ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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第十五話 初夏の温度

 七月の朝。梅雨明けの空気をはらんだ風が、阪神校のターフを撫でていた。

 俺はまだ誰もいない芝コースの脇に立ち、東の空が薄く青く染まっていくのを眺めていた。

 一週間前まで重く湿っていた空気が、夏の到来とともに一気に乾き始めている。短い梅雨の終わりが告げられたのは、つい昨日のことだった。

 

 ヴィクトリアマイルから、一ヶ月。

 

 ハクセツの完全休養は順調に進んでいる。

 ヴィクトリアマイルの後、彼女の脚に残っていた疲労は完全に抜け落ち、現在は俺の組んだ自主練で体を動かしている。

 秋の再始動までは、こちらから強く干渉する必要もない。

 

 代わりに、俺の朝の時間はデビュー前のジョセツのトレーニングに移っていた。

 

「春日、おはようさん」

 

 背後から声がかかる。

 振り返ると、ジャージ姿の宝塚が片手を上げて歩いてくる。続いて、彼の後ろから二人のウマ娘が顔を出した。

 

「春日さん、おはようございます!」

「お、おはようございます……」

 

 ジョセツは普段通りの明るさで弾むような挨拶を、ヤマナラシは少しだけ緊張した面持ちで頭を下げる。

 

 俺は短く頷いて答えた。

 

「では、軽く流しから始めましょう」

 

 

 ジョセツとヤマナラシの併走トレーニングは、ここ数週間ですっかり朝の定例になっていた。

 

 元はと言えば、宝塚から持ちかけられた話だった。「ヤマナラシちゃんってジョセツちゃんと一緒に走らせたら伸びる気がするんよ」と、ある日の夕方にトレーナー室にやってきて声をかけられたのだ。

 俺もジョセツの調整に併走相手が必要だったところで、利害が完全に一致した。

 

 ターフの上を、二つの影が並んで滑り出していく。

 

 ジョセツの走りは、相変わらず観る者の意識を惹きつけて離さなかった。技術的にはまだ未熟で、フォームも荒削りだ。

 にもかかわらず、彼女が芝を蹴るたびに、隣で走るヤマナラシも、コースの脇で見守る俺たち二人のトレーナーも、自然と視線を引き寄せられてしまう。

 

 ハクセツの末脚が、すべてを撫で斬る研ぎ澄まされた刃だとすれば、ジョセツの走りは、観る者を巻き込む引力そのものだった。同じ姉妹であっても、走りの本質が驚くほどに対照的だ。

 

 その引力に応えるように、ヤマナラシのフォームにも以前にはなかった伸びやかさが宿り始めていた。控えめだった彼女の脚捌きが、ジョセツに引っ張られるようにして少しずつ大きくなっている。臆病で、引っ込み思案で、けれど確かに芯を持つこのウマ娘は、ジョセツという温かな引力に触れることで、自分自身の走りを少しずつ解放させつつあった。

 

 俺はストップウォッチを片手に、二人の軌跡を双眼鏡で追っていた。隣では宝塚も同じように二人の走りを見つめ、軽く口笛を吹いている。

 

「ええ感じやな、二人とも」

「ええ。仕上がりは順調です」

 

 俺が短く返すと、宝塚はちらりとこちらを見て、ふっと表情を緩めた。

 

「春日、ジョセツちゃんのデビュー、目処は立ったんか?」

「八月後半を考えています」

「八月後半……」

 

 宝塚は片眉を上げ、それから「奇遇やな」と声を上げた。

 

「ヤマナラシちゃんも八月後半や。中京のジュニア戦でデビューさせる予定でな、今ちょうどそこに合わせて仕上げとる最中や」

 

 今度は俺が眉を上げる番だった。手元のバインダーには、ジョセツのデビュー戦として中京の同じ日程が記されている。

 

「……同じ週末、同じ中京ですね」

「知り合い同士でデビュー戦ってのもオツなもんやけど、土日でデビュー戦を分けへんか? そやったら互いの走りを見届けられるで」

 

 宝塚はターフの方へ視線を戻した。視線の先では、ジョセツとヤマナラシが息を合わせるように並走を続けている。

 

 トレーナー同士で担当ウマ娘の調整は独立して進めるべきだ──トレーナー育成学校で教えられたことを、俺は今でも頭の片隅に持っている。担当外のウマ娘の育成に関与することは、利害関係や責任の所在を曖昧にする。それが原則として正しいことに、今でも異論はない。

 

 だが、ハクセツとヤマナラシ。同期トレーナーの担当ウマ娘同士が併走を始めたあの冬の練習が、互いの走りに何をもたらしたか、俺はこの目で見てきた。

 

