【日時】2004年 2月某日 10:30
【場所】時計塔・第1部門:全体基礎(ミスティール)事務局分室
古びた石造りの壁には、歴代のロードたちの肖像画が並び、その厳しい視線が絶え間なく行き交う生徒や講師たちを射抜いている。事務局内に充満するのは、劣化した羊皮紙の粉塵と、数千人の生徒たちが残していった雑多な魔力の残り香。そして、官僚組織特有の、冷淡で事務的な停滞感だった。
竜胆茜は、窓口の硬い木の椅子に座り、半眼で担当講師を眺めていた。
口の中ではコーラ味のキャンディを転がし、カチリ、と小さな音を鳴らす。
「……竜胆茜君。君の提出した『ノリッジ』への進学希望届だがね。受理するには、少々致命的な不備があるようだ」
机の向こう側で、いかにも神経質そうな中年の講師――ハリスが、銀縁の眼鏡を押し上げながら書類を叩いた。彼は全体基礎(ミスティール)の講師であり、成績管理を統括する実務家の一人だ。
ハリスの瞳の奥には、事務的な冷徹さとは別の、獲物を値踏みするような卑俗な光が宿っている。
(……不備、か。僕の計算によれば、書類の形式、印章の魔力波形、提出期限。すべて完璧に平均(ノルマ)をクリアしていたはずだけど)
茜の解析(アナライズ)が、ハリスが手に持っている書類の「構造」を、紙の繊維一本に至るまで瞬時にスキャンし、解析する。
そこにあるのは、茜が書いた覚えのない「数位の矛盾」だった。
「見ての通りだ。君の実技演習における『魔力消費の変動記録』と、最終的な『術式出力の平均値』が数学的に矛盾している。……君、何か申告外の外部触媒を使用したね? あるいは、記録装置に干渉して数値を誤魔化したか。この不透明なデータが精査されるまで、ノリッジへの籍の移動は保留させてもらうよ」
(……外部触媒、か。そんな高価なもの、僕が持ってるわけないのに)
ハリスは、茜の「完璧すぎる平均点」を、不正によって偽装されたものだと決めつけていた。いや、正確には「不正の疑い」という鎖で茜を縛り付けようとしていた。
ハリスのような中堅講師にとって、後ろ盾のない新世代(ニューエイジ)でありながら、精密な魔力制御能力を持つ茜は、自分の研究室で安く使い倒せる「都合のいい計算機」として極めて魅力的な物件なのだ。
わざとらしくため息をついた。
「だが、安心していい。君のような『従順で、使い勝手のいい』平均的な生徒を、我々も見捨てはしない。どうだね。調査の間、私の研究室の助手として籍を置かないか? 雑用をこなしながらであれば、この不備も『私の裁量』で穏便に処理してあげよう」
(……なるほど。これが目的か)
茜は感情の動かない瞳で、ハリスの顔を「観測」した。
ハリスは、茜の「完璧すぎる平均点」を、才能の欠如ではなく「極めて高い実務能力と制御能力の現れ」だと正しく、あるいは、彼なりの解釈で見抜いていた。時計塔において、自分の手足となって無味乾燥な計算や実験の下準備を正確にこなしてくれる「都合のいい奴隷」は、常に不足している。
ハリスにとって、後ろ盾のない茜を、手続きの不備という「呪い」で縛り付けるのは、至極当然の生存戦略なのだろう。
「……いえ。その不備、今ここで修正できます」
茜は平坦な声で言い、ハリスが隠すように持っていたもう一枚の、ミスティール側の正式なログが記された羊皮紙を指し示した。
「え……?」
「その書類の下、三枚目の端が少し折れています。そこに記載されている僕の固有魔力IDの第4節と、あなたが指摘した不備の箇所の第7節を、第1部門の基本計算式に代入すれば……数値のズレは事務的な転記ミスであることが証明されます。僕のミスではありません。ミスティール事務局の、古い魔術式計算機の同期エラーです」
茜の起源『解析』は、ハリスが隠している「正解」をすでに読み解いていた。
