ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
九月の最初の週。
阪神校の朝は、夏の終わりの蝉しぐれと、わずかに乾き始めた風が混じり合う、奇妙な季節の境目にあった。
わたしはトレーナー室の前に立っていた。
昨日、トレーナーから告げられた。今日の昼休みに秋の再始動について話したいから、トレーナー室に来てほしい——。
短い、いつもの言葉だった。
ヴィクトリアマイル制覇からおよそ三ヶ月。
六月の始め、わたしは一度実家に戻った。梅雨の前の千葉で、ぼんやりと過ごす数週間。家族と顔を合わせ、地元の海風に当たり、刃を一度、鞘に納めるような日々だった。
七月に阪神校へ戻ってからも、本格的に身体を追い込むようなことはしていない。
朝の散歩、午後の軽いジョギング、整体、栄養管理。刃を研ぐ作業からは、しばらく遠ざかっていた——それだけの日々が、こんなにも長く感じられたのは初めてだった。
もう走りたい。刃を、研ぎ直したい。
その熱が、肌の奥でじりじりと滾り始めている。
わたしは扉を、軽く二度ノックした。
応えはなかった。
もう一度、少し強めに叩いてみる。やはり、返事はない。
わたしは小さく舌打ちをして、扉のノブに手をかけた。トレーナーが呼んだのだから、不在だとしても、後で戻ってくるはずだ。先に部屋で待っていればいい。
扉を開けると、室内は静かだった。
窓は半分ほど開いていて、レースのカーテンが、初秋の風にゆっくりと揺れている。机の上には、開かれたバインダーと、まだ湯気の余韻を残しているマグカップ。
ほんの少し前まで、トレーナーがこの椅子に座っていた痕跡が、室内のあちこちに残っていた。
……トイレか、それとも宝塚トレーナーに呼ばれでもしたか。
わたしは小さく息をついて、ソファに腰を下ろそうとした。
その時、視界の端で、机の上のもう一つの紙面が目に入った。
スポーツ紙。
読みかけていたものらしく、一面が見えるように広げられたまま、バインダーの隣に放られている。
わたしは、特に意識もせず、その紙面に視線を落とした。
そして、見覚えのある名前が、見出しの真ん中に大きく印刷されているのを見た。
——スピードシンボリ、凱旋門賞へ。
わたしはソファに腰を下ろすのをやめて、机のすぐ脇まで歩み寄った。
別に、興味があるわけではなかった。
ただ、スピードシンボリという名前は、これまでにも何度か耳にしたことがあった。中山校所属。63世代の先輩。日本のウマ娘として欧州へ渡った先駆者——わたしとは、戦場も、世代も、何ひとつ重なるところのない存在だ。
わたしは、紙面に視線を走らせた。
先月のドーヴィル大賞典——フランスのGⅡを制したらしい。日本のウマ娘による欧州GⅡ初制覇。その前の月、英国のGⅠ、KGVI & QESでは十三着惨敗を喫している。
そして次は、十月の凱旋門賞。
わたしは、その記事をなぞるように読み進めていた。
別に、興味があるわけではなかった。
ただ、紙面の中ほどに小さく囲まれて掲載されていた、スピードシンボリ本人のコメントに、視線が止まった。
『世界で戦うために、ここまで来ました』
短い一行だった。強い言葉でもなければ、派手な言葉でもなかった。
ただ、その言葉を発した者の足元には、ひとつだけ、紛れもない事実が積み重なっていた。
わたしは、自分の指先が新聞の余白の上で止まっているのに気づき、すぐに引っ込めた。
……何を、考えているのか。
わたしは一度頭を振って、ソファへ向かった。
腰を下ろした拍子に、ソファの背もたれが軽く音を立てた。窓の外で、夏の終わりの蝉が、まだ鳴き続けていた。
ソファに腰を下ろしてからどれくらい経っただろうか。
廊下を歩く足音が聞こえてきた。一定のリズム、無駄のない歩幅。聞き慣れた足音だった。
