ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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第十一話 阪神ティアラステークス

 二月が過ぎ、三月の足音が聞こえ始める頃。阪神校を吹き抜ける風から、肌を刺すような冬の痛みが抜け落ち始めていた。

 空から降り注ぐ陽光には確かな春の温もりが混じり、枯れ芝だったターフにも微かな青みが芽吹き出している。

 

 俺はストップウォッチを握りしめ、コースを駆け抜ける二つの白い影を追っていた。

 

「……ジョセツ、上体が少し高いです。顎を引いて、踏み込みのバネをもっと前への推進力に変換してください」

「はいっ!」

 

 俺の指示に、内側を走るジョセツが素直にフォームを修正する。

 彼女には今、バ群の中団で待機し、勝負所で抜け出す差しの脚質を活かすための、徹底した基礎練習を課している。

 周囲のペースに惑わされない冷静さと、最後の直線で確実に抜け出すためのスタミナ。それらを支えるしなやかなバネを育てる、地道な土台作りの段階だ。

 

 そして、そのジョセツの斜め前方、アウトコースを切り裂くように走るもう一つの影。

 

「ハクセツ、そこからです。息を潜めた状態から、トップスピードへ移行するまでのタイムラグを極限まで削ってください」

「言われなくてもっ……!」

 

 荒々しい息遣いと共に、ハクセツが爆発的な加速を見せる。

 小柄で華奢な体躯に不釣り合いなほどの破壊力を秘めた姉と、標準的な体躯でしなやかな筋肉を持つ妹。

 練習の内容は違うが、同じターフを駆ける二人の適性の違いは視覚的にも明確に浮かび上がっていた。

 

 四月の阪神ティアラステークスに向けた、末脚の最終調整。

 ハクセツの絶対的な刃は、去年の秋華賞や暮れのリゲルステークスの時よりも、さらに鋭く研ぎ澄まされている。

 だが、俺が注目していたのはタイムの向上だけではない。

 ジョセツが阪神校に来てからというもの、ハクセツの練習に対する取り組み方には、明らかな変化が生じていた。

 これまでの彼女の集中は、どこか自身を追い詰めるような、孤独で危うい熱を帯びていた。

 だが今は違う。一つひとつのメニューをこなす姿勢に、以前よりも一段深い、どっしりとした真剣味が増しているのだ。

 

(……妹に、無様な背中は見せられない、という心理か)

 

 ストップウォッチのボタンを押し、手元のバインダーに数値を書き込みながら俺は内心で推測する。

 後方を走る妹に、姉としての完璧な背中を見せつける。その無意識の矜持が、彼女の集中力をかつてない次元へと引き上げているのは明白だった。

 

「……そこまでです。二人とも、上がってください」

 

 俺の声に、二人がスピードを落としてこちらへ戻ってくる。俺はそれぞれにタオルとスポーツドリンクを手渡した。

 

「お疲れ様です。ハクセツ、加速への移行がさらにスムーズになりましたね。以前よりずっと深く集中できています」

「当然でしょ。ヴィクトリアマイルに向けて仕上げてるんだから」

 

 ハクセツはタオルで乱れた白銀の髪を拭いながら、鼻で笑ってそっぽを向いた。妹の存在が自分の走りに好影響を与えているなどと、素直に認める彼女ではない。

 

「お姉ちゃん、すごかった! あの一気に加速するところ、後ろから見てても風圧が違うっていうか、空気がビリビリしたよ!」

 

 息を弾ませながら駆け寄ってきたジョセツが、満面の笑みで姉を褒めちぎる。その瞳は、純粋な尊敬と憧れでキラキラと輝いていた。

 

「うるさいわね。あなたはまだまだバネの使い方が甘いのよ。そんなんじゃ、いつまで経ってもデビュー戦すら勝てないわよ」

「でも、やっぱりこっちのターフは勝手が違うっていうか……まだ上手くリズムが掴めない時があるの」

「当たり前でしょ。同じ芝のコースでも阪神と中山では要求される筋力も反発力も違うの。あなたは踏み込む時に一瞬躊躇する癖がある。それじゃあ、いざバ群を抜け出す時に致命的な遅れになるわよ」

「そっか……うん、気をつける!」

 

 ジョセツが姉の指導を素直に受け止めると、ハクセツは居心地が悪そうに「……調子がいいんだから」とぼやきながらも、どこか誇らしげに口元を緩めていた。

 ハクセツの手は無意識のうちにジョセツの背中に回り、妹の乱れた呼吸を落ち着かせるように、ゆっくりと一定のリズムでさすっている。

 

「ありがとう、お姉ちゃん」

 

