The Hypocrite's Archive 作:Xelphyr
「セイアちゃんはね、入院中なんかじゃない、ヘイローをね、壊されたの」ミカ
「………」隆一
「冗談なんかじゃないよ、これは、本当の事」ミカ
二人揃ってプールサイドに腰掛け、足を水に浸す。人気のない放課後のプール、水面に反射する橙色の光だけが、二人の影を静かに揺らしていた。普段の軽い口調とは裏腹に、ミカの横顔には珍しく、真剣な色が滲んでいる。
ミカは淡々と語った。去年、何者かの手によってセイアは唐突に襲撃され、対外的には入院中とされているが、それは表向きの話に過ぎない。この事実を知るのは、ティーパーティーでも一握りの人間だけだという。
「……犯人は?」隆一
「分かっていない、捜査中というか、そもそも何も分かっていないと言うか……元々、秘密の多い子だったから。一応、目星が全くない訳じゃないけれど、今の段階で憶測を口にするのもね……」ミカ
隆一は言葉を挟まず、ただ静かにその話の続きを待った。水面に映る空の色が、僅かに濃さを増していく。
ミカは一度言葉を切り、それから本題に踏み込む様に姿勢を正した。
「それで、先生──これだけなら、別にあんな言葉を口にする必要なんてなかったし、態々補習授業部の裏切者を教える必要もなかった。」ミカ
「本題は、これからって事かな」隆一
「うん。白洲アズサ──あの子をこの学園に転校させたのは、私なの」ミカ
「……成程ね」隆一
ミカは、ナギサに内緒で生徒名簿や書類を捏造し、アズサを入学させたのだと打ち明けた。神経質で常に気を張っているナギサには、到底頼めなかったのだという。
「あれ?何でって、聞かないの先生?」ミカ
「ミカは、ナギサとは違う方法で和平の道を探っている……そう思ったんだけれど、違ったかな?」隆一
「うん、まぁ、そんな感じ……かな」ミカ
ミカの語る所によれば、アリウス分校は今もなお、トリニティに強い憎しみを抱いているという。キヴォトスの三大列強校として繁栄を享受する自分達とは対照的に、彼女達は劣悪な境遇の中に置かれ、差し伸べられた手も、連邦生徒会からの助けも、過去の憎悪ゆえに拒み続けている──と。隆一は口を挟む事なく、ただ静かに耳を傾けていた。
「──私は、アリウスと和解したい」ミカ
ミカの声には、普段の飄々とした調子とは違う、確かな熱が籠っていた。
「でも、彼女達の抱く憎しみは簡単に拭えない程大きくて……私ひとりの手では、負えない位に」ミカ
「……持つ者故の傲慢、そう取られてもおかしくはないかもしれない」隆一
「うん、多分、アリウスからはそう見えるんだろうね……でも、それでも私は、諦めたくない」ミカ
その声には、諦観と、それでも尚捨て切れない希望が、同時に滲んでいた。隆一はしばし黙り込み、ミカの表情を確かめる様にその横顔を見つめた。
ミカの提案には、ナギサもセイアも政治的な理由から反対していたのだと言う。ティーパーティーの生徒会長のうち一人とは言えど、一個人の思想の為に学校全体を危険に晒す訳にはいかない──それも、理解出来ない話ではなかった。
「前みたいにお茶会でもしながら談笑して、机を並べて勉強する──そんな当たり前の学校生活を一緒に送るのは、無理なのかな?」ミカ
「……いいや、そんな事はないよ」隆一
「──先生なら、そう言ってくれると思った」ミカ
その言葉を口にした瞬間、ミカの表情から強張りが抜け、いつもの柔らかな笑みが戻った。
ミカは、白洲アズサという存在に、憎しみを越えて共に学び笑い合える──そんな和解の象徴になって欲しかったのだと語った。ナギサを正式に説得する道もあった。しかし連邦生徒会長の失踪以来、常にピリピリと気を張り続ける彼女が、聞き入れてくれるとは思えなかったのだという。
「……だから、エデン条約が締結される前に?」隆一
