境界の観測者 ―時計塔の特異点―   作:りー037

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【第五十六片】ノイズの海、審問会の終幕

【日時】2004年 7月某日 09:15

 

【場所】時計塔・法政科 地下査問室

 

 

薄暗い査問室で、竜胆茜の無機質な瞳と、化野菱理の毒蛇の瞳が激突する。

 

周囲を囲む一段高い傍聴席からは、姿を隠した時計塔の上層部や法政科の重鎮たちが、底意地の悪い視線を突き刺していた。ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの所有権という盾によって「即座の解剖」こそ免れたものの、彼らは決して茜を解放するつもりなどない。

 

この真実を強制する結界の中で、何日でも、何週間でも尋問を続け、茜の口からたった一つでも『時計塔の神秘を脅かすバグ』の証拠がこぼれ落ちるのを待つ。そして決定的な失言を引き出した瞬間、強引に封印指定へと持っていく腹積もりだ。

 

 

それを察した茜の脳内で、静かに、しかし極めて冷徹な「演算(カウンター)」が起動した。

 

(……ロード・エルメロイⅡ世の防波堤は崩れた。僕の『平穏』を維持するための基本パッチは、この環境下ではもはや機能しない)

 

 

茜の記憶領域(ストレージ)の奥底から、数日前の――あのカフェ・テラスでの死闘を終え、Ⅱ世の車で逃走していた時の記憶(ログ)が呼び起こされる。

 

 

『お前は「ただの三流」だ。偶然、アトラスの遺物を拾って暴発させただけの、運の悪い間抜けな学生。……何が何でも、そのシナリオを世界に押し通す。お前を、封印指定のホルマリン漬けになどさせるものか』

 

 

 

 

血まみれの茜を助手席に乗せ、胃を痛めながらも決死の覚悟でそう言い切ったロード。

 

茜は内心で、エルメロイⅡ世の教師としての、人としての善性に深く感謝していた。魔術師としてはあまりにも不器用で、だからこそ得難い『保護者』のシステム。

 

『……非効率な隠蔽工作ですが、先生がそう言うのなら従います』

 

 

 

そう答えながらも、茜の脳内ではすでに冷徹な計算が別のプロセス(スレッド)で走っていた。

 

茜は、エルメロイⅡ世の庇護を信じつつも、彼が敗北した時のための「最悪の事態の解決策」を、水面下で同時に進行させていたのだ。時計塔の政治的闘争という盤面において、他人の善性だけを頼りに生き残れるほど魔術世界は、甘くない。

 

 

そして今、まさにその「最悪の事態」が訪れた。

 

(――実行(ラン)。これより、盤面の論理を完全に書き換える)

 

 

「……化野さん。そして、傍聴席に隠れて僕のバグを探している上層部の皆様」

 

 

茜は、魔力流動を阻害する冷たい鉄の拘束具に繋がれたまま、静かに口を開いた。

 

その声には、恐怖も、焦燥も、怒りすらも一切含まれていない。ただ純粋な『事実(データ)』を読み上げる機械のような、極低温の響きだけがあった。

 

「これ以上の非生産的な尋問(デバッグ)は、お互いのリソースの無駄です。……時計塔の秩序と、僕個人の平穏な学生生活の維持。その両立を図るため、僕から一つ『提案(取引)』があります」

 

「……取引、ですって?」

 

 

菱理が、扇子をピタリと止めて眉をひそめた。

 

傍聴席からは、鼻で笑うような声が漏れる。

 

『――たかが一介の生徒が、取引だと?』

 

『――貴様に提示できるものなど何もない。エーデルフェルトの威光に隠れていれば命だけは助かると思っていたようだが、甘いぞ!』

 

 

「ええ、取引です」

 

 

茜は、左手の黄金の小指を微かにカチリと鳴らした。

 

「……今年の2月。ソーホーの古書店で、法政科の優秀な執行者の方々が、突如として発生した魔力爆発に巻き込まれて昏倒した事件がありましたね。ロード・エルメロイⅡ世は、それを『僕が偶然、古書に仕込まれた古い自律防衛式に触れただけの事故だ』と報告したはずです。」

 

 

その言葉が出た瞬間。

 

 

傍聴席の闇の中で、法政科の重鎮たちの気配が、ピクリと硬直したのが分かった。

 

化野菱理の瞳からも、先ほどまでの余裕がわずかに剥がれ落ちる。

 

「……それが、どうかしましたの?」

 

「あの時、僕が古書店で偶然触れたのは、単なる防衛式ではありません。……1850年代、この現代魔術科(ノリッジ)の設立に関わる、法政科が厳重に封印指定した『150年前の機密データ』です」

