ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
5月も終わりに近づき、寮の窓から見える木々はすっかり濃い緑に変わっていた。
昼下がりの阪神校の学生寮。自室のベッドに腰掛け、わたしは読みかけの文庫本に視線を落としていた。
同じクラスの、妙に品のいい喋り方をする娘が、「ハクセツさんはこういうお話、お好きかと思いまして」と差し出してきた一冊だ。
ヴィクトリアマイルから一週間。極限まで張り詰めていたわたしの肉体と精神は、完全休養に入り、心地よい疲労感とともに穏やかな弛緩を取り戻しつつあった。
部屋の中には、同室のヤマナラシが机に向かってペンを走らせるカリカリという微かな摩擦音だけが静かに響いていた。互いに過剰な干渉はしない、この部屋特有の静謐な時間。
やがて、その音がふっと止んだ。
「……あの、ハクセツさん」
背中越しに、遠慮がちな声が届いた。
本から顔を上げると、ヤマナラシが丸椅子をくるりとこちらへ向けていた。彼女は膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、少しだけ肩を強張らせている。
「ハクセツさん、ヴィクトリアマイル、本当におめでとうございます……あの、わたし、テレビでずっと、応援していました」
途切れ途切れの、不器用な言葉。二言目には自信なげに視線を泳がせてしまう、かつての彼女の名残は確かにある。
だが、その言葉の最後は、はっきりとわたしの目を見て紡がれていた。
前なら、最後までこちらを見られなかっただろう。
いつの間にか、この娘も少し変わったらしい。
「……結構よ、そんな改まらなくても」
わたしは文庫本に視線を戻し、わざと素っ気なく返した。
こんな風に真っ直ぐに称賛を向けられることには、どうにも慣れない。ページ上の活字を目で追うふりをしてみたものの、内容はまったく頭に入ってこなかった。
「でも、ありがとう。あなたの応援、少しは届いていたかもしれないわ」
小さく息を吐き、視線を落としたままそう付け加える。
すると、ヤマナラシは「……っ、はい……!」と弾むような声を上げ、ぱぁっと花が咲いたように表情を明るくした。
息を呑むような地鳴りと大歓声に包まれた府中のターフも悪くなかったが、こういう静かな日常の中で受け取る不器用な言葉も、存外悪くない。
わたしは本を閉じた。
「……それで、何を書いてたの?」
◆
翌日の昼。阪神校の食堂は、昼休憩を迎えて空腹を抱えた学生たちの賑やかなざわめきと、厨房から漂う食欲をそそる香りに包まれていた。
初夏の陽光がたっぷりと差し込む窓際のテーブルで、わたしとヤマナラシは向かい合って昼食をとっていた。
ヴィクトリアマイルの激闘を終え、張り詰めていた空気がすっかり抜け落ちたわたしの前で、ヤマナラシも普段より少しだけ肩の力の抜けた様子で小鉢の煮物に箸を伸ばしている。
「あっ、お姉ちゃん。ここ、大丈夫?」
ふいに、明るく弾むような声が頭上から降ってきた。
声の主は、両手でしっかりと自分のトレイを持ったジョセツだった。彼女がテーブルのそばにやってくると、まるでそこに小さな太陽が落ちてきたかのように、周囲の空気がふわりと明るく色づくのを感じる。
「構わないわよ」
わたしが隣の空席を示すと、ジョセツは「失礼しますっ」と嬉しそうに腰を下ろした。そして、向かいの席で目を丸くして固まっているヤマナラシの存在に気づき、ぱちりと瞬きをする。
お互いに名前や存在は知っていたはずだが、こうして正面から顔を合わせて話すのは初めてのはずだ。
「……ちょうどいいわ、紹介するわね。同室のヤマナラシよ」
「えっ、あっ、初めまして……!」
突然の紹介に、ヤマナラシは持っていた箸を慌てて置き、ペコリと深く頭を下げた。
ただでさえ内気な彼女にとって、初対面の相手、それもわたしの妹という存在はひどく緊張を強いるものらしい。肩がびくびくと強張っているのが分かる。
