ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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1968年
第一話 また明日


 1968年、六月下旬。梅雨の晴れ間から降り注ぐ陽光が、阪神レース場校のターフを青々と照らしていた。

 

「春日、あっちのグループの上がりタイム出た?」

「出た。昨日の雨のせいか、全体的に少し時計がかかってるな」

 

 手元のバインダーを渡すと、同期のトレーナー――宝塚は「サンキュー」と受け取り、忙しなくペンを走らせた。

 URAから配属されて二ヶ月。俺たち新米トレーナーの日常は、担当ウマ娘が見つかるまでは教官の補助として大勢のウマ娘のタイムを計り、状態を記録することの繰り返しだ。

 

「そういや春日はまだ、担当したいウマ娘の目星ついてへんの?」

「焦って決めるものでもないからな」

「まあ、それもそやな。それはそうと、今晩一緒に飯でもどうや?」

 

 俺は少し楽しそうな宝塚の横顔を見やり、それから「ああ」と頷いて、視線を練習コースへ戻した。

 

 

 練習後。俺たちは阪神校の裏手にある、小さな定食屋に足を運んだ。

 パイプ椅子に、少しベタつく化粧板のテーブル。壁には手書きの品書きが雑然と貼られている。ソースの焦げる匂いと、大衆食堂特有の喧騒がいかにも居心地が良かった。

 

 宝塚は山盛りの白飯をかき込みながら、熱心に話し続けている。俺は相槌を打ちながら、湯気の立つ豚汁をゆっくりとすすった。

 

 ひとしきり語り終え、麦茶の入ったグラスを飲み干したところで、宝塚がふと思い出したように切り出した。

 

「せや、来週な、中山校で今年度初の模擬レースあるらしいんやわ。春日、見に行かん?」

 

 模擬レースは年に四回。春夏秋冬に一度ずつ、各レース場校で開催される。担当のいないウマ娘たちがトレーナーへのアピールの場として出走する、いわば出会いの場だ。

 

「中山の?」

「そ。関東のトレーナーのやり方も見ておきたいしな。それに――」

 

 宝塚は割り箸を置き、ニッと笑った。

 

「何も、阪神校だけで担当を見つける必要もないやろ?」

 

 俺はまだ、誰の専属トレーナーでもない。

 探し求めているのかどうかも、自分でもよく分からなかった。ただ、この阪神校で誰の走りを見ても、あの残像を超える衝撃には出会えていないという事実があるだけだ。

 

「……そうだな」

 

 俺は空になったグラスを置き、短く頷いた。

 

「行ってみるか」

 

 

 始発の東海道新幹線の車内は、よく冷えた空調の音が響いていた。

 隣の席では、宝塚がスポーツ紙を広げて景気のいい見出しを拾い読みしている。俺は窓枠に肘をつき、猛スピードで後ろへ飛び去っていく景色をただ静かに眺めていた。

 

「……そういや春日、今日の模擬レース、なんかお目当てのタイプとかおるん?」

 

 不意にスポーツ紙から顔を上げた宝塚が、尋ねてきた。

 

「いや、特には。とにかくフラットな目で全体を見るつもりだ」

「真面目やなぁ。まあ、俺も今回は完全に見学のつもりやけど。関東のトレーナーがどんな仕上げ方してくるか、お手並み拝見といこか」

 

 宝塚は気楽に笑うと、再び紙面に視線を落とした。

 彼のように明確な目的があれば、この退屈な移動時間もまた違った色に見えるのだろうか。俺は小さく息を吐き、流れる景色の中に答えのない問いを溶かしていった。

 

 午前中には関東へ入り、中山レース場校の門をくぐった。

 梅雨特有の、少し重く湿った風。関西とは異なる空気を感じながら、俺は熱気を帯び始めたスタンドへと向かった。

 今年度初の模擬レース。各校から見物に訪れたトレーナーたちの歓声やひそひそ話が、環境音のように鼓膜を上滑りしていく。

 皆それぞれ、明確な目当てがあって来ている。俺には、それがなかった。ただ、何かを探していることだけは自覚していた。

 

 いくつかレースを眺めていたが、今のところ俺の目を惹きつけるようなウマ娘は現れていない。

 しかし、模擬レースも後半に差し掛かった、1800メートルのダートレースでのことだった。

 