ノブが回り、扉が開く。
「すみません、宝塚に呼ばれていまして」
トレーナーはいつも通りの声でそう言いながら、室内に入ってきた。手に短いメモを持っている。宝塚トレーナーから何か聞かされてきたらしい。
「お待たせしました、ハクセツ」
わたしは、何も言わずに頷いた。
トレーナーは、わたしに軽く目礼だけして、机へと回り込んだ。そして机に着く前に、まず机上を整え始めた。
マグカップを脇へ寄せる。開いたままのバインダーを軽く整える。
そして、放られたままだったスポーツ紙に、視線を一拍だけ落とした。
ほんの一拍。
次の瞬間には、彼は普段通りの所作で紙面を端から折り重ねていった。一面が見えなくなり、二面、三面と隠れていって、最後には四つ折りの整った長方形になった。机の脇のラックに、静かに収まる。
わたしは、その所作を視野の端で追っていた。
ただ机を整えただけだ、と頭の中で言い聞かせる。
「ハクセツ」
トレーナーは椅子に腰を下ろし、こちらを向いた。
「秋からの再始動について、いくつかお伝えしておきたいことがあります」
「……ええ」
わたしは短く応じた。
トレーナーは、机の上のバインダーを開き、わたしの方に少しだけ傾けた。
几帳面な字で書かれた、線表のようなもの。日付と、横軸にメニューが並んでいる。
「九月の第二週から、徐々に強度を戻していきます」
ペン先が線表の上をなぞる。
「まずは軽い動きの範囲を広げて、心肺の感覚を戻す。第三週で坂の上り下りを織り交ぜ、第四週から本格的に、刃を研ぐ作業に戻ります。十月の第二週には、一度仕上がりを確認する場を設けようと考えています」
ペン先は淡々と日付を滑っていった。
計算され尽くした線表だった。休養明けに無理をさせず、しかし鈍ったままで秋を迎えさせるつもりもない。三ヶ月のブランクを五週かけて綺麗に埋めようとしている。
わたしは線表を一通り眺めて、軽く頷いた。
「分かったわ。それで」
「ええ」
ペン先が線表の十一月の欄に移った。
「秋の目標について、そろそろ決めなければなりません」
線表の右側、十一月の三週目と四週目に、二つの○印が並んでいる。
その下に、几帳面な字。
——エリザベス女王杯
——マイルチャンピオンシップ
ヴィクトリアマイル制覇の翌日、トレーナーから告げられた、二つの選択肢。
あの時、わたしは即答した。どちらの道を進むにせよ、わたしの刃がすべてを撫で斬りにする——そう答えた。それで終わるはずだった。
「どちらかの出走しか許可できない、と前にあなたは言ったわね」
「はい」
トレーナーの目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「日程が近接しすぎています。両方を全力で戦うのは、あなたの身体に対しても、刃の精度に対しても、最適解ではありません」
わたしは線表の二つの○印を、もう一度見た。
いつものわたしなら、ここで何のためらいもなく答えていたはずだった。
現にあの日、わたしはほぼそう答えた。「どちらに進むにせよ」、と。
けれども今、わたしの口は、その種の答えを発する寸前で、なぜか止まっていた。
……世界で戦うために、ここまで来ました。
頭の隅で、さっきの一行が、また響いた。
関係のないはずだった。関係のないはずなのに、その一行が、小さな棘のように、わたしの即答を遮っていた。
「……少し、考えさせてもらえる?」
気づけば、わたしの口は、その言葉を発していた。
言ってから、自分でも驚いた。即答できないわたしを、わたし自身が一番、不審に思っていた。
トレーナーの眉が、わずかに動いた——いや、ほとんど動かなかったかもしれない。
ただ、こちらを見る眼差しの温度が、ほんの一段、深くなったような気がした。
「ええ、構いません」
彼は淡々とそう応えた。
