花は手折られた   作:良哉

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三、申します。申します。

 

 

一九〇六年。

 

 

 

「時に尾形上等兵。春日井 誉さんとの面識はあるかね?」

 

 

 

 

夜風がまだ生ぬるい、晩夏の夜半の事だった。黒い毛並みの馬に、引かれる車内からは微かに血の匂いと、硝煙の匂いが広がっていた。

硝煙を纏う男、尾形は半刻前に第七師団団長である実の父を前に、命のロウソクをかき消した後だった。

 

実の父親を手にかけるという、精神に異常をきたしているのではないかと思われることでも、彼は至って静かに馬車に揺られるだけだった。

ただ思ったような結果を得られなかったのか、夜であるのに外を眺めるように車窓から遠くを見つめている。

淀む瞳が暗闇に溶けるようでありながら、どの色よりも深い闇の瞳は、隣に座る直属の上司…元より、全てを提案してきた男にかけられた言葉で反対側へと向けられる。

 

春日井 誉。聞いた名だと思い当たり、ふと二年前の二〇三高地での一枚の写真を尾形は思い出した。

 

しかし思い出したところで、この隣の男の口ぶりから面倒事だと感じた尾形は、「いえ」と否定の言葉を口にし、鶴見への目線を今度は前へと向けた。尾形は何も無い真正面の車内の壁を、読み取れぬ感情のまま一点を見つめ出した。

 

 

あの写真の女は、勇作を追いかけて北海道まで来たんだったか…?

 

 

以前微塵も興味のない手紙を読まされたことを思い出しながら、未亡人となった女を思い出す。

 

いや、祝儀前だったはずだ。

 

 

どちらにしろ、女が行き遅れのご令嬢になったことに思い当たり、けれどさしてなんの感情も湧くことはなかった。

しかし、何故か鶴見は今更彼女の名前を口にして、自分に聞かせたのだろうかと疑問に思う。

 

 

 

「春日井なら私のような、下っ端兵士ではなくそれこそ鶴見中尉のような立場の方が顔を合わせる機会が多いのでは?」

「私はまだまだ中間管理職のような立場だ!しかし、この脳みそを吹き飛ばした後に帰還し、真っ先に治療に飛んできたのが春日井家ご当主の是信 (コレノブ)氏でね。いやー、私の脳みそも額も全て包み隠さず見られてしまった!!」

 

 

当時の痛みを思い出したのか、鶴見はやれやれというように左手を額へ抑える。しかしどこか興奮気味に右手は宙で拳を握りしめていた。

 

 

「まぁ、彼は今本家のある東京で、軍医学校への力を入れているらしい。残念ながら私との繋がりもない!では何故ご息女である名を出したのか。

 

尾形上等兵、質問を変えよう。彼女の名前を聞いたことは?」

 

 

 

質問する顔には、ありありと答えがわかっているぞ、と文字が浮かぶようであった。

彼には分かりきっているのだ。

あの慕う姿から、勇作が兄である尾形に話さないはずがないのだと、確信を得ている顔だ。

 

 

尾形はしばらく黙り込み、確信がある彼に否定するのは無理だと判断して口を開いた。

 

「何故今になって勇作殿の結婚相手の名が出てくるのです?」

「やはり勇作少尉は尾形に相談していたか。伴侶となる女性を語り合うとは、実に仲睦まじい兄弟愛だ。」

「ただの雑談程度ですよ。」

 

 

鶴見は両手を合わせ、素晴らしいとでも言うように軽く拍手を鳴らした。しかしあくまで、知られてはいけない父親の暗殺後である。声も音も控えめに、夜中といえど人目は気にしなければならない。

 

 

「尾形は甘いものはいける口だったかな?私は甘味に目がなくてね、先日も福見屋の大福の虜になってしまった!ご婦人たちと少々話に花も咲かせてしまってね。」

 

 

鶴見はうっとりと大福の味を思い出しているのか、目を瞑り語り出す。その姿を尾形は目の端に捉えながら、正面を向き確信に触れる話が出るまで黙って聞くことにした。

鶴見という男は、前置きが長いようでいて全て必要な前置きなのだという話し方をよくする。飛躍しすぎなものから的を得ているものまで、一言一句気が抜けぬのだ。

 