 泥を跳ね上げて駆け抜けていく先頭集団の走りは、確かに力強い。中央の恵まれた環境で磨かれたであろう、教科書通りの綺麗なフォームだ。

 だが、俺の胸の奥底を揺らすようなものはそこにはない。無意識のうちに見切りをつけた視線が、コースをなぞるように後ろへと流れていく。

 

 そして俺の目は、バ群のずっと後方――最後尾を走る白い影に釘付けになった。

 

 白銀の髪。小柄で華奢な体躯。一見して目を引く楚々とした容姿だが、俺を射抜いたのはその眼光だった。

 前を往く集団を睨みつける、獰猛な赤い瞳。それはまるで、自らの華奢な体型など意に介さず、ただひたすらに獲物の喉首を狙って息を潜める獣のようだった。

 

 だが、獲物を狙う気迫とは裏腹に、彼女の脚の運びは明らかに重かった。梅雨の水気を吸った砂に足を取られているというより、目に見えない鉛を引きずっているような、深い疲労の蓄積。

 最終コーナーを回っても位置は上がらず、周囲のトレーナーたちは早々に興味を失い、視線を前線のウマ娘へと移していく。

 だが、最後の直線に入った直後だった。

 

 最後方の白いウマ娘のストライドが、深く沈み込んだ。

 

 ドン、と。

 遠く離れたスタンドにまで届くような、空気を震わせる重く鋭い踏み込みの音がした気がした。

 

 沈み込んだ身体が弾け、重い砂を蹴り割るような途方もない切れ味が垣間見えた。あの華奢な脚が砕けかねないほどの、危うく、暴力的なまでの加速。

 猛然と泥飛沫を上げ、彼女は一気に先頭集団へと襲いかかっていく。前との差がみるみるうちに縮まり、視線を外していた周囲のトレーナーたちが何事かと息を呑むのが分かった。

 

 だが――その煌めきは、あまりにも短すぎた。

 

 直線の半ば。内を突こうとした進路に、先行勢が密集した分厚い壁が立ち塞がった。

 弾けかけた末脚が行き場を失い、その切っ先が殺される。研ぎ澄ませていた刃を鞘ごと押さえ込まれたような、無残な失速だった。

 

 順位を覆すことはできなかった。無謀な仕掛けだと笑う者もいるかもしれない。

 だが、泥にまみれ、己の肉体を削り切ってでも刃のように煌めいたその末脚の残像が、俺の網膜に深く焼き付いて離れなかった。

 

 

「いやー、やっぱり関東の有力ウマ娘はええバネしとるな。俺、ちょっとあっちのトレーナーに挨拶行ってくるわ」

 

 レース終了後、宝塚は満足げにバインダーを叩いた。

 

「春日はどうする?」

「……俺は、ちょっと気になるウマ娘がいたから声をかけに行くよ」

 

 俺がそう言うと、宝塚は「おっ」と目を丸くして、嬉しそうに俺の肩を叩いた。

 

「やっと春日にも春が来たか! ええ返事もらえるとええな。気張ってきーや!」

「ああ。悪いけど先に戻っていてくれ」

「気にしな。ほなまた後でな」

 

 笑顔で手を振りながら人混みへ消えていく宝塚の背中を見送り、俺は一人で歩き出した。

 

 向かった先は、コースでもスタンドでもない。

 あれほど重い脚を引きずり、限界を超えた疲労を溜め込んでいたのだ。走りを終えた今は、間違いなく医務室か待機用の部屋で休んでいるはずだった。トレーナーとしての常識的な判断だった。

 

 だが、医務室にも、待機室の影にも、彼女の姿はなかった。微かな違和感を抱きながら施設群を抜け、人気のない裏手へと足を向けた時。

 誰もいないはずの練習用のコースから、乱暴にコースを蹴る音が聞こえてきた。

 俺は足を止め、フェンス越しにコースを見つめた。

 

 梅雨の湿った空気の中、ただ一人。さきほどの模擬レースを終えたばかりのあの白いウマ娘が、荒い息を吐きながら、無心にコースを走り続けていた。

 俺はフェンスに歩み寄り、彼女がトラックを周回してこちら側へ近づいてくるのを、ただ静かに待った。

 

 やがて目の前の直線に差し掛かり、フェンス越しに立つ俺の存在に気づくと、その娘はあからさまに歩様を落とし、警戒するように距離を置いた。

 