「期日は、九月末までにお願いします。本格的な追い切りが始まる前に、ご返答いただければ十分です」
「……ええ」
「秋からの再始動については、以上です。何か質問は?」
わたしは、首を横に振った。
トレーナーは、バインダーを閉じて机の上に静かに置いた。
会話は、五分にも満たなかった。
わたしはソファから立ち上がり、扉へ向かった。ノブに手をかけて、振り返らずに短く告げた。
「お疲れさま」
「ええ。お疲れさまでした、ハクセツ」
扉を閉める。
廊下に出て、わたしは数歩進んで、立ち止まった。
わたしの口が、なぜ「少し、考えさせてもらえる?」と発したのか——その理由を、わたしは自分でもまだ、言葉にできずにいた。
ただ、机上のラックに片付けられた、四つ折りの新聞の輪郭だけが、なぜかまだ、目の奥に残っていた。
窓の外で、夏の終わりの蝉が、まだ鳴き続けている。
◆
放課後の阪神校。
ホームルームを終えた教室には、ぽつぽつと話し声が残るくらいで、ほとんどのウマ娘たちはもう練習へと散っていた。
午後の授業は、ほとんど耳に入らなかった。トレーナー室を出てから、新聞の見出しの一行が、頭の片隅で時々騒いだ。
わたしは自分の鞄から、読み終えたばかりの文庫本を取り出した。山本周五郎『さぶ』。表紙の角が、わたしの掌の中で少し丸くなりかけている。
春のヴィクトリアマイルが終わってから、こうして文庫本を読むのが日課のようになってしまった。読まないでいるとなんとなく落ち着かない、と感じるくらいには。
席を立ち、教室の窓際の方へと歩み寄る。
この娘は、こちらに踏み込んでこない。だからわたしも、構える必要がない。それを楽だと感じている自分を、深く考えたことはなかった。
この娘――ミスマルミチは自分の机で、いつもと変わらぬ姿勢で何か書き物をしていた。栗色の長い髪を緩く一つに結い、午後の光が、その横顔を柔らかく縁取っている。
「ごきげんよう、ハクセツさん」
わたしの足音に気づいた彼女は、ペンを置いてゆっくりとこちらを向いた。
「これ、ありがとう。とても良かったわ」
わたしは机の上に文庫本をそっと置いた。
ミスマルミチは小さく微笑み、その本を両手で受け取った。
「ふふ、お気に召して何より。栄二は、いかがでしたの?」
「……愚かだったわ。最後の最後まで」
わたしは少し考えてから、そう答えた。
「でも、愚かしさが、あの男の最も真っ直ぐな部分だったのかもしれない」
ミスマルミチは瞳を細め、ふっと笑みをこぼした。
「ハクセツさんは、いつも栄二やさぶみたいな登場人物がお好きなんですのね」
「……それは、わたしの好みじゃなくて、あなたの選書の偏りでしょう」
「あら、見抜かれていましたの?」
軽い応酬。それだけのこと。
わたしは内心で、昼の動揺がまだ尾を引いていることを誰にも見せまいと、いつもより少しだけ口を意識して動かしていた。
ミスマルミチは文庫本を引き出しの奥に丁寧に仕舞い、それから何か思い出したように顔を上げた。
「そういえば、秋は、どの舞台にいらっしゃるの?」
あくまで何気ない口調だった。挨拶の延長線上にあるような、ふんわりとした問い。
わたしの口は、いつもなら短く答えていたはずだった。エリザベス女王杯、あるいはマイルチャンピオンシップ、と。
けれども、わたしの口は、止まった。
「……まだ、決まっていないの」
言ってから、自分でも嫌な感じがした。
昼にトレーナー室で発した一言が、まだ熱を持ったまま、舌の上に残っているような、そんな気分。
ミスマルミチの薄い眉が、わずかに上がった。
「あら……」
彼女はそのまま少し沈黙し、わたしの顔を一拍だけじっと見た。
「珍しいですわね。あなたが、決めかねていらっしゃるなんて」
静かな声だった。咎める色も、面白がる色もない。ただ、事実として珍しい、とだけ告げる声。