 ジョセツは嬉しそうに目を細め、姉の不器用な優しさに身を委ねていた。

 棘のある言葉で武装しながらも妹の弱点を的確に指摘し、世話を焼く姉。そして、その棘の奥にある愛情を完全に理解し、笑顔で受け止める妹。

 

 冬の終わりの柔らかな風が、対照的な二人の白銀の髪を揺らしていく。

 俺はその光景を静かに観察しながら、バインダーにペンを走らせた。

 

 予定外の複数担当という俺の決断は、どうやら間違っていなかったようだ。

 妹という存在を背負ったことで、ハクセツの精神は確かな安定と強さを手に入れた。孤高の刃に守るべき存在ができた時、その切れ味は鈍るどころか、より洗練されたものへと進化しつつある。

 

(……これなら、春の前哨戦は問題なくクリアできる)

 

 ターフに響く賑やかな姉妹の会話を聞きながら、俺は四月に控える『阪神ティアラステークス』への確かな手応えを静かに感じ取っていた。

 

 

 四月二週。春の陽気が満ちる、阪神レース場。

 本番であるヴィクトリアマイルへの優先出走権を懸けた前哨戦、『阪神ティアラステークス』の日がやってきた。

 

 控え室で出走の準備を整えたハクセツに、俺は最後の指示を与えていた。

 

「今日のレースですが、無理に勝ちに行く必要はありません。久しぶりの実戦です。身体の調子を確かめるくらいで十分です」

「……は?」

 

 俺の言葉に、ハクセツが眉をひそめて睨みつけてくる。

 

「あくまで本番は五月のヴィクトリアマイルです。ここで消耗を強いるのは得策ではありません。ただし、仕掛けのタイミングはいつも通りに意識してください。それが今日の最大の目的です」

「ふん……つまらないわね」

 

 ハクセツは露骨に不満そうな顔をしたが、やがて渋々と「分かったわよ」と頷いた。本能のままにすべてを撫で斬りにしたいという衝動を抑え、理屈を優先できるようになったのも、彼女の成長の証だった。

 

「お姉ちゃん、頑張ってね! スタンドから応援してるから!」

 

 俺の背後から、ジョセツが身を乗り出して姉に声をかけた。

 今日は彼女も応援者としてこの場に同行している。その瞳は姉のレースを間近で見られる喜びにキラキラと輝いていた。

 

「……見てなさい。わたしの走りを特等席で見せてあげるわ」

 

 ハクセツは不敵に笑い、ジョセツの頭をポンと軽く叩いてから、地下バ道へと歩き出していった。

 

◆阪神ティアラステークス(GⅡ・阪神 芝1600m 右 曇 良)

 

 大歓声に包まれる阪神レース場のスタンド。

 俺とジョセツは、コース全体を見渡せる関係者用の観覧席に陣取っていた。

 ヴィクトリアマイルを見据えたウマ娘たちが集う熱気。それは遠目からでも高まっているのが分かった。

 

 ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。

 大外に近い十三番枠からスタートしたハクセツは、いつも通り十八人立ての最後方へと位置を下げた。

 

「あっ、お姉ちゃん……後ろすぎませんか? いつも見ていて思いますけど、あんなに離れて大丈夫なのでしょうか……?」

 

 手すりに身を乗り出し、前のめりになってターフを見つめるジョセツが、不安そうに声を上げる。

 

「心配には及びません。これが彼女の戦術です」

 

 双眼鏡を構えたまま、俺は冷静に答えた。

 

「ハクセツの小柄な体では内に入ろうとしても押し返されてしまう。一見すると無理に思えますが、最後方から大外を回るのが彼女にとって体力を消耗しない策ですよ」

「そ、そうなんですね……」

 

 俺の言葉に少しだけ安堵したようだが、ジョセツは手すりを握りしめたまま、ターフから片時も目を離そうとしない。

 

 レースは中盤へ差し掛かっていた。逃げウマ娘が隊列を引っ張る中、好位のインコース――最も距離ロスのない経済コースを、一人のウマ娘が完璧な手応えで追走しているのが見えた。六番のゼッケンをつけているファインローズだ。

 

「ジョセツ、あの内のロスのない六番の走りも見ておいてください。あなたの脚質にも通じる、ああいう無駄のないレース運びも、勝つための立派な戦術の一つです」

「ほんとだ、すごくコース取りが綺麗……でも、お姉ちゃんも負けないもん!」

 

 俺の言葉に対し、ジョセツは拳を握りしめ、感情のままに声を張り上げる。静かに観戦を続ける俺と、一喜一憂して観戦するジョセツ。対照的な二つの観戦スタイルが、そこにあった。