「……少し、いいですか」

 

 ぴたりと足音が止まる。振り返った彼女の赤い瞳が、冷ややかに俺を射抜いた。

 

「……見たことのない顔ですね。他校のトレーナーさんですか?」

「そうです。阪神校の春日暁と申します」

「……ハクセツです」

 

 短く名を返した直後、彼女は目に見えて声の温度を下げた。これ以上は踏み込ませないという、明確な拒絶の壁。

 

「用なら他を当たってください」

「あなたの走りを見ていました」

「そうですか」

 

 にべもない返事だった。

 話は終わりだと言わんばかりに、彼女は背を向ける。

 だが、俺はフェンスから一歩も動かなかった。ハクセツはそれに気づいて、訝しむように眉を寄せた。

 

「……まだ何か」

「まだ、走るつもりですか?」

 

 赤い瞳が、苛立ちを含んで細められた。

 

 彼女は黙って背を向け、重い脚でもう一度走り出す。俺はフェンス越しに、その小さな背中を静かに見守った。

 華奢な脚が砂にとられ、姿勢がブレる。それでも彼女は、何か見えない敵を振り払うように乱暴にコースを蹴り続けた。

 

 一周を終え、再び目の前の直線に差し掛かったところで、俺は静かに口を開いた。

 

「最後の直線」

 

 再びコースを蹴ろうとしたハクセツの肩が、ビクッと跳ねた。

 

「あの末脚、邪魔さえなければ……気持ち良かったでしょうね」

 

 その瞬間、時間が止まったかのように、ハクセツの動きが完全に静止した。

 ゆっくりと振り返った彼女の顔からは、先ほどの冷たい仮面が綺麗に剥がれ落ちていた。

 

「……そうでしょ、そう思うでしょ!?」

 

 堰を切ったように、あどけない高い声が響いた。

 警戒に満ちていた赤い瞳が熱を帯び、爛々と輝いている。

 

「前を走る連中を、最後の一瞬で全部まとめて撫で斬りにするんです! あの風を切る感覚たるや、もう本当に最高で……っ、だからわたしは、絶対に後ろから――」

 

 そこまで一気にまくし立てたところで、ハクセツはハッと息を呑んだ。

 自分が初対面のトレーナー相手に、一番触れられたくない「走る理由(エゴ)」を、無防備な素顔のままひけらかしてしまったことに気づいたのだ。

 

 サァッ、と。

 目に見えて、彼女の表情から温度が消え失せていく。

 

「……今のは、忘れてください」

 

 その声は、最初よりもずっと冷たく、強固な拒絶に満ちていた。

 しかし、雪のように白かった肌はそうと分かるように赤らんでいる。

 

「もう帰ってください。お互い、時間の無駄です」

「分かりました」

 

 俺はあっさりと頷き、今度こそ踵を返した。

 

「では、また明日」

 

 背中に戸惑いの気配を感じながらも、俺は一度も振り返らなかった。

 あの赤い瞳に宿っていた熱を思い返し、夕暮れのコースを後にした。

 

 

 中山校の近くで見つけた安宿の窓から、白み始めた空の光が差し込んでいた。

 

 裸電球の下、ちゃぶ台の上に散らばった大量の地方レース専門誌やスポーツ紙を脇へよけ、紙の束をまとめる。ハクセツと別れた後、駅前の古本屋や売店でかき集められるだけの資料を広げ、そのまま宿に籠もって書き上げたレースプランと練習メニューだ。

 時計の針は午前六時前だった。俺は冷水で顔を洗い、分厚くなったバインダーを抱えて宿を出た。

 

 早朝の中山レース場、メインコース。

 朝靄が立ち込めるレース場は、朝練に励むウマ娘たちの活気に溢れていた。

 チーム練習、専属トレーナーとのマンツーマン、契約の決まっていないウマ娘は教官の元で団体練習。だが、そのどこにもハクセツの姿はなかった。

 

 俺が周囲をぐるりと見渡すと、レース場の隅――今は使われていない古い障害練習用の坂路へと続く道を見つけた。

 なんとなく嫌な予感がした。

 昨日ハクセツと別れた後に、彼女のことを調べてみた。

 元は地方の船橋校でデビューし、十六戦五勝。そして六月二週の『関東オークス』後に中央――中山レース場校に転入。息つく間もなく、翌週の模擬レースに出走している。

 それが、昨夜俺が調べ上げた彼女の足跡だった。

 十六戦。その数字が持つ重みを、今の彼女は理解できていない。地方の深い砂に足を取られ、泥にまみれて戦い抜いた代償は、彼女の華奢な脚に着実に疲労という名の毒を溜め込んでいた。