わたしは肩をすくめた。意識して、軽く。
「ええ。十一月の三週か、四週か。トレーナーが、どちらか一方しか出走できないと言うものだから」
わざと事務的に告げた。
会話を、ここで終わらせたかった。「あら、それは大変ですわね」と相槌でも返してくれれば、わたしは礼をして自分の席に戻る。それで一日が終わるはずだった。
けれども、ミスマルミチは、相槌の代わりに、少しだけ間を取った。
「エリザベス女王杯と、マイルチャンピオンシップ、ですわね」
わたしは、わずかに目を見開いた。
わたしは具体的なレース名は出していなかった。「十一月の三週か、四週か」とだけ言ったはずだ。
ミスマルミチは、わたしの反応に少しだけ薄く微笑んだ。
「ハクセツさんの実績を考えますと、その二つの日付を耳にすれば、何のレースか分かりますわ」
なるほど。
わたしは小さく息を吐いた。言われてみればそうだ。
「同じ京都ですわよね。エリザベス女王杯も、マイルチャンピオンシップも」
「……ええ」
「同じ京都の、けれども別の場所ですわね」
ミスマルミチは、独り言のような調子でそう言った。
わたしは机の縁に指を置いたまま、その言葉を反芻した。
同じ京都の、別の場所。
言われてみれば、当たり前のことだった。同じレース場の同じ芝でも、距離が違えば、戦場の性質はまったく違う。だからティアラ路線と路線混合レースでは、対峙する相手も、レースの作りも別物になる。
頭では分かっていた。けれどその「違い」を、わたしは今まで意識したことがなかった。
わたしの刃は、どちらでもすべてを撫で斬る。
それで終わるはずだった。
「……あの」
ミスマルミチが、ふと、少しだけ姿勢を変えた。
「不躾なお話ですけれど」
いつもの前置きだった。
「一年前のローズステークス、覚えていらっしゃる?」
わたしは、視線を彼女に戻した。
「……ローズステークス?」
「ええ。昨年の九月、阪神の芝1800。……わたくしも走っていましたの」
ミスマルミチは小さく微笑んだ。
わたしは、机の上の指を、わずかに動かした。
昨年のローズステークス。わたしが地方から移ってきて、初めて勝った中央の重賞。
大外を回って、最後の直線で先頭集団を一気に撫で斬りにした、あのレース。
あの日、わたしが背中越しに置き去りにしたバ群の中に、目の前のミスマルミチがいたのか。
「……知らなかったわ」
「ええ、当然ですわ。あなたは前だけを向いていらしたのですから」
ミスマルミチは、淡々とそう言った。皮肉でも、嫉妬でもない、ただ事実を述べる口調。
「同じ追込脚質でしたの。けれど、わたくしの脚は、あの日、何ひとつ繰り出せませんでした」
彼女は瞳を細め、わずかに窓の外へと視線を泳がせた。
「あなたの末脚は、わたくしの後ろにいたわたくしから見ても、別の生き物のようでしたわ。同じ脚質のはずですのに」
わたしは何も言わなかった。
なんと答えればいいのか、分からなかった。
「ふふ、申し訳ありません。昔の話を、いきなり」
ミスマルミチは小さく頭を下げ、机の上で手を組み直した。
それから、少しだけ、声のトーンを落とした。
「……わたくし、本当は、桜花賞に出たかったんですの」
わたしは、少しだけ視線を上げた。
「あの春のフィリーズレビュー、十二着でした。それで桜花賞の本戦には乗れませんでしたの。秋には、もう一度京都に挑みましたわ。ローズステークス。あなたが大外から駆け抜けた、あの日。わたくしは、本戦の秋華賞にも、結局乗れませんでした」
ミスマルミチは、机の縁に置いた指を、ゆっくりと撫でた。
「ティアラの三冠。桜花賞、オークス、秋華賞。わたくしは、その三つのターフのどこにも、立てませんでしたの」
彼女の声には、悲哀も、自己憐憫もなかった。ただ淡々と、事実だけを並べる声。
「だから、というわけではないのですけれど」
