【日時】2004年 2月某日 09:15
【場所】時計塔・第12部門:現代魔術科(ノリッジ) エルメロイ教室・大講義室
「ねえねえ竜胆さん! そのキャンディ何味ですか!? オレも昨日同じようなの買ったんですけど、オレのはなんか爆発する味がして……って、聞いてます!?」
隣の席から機関銃のように放たれるフラット・エスカルドスの言葉は、物理的な振動を伴って竜胆茜の鼓膜を執拗に叩き続けていた。
彼の無邪気で純粋な好奇心は、隠蔽や静寂を好む茜にとって、世界で最も相性の悪い「ノイズ」である。
(……うるさい。情報のエントロピーが高すぎる。このままじゃ、僕の平穏なモブとしての1日が、開始15分で崩壊してしまう)
机に突っ伏したまま、茜は半眼の奥で静かに演算を回した。
相手は、息をするように魔術の常識を破壊する天然の怪物だ。言葉で制止したところで、火に油を注ぐ結果になるのは目に見えている。ならば、物理的な遮断(ハッキング)を行うしかない。
「……L2戦闘・事象制御層、展開。《関係性抽象式(リレーション・アブストラクト)》による五大元素の部分抽出。風(気圧)属性の流動」
茜は、腕に埋めた顔の奥で、誰にも聞こえないほどの極小の呟きを落とした。
彼の体内に構築された疑似魔術基盤が、一切の詠唱も魔力の発光も伴わずに稼働する。
彼が行ったのは、自身の頭部を中心とした半径30センチの空間の「気圧差」と「空気密度」の意図的な操作だ。フラットの口から放たれる音声波形を瞬時に《構造解析》し、それと完全に逆位相となる空気振動(アンチノイズ)を常時発生させる。
現代の科学技術でいうところの「アクティブ・ノイズキャンセリング」を、魔力消費ほぼゼロの気圧操作《バロメトリック・シフト》によって局所展開したのだ。
「――……、………!」
不意に、フラットの声が、パツン、と電源を切られたように消失した。
いや、フラットの口は動いているし、身振り手振りも激しいままだ。しかし、茜の耳に届く直前で、すべての音声が相殺され、完全な『無音の真空地帯』が形成されていた。
(……ああ、快適だ。素晴らしい静寂。これなら、講義が終わるまでゆっくりと眠れる……)
キャンディをゆっくりと口の中で転がし、茜は深く息を吐き出した。
魔術という神秘を、ただの「耳栓」代わりに使用する。本物の魔術師が知れば卒倒しそうなほどの冒涜的かつ無機質な効率化だが、茜本人は「この程度のバグ技、ただの小賢しい手品だ」と本気で思っているため、そこに罪悪感は欠片もない。
平穏が訪れた。そう確信し、意識を手放そうとした、その時だった。
「……グルゥゥゥッ……」
無音の結界を展開しているはずの茜の脳に、直接響くような、低く、重い『獣の唸り声』が振動として伝わってきた。
(……何だ? 音じゃない。大気の震えそのものが、僕の結界を貫通してきた……?)
茜が僅かに顔を上げると、教室の後方ドアから、一人の少年が足音もなく入ってくるところだった。
金髪に、鋭い犬歯。常に不機嫌そうに歪められた顔。
スヴィン・グラシュエート。獣性魔術の極致を体現し、エルメロイ教室における双璧としてフラットと並び称される「獣」の天才。
スヴィンは、教室に入るなり鼻をヒクつかせ、あからさまに顔をしかめた。
「……おいフラット。お前の馬鹿みたいな魔力漏れは相変わらずだが……今日はそれ以上に、酷く『鼻につく』匂いがするぞ」
「えっ、スヴィンくん! おはよー! 匂いって何のこと? オレ、今日は朝シャンしてきたんだけど!」
「お前のシャンプーの話なんかしてない。……血の通っていない、機械の油と……焼けた鉄みたいな匂いだ。それに……なんだ、この『熱』は」
スヴィンは、野獣のように低い姿勢のまま、フラットの隣――すなわち、茜の席へとゆっくり歩み寄ってきた。
その輝く獣の瞳が、机に突っ伏している茜を真っ直ぐに射抜いている。
(……参ったな。視覚と聴覚のノイズは完璧に処理したつもりだったが、『嗅覚』と『温度』の隠蔽が甘かったか)
茜の脳内L4レイヤーが、瞬時に現状を解析する。
スヴィンの嗅覚は、魔術的な気配のみならず、人間の情動や、生命の熱量すらも「匂い」として感知する。
茜は《可変存在解像度》で存在感を薄めていたが、彼の肉体は《身体最適化》によって常に最適な状態を維持するため、基礎代謝(熱量)が異常に高い。まるでアイドリング状態の高性能エンジンのように、静かに、しかし暴力的な熱を内包している。
さらに、茜には「恐怖」や「焦り」といった人間らしい感情の揺らぎが極端に少ない。スヴィンの獣の嗅覚にとって、それは「生き物ではない、得体の知れない無機質な鉄の塊」が、異常な熱を発しながら教室の隅に座っているように感じられたのだ。
「……おい、新顔。お前、人間か? どうして、生き物の匂いがしない。それに、その薄気味悪い熱……まるで、腹の中に爆弾でも飼ってるみたいだぞ」
スヴィンが、威嚇するように茜の机に手をついた。