 

 俺はバインダーを抱え、朝靄が立ち込める裏手の坂道へと足を速めた。

 湿った土を蹴る、苦しげな音が聞こえてくる。

 

 そこには、急勾配の坂を何度も何度も駆け上がろうとしては、膝を折る白い影があった。

 

「……何をしているんですか」

 

 呆れを含んだ俺の声に、ハクセツが弾かれたように顔を上げた。

 荒い呼吸。乱れた銀髪。白い頬に散った泥の跡。そして、驚愕に揺れる赤い瞳。

 

「あなた……っ、どうして」

「昨日、また明日と言ったので」

「また明日って……あなたは関西のトレーナーでしょう!? 昨日の今日で、戻っているはずじゃ――」

 

 彼女の声音には、明らかな動揺が混じっていた。

 俺はハクセツに、徹夜で書き上げた紙の束を差し出した。

 

「あなたのこれからのレースプランと、当面の練習メニューです」

 

 ハクセツは訝しげに近づき、その分厚い束に視線を落とした。

 

「……どれだけ用意したんですか」

「四パターンです」

「……一晩で?」

「はい」

 

 ハクセツの表情が、わずかに崩れる。冷たい拒絶の仮面を保ちきれなくなっていくのが分かった。

 だが、彼女はすぐにまた鋭い視線を俺に突きつけてきた。

 

「……どうして、会ってすぐのわたしのためにここまで……?」

「地方で十六戦。それがあなたの脚に蓄積している疲労の正体ですね」

 

 俺が静かに告げると、ハクセツは息を呑んで沈黙した。

 

「あの重い脚取りは、サボっているわけでも、才能がないわけでもない。泥まみれの地方巡業を十六戦も走り抜いてきた、酷使の痕跡だ」

「どうして、それを……」

「昨日、あれからあなたのことを少し調べさせてもらいました」

 

 四パターンの計画書は、すべて彼女の脚の回復具合と、あの末脚への負担を考慮して分岐させたものだった。ただ速く走らせるためではなく、彼女の脚を壊さずに勝たせるための道筋。

 ハクセツは唇を噛み、バインダーと俺の顔を交互に見比べた。

 

 何かを言い返そうとして、言葉を探し、やがて諦めたように小さく息を吐いた。

 完全に凍りついていた彼女の瞳の奥で、ほんのわずかに、何かが揺らいだ気がした。

 

「……さっきの問いの答えになっていません」

 

 ぽつりと、刺々しい声が落ちた。

 

「昨日も言った通り、あなたの末脚。それに強く惹かれました」

 

 ハクセツの息が止まる。

 向けられた言葉の静かな熱量に圧倒されたように、彼女はわずかに赤い瞳を見開いた。

 

「その華奢な体で、泥を切り裂くようにして繰り出された凶悪なまでの加速。あの末脚を、完璧な状態で見たいと強烈に思ったんです。……だから、一晩でこの計画書を作りました」

 

 俺の真っ直ぐな視線を受けて、ハクセツは探るように目を細めた。

 言葉の裏を見極めようとする、野生の獣のような鋭い瞳。

 

 やがて、彼女は視線を落とし、俺の持つバインダーの角を指先でなぞった。

 

「……勝手にすればいいじゃないですか」

 

 ぽつりと、少しだけ毒気の抜けた声が落ちる。

 

「その代わり、わたしを一番高い場所で勝たせてください」

 

 それはすがりつくような哀願ではなく、刃を突きつけるような要求だった。

 泥だらけの顔の中で、赤い瞳だけがギラギラと俺を見据えている。すべてを預ける代わりに、決して見捨てることは許さないという強烈な執念。

 俺はその視線を正面から受け止め、ただ短く頷いた。

 

「ええ、勝手にします。俺が担当トレーナーですから」

 

 俺はそう答え、彼女の隣に並んで坂路の先を見上げた。

 朝靄の向こう、誰の足跡もついていない真っ新な坂道が、まっすぐに伸びていた。




 宝塚の元ネタはウイポの『宝塚菊夫』となっています。
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