 

 

査問室の空気が、物理的な重さを持って凍りついた。

 

真実の行使を強制する結界が、茜の言葉が一切の『嘘偽りなき事実』であることを、室内の全員に証明してしまっていた。

 

『……貴様』

 

 

傍聴席の奥から、先ほどまで茜を三流と罵っていた委員長の、地を這うような低い声が響いた。

 

「……やはり、あれを持ち去っていたのは貴様か。エルメロイⅡ世め……ッ! 即座にそのデータを返還しろ! それは時計塔の歴史に関わる禁忌の――」

 

 

「返還する気はありません。というか、物理的に不可能です」

 

 

茜は、拘束された手をテーブルに置いたまま、冷徹に言い放った。

 

「あれは、あまりにも悪意に満ちた呪詛の塊でした。放置すれば霊脈を吹き飛ばしかねない代物だったため、僕は自作の『隔離砂箱(サンドボックス)』を用いて、今年の4月に僕の自室で完全に解体(デバッグ)しました。……おかげで、中身のテキストデータは、すべて僕の脳内の安全なディレクトリに保存(記憶)されています」

 

 

『なっ……!?』

 

『150年の呪詛を、自室で解体しただと……!?』

 

 

「嘘を吐くメリットはありません。この結界が証明しているでしょう?」

 

 

茜は淡々と続ける。

 

 

「解体した結果、あの『遺言』の中身は二つのデータで構成されていることが分かりました。……一つ目は、当時のロードたちと法政科の執行部が結託して行った、血生臭い『神秘の簒奪』の正確な因果ログ。誰が、誰を裏切り、どの霊脈をどう不正に奪ったか。その全記録です」

 

 

 

ギリッ、と。

 

傍聴席のどこかで、誰かが強く歯を食いしばる音がした。

 

それは、現在の時計塔の権力構造の根幹を揺るがす、最悪の爆弾。もし公聴会でそれが読み上げられれば、法政科の権威は失墜し、時計塔は派閥同士の血みどろの内戦状態(パニック)に陥る。

 

「……貴様、それがどういうことか分かって言っているのか」

 

 

委員長の声は、もはや尋問官のものではなく、急所を握られた人間の恐怖と殺意に満ちていた。

 

「その情報を口にした時点で、貴様はエーデルフェルトの庇護があろうと生きてこの部屋を出られんぞ! 脳を物理的に破壊してでも、その記憶は消去させてもらう……!」

 

 

「お待ちください。まだ『二つ目』のデータの説明が終わっていません」

 

 

 

茜は、殺気の嵐をそよ風のように受け流し、極低温の交渉(ドア・イン・ザ・フェイス)の第一段階へと移行した。

 

「二つ目のデータは……『霊墓アルビオンの未踏ルートに関する、地脈の管理者権限(Admin Key)』です」

 

 

 

その瞬間。

 

査問室の空気が、恐怖から『圧倒的な欲望』へと反転した。

 

霊墓アルビオン。時計塔の地下に広がる、神代の神秘がそのまま残る巨大な魔境。そこの「未踏ルート」への安全なアクセス権限(鍵)を持っていれば、得られる魔術的資源(リソース)と富、そして時計塔内での権力は計り知れない。

 

 

まさに、魔術師であれば誰もが喉から手が出るほど欲しい、究極の『アメ』だった。

 

「……アルビオンの、鍵。……それが、あの遺言の中に……?」

 

 

「ええ。僕の脳内に、そのルートの完全なマップと、防衛機構のバイパス・コードが記録されています。これも、結界が『真実』だと証明しているはずです」

 

 

茜は無機質な瞳で、暗闇に潜む権力者たちを見回した。

 

「さて。これより交渉を開始します」

 

 

茜の言葉は、拘束椅子に座らされている罪人のものではなく、完全に『盤面を支配する管理者』のものだった。

 

「僕からの要求(リクエスト)は以下の通りです。

 

 

一、法政科は、あの150年前の『神秘の簒奪』の事実を公に認め、当時の被害者の家系へ謝罪と賠償を行うこと。

 

二、現在の法政科の上層部(ここにいる全員)は、その責任をとって直ちに辞任し、部署の解体・再編を行うこと。

 

三、そして、僕に対するアトラス院関連の調査を永久に凍結すること。

 

……これらを呑むのであれば、アルビオンの鍵を貴方たちに譲渡します」

 

 

『――ふざけるなッ!!!』

 