「うん、そう……締結されてしまえば、アリウスとの和解は今度こそ本当に不可能になる。トリニティが、トリニティである内に、何とかしたかったんだ」ミカ
アリウスの生徒でも、この学園で幸せに暮らせるのだと証明したかった──そう語るミカの声に、初めて微かな翳りが混じった。
「でも、そんな中で突然、ナギちゃんがトリニティに裏切者がいるって言い始めて……」ミカ
自分が水面下で動いている最中に、何か綻びを見せてしまったのかもしれない。結果としてナギサは、条約を妨げさせまいと、容疑者を一箇所に集める為の場所──『補習授業部』を作り上げた。
「そうして、事は今に至る」ミカ
「先生、何であの子達が集められたのか、理由は聞いた事ある?成績の話じゃないよ、ナギちゃんが彼女達を疑った理由の話」ミカ
「……いいや、聞いていないな」隆一
「そっか、なら一人ひとり、教えちゃうね」ミカ
既に日は落ち切り、辺りは薄闇に包まれていた。それでもミカの口調は、まるで世間話でもする様に軽い。指を折る様にして、彼女は一人ずつ、その名を挙げていった。
ハナコは、成績も評判も申し分のない優等生であり、かつては生徒会長候補、シスターフッド勧誘の対象にすらなった程だったという。礼拝堂の授業に突然水着姿で現れ、シスターに追い出されるという珍事すら、彼女の型破りな一面として周囲には知られていた。しかしそんな彼女は、突如として豹変し、落第寸前にまで成績を落とした。既にトリニティ上層部を含む各所と交流を持ち、多くの秘密を知り得る立場にある事──それこそが、疑いを向けられた理由だった。
「確かに、それで疑りたくなる気持ちは良く分かるよ、その気になれば、本人の能力の高さもあって大体の事は出来るだろうね」ミカ
ミカは一旦言葉を切り、水面に浮かぶ葉を眺めながら、次の名前へと話題を移した。
コハルについては、本人の問題というより、彼女が所属する正義実現委員会──ハスミ達の存在が焦点だった。強大な武力を持ち、なおかつゲヘナへ強い憎悪を抱く集団が、自らのコントロール下にないという不安。ナギサはそこに、何らかの備えを欲していたのだとミカは語る。
「正義実現委員会だったら多分、誰でも良かったんじゃないかな?ただ取り敢えず成績が悪かったからあの子が選ばれた……つまり、あの子は人質」ミカ
ハスミもまた、その事情を承知しているだろう、とミカは付け加えた。以前、万魔殿との会合の後、ハスミが正義実現委員会のロビーで、ゲヘナへの怒りを爆発させ、周囲が恐怖で動けなくなる程の形相を見せたという逸話を、ミカは少し愉快そうに語った。副委員長という立場、そして骨の髄まで染み付いたゲヘナへの憎悪──エデン条約に反対する動機としては、十分過ぎる程だった。ミカの口振りからは、それを面白がっている様な、それでいてどこか同情する様な、複雑な響きが感じられた。
最後に挙げられたのは、ヒフミの名だった。優しく、可愛らしい、ナギサのお気に入りとも言える生徒だった。それでも尚、疑いの目が向けられたのは──彼女がこっそりと学園の外、出入り禁止のブラックマーケットに出向いていたという情報の為だった。あんなにも善良で、純粋そうに見える生徒がそんな場所に──そう考えると、ミカ自身も未だに半信半疑らしかった。
「ナギちゃんだってヒフミちゃんの事は箱入りなのに、それでも疑いの目は向けられた……まぁそれも、ナギちゃんらしいと言えば、らしいんだけれど」ミカ
こうして集められた断片的な情報が積み重なる内に、ナギサの中の漠然とした疑い──『トリニティに裏切者がいるかもしれない』という予感は、『補習授業部の中の誰かが、裏切者』という、より明確な疑念へと形を変えていったのだった。
語り終えたミカは、静かに水面へと視線を落とした。既に橙色の光は消え、代わりに月明かりがプールの水面を白く照らしている。隆一は、その横顔をただ黙って見つめていた。