【日時】2004年 2月某日 20:30
【場所】時計塔・貴族主義派専用ラウンジ『黄金の果実』
霧の夜、ロンドンの喧騒から隔絶されたラウンジには、最高級の茶葉の香りと、高位の魔術師たちが纏う洗練された神秘の気配が満ちていた。
重厚なマホガニーのテーブルを挟んで向かい合うのは、時計塔の次代を担う二人の「女王候補」――ライネス・エルメロイ・アーチゾルテと、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。
普段であれば、互いの派閥の利害を巡って優雅に化かし合う二人の間に、今夜は奇妙な「不快感」という名の共通項が漂っていた。
「――それでルヴィア。君も遭遇したというわけだね。『あれ』に」
ライネスはティーカップを置き、扇を閉じて不敵に微笑んだ。その瞳には、昼間の回廊での「悪寒」の記憶が、毒のように澱んでいる。
「……遭遇、という言葉を使うなら、そうですわね。サミュエル卿の店で、とんでもなく『無作法』な処理を目の当たりにしましたわ。神秘を、まるで使い古された数字の羅列のように扱う、あのような虚無……。エーデルフェルトの美学において、万死に値する無機質さでした」
ルヴィアは苛立ちを隠そうともせず、指先でトパーズを弄んだ。彼女の脳裏には、暗号を解体した瞬間の茜の、あの気怠げで「何もしていない」かのような立ち振る舞いが、消えない焦げ跡のように焼き付いている。
「面白いね。あのフラットが『違和感』を抱き、私の直感が『首を刎ねられた』と錯覚し、そして君が『美しくない』と吐き捨てる。……竜胆茜。ただの新世代にしては、少々ノイズが大きすぎるじゃないか」
「……ライネス。貴方、何か掴んでいまして?」
「いいや。私の眼で視ても、あいつの中身は空っぽだったよ。魔力も、血統も、誇りも……何もかもが欠落した、ただの『背景』。だがね、ルヴィア。……空っぽの器(バグ)だからこそ、何でも入る。あるいは、世界のすべてをその演算だけで飲み込んでしまうのかもしれない」
ライネスの言葉に、ルヴィアは沈黙した。
二人の天才が、一つの「無名」に対して抱いた、共通の恐怖。
それは、自分たちが積み上げてきた「魔術」という歴史そのものを、ただの「計算」で無効化されるかもしれないという、根源的な生存本能の拒絶だった。
「……あんな男、二度と私の視界に入らなければよろしいのですわ。……明日からは、現代魔術科の教室へ行くのでしょう? せいぜい、その空っぽな頭で、現代魔術の掃き溜めに馴染むことですわね」
ルヴィアは冷たく言い放ち、席を立った。
だが、その背中を見送るライネスの口角は、愉悦に歪んでいた。
「くくっ……。無理だよ、ルヴィア。あんなバグ、一度視界に入ってしまったら、もう二度と『背景』には戻せない」
【日時】2004年 2月某日 09:00
【場所】時計塔・第12部門:現代魔術科(ノリッジ) エルメロイ教室・大講義室
翌朝。茜は、全体基礎(ミスティール)からの選科を終え、初めて現代魔術科の教室へと足を踏み入れた。
広々とした階段教室には、すでに多くの生徒が集まっている。エルメロイ教室らしく、その面々は多種多様だ。伝統を重んじる貴族の端くれから、怪しげな機械を弄ぶ新世代まで。その騒がしさは、茜が求めていた「静かな背景」とは程遠いものだった。
(……うるさいな。計算の邪魔だ)
茜はポケットに手を突っ込み、新しいソーダ味のキャンディを口に含んだ。
彼は《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》の出力を微調整し、自分の存在感を「空気中に漂う埃」と同等まで薄める。
そのまま、教室の最奥。一番後ろの窓際の席。そこが、彼にとっての聖域(セーフティ・ゾーン)だった。
(よし。ここなら、誰の目にも留まらない。ロード・エルメロイⅡ世の講義を聞き流し、一晩で終わらせたあの暗号解読の報酬を確認する。……それが、僕の今日という一日の『最適解』だ)
茜は窓の外のどんよりとした空を眺め、半眼でぼんやりと思考を停止させようとした。
だが、その平穏は、コンマ2秒で破られた。
「――わああっ! やっぱりいた! 竜胆さん! 竜胆さんじゃないですか! おはようございます!」
背後から、鼓膜を物理的に揺らすような大声。
茜が振り返るより早く、金髪の少年が机を飛び越えて隣の席へと滑り込んできた。
フラット・エスカルドス。茜が最も警戒していた「直感の怪物」だ。
「……おはよう、フラット君。声が大きい。計算が狂う」
「えっ、何の計算ですか!? あ、それより聞いてくださいよ! 昨日、ソーホーのあたりを歩いてたら、突然ものすごい音がしたんです! 物理的な音じゃなくて、こう……空間全体が『キュイィィィン!』って鳴るような、脳みそが沸騰して蒸発しちゃうみたいな、超高速の演算音!」
フラットは身を乗り出し、茜の顔を覗き込んだ。
その瞳は、純粋な好奇心で爛々と輝いている。
「その音の主、竜胆さんですよね!? オレ、すぐ分かりました! あのチカチカする魔力波形が、一瞬だけ真っ白に燃え上がるみたいに激しく動いてたんですから!!」
(……計算ミスだ。フラットの『直感』という変数を、甘く見積もりすぎていた。ソーホーでの解析時、L4の外部演算を外部に寄生させた際のノイズを、彼にキャッチされた……!)
茜の脳内では、瞬時に言い訳のルートが数千通り弾き出されたが、どれもこの少年の「確信」を覆すには至らないと結論づけられた。
茜は、呆れたようにキャンディの棒を転がした。
「……空耳だよ、フラット君。僕はただ、古本屋で暇を潰していただけだ。君の見ている世界は、いつも少し彩度(ノイズ)が高すぎるんじゃないか?」
「ええー! またまた隠しちゃって! 先生も言ってたんですよ、『あの生徒は自分の影に足を掬われないように必死に隠れているだけだ』って! ね、ね、昨日の音、また聞かせてくださいよ!」
「……断る。僕は、寝る。静かにしてくれ」
茜は机に突っ伏し、腕の中に顔を埋めた。
周囲の生徒たちが、「なんだ、あの新顔は」と、ヒソヒソと視線を投げかけてくる。
それは、茜が最も嫌悪し、回避したかった「注目」という名の不純物だった。
(……現代魔術科。エルメロイ教室。……ここなら影に隠れられると思ったのに。……計算が、根本から狂い始めている……)
腕の中で、茜は静かにため息をついた。
彼の望む「背景」としての平穏は、どうやらこの騒がしい教室の扉を開けた瞬間に、永遠に失われてしまったようだった。