ミスマルミチは、わたしを見た。
「あなたが秋華賞で三着まで届いたあの日、わたくしは寮のテレビの前で、ぼんやり拝見しておりましたの」
わたしは、その瞳を見返した。
「ただ、それだけの話ですわ」
会話が、ぽつりと途切れた。
わたしの中で、何かが、ゆっくりと動いていた。動いているのは確かなのに、それが何なのか、まだ言葉にできない。
ティアラの三冠。
その三つのターフのどこにも立てなかった同期。
わたしが大外から撫で斬りにしたあの日、最後方にいた者の一人。
わたしが「無自覚に」歩いてきた道を、彼女は「強く憧れて、届かなかった」者として歩いていた。
同じ場所にいたのに、二人が見ていたものは、たぶん、まったく違うものだった。
「……そう」
わたしは、それだけを返した。
他に、何も言えなかった。
ミスマルミチは小さく微笑み、机の上で軽く頭を下げた。
「お引き留めしてしまって、申し訳ありません。秋のお決断、ご無理なさらず」
「……ええ」
わたしは短く頷き、自分の鞄を肩にかけた。
「次の本、お決まり?」
扉に向かいかけたわたしの背中に、ミスマルミチが穏やかな声を投げかけた。
「……あなたの選書に任せるわ。今までもそうだったから」
「ふふ、ありがとう存じます」
わたしは振り返らずに、教室の扉を開けた。
廊下に出ると、放課後の校舎は静かだった。
午後の光が、廊下の床に長い斜めの影を落としている。
わたしは、扉を閉めてから、二、三歩進んで、立ち止まった。
昼にトレーナー室を出たときも、こうやって立ち止まった。
あのときは、新聞の見出しの一行が頭に残っていた。今度は、目の前の同期の声が、まだ耳の奥にある。
同じ京都の、別の場所。
ティアラの三冠の、どこにも立てなかった者。
わたしの刃は、どちらでもすべてを撫で斬る——本当に、そう言い切れるのか。
今日まで、ためらいなくそう言えていたはずのことが、たった半日のうちに、わずかに位置をずらしている。
誰も歩いていない廊下で、わたしは小さく舌打ちをした。
答えは、まだない。
ただ、窓の外の蝉の声が、いつのまにか、少しだけ細くなっていた。
◆
夜になっても、空気はまだ熱を残していた。
けれども、窓を細く開ければ、夏の盛りには感じなかった澄み方が、確かに混じり始めている。蝉の声はずいぶん遠くなり、代わりに、まだ覚束ない虫の鳴き声が、芝の彼方から細く届いていた。
わたしは寮の自室で、机に向かっていた。
手元の文庫本——ミスマルミチが今日返してきた『さぶ』ではなく、彼女が新しく選んでくれた一冊——を開いてはいたが、文字はほとんど目に入っていなかった。
同じ行を、もう何度も読み返している。
頭の中の半分は、まだ昼のトレーナー室と、午後の教室を行き来していた。
向かいのベッドの端では、ヤマナラシがノートに向かって何か書きつけていた。
普段、寝る前の静かな時間に、彼女は読書か、こうしてノートに何かをまとめている。今夜のノートは、いつもより長く開かれているように見えた。
わたしは脇灯を少しだけ強め、文庫本のページから視線を上げた。
「ヤマナラシ」
「は、はい」
声をかけられて、彼女はわずかに肩を跳ねさせた。
「ずいぶん書き込んでいるのね」
「あ……ええ、はい。デビュー戦の、録画の感想を、まとめていて」
ヤマナラシは少し躊躇った後、ノートをそっと閉じた。
「あの……ハクセツさん」
「何」
「デビュー戦の、わたしの走り——」
ヤマナラシは膝の上で指を組み、視線をわずかに落とした。
「録画を、何度か見直したんです。タイムは出ていたし、勝ったから、宝塚トレーナーも褒めてくださって。でも」
「でも?」
「あの走り、わたしのものじゃない気がして」
わたしは文庫本のページから視線を上げた。
「ジョセツさんが前の日に見せた走り、覚えていますか。中京のメイクデビュー」