その指先には、獣の爪が僅かに具現化している。彼の本能が、茜という「空っぽの特異点」に対して、強烈な警戒信号を発していた。
「…………」
茜は音響キャンセラーを静かに解除し、半眼でスヴィンを見上げた。
そこに怯えはない。ただ、どうすればこの「獣」の敵対判定を解除し、平穏な背景に戻れるかという計算だけが、冷徹に回っている。
「……竜胆、茜です。ただの冷え性で、代謝を上げるために少し厚着をしているだけなんですが。……匂いが気になったなら、すみません」
極めて平坦に、感情の起伏を一切見せずに答える茜。
スヴィンは目を細め、さらに低く唸り声を上げようとした。
だが、それを遮るように、教室の正面ドアが乱暴に開け放たれた。
「――そこまでだ、馬鹿ども。朝から私の胃壁を削ろうと努力するのはやめたまえ」
黒いコートを翻し、不機嫌の煮凝りのような顔をした男が教壇に立つ。
ロード・エルメロイⅡ世。
その登場により、教室内の空気が一瞬で引き締まる。スヴィンは「チッ」と舌打ちをして茜から離れ、自分の席へと戻っていった。
(……助かった。本物の魔術師や才能ある獣たちに関わると、本当に疲れる。……やっぱり、僕はただの計算機だ。彼らとは住む世界が違う)
茜は深くため息をつき、再び机に突っ伏した。
そのまま、エルメロイⅡ世の高度な魔術講義を、脳内のバックグラウンド処理で完全に記録しながら、意識の表面だけを眠りへと落としていった。
【日時】同日 12:00
【場所】時計塔・エルメロイⅡ世の執務室
講義終了後。
「竜胆。少し残れ」という短い言葉によって、茜はエルメロイⅡ世の私室へと呼び出されていた。
壁一面を埋め尽くす書物と、安物の葉巻の匂い。そして、胃薬の瓶が転がる乱雑なデスク。
エルメロイⅡ世は革張りの椅子に深く腰掛け、眉間を揉み解しながら、一枚の羊皮紙を茜の前に放り投げた。
「……ミスティール(全体基礎科)の事務局から、私宛てに奇妙な連絡が来ていてね。……『ノリッジへ移籍した竜胆茜は、時計塔のシステムを脅迫材料に使う、極めて危険で生意気な生徒である。取り扱いには重々注意されたし』……とね。送り主は、ハリスという講師だ」
エルメロイⅡ世は、鋭い眼光で茜を射抜いた。
「ハリスといえば、あのミスティールにおいて実務を牛耳る派閥の一人だ。あの手の官僚的な魔術師は、生徒の粗探しをするのが常だが……君、彼に何をした?」
茜は、放り投げられた羊皮紙を半眼で見下ろした。
そこに書かれているのは、屈辱に塗れたハリスの怨嗟の声だろう。
「……何もしていません。ただ、彼が提示した僕の成績の不備が、ミスティール側の古い演算器の同期エラーによるものだと、数学的に証明しただけです。……彼がそれを認めないようだったので、バグ報告をロードの直轄オフィスに提出すると提案したら、すんなりと手続きを通してもらえました」
「…………」
エルメロイⅡ世は、葉巻をくわえたまま、ポカンと口を半開きにして固まった。
やがて、深く、ひどく疲労したようなため息を吐き出す。
「……君ね。それは『脅迫』と言うんだ。ミスティールの事務局システムのエラーを、よりにもよって民主主義派のトップであるマグダネル卿に直訴するだなんて。ハリスの首が物理的に飛んでもおかしくない暴挙だぞ」
「暴挙、ですか? 僕はただ、計算の矛盾を最適化し、手続きの遅延というバグを取り除いただけですが。効率的なデバッグ作業です。魔術師の誇りや政治なんて、僕みたいな凡人には関係ありませんから」
茜は平坦な声で、本心からそう答えた。
自分はただのバグ取りをしただけだ。彼のような本物の魔術師の政治闘争に踏み込むつもりはない、と。
エルメロイⅡ世は、頭を抱えた。
目の前の少年は、自分の能力の異常性も、時計塔の政治的力学も、すべてを「計算」という無機質なフィルターを通してしか見ていない。だからこそ、一切の躊躇なく、権力者の急所を正確に蹴り上げることができるのだ。
「……君という人間が、少し分かってきたよ。君は意図的に隠れているんじゃない。自分の持つ『世界を解体するほどの異常性』を、本気で大したことがないと思い込んでいるんだな。だから、平気で本物の魔術師の神経を逆撫でする」
エルメロイⅡ世は葉巻に火をつけ、紫煙を吐き出した。
「いいだろう。ハリスからのクレームは、私が適当に握り潰しておく。君は今日から、このエルメロイ教室の生徒だ。……だが、忠告しておくぞ。君のその『計算』は、いずれ必ず、時計塔の深淵の逆鱗に触れる。その時、君がただの『背景』でいられるかどうか……私は、少し楽しみにしているよ」
「……お気遣い、ありがとうございます。ですが、僕はただのモブです。期待されても、困ります」
茜は淡々と一礼し、執務室を後にした。
彼が望むのは平穏。しかし、フラットの好奇心、スヴィンの嗅覚、ハリスの怨恨、そしてエルメロイⅡ世の庇護。
彼の周囲の因果は、彼をただの背景にとどめておくことを、すでに許容しなくなっていた。