 

 やがて、勝負所の第四コーナーから、直線へ。バ群が横に広がり、各ウマ娘が一斉にスパートをかける。

 内の経済コースを立ち回ったファインローズが、絶好の手応えで抜け出しを図る。

 

 その時だった。

 双眼鏡越しに捉えていたハクセツの表情が、劇的に変化したのを俺は見逃さなかった。

 今日は無理に勝ちにいかなくていい。俺が課したその指示の枷が、彼女の中で音を立てて砕け散るのが分かった。

 

 好走を見せるファインローズの背中に本能が刺激されたのか。あるいは、スタンドで見守る妹に、ライバルたちを撫で斬りにする自分の完全な背中を見せつけたかったのか。

 理由は定かではない。だが、双眼鏡のレンズ越しに見える彼女の赤い瞳には、軽く流すはずだった当初の予定を完全に忘れ去った、一切の妥協を許さない本気の瞳が宿っていた。

 

(……白熱したな)

 

 俺は双眼鏡を下ろすことなく、内心で小さく独白した。

 指示違反ではある。だが、完全に研ぎ澄まされた刃が鞘から放たれるその瞬間は、何度見ても背筋が凍るほどに美しい。

 

 ドン、と。ターフが弾ける音が聞こえた気がした。

 いつも通りに大外を走るハクセツが、抑えきれない破壊衝動とともに末脚を爆発させた。

 

「お姉ちゃん! 行けぇっ!!」

 

 ジョセツが普段の丁寧な言葉遣いを忘れて、喉が裂けんばかりの歓声を上げる。

 前方で粘るファインローズと、大外からすべてを薙ぎ払いながら迫るハクセツ。二人の距離が、異常な速度で縮まっていく。

 

 俺はただその物理的な推移を観測し続ける。

 ハクセツの末脚は、もはや抑えがきかない次元に達していた。逃げるファインローズをゴール直前で完全に捉え、一気に抜き去る。そのまま後続の追撃を許すことなく、1.5バ身の差をつけてゴール板を駆け抜けた。

 

「やったあぁっ! お姉ちゃん、勝った!」

 

 ジョセツがその場で飛び跳ねて喜ぶ。

 俺は手元のストップウォッチを止め、周囲の熱狂の中でただ一人、静かに息を吐いた。消耗を抑えるという当初の目的からはいささか逸脱したが、刃が折れることなく無事に駆け抜けたことに、微かな安堵を覚えながらバインダーを閉じた。

 

 

 控え室前。

 レースを終え、引き揚げてきたハクセツの額には大粒の汗が浮かんでいた。冬のリゲルステークスの時のように、呆気にとられたような不思議そうな表情ではない。

 確かな強敵を力でねじ伏せ、自らの刃の切れ味を実戦で再確認した充実感が、その顔つきにはっきりと表れていた。

 

「……軽くって言われてたのに、熱くなっちゃったわ」

 

 俺から差し出されたタオルを受け取りながら、ハクセツは微かに笑みを浮かべて言った。俺の指示を無視したことを悪びれる様子はない。

 接戦の末に前を走る相手を撫で斬りにする、彼女が最も愛する闘争の形。その熱の余韻を心地よさそうに味わっているようだった。

 

「お姉ちゃん、すごい! ゴール前で抜いたところ、本当にかっこよかった!」

 

 興奮冷めやらぬ様子のジョセツが駆け寄り、姉の手をきゅっと握る。

 

「当然でしょ。あなたも早くあそこまで来なさい」

 

 ハクセツは息を切らしながらも、照れ隠しのようにわざとらしく胸を張って見せた。

 ジョセツの瞳には勝利をもぎ取った姉への強い憧れが、これまで以上に鮮烈に焼き付いている。

 

 俺はその二人のやり取りを黙って見守りながら、ハクセツの脚元へと視線を落とした。

 白熱した分、当初の想定より体力は消耗している。だが、怪我の兆候は一切ない。

 むしろ、ジョセツという妹の存在が彼女の闘争心に新しい刺激を与え、あの凄まじい末脚をさらに一段高い次元へと押し上げたのかもしれない。

 

 これなら、問題はない。彼女の刃は今、最高純度の状態にあるだろう。

 

 俺はバインダーのページをめくり、ヴィクトリアマイルのデータが記された項目に視線を向けた。

 次なる舞台は五月の府中。ティアラ路線の強豪たちが集う、春の頂上決戦。

 春の風が吹き抜ける中、ヴィクトリアマイルへ向けたすべての助走はいま完璧な形で完了した。

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