The Hypocrite's Archive 作:Xelphyr
誤字脱字報告も同じく励みになります
合宿場、宿泊部屋。
シャワーを終えた補習授業部の四人と、レイナ、ミヅホは、それぞれの服に着替え終えた様子で室内に集まっていた。煤と埃を洗い流し、幾分か落ち着きを取り戻した顔ぶれではあったが、その表情にはまだ疲労の色が濃く残っている。
「ふぅ……何とか、人心地つきました」ヒフミ
「うん」アズサ
「まだ、あの爆発の音が耳に残っている気がします……」ヒフミ
「気のせいじゃない、多分暫くは続く」アズサ
アズサの淡々とした返答に、ヒフミは苦笑いを浮かべるしかなかった。皆、心のどこかで昂った神経が、まだ落ち着き切れていないのだろう。
教科書とノートを広げ直し、最終試験に向けての勉強を再開しようとする一同。しかし、その手はどこか鈍く、集中しきれない様子だった。無理もない──今日一日で、あまりにも多くの事が起こり過ぎていた。
「……何だか、外がうるさいですね」ハナコ
「え……?」ヒフミ
ヒフミはペンを止め、耳を澄ませる。夜更けの静けさの中に、確かに何かが混じっていた。
窓の外に耳を澄ませば、確かに──トリニティの校舎方面から、微かに人の声が届いていた。この合宿場は本校舎から距離があり、本来ならばこれほど鮮明に聞こえる筈がない。
「気のせい、じゃないですよね……」コハル
コハルは席を立ち、窓辺へと歩み寄る。夜のカーテン越しに見える外の景色は、いつも通りの暗闇。だが、その闇の向こうから届く声は──威勢の良い喧騒というよりも、もっと剣呑な、怒りに満ちた罵声の様に聞こえた。カーテンに手を掛けたまま、コハルは暫くの間動けずにいた。
「……何だろう、これ」コハル
じっと窓の外を見つめるコハルの背中に、皆の視線が集まる。誰も、その音の正体を言い当てられずにいた。教科書のページを捲る音すら、今は憚られる様な、そんな空気が部屋に満ちていた。
「あ、あの……皆さん」レイナ
その時だった。レイナが端末を握り締めたまま、震えた声を上げる。
「レイナさん、どうしました?」ヒフミ
「その、先生も居ないし……何をどう進めれば良いか分からなくて、ちょっと息抜きに……モモッター見てたんですけど……」レイナ
「モモッター、ですか?」ハナコ
「はい……そしたら──これ」レイナ
差し出された端末の画面。そこに映し出されていた光景に、覗き込んだ皆は思わず言葉を失った。手にした端末が、僅かに震えていた。
「な、なによこれ……」コハル
街頭で殴り合う生徒同士の映像。真偽不明の告発情報、飛び交う罵詈雑言のコメント欄。パテル学派とフィリウス学派、それぞれのアカウントが互いを罵り合い、拡散されていく怒りの渦。画面をスクロールする度に、荒れ果てたトリニティの光景が、次々と目に飛び込んで来る。見慣れた通学路が、見知らぬ生徒達の怒声で埋め尽くされていた。
「こ、これ……本当に、トリニティですか……?」ヒフミ
「……信じたくありませんが、そのようです」ミヅホ
ミヅホの声には、僅かながら硬さが滲んでいた。彼女自身、この状況の一端に関わっているという自覚が、無意識に声色へと表れていたのかもしれない。俯いたその顔からは、感情を読み取る事は出来なかった。
「な、何でこんな事に……!私達が合宿している間に、一体何が……」コハル
誰もが、画面に映る光景と現実の隔たりに戸惑いを隠せなかった。ほんの数日前まで、平穏だった筈のトリニティが、まるで別の学園であるかの様に荒れ果てている。
「……先生の事といい、この騒動といい、何かが、裏で確実に動いています」ハナコ
「トリニティ全体で、ですか……」ヒフミ
「はい、私達の預かり知らぬところで──何か、大きな渦が」ハナコ
「わ、私達に、何か出来る事はないんでしょうか……」ヒフミ