「ええ」
「あれを、わたし、本能で、なぞってしまったんです。多分」
ヤマナラシはそこで言葉を区切り、ふっと息を吐いた。
「自分の走りを見つける前に、誰かの走りを、先に身体で覚えてしまった気がして」
わたしは、机の上に肘をついて、ヤマナラシを見た。
彼女の声には、卑下も、嘆きも、混じってはいなかった。ただ、自分の身体に起きた事実を確かめている、それだけの声だった。
「ヤマナラシ」
「はい」
「あなたの走りが、あなたのものでなくなった、と思っているの?」
「……分かりません。けれど、自分のものだとも、まだ言い切れません」
わたしは少しだけ間を置いて、文庫本を閉じた。
「なぞる、ことが悪いとは思わないわ。誰だって、最初は誰かの背を見て走るのよ」
言いながら、わたしは胸の内で、自分の言葉に少しだけ違和感を覚えた。
誰だって、と簡単に括れる類の話だろうか。少なくともわたしは、誰かの背を見て走った覚えはない。地方の十六戦、わたしの脚を作ったのはわたし自身の意志だけだったはずだ。
けれども、と思う。
わたしが「誰の背も見なかった」のは、本当に意志だったのか。それとも——周りに見るべき背が、ただいなかっただけなのか。
「大事なのは」
わたしは、その違和感を一度脇へ置いて、ヤマナラシに向き直った。
「なぞった軌道の上で、いつか自分の脚で蹴り直すこと。それができれば、もう誰かの走りじゃない。あなたの走りよ」
ヤマナラシはわたしをじっと見つめた後、ふっと、肩の力を抜いたように笑った。
「ハクセツさんに、そう言ってもらえると、不思議と落ち着きます」
「……それは、よくないわ」
「え?」
「他人の言葉で落ち着いたままにしないで。自分の足の感覚で確かめて、確かめて、それでも残ったものを、自分のものと呼びなさい」
ヤマナラシは目を瞬かせ、それから、もう一度小さく頷いた。
「……はい。ありがとうございます」
彼女はノートを閉じ、ベッドの脇灯を残して、布団の中に身を滑り込ませた。
「おやすみなさい、ハクセツさん」
「おやすみ」
しばらくして、ヤマナラシの寝息が、規則的になり始めた。
わたしは脇灯の明かりを少しだけ絞り、机の上の文庫本を脇へ寄せた。
窓の外を見た。
月は半分ほどに欠けていたが、九月の夜気の中で、その輪郭は妙にくっきりとしていた。
六甲の稜線が、月の光で薄く銀色に縁取られている。
わたしは椅子の上で軽く脚を組み直し、目を閉じた。
ヤマナラシの言葉が、まだ室内に残っているような気がした。
——自分の走りを見つける前に、誰かの走りを、先に身体で覚えてしまった気がして。
わたしは、その一言を、何度か胸の中で反芻した。
ヤマナラシは、ジョセツの走りをなぞった。
なぞったことを自分で気づいて、それを「自分のものではない」と捉え、確かめようとしている。
その姿は、わたしから見れば、ずいぶん健全に映った。
なぞったことを悪いと決めつけず、しかしこれで自分の走りができたと勘違いもしない。確かめながら、ゆっくりと、自分の脚を作っていく道筋。
——では、わたしは。
わたしは、なぞらなかった。
地方の十六戦も、転入してからの中央のレースも、わたしの脚はわたしの脚だった。誰の背も追わず、ただ自分の刃を研ぎ、ただ自分の意志で振り抜いてきた。
そう思っていた。
けれども、今日の午後、ミスマルミチが教室でわたしに言った。
——同じ京都の、けれども別の場所ですわね。
——あなたが秋華賞で三着まで届いたあの日、わたくしは寮のテレビの前で、ぼんやり拝見しておりましたの。
——ティアラの三冠。わたくしは、その三つのターフのどこにも、立てませんでしたの。
わたしは机の縁に置いた指先を、わずかに動かした。
ティアラ路線。
わたしが無自覚に走ってきた場所。