 

「ご婦人の一人が、奉公先での愚痴をこぼしていてね。なんでも、ご両親に離縁当然の結婚を約束され、終いには日露戦争で祝言前の婚約者を亡くしてしまったそうだ。当然両親は我関せずで、家督を継がせる男児を養子として既に迎え入れてしまっている。労しい奥方は、行くあてもなく北海道の豪邸で日々書物に埋もれて過ごしているらしい。我々の戦いの最中、悲しき恋の詩だ尾形。」

 

 

鶴見が情緒的に語り出す内容に、甘味屋で出会ったという女中の心中を考える。大きな家柄に奉公し、見返りを少なからず求めていただろう女が、実家から離縁当然の女に使えるなど不満が溜まっていたのだろう。

甘味を食べに来たとはいえ、軍人に愚痴をこぼしてしまうほどだ、と尾形は考えた。

しかし、この男を前に女がお喋りになってしまうのはよくある事だった。

 

いわゆるたらしなのだ。

 

 

「まぁ悲しき恋の話は置いておこう。もっと興味深い話がある。

 

 

 

なんでも彼女は、今まで読んできた本を全て頭の中に記憶しているそうだ。」

 

「…はっ、有り得ませんなそれは。人知を超えている。」

 

 

 

「あぁ、そうだとも。だが私は一度だけ春日井家ご息女を見かけたことがあってね。あまりの浮世離れした美しさは、人知の及ばぬ存在かと考えたことがある。」

 

 

 

過大評価ではないだろうか、それとも、自分に何か興味を惹かせたい理由があるのだろうかと尾形は目線だけを向けていたのを今度は、顔も鶴見に向けてみる。

その行動が興味を惹いたと捉えたのか、鶴見は嬉しそうに笑みを浮かべた。

 

 

ここでふと、自分が有り得ない、と否定した先程の鶴見の発言を思い出す。

 

『全て頭の中に記憶している』

 

 

あぁ、なるほど。

 

 

尾形は一人納得した。

春日井 誉の"コレ"が事実であれば、これから成そうとしていること全てが自分達、つまり鶴見が率いるある企てに有利に働くということだ。

 

人に彫られた、宝の在処。

 

見て覚えてしまうのであれば、こんなに簡単な道具はないと、彼は考えたのだと思い至る。

 

 

つられて尾形も同じく笑を零す。

もし女の話が事実なら、この争奪戦での必勝は女の存在によるのでは無いかと。

 

しかし本当の笑みの理由は、別にあった。

裏切られるとは知らずに、自分にこの情報を漏らした鶴見に対するものだ。

 

 

 

 

視界に入ったもの全てをたらしこめるとお思いなのでしょう、鶴見中尉殿。宛が外れましたな。

 

 

 

 

これは尾形百之助の宣戦布告とも取れる出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道の朝は早い。

冷たい空気に、起きてくる家族を暖かく迎えるために女は早くに竈へ立つ。母親の抜けた冷たい布団に子供は目を覚まし、父親は早くから出稼ぎに街へ赴く。

 

 

 

 

自分もそうなる、と思いこの地に越してきた日のことを思い出す。

しかし予想は大きく外れ、私は未だに家族の一人も想うことはない。

 

 

 

 

夫となる男が戦死し、私の役目は何一つ残されず役たたず、と訴えるように本家に養子が迎えられたと報せが届いてから、既に一年以上が経過していた。

親元から見切りをつけられた私は、一人腫れ物を扱うような目と怪訝なものを遠ざけようとする目に晒されながら日々生きていた。

 

 

「…つまらんなぁ」

 

 

今日何度目かの不満を零してみる。誰も咎めるものはいない。

私に皆声をかけるものはいないからだ。

 

唯一咎められるとしたら、外に出ようとする時だ。

 

 

私が自分の特性に気づいたのは、実家の書物を全て読み終えた十四の頃だった。あらかた読み終えたそれらを、手持ち無沙汰にもう一度読み返すしか暇つぶしの方法がないと思い、どれから読もうかとした時、ふと脳裏にお気に入りの本の特に好きな場面が、文字と一緒にご丁寧に本棚の位置まで思い浮かんだ。

