが消え、ロードとしての冷徹な表情へと切り替わる。
茜は自身の視覚メモリに焼き付けられた文字列を、そのまま淡々と読み上げた。
『【――貴方のバ■は、世界に■ってあまりにも■しい。時計塔の■籠は、もは■貴方の■成を■■るには狭すぎるで■■う】』
『【――【1994年 ■■月■■日。第■■聖■■争。第七演算室】』
茜がその文字列を読み終えた瞬間。
カラン、と。
Ⅱ世の手から、葉巻が床に転がり落ちた。
「……先生?」
茜の目から見ても、眼の前のロードの様子は明らかに異常だった。
ロード・エルメロイⅡ世の顔面は、死人のように蒼白になっていた。その双眸は見開かれ、呼吸は浅く、肩が小刻みに震えている。
まるで、心の最奥に厳重に封印していたトラウマという名の墓暴きに遭ったかのような、凄絶な狼狽。
「……1994年、だと……? そして、第……なんだと?」
Ⅱ世の声は、ひどく掠れていた。
「酷く欠損(文字化け)した因果混線(ノイズデータ)でした。解凍と同時に自己消去(デリート)されたため、復元は不可能です」
茜は冷徹に自身の「解析不能(エラー)」の事実を告げる。
「ただ、『1994年』という明確な年代指定。そして、第七演算室という署名。……この二つの変数が、何らかの特異な事象を指し示していることは確実です。そして、僕には一つだけ、この因果混線(ノイズデータ)と合致しうる『過去のログ』に心当たりがあります」
茜の脳裏に、数ヶ月前の『あの出来事』がフラッシュバックしていた。
黄金天球を得る前、エル=ナハトと出会う前の時期。エルメロイⅡ世の執務室で静かに計算を行っていた茜の脳内(システム)に、――極東の『冬木』という極小の霊脈から、突如として巨大な魔力通信(Ping)が叩き込まれたあの事件。
右手の甲に赤い痣、として刻まれかけたその「死の抽選」への強制エントリーを、茜は L5《干渉痕消去》と《因果接続補完》によるファイアウォールで、「迷惑メール(スパム)」として強引にブロックした。
「数ヶ月前。僕の L4《環境並列演算網》に、極東の霊脈から異常な接続要求がありました。先生もその場にいて、激しく動揺されていたはずです。あの時僕は、それを現在進行中の『何らかの儀式』のシステムが、僕を管理者として誤認したのだと仮説を立てました」
茜の思考が、無機質に、かつ超高速で点と点を繋いでいく。
アトラスの遺したバグまみれのログ。そして、極東からのスパム通信。
「もし、アトラスが遺したこの『1994年』と『第■■聖■■争』という欠損データが、あの時僕に干渉してきた極東のシステムとリンクしているとしたら……。そこに、この謎を解き明かす鍵になると考えています。」
茜はふと言葉を止める
「先生。バイタルが極めて不安定です。心拍数が異常な数値を――」
「……黙れ」
Ⅱ世の口から漏れたのは、怒りではなく、深い、あまりにも深い絶望の吐息だった。
茜にはノイズにしか見えない文字列。そして、茜が「数ヶ月前に繋がった極東の儀式」
だが、Ⅱ世の脳内では、その伏せ字は一瞬にして最も恐ろしい単語へと自動補完されていた。
1994年。極東の地、冬木。
第四次聖杯戦争。
Ⅱ世の脳裏に、炎が燃え上がる。
征服王の背中。血塗られた冬木の街。自身が「ウェイバー・ベルベット」であった頃の、人生を決定づけたあの狂気の儀式。
世界の終末を計算するアトラス院が、根源に至るためのあの大規模な魔術儀式を観測していないはずがない。
だが、なぜ彼らが残したログの中に、茜へのメッセージと共に、その狂気の座標(年号)が刻まれているのか。
「……竜胆」
Ⅱ世が、顔を覆った手の隙間から、血走った目で教え子を睨みつけた。
「そのバグ(情報)は……完全に破棄しろ。あの極東からの接続も、アトラスの残した文字列も、これ以上はお前の論理や計算などで割り切れるような代物ではない。その年号に刻まれた事象は……祈りと絶望が煮詰まった、純粋な『地獄』だ」
「……地獄、ですか」
茜は無表情のまま、首を傾げた。
「非論理的な表現ですね。僕にとって重要なのは、僕のシステム(日常)にこれほどの特大の不確定要素(スパム)がぶら下がっている状態を放置することは、致命的な脆弱性だという事実です。僕の平穏を維持するためには、この『1994年』の変数を解析し、あの時繋がったシステムとの関係性を明確にする必要があります」
「お前のその『解析』が、いずれお前自身を破滅させるんだぞ……! いいか、その1994年の件については、一切忘れろ。図書館の一般データベースを漁ることも許さん!」
Ⅱ世の語気は、これまでにないほど強烈だった。それは教師としての指導を超えた、ある種の「懇願」にすら聞こえた。
「……了解しました」
茜は立ち上がり、静かに一礼した。
「先生の精神状態がこれ以上悪化することは、僕の時計塔での庇護(システム)を失うことに直結します。本日はこれで失礼します。まずは休息をとってください」
茜は踵を返し、執務室の重厚な扉を開けて廊下へと出た。
一人残されたロード・エルメロイⅡ世が、引き出しから胃薬の瓶を乱暴に取り出し、机に突っ伏す音を背中で聞きながら。
(――ロード・エルメロイⅡ世の反応。過度な精神的動揺。彼は『1994年の極東の事象』について、明確な実体験を有している)
茜にとって、「分からない(欠落した変数)」という状態は、OSにバグを放置しているのと同義だった。
先生が「調べるな」と言ったからといって、自分のシステムに突きつけられた未知の変数をそのままにしておけるはずがない。数ヶ月前の極東からの不正アクセスと、アトラスの残した1994年という年代。これらを繋ぐ線が、必ずどこかにあるはずだ。
(……一般データベースにアクセスするなと命じられたのなら。時計塔の最深部、封印指定の記録や禁忌の魔術理論が眠る大図書館の深層へアクセスするしかない)
一般のデータベースにアクセスが出来ないのなら、禁忌の深層へアクセスする。
まさに狂気の沙汰である。
茜は左手の黄金の小指を微かに動かしながら、ノリッジの校舎から、時計塔の地下深くへと向かうための最適なルートの計算を開始した。