だが、ジョセツは持ち前の引力を遺憾なく発揮し、満面の笑みで彼女に向き直った。
「ヤマナラシさん、お話は伺っています。お姉ちゃんの同室の方ですよね。わたし、妹のジョセツです」
真っ直ぐで、裏表の一切ない純粋な好意。ジョセツの言葉には、相手の心の壁をやすやすとすり抜けていく不思議な柔らかさがある。
「は、はい……そう、です……ジョセツさん、ですよね……」
ヤマナラシは最初こそジョセツの屈託のない明るさと勢いに戸惑い、おずおずと視線を彷徨わせていた。
しかし、ジョセツが「お姉ちゃん、部屋ではどんな感じですか?」と無邪気に問いかけたり、食堂のおすすめメニューについて嬉しそうに話し始めたりするうちに、少しずつその強張った肩から力が抜けていくのが分かった。
ヤマナラシは元来、決して人が嫌いなわけではない。
しばらくすると、ヤマナラシの返事から詰まりが少しずつ減っていった。
「あの、わたしも、夏にデビューなので……同じ世代で……」
やがて、ヤマナラシの方からぽつりと、探るように言葉を紡いだ。わたしとの会話では見せたことのない、同年代に向ける柔らかな響きだった。
「えっ、本当ですか? わたしも同じです。じゃあ、いつか一緒のレースを走るかもしれませんね!」
ジョセツの素直な発言に、ヤマナラシはわずかに目を見開き、それから頬をほんのりと朱に染めて、嬉しそうに「……はいっ」と小さく、けれどしっかりと頷いた。
ジョセツとヤマナラシ。
今はこうして他愛のない会話で笑い合っているが、いざデビューを果たし、ゲートが開けば、互いの意地と誇りをぶつけ合うライバルになるかもしれないのだ。
同じレースを走る日も、いずれ来るのだろう。
その時までこんな調子でいられるのかは、知らないけれど。
「……二人ともまだまだね。デビュー前からそんなに仲良くなってどうするのよ」
わたしは呆れたようにため息をつく。棘のある言葉に、二人は顔を見合わせて「あはは……」と苦笑いをごまかすように笑った。ジョセツの明るい笑い声に、ヤマナラシの控えめな笑い声が重なる。
口では素っ気なく突き放しながらも、目の前で打ち解け合う二人の姿を眺めるのは、決して悪い気分ではなかった。
静寂と殺伐とした闘争に満ちた普段のわたしの世界に、ジョセツとヤマナラシがもたらす賑やかで柔らかな色彩が混ざり込んでいく。
わたしは手元のコップを傾けながら、三人のテーブルに満ちる初夏の温もりを、微かな満足感とともに静かに味わい続けていた。
◆
放課後。賑やかな食堂の喧騒から離れ、わたしは一人、静寂に包まれたトレーナー室の扉を叩いた。
「入るわよ」
短く声をかけて扉を開けると、中ではトレーナーがいつも通りデスクに向かい、見慣れたバインダーを開いていた。開け放たれた窓の向こうから、遠いホイッスルの音が届くだけの無機質な空間。
「お疲れ様です。身体の具合はどうですか」
顔を上げたトレーナーが、淡々とした声で問いかけてくる。
「完璧よ。いつでも走れるわ」
「それは頼もしい。ですが、夏は完全な休養に充てます。秋の再始動に向けて、今は徹底的に体を休ませる時期です」
いつも通り、事務的な言い方だった。
わたしは彼の向かいのパイプ椅子に腰を下ろした。
「ねえ、トレーナー。最初にあなたに会った時のこと、覚えてる?」
「……」
トレーナーはバインダーから視線を上げ、真っ直ぐにわたしを見た。
「あの時、わたしは『一番高い場所で勝たせてください』って言ったわ」
「ええ、覚えています」
躊躇いのない、短い肯定。
初対面の相手に要求したあの不遜な誓い。わたしは彼に向かって、明確な事実として告げた。
「あの約束は、果たされたわね」
「果たされました」
それで十分だった。
だが、それで終わりではない。
「でも、わたしはまだ満足していないの」
わたしはトレーナーを見据え、自らの内奥で燃え続ける熱を言葉にした。頂点からの景色を見たからこそ、さらに研ぎ澄まされた闘争への飢えがわたしの身体を焼いている。