 

 

 

でも、私は特に驚きはしなかった。これだけの暇な人生、読書に費やせばそんなこともあるかもしれないと簡単に受け入れた。

そんな時、記憶に無い本が一冊増えていることに気がついた。

 

 

書物があるなら読むのが道理。

手に取り開いて、初めて興奮を覚えた。

 

 

 

 

あれは、父が治療する時に優先順位をつけている裏帳簿だった。

いくらでどこを治したのか、次に来院した時に更に巻き上げられるようにと、薬の量を完治するまでは至らない配分で調合したりなど、何故こんな所に置いておくのだと私が怒り出してしまいたくなる、重要な内容ばかりだった。

 

世間に出回れば、確実に我が春日井家は終わるだろう。

 

 

「私は離縁されてるから関係ないかもしれないな。」

 

 

 

父は私があの裏帳簿を今現在持っていることに気づいただろうか。

あんな所に置いたくらいだ、きっと何冊かあるうちの一冊だったに違いない。

 

 

 

 

家を出る時、書物は一冊だけしか許してもらうことはできなかった。

好きな一節、心踊った話、頭を捻った記述、全てが私の時間だったが、どれか一冊と言われてこっそり手にしたのは父のこの帳簿だった。

 

 

 

 

なにか事が起きて欲しいのだろうか。

 

 

 

 

私は毎日同じ献立の食事をし、同じ時間に起こされ、同じ時間に眠る。

同じ着物に袖を通し、同じ長さで常に切りそろえた髪を結わえる。

 

 

頭が痛くて仕方がなかった。

 

 

 

父も母も恐れたのだ、私の賢さに。全て記憶できるこの頭は、きっと化け物なのだと母が零したのを覚えている。

 

 

だから、後付けのように私の周りには同じもの、同じことで埋めようとする。覚えるのではなく、毎日そうであるからと、私を縛る。

 

父の自慢の偽物の庭はここには無い。

真っ白の雪が、降り積もる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪原に、自分が初めて足跡を付けるのはどんな気分だろうか。

 

 

 

 

 

雪に埋もれ、かじかむ手足にいっそちぎれてしまえと思う心地は、さぞ生きているのだと実感できるだろう。

 

 

 

あと何十年、このまま閉じ込められたように生きるのだろう。

 

 

 

 

外が見たい。変わりゆく季節に、目を瞬かせたい。かじかむ手に、春のしらせを乗せてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

真っ白な雪に、自分の血潮を塗り大地へかえりたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

私の役目とはなんだろうか。

 

 

外へ出たらどうなるだろうか。いっそ家を燃やしてしまおうか。

 

 

 

出ようと思えば、きっと出られるのだ。

この家には、私に怯える者たちばかりだ。私が出なければならない理由を用意すれば、彼らは静かに身支度を整えるだろう。

 

 

 

畳の上に寝転がり、天井の木目を目で追っていく。指先で畳の網目をなぞり、両手を上げてみる。

 

 

 

「カント オㇿワ ヤク サㇰ ノ アランケㇷ゚ シネㇷ゚ カ イサㇺ」

 

 

 

 

 

 

天から役目なしに降ろされた物はひとつもない、か。

 

とある男の手記に載っていた一節だ。旅の途中でアイヌに会った話を短く残している話だった。

 

 

 

 

「よし!!私の役目を探しに行こう!!」

 

 

 

 

 

 

転がしていた自分の体を勢いよく起こし、私は襖を開けて遠く離れた近づかぬ女中へ声を張る。

 

 

 

 

 

 

「筆と紙をこちらに!」

 

 

 

 

 

 

 

まだまだ白く凍える北の大地に、美しい漆黒の髪をなびかせる女の足跡が着くのは、ここから一ヶ月後。

 

 

知らずのうちに、彼女は刺青争奪戦へと惹きよせられていく。

彼女はそれさえも、きっと書物を捲るように目を輝かせてしまうのだろう。

 

 

 

 

 

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