『――一介の生徒が、法政科の解体を要求するだと!? 狂っているのか!!』

 

 

予想通りの激昂。

 

法政科の解体など、彼らが絶対に呑めるはずのない要求(ボール)。

 

茜は内心で(エラー想定通り)と確認し、わざとらしく、小さくため息をついた。

 

「……なるほど。やはり、自らの汚職を認めて座を下りるというのは、非論理的な要求でしたか。……では、妥協(ダウングレード)しましょう」

 

 

茜の声が、スッと一段低くなった。

 

それは、彼が真に狙っていた『着地点(本命)』への誘導。

 

 

(……僕の本来の目的は、時計塔の正義を正すことでも、権力闘争に参加することでもない。ただ『自分の平穏な日常』が維持できれば、それでいい)

 

 

茜は、拘束具をガシャンと鳴らし、前のめりになった。

 

「では……要求を変更します。

 

 

僕に対するアトラス院との接触の件、および昨日のカフェ・テラスでの戦闘に関する『一切の情報の秘匿』。時計塔内外を問わず、この事実を口外しないこと。

 

そして、この査問会を直ちに解散し、今後二度と今回の件を引き合いに出して、僕という個体に対して法政科からの追及・干渉を行わないこと。

 

……以上です」

 

 

 

菱理が、鋭く問い返す。

 

 

「……それだけ、ですか?」

 

「ええ。それだけで構いません」

 

 

茜は淡々と頷いた。

 

 

「貴方たちが僕の平穏を完全に保証してくれるのであれば、僕は『150年前の汚職のログ』を、この場で僕の脳内から完全に永久消去(デリート)します。時計塔の平和な秩序は守られ、貴方たちの地位も安泰です。……そして、法政科に対する僕からの『誠意(ボーナス)』として、鍵のデータも、そっくりそのままお渡ししましょう」

 

 

 

静寂。

 

 

それは、先ほどの怒りに満ちた沈黙とは違う。

 

猛烈な勢いで「損益計算」を回す、魔術師たちの欲望と打算に満ちた沈黙だった。

 

脅威である汚職ログが消え、利益であるアルビオンの鍵が手に入る。

 

彼らが支払う対価は、「たった一人の学生のアトラス関連の不始末を、見逃して黙秘する」ことだけ。

 

 

法政科の権力を揺るがす危機から一転、莫大な利益を得て終わるという、あまりにも魅力的すぎる提案。

 

 

『……正気か、小僧。本当に、汚職の記録を消すというのか?』

 

 

委員長の声に、隠しきれない期待と疑念が混ざる。

 

「僕は論理的に無駄なデータを保持しません。僕の平穏が確定するなら、あのログは無用の長物(ゴミ)です。……ただし」

 

 

茜は、拘束された右手の指先を器用に動かし、自身のオーバーコートの内ポケットから『数枚の羊皮紙』を滑り落とした。

 

パサリ、とテーブルの上に落ちたそれを見て、化野菱理の顔色が変わる。

 

 

「……自己強制証明……! 貴方、拘束された状態でどうやって……」

 

「……ん?そんなことは、どうでもいいことでしょう。」

 

 

 

茜は、テーブルの上のスクロールを顎で示した。

 

そこには、すでに茜の魔力によって、極めて緻密で抜け穴のない『契約の論理(条文)』が書き込まれていた。

 

 

「口約束などという不確定な変数は信用しません。……化野さん、そして傍聴席にいる重鎮の皆様。まずは貴方たちが、この自己強制証明(セルフ・ギアス・スクロール)にサインをしてください」

 

 

茜は、テーブルの上のスクロールを顎で示した。

 

そこには、すでに茜の魔力によって、極めて緻密で抜け穴のない『契約の論理(条文)』が書き込まれていた。

 

「ですが、ここにいる皆様『だけ』では不十分です。僕の事案、『アトラス院との接触、およびこの査問の記録にアクセスできる法政科の人間』、その『全員』の署名を義務付けます。一人でも欠ければ、契約は成立しません」

 

『……ッ! この場にいない者まで含め、法政科全体に首輪をつけろというのか! 物理的に時間が――』

 

「時間は作ってください。末端の執行者であれ、記録係であれ、システムに一つでも、情報の抜け穴(バックドア)が残っていれば、貴方たちは必ずそこから僕をハッキングしようとする。それでは僕の平穏にとって重大なリスクです」

 

 

茜の瞳が、絶対零度の冷徹さで傍聴席を見上げた。

 

同時に、彼は微かに言葉のトーンを変え、魔術師の「疑心暗鬼」を逆手に取る論理を展開する。

 