そこへ憧れて届かなかった同期がいて、その横を、わたしは何の意識もなく駆け抜けていた。
誰の背も追わなかった——その自負は、間違ってはいない。
けれども、わたしがどの場所を走るかを、自分で選んだことが、これまでにあっただろうか。
地方時代、与えられたターフを走った。
中央に移ってからも、トレーナーが組んだローテーションの上を、ただ走った。
ティアラ路線という枠の中にいたことを、わたしは、つい今日まで、本当の意味では意識していなかった。
わたしは目を開けて、もう一度、月を見た。
半分の月が、夜気の中で、わずかに輪郭をふくらませた気がした。
——ヤマナラシは、なぞった軌道の上で、自分の脚で蹴り直そうとしている。
——わたしは、誰の軌道もなぞらなかった。けれども、与えられた地図を、ただ撫で斬りにしてきただけだった。
二人の場所は、まったく違う。
違うけれども、どこかで、同じ問いの前に立っている。
自分の走りを、自分のものと呼べるか。
その確かめを、一度でも、自分で行ったことがあるか。
わたしは、椅子の上でゆっくりと息を吐いた。
吐いた息が、夜気の中に薄く溶けていく。
エリザベス女王杯と、マイルチャンピオンシップ。
昼のトレーナー室では、「どちらでも撫で斬りにする」とは、もう言えなかった。
言えなかった理由が、今、わずかに見えかけている。
わたしが選ぶべきは、どちらが勝てるか、ではない。
わたしの刃を、どこに置けば、わたしの意志で振り抜いたと言えるのか。
その問いの方なのだ、たぶん。
答えは、まだない。
今夜のうちには、たぶん出ない。
けれども、今夜のうちに、問いの形だけは、わたしの中で固まりかけていた。
わたしは脇灯を消した。
部屋が、月明かりだけになった。
ヤマナラシの寝息と、虫の声と、夜気の澄み方が、それぞれの距離を保ちながら、静かに同じ室内に共存していた。
明日、トレーナーに何を伝えるか。
その答えはまだ持っていなかったが、答えへの道筋だけは、たぶん、もう外れない場所に立っている。
わたしは、ベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりと夜の中に沈んでいった。
◆
夜明け前のトレーナー室。
わたしは、早く着きすぎていた。
時刻はまだ、五時を少し過ぎたばかり。
昨日、教室を出て自室に戻ったあと、夜の中で問いの形だけが固まり、明け方近くに目が覚めた。そのまま二度寝するつもりも起きない。
外はまだ薄藍色だった。
寮の廊下も、トレーナー棟へ続く渡り廊下も、人の気配がほとんどない。九月の朝の冷たさは、もう半袖のシャツでは少し心許ない。
わたしは扉を、いつもより少しだけ強めにノックする。
応えはすぐにあった。
「ハクセツ?」
驚いた声、ではない。
ただ、こんな時間に立っているのが意外だ、という色の声。
わたしは扉を開けて、中に入った。
トレーナーは、机に着いていた。机の上には、すでに開いたバインダーと、湯気を上げ始めたばかりのマグカップ。誰よりも早く出てきて、誰よりも長く机に向かう——それが、この男の朝らしい。
「ずいぶん早いですね」
彼は短くそう告げた。
咎める色も、面白がる色もない、いつもの観察するような声。
「ええ」
わたしは扉を後ろ手で閉め、机の前まで歩み寄る。
立ったまま、口を開いた。
「決めたわ」
トレーナーはペンを置く。
そして、わたしの目を真っ直ぐに見上げてきた。
「エリザベス女王杯」
たった一語。
トレーナーの眼差しの温度が、昨日の昼よりも、また一段、深くなったような気がする。
「分かりました」
彼は短く応じる。
「では、十一月三週、京都・芝2200。今日からの調整は、その日に合わせて組み直します」
「ええ」
彼は、何も訊かない。
なぜそちらを選んだのか、なぜ今朝こんなに早く来たのか——その種の問いは