彼は身を乗り出すこともなく、ただ座ったまま、淡々と事実の因果を突きつけた。
ハリスの顔が、屈辱と驚愕で朱に染まっていく。
「……君、何を……」
「これ以上保留するなら、僕はミスティールのロードの直轄オフィスに、計算機のバグ報告とデータの不整合に関する不服申し立てを正式に行います。そうなれば、管理責任を問われるのは、ハリス先生。あなたの方ですが」
茜は、最後にカチリ、とキャンディを噛み砕いた。
脅しているわけではない。ただ、彼にとってこのやり取りは「非効率な計算の修正」に過ぎなかった。ハリスのような本物の「魔術師」の矜持や野心に比べれば、自分が行っているのはただの数字の整理(バグ取り)だ。そう本気で思っているからこそ、その言葉には一切の容赦がない。
「…………ッ。……分かった。私の見落としだったようだ。……行け。現代魔術科だろうがどこだろうが、好きにすればいい」
ハリスは忌々しげに書類に承認の魔力印を押し、茜の視界から逸らすようにそれを突き出した。
茜は無言でそれを受け取り、椅子から立ち上がった。
背後に注がれる、毒のような恨みの視線。だが、茜はそれを気にも留めない。自分のような背景を狙うような講師など、今後関わる価値すらないと、演算はすでに結論を出していた。
【日時】同日 13:00
【場所】時計塔・地下第4街区 魔術師用掲示板『引き潮(ロウトレイド)』
ミスティール事務局の湿った空気から逃れ、茜がやってきたのは、時計塔の深層に位置する地下街だった。
そこは、正規の学科の研究室とは一線を画す、魔術師たちの「生活」が剥き出しになった場所だ。非合法な触媒の取引、使い走りの依頼、そして、名の売れない魔術師たちが日銭を稼ぐための仕事が、壁一面の巨大な掲示板に貼り出されている。
茜は、人混みに溶け込むように《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》を微調整し、掲示板の前に立った。
学科の選択は終えたが、現代魔術科(ノリッジ)での生活には、新たな教材費や、実験用の触媒の購入費用がかかる。父からの仕送りを断っている茜にとって、資金調達は死活問題だった。
(……派手な依頼は要らない。高額報酬の護衛や、遺跡の調査は主役(天才)たちの仕事だ。僕は、誰もやりたがらないような、ゴミみたいな仕事がいい)
半眼の瞳で、無数の依頼書をスキャンしていく。
『双子塔の害虫駆除』、『古い霊脈の清掃』、『失踪した使い魔の捜索』。
どれも茜の「背景」としての平穏を乱す可能性があった。
その時、掲示板の隅、煤けて今にも剥がれそうな一枚の羊皮紙が、彼の目に留まった。
『依頼:初期代数式による古い魔導書のインデックス整理、および暗号解読。報酬:安価。備考:極めて退屈かつ膨大な作業量を伴う。数ヶ月放置中』
(……これだ)
茜の唇が、わずかに、本当にわずかに弧を描いた。
他の魔術師たちにとっては、貴重な研鑽の時間を奪うだけの「苦行」でしかない作業。だが、起源『解析』と《完全記録》、そして《思考加速》を持つ茜にとって、それは瞬きをする間に終わる単純作業(タスク)に過ぎない。
(作業量1万ページ。想定処理時間、通常魔術師で3年。……僕の演算なら、一晩で終わる。報酬が低いのは好都合だ。誰の目にも留まらないし、依頼主も僕の正体に興味を持たないだろう)
茜はその依頼書を無造作に剥ぎ取った。
自分の能力を「バグのような小細工」と蔑む彼にとって、この「退屈な作業」こそが、己にふさわしい労働であると感じていた。
彼は、周囲の喧騒を背に、再び暗い地下の路地へと歩き出した。
手元にあるのは、一晩で解体される予定の、数世紀分の沈黙を守ってきた魔導書の写し。
世界が彼の異常性に気づく前に、彼はさらなる深い背景へと沈んでいく。