「安心してください。これは一方的な服従要求ではありません。魔術師が他者の善意など信じないことは計算済みです。だからこそ、このスクロールは完全な『双方向の強制(相互リンク)』として記述してあります」

 

 

茜は拘束された手の指先で、羊皮紙の条文をトン、と叩いた。

 

「条文は明確です。『法政科は竜胆茜のアトラス関連の事象を一切口外せず、今後今回の一件への追及・不利益な干渉も行わない』。……そして、『法政科該当者全員の署名が確認された瞬間に限り、竜胆茜は遺跡の管理者権限を譲渡し、同時に脳内から汚職ログを完全消去する。以後、この情報を以て法政科を脅迫することを永久に禁ずる』」

 

 

傍聴席から、息を呑む音が聞こえた。

 

「僕自身にも、貴方たちと同等以上の強力なギアスを課します。これで、僕がこっそりバックアップを取って後から再度強請るというバグは起こり得ない。貴方たちにとっても、僕を始末するより遥かに確実で安全な取引(トランザクション)のはずです」

 

 

圧倒的な脅威と、莫大な利益。

 

そして、それを担保するための「絶対的な相互の縛り」。

 

 

こちらが譲歩(ギアス)する姿勢を見せることで、相手に「それなら悪くない取引だ」と錯覚させる、完璧な論理。

 

「サインをしない、あるいは関係者全員の署名を集めないというのであれば、交渉は決裂です。この査問室を出た直後、僕のL4で《時計塔の霊脈》を通し、そたらの汚職ログのコピーを、ロンドン中の魔術師の端末や使い魔に一斉送信(ブロードキャスト)します。………もちろん、アルビオンの鍵ごと、ね」

 

 

時計塔の重鎮たちに、冷水がぶっかけられた。

 

「考える時間」など最初から与えられていなかった。

 

今この瞬間、この場でギアスに縛られるか、それとも時計塔の歴史に名を残す大スキャンダルを引き起こして破滅するか。

 

「さあ、選択(コンパイル)を。……時間は無駄にしたくありません」

 

 

究極の二択。

 

逃げ場を完全に塞がれ、同時に「絶対に安全なリターン」を約束された法政科の重鎮たちは、もはや屈辱と欲望に顔を歪めながら、テーブルの上の羊皮紙に手を伸ばすしかなかった。

 

「……化野さん。貴女もです」

 

 

茜に促され、化野菱理は忌々しげにため息を吐きながら、自身の名をスクロールに刻んだ。

 

「……見事な手際ですわ、竜胆くん。まさか、法政科の尋問が、たった一人の学生の手によって『恐喝と贈収賄の現場』にすり替えられるとは。……ロード・エルメロイⅡ世の教育の賜物ですわね」

 

 

「先生は関係ありません。僕個人の生存論理です」

 

 

全員のサインが完了し、羊皮紙が赤い魔力の光を放って燃え尽きる。

 

『絶対の誓約』が、室内にいる法政科の全員の魂に刻み込まれた。これで、彼らは物理的にも魔術的にも、茜のアトラスの件を口外できず、彼に手出しをすることができなくなった。

 

「……確認しました。契約成立(トランザクション完了)です」

 

 

茜は、脳内に保存されていた『150年前の汚職ログ』を、L5の権限を用いて物理的・概念的に完全消去(デリート)した。二度と復元できない、完全なデータの死。

 

そして同時に、手元のメモ用紙に、アルビオンの未踏ルートへのアクセスパスを羅列した数式を書き殴り、菱理へと押しやった。

 

「……これで、僕は『ただの三流学生』に戻ります。拘束を解いてください。……朝の講義に遅れてしまいますので」

 

 

 

ガチャン、と。

 

 

菱理の手によって、鉛色の拘束具が外される。

 

茜は、立ち上がり、シワになったオーバーコートを軽く払い、左手の黄金の小指を一度だけ鳴らした。

 

「……竜胆茜」

 

 

部屋を出ようとする茜の背中に、委員長の憎悪に満ちた声が投げかけられる。

 

「今回は貴様の盤面に乗ってやった。だが……時計塔の深淵を覗き込んだ代償は、いずれ必ず貴様自身の魂を喰い破るぞ」

 

「非論理的な呪詛ですね。……ご心配なく。僕の平穏は、僕自身で計算します」

 

 

茜は振り返ることなく、重厚な石の扉を開け、法政科の地下査問室を後にした。

 

時計塔の尋問は、一介の学生が放った論理の前に、沈黙をもって幕を閉じたのだった。

 

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