「今は……試験に集中する事、それが精一杯かもしれません」ハナコ
力なく答えるハナコの声に、皆は反論する事も出来なかった。無力感だけが、静かに部屋を満たしていく。窓の外で燃え広がる混乱を前に、自分達に出来る事があまりにも少ない──その事実だけが、重く胸にのしかかっていた。
その言葉に、部屋の空気が一層重くなる。誰も口を開けないまま、時間だけが過ぎていった。窓の外の喧騒だけが、途切れる事なく続いている。
深夜、皆がそれぞれの寝床に就く中、ミヅホはひとり静かに、割れた眼鏡を手に取っていた。既に予備の眼鏡へと掛け替えた後だったが、片方のレンズが割れたそれを、何故か手放す事が出来ずにいる。合宿場には規則正しい寝息だけが、静かに響いていた。
「……」ミヅホ
薄暗い部屋の中、月明かりを頼りにその眼鏡を眺めるミヅホ。指先が、ふとブリッジの部分──レンズとレンズを繋ぐ小さな部品に触れた。
「(──何か、違和感が)」ミヅホ
感触が、僅かにおかしい。普段使い慣れているものだからこそ、その微細な差異に気付けた。ミヅホは眼鏡を目の前に翳し、月光に当てながら丹念にブリッジ部分を確認する。指先の感覚だけを頼りに、慎重に、慎重に。
「……ッ」ミヅホ
息を呑む音すら、誰にも聞かれてはならない。ミヅホは咄嗟に口元を押さえた。
そこに──小さな、レンズの様な光沢を放つ何かが、埋め込まれていた。
髪の毛程の細さの配線、それに繋がる極小のレンズ。専門知識のない者であれば決して気づかないであろう、精巧な仕掛け。情報局仕込みの観察眼がなければ、彼女自身も見逃していたかもしれない。これを作り、仕込んだ人物の技術力を思うと、背筋が凍る様な思いがした。
「(──カメラ)」ミヅホ
ミヅホは息を潜め、周囲を素早く確認する。規則正しい寝息が寝室から聞こえてくる。誰も、彼女のこの発見に気付いてはいない。そしてカメラを床に落とすと、スリッパで踏みつける。乾いた小さな音が、静寂の中に短く響いた。
「(いつから……いや、それよりも──誰が)」ミヅホ
思考が、目まぐるしく巡る。この眼鏡を受け取ったのはいつだったか、誰の手を経てここに至ったのか──記憶を辿るが、決定的な手掛かりは掴めない。
自らはOMNISの一員、そしてティーパーティー、ナギサの忠臣。裏切り者を探すナギサの動向を、密かに隆一へと伝え続けてきた存在だ。その自分自身が──利用されていたとすれば。背筋を、冷たいものが這い上がる。
「(私は、ナギサさんに疑われている……?それとも、単に利用されている……?)」ミヅホ
どちらであるにせよ、この発見は無視できない。もし、ここまでの通信、あるいは自身の動向の一切が、既に何者かの手に渡っているのだとしたら──これまで積み重ねてきた全てが、根底から覆されかねない。長年築き上げてきた信頼、危険を冒して届け続けた情報、その全てが、最初から筒抜けだったという可能性すらある。
「(急ぎ、閣下にお伝えせねば)」ミヅホ
だが、どうやって伝える。この場に、安全な通信手段は残されているのか。幽閉されている彼にそもそもどうやって伝えるか、今夜見つけたこの仕掛けが、既に他の連絡経路にまで及んでいる可能性も、決して否定は出来なかった。
ミヅホは静かに、割れた眼鏡をハンカチの中に包み込んだ。この一件が意味するもの──それがまだ、彼女自身にも正確には掴めていない。だが、確かなのは一つだけ。
「(誰かが、この補習授業部を──見張っている)」ミヅホ
夜の静寂の中、ミヅホはひとり、その事実を胸に刻み込んだ。窓の外では、依然として遠い喧騒が途切れる事なく続いている。まるでこの部屋の静けさだけが、嵐の中の小さな孤島であるかの様だった。
誰にも悟られぬまま、彼女はハンカチに包んだ眼鏡をそっと懐へと仕舞い込んだ。この事実を誰に、どこまで伝えるべきか──その判断もまた、彼女自身に委ねられていた。