「もっと高い場所に行きたい」
「ええ。そう言うと思っていました」
トレーナーはバインダーのページを一枚めくり、新たなデータがびっしりと記された真新しい紙片を指で叩いた。すでに彼の頭脳は、次の戦場へ向けた計算を終えているらしい。
「現時点で、次なる目標として二つの選択肢を考えています」
「二つ?」
「一つは、秋のエリザベス女王杯。ティアラ路線の秋の頂点です。他のライバルたちも万全の状態で再戦を挑んでくるでしょう。そしてもう一つは——」
トレーナーはそこで一拍置き、静かに告げた。
「マイルチャンピオンシップです」
「……マイルチャンピオンシップ?」
わたしは微かに眉をひそめた。エリザベス女王杯と並んで、もう一つの選択肢としてその名前が出るとは思わなかった。
ヴィクトリアマイルとは違う、路線混合のGⅠ。一瞬の驚きがよぎったが、同時に肌が粟立つような興奮がせり上がってくるのを感じた。
「ヴィクトリアマイルでのあなたの末脚を見て、マイラーとしての才能を確信しました。マイル戦線であれば、路線混合のGⅠでも十分に覇権を争える。……ティアラ路線の頂点を目指すか、マイル戦線の頂点を目指すか。どちらも可能性があります」
トレーナーの言葉に、わたしの内側で新たな闘争の火花が散った。
どちらを選んでも、果てしない熱を帯びた戦いが待っている。この男は、本気でわたしをその領域へ送り込もうとしているのだ。
「……両方、行く可能性もあるわけね」
「二戦とも使うつもりはありません。秋の状態を見て、どちらか一方に絞ります」
トレーナーは淡々とそう言い切った後、ふと視線を窓の外、初夏の青空へと向けた。
「宝塚にジョセツのデビュー時期を聞かれました。ヤマナラシと同じ夏頃になりそうだと伝えたら、楽しみにしていましたよ」
トレーナーはそう告げると、ほんのわずかに、口元を緩めた。
珍しいものを見た。
何がおかしかったのかまでは、分からない。
わたしは訊かずに、「分かったわ」とだけ返した。
トレーナーは何事もなかったように、バインダーへ視線を戻した。
わたしも、それ以上は何も訊かなかった。
◆
トレーナー室を出たわたしは、ひとり、夕暮れ時のターフへと足を運んだ。
放課後の喧騒はとうに過ぎ去り、自主トレーニングに励むウマ娘たちの姿もまばらだ。
綺麗に刈り込まれた阪神校の芝が、西の空に沈みゆく太陽の光を受けて、鮮やかな黄金色に輝いている。
柵に寄りかかり、コースを見つめる。初夏の少しぬるい風が、わたしの白銀の髪を揺らして通り過ぎていった。
府中のターフで巻き起こった地鳴りのような大歓声と熱狂は、まだ胸の奥で熱を持ってはいるが、次の目標を聞いた今、過去のものになりつつある。
極限の闘争を終え、確かに頂点の景色を目に焼き付けたというのに、わたしの胸の内には、不思議なほど満ち足りた安堵はなかった。
あるのはただ、次なる闘争への静かで、より深く研ぎ澄まされた飢えだけだ。
——一番高いところで待ち受けてあげる。
妹にそう約束したあの日。
今、わたしはその約束の最初の段階を果たした。府中の最も残酷で美しい直線を力でねじ伏せ、春の頂点からの景色を見た。
あの妹が、いずれ自分の足でターフを駆け上がり、ここまで追いついてくる日も来るだろう。
けれど、その時まで同じ場所で待っているつもりはない。
その頃には、わたしはさらに高い場所にいる。今よりもっと強くなって。
エリザベス女王杯か、マイルチャンピオンシップか。
トレーナーが提示したどちらの道を進むにせよ、わたしの刃がすべてを撫で斬りにするという事実に変わりはない。
今はただ、刃を鞘に収めて休ませる。
そして秋になれば、また抜けばいい。
阪神校のターフの向こう。初夏の夕焼けに染まる空の、さらに高い場所をわたしは見つめていた。
一つの頂上に立ったという事実は、次の頂上を目指すための、ただの始まりに過ぎなかった。