 ジョセツとヤマナラシ。この二人もまた、同じ土壌で芽を伸ばしていく時間を共有することで、互いに思わぬ高みへと押し上げられていくのかもしれない。

 

「……いいだろう。土曜にジョセツ、日曜にヤマナラシ。中京で、それぞれの初陣を並べよう」

「決まりやな」

 

 宝塚は満足げに頷き、再びターフの方へ視線を戻した。

 並走するジョセツとヤマナラシの間に、まだ言葉にならない何かが芽吹き始めているのを、俺たちは黙って見守った。

 

 

 それから一週間ほど経った、七月中旬の夕方のことだった。

 

 俺は宝塚に連れられて、阪急沿線の路地裏にある古びた洋食屋に来ていた。

 背後にはハクセツ、ジョセツ、そして少し緊張した面持ちのヤマナラシが続いている。

 

「いらっしゃいませ、宝塚様。お席はあちらでございます」

 

 白いシャツに蝶ネクタイを締めた老齢の店主が、慣れた様子で頭を下げ、店の奥にある個室へと案内した。

 木戸を引き開けると、そこは古い洋館の一室を思わせる落ち着いた空間で、四方を高い壁に囲まれた静謐な個室だった。中央には磨き込まれた木製のテーブルが置かれ、その上には磨かれた銀のカトラリーが整然と並べられている。

 

「ええ店やろ? 戦前から続く老舗でな、知る人ぞ知る隠れ家や。今日はハクセツちゃんのヴィクトリアマイル優勝祝いやから、ええ加減な店やったら俺が許さへん」

 

 宝塚は満足げに胸を張った。今日の祝勝会のセッティングは、合同トレが決まったあの日から数日かけて、彼が一人で全部組んでくれたものだ。

 

 席につくと、マスターが黒板に書かれたお薦めの献立を一通り読み上げて去っていった。デミグラスソースの効いたビフカツ、海老フライ、舌平目のムニエル、そして看板の手作りハヤシライス。どれも長く守り続けているという一品らしい。

 

「ヴィクトリアマイル優勝と、ヤマナラシちゃんとジョセツちゃんのデビュー戦決定──二重の祝いや! よっ、乾杯!」

 

 宝塚が冷たい麦茶のグラスを高く掲げる。今日は担当ウマ娘たちも一緒だ。

 祝いの席とはいえ、今日はビールには手を伸ばさなかった。俺もそれに倣って、手元の麦茶の入ったグラスを軽く合わせる。ハクセツ、ジョセツ、ヤマナラシも、それぞれのニンジンジュースのグラスを慎ましく持ち上げた。

 

 乾杯の音が、静かな個室にささやかに響いた。

 

「うわぁ、お肉が分厚いです……!」

「ジョセツさん、これ……見たことないお料理です……」

 

 運ばれてきたビフカツとデミグラスソースの香りに、ジョセツは目を輝かせ、ヤマナラシは恐る恐るカトラリーに手を伸ばしている。普段の阪神校の食堂では、ここまで本格的な洋食に触れる機会はほとんどない。二人にとっては未知の食事体験のようだった。

 

 ハクセツは、対照的に静かだった。

 

 ビフカツに無言でナイフを入れ、ゆっくりと一口を運ぶ。表情に大きな変化はないが、二口目に入るときの間合いがほんの少しだけ短くなった。彼女なりの「悪くない」というサインを、俺は黙って読み取った。

 

 ジョセツは初めて食べる海老フライの大きさに目を丸くし、「サクサクですね……!」と感嘆の声を漏らしている。ヤマナラシも少しずつ慣れてきた様子で、舌平目のムニエルに丁寧にナイフを入れていた。宝塚に至っては、ビフカツの一皿を瞬く間に平らげ、追加を注文する勢いだ。

 

「春日も食え。今日は春日の祝いの席でもあるんやで」

「ええ」

 

 宝塚は冷たい麦茶を一口飲み、満足げにふぅと息を吐いた。

 

 俺は手元のナプキンを開きながら、視線をそっとテーブルの上に巡らせた。賑やかな声を上げるジョセツ、おずおずと笑うヤマナラシ、そして静かにナイフを動かすハクセツ。担当・非担当を問わず、阪神校で関わってきた三人のウマ娘が、こうして一つのテーブルを囲んでいる。

 

 育成学校で教えられた原則からすれば、この光景は確かに曖昧かもしれない。

 

 だが、悪くない曖昧さだ。

 

 

 食事が中盤に差し掛かった頃、宝塚は徐に懐から折り畳んだ新聞を取り出し、隣に座る俺の方へとそっと広げて見せた。

 

「そういえば春日、これ見たか?」

 

 朝刊のスポーツ欄。海外電という小さな見出しの脇に、スピードシンボリという活字が躍っている。

 

「シンボリ家のウマ娘や。来週、英国で走るんやと」

「英国、ですか」

「アスコットのキングジョージや。海の向こうの、さらにまた向こうのGⅠ」

 

 宝塚は麦茶を一口含み、声をひそめるように続けた。

 

「先頃、ホテルニューオータニで会見までやったらしいで。シンボリ家が『日本だけでレースをやっとるのは残念や、国際性のあるレースがしたい』って堂々と語ったそうや。日本のウマ娘が向こうのGⅠに挑むなんて、聞いたことないわ」

 

 俺は新聞を覗き込み、わずかに目を細めた。

 

 海外電の小さな囲み。スピードシンボリの名前と、19歳という年齢、天皇賞春と京都大賞典などが勝ちレースという短い戦績紹介。記事はそれだけだった。

 

「……海を渡る、か」

「ラジオ短波で実況も入るらしい。物好きなおっさんはこぞって聞くやろなぁ」

 

 宝塚は半ば呆れたように、半ば羨ましそうに首を振った。

 

「春日も聞くか? 夜中になるけど」

「……いえ、結果だけ後で知れば十分です」

 

 短く返した俺の言葉に、宝塚は「お前らしいなぁ」と笑った。

 

「すごいですね、海の向こうですか!」

 

 ジョセツが身を乗り出し、テーブル越しに新聞を覗き込んで声を上げた。隣ではヤマナラシも、興味深そうに小さく首を伸ばしている。

 

 俺の向かいに座るハクセツは、視線を上げることもなく、ただ静かにナイフを動かし続けていた。

 しかし、その手の動きの中に、わずかな間合いの変化があったように見えた。それが何を意味するのか、今の俺にはまだ測りかねた。

 

 その後の食事は、再び穏やかな空気の中で進んだ。

 

 デザートのプリンが運ばれてくる頃、ジョセツがふと顔を上げた。

 

「お姉ちゃん、わたしね。ヴィクトリアマイルでお姉ちゃんが走ってるの見て、ほんとうに、すごく嬉しかったの」

 

 唐突な発言だったが、その声には飾り気のない真っ直ぐな響きがあった。ジョセツは小さなプリンの皿を両手で持ったまま、姉の方を見つめている。

 

「だから、わたしも頑張る。来月のデビュー、ちゃんと走ってくる」

「……ええ。期待しておくわ」

 

 ハクセツは短く返した。声色は普段通りの素っ気なさだったが、僅かに口元が緩んでいるのを、俺は確かに見て取った。

 ヤマナラシは、その姉妹のやり取りを羨ましそうに、けれどどこか温かい眼差しで眺めていた。

 

「わたしも、頑張りますっ……」

 

 ぽつりと、彼女もまた小さく宣言した。普段の控えめな彼女からすれば、これは精一杯の意思表示だっただろう。宝塚が隣で「おう、その意気や」と頬を緩めた。

 

 

 店を出ると、阪急沿線の路地裏には夕暮れの薄紫の空が広がっていた。夏の夕方特有の、湿気と乾きの混じった生暖かい風が頬を撫でていく。

 

 ジョセツとヤマナラシは並んで歩き、何かを話しながら時折クスクスと笑い合っていた。ハクセツはその少し後ろを、いつものように静かに歩いている。

 俺は歩調をわずかに緩め、隣に並んだハクセツに、ぽつりと声をかけた。

 

「……宝塚を見ていて、思いました。あなたに、まだ伝えていなかった言葉があったと」

 

 ハクセツは少しだけ視線をこちらに向け、小さく首を傾けた。

 

「ヴィクトリアマイル、おめでとうございます」

 

 ハクセツは少しだけ視線を伏せ、ふっと口元を緩めた。

 

「……今頃、ね」

 

 声色は普段通りの素っ気なさだったが、その一言には微かに楽しげな響きが混じっていた。

 

「ええ夜やな、春日」

「ええ」

 

 少し前を歩いていた宝塚が、誰に言うでもなく呟いた。俺も短く答え、夕焼けに溶けていく西の空へと視線を上げた。

 

 ヴィクトリアマイル制覇から、一ヵ月。

 あの府中の直線で頂点へ到達した一人の刃。来月の中京で初陣を迎える二人の若い芽。そして、来週、海を渡るというウマ娘。

 俺の視野の中に、いつの間にか、ずいぶんと多くの走り手が映るようになっていた。

 

 夏が、本格的に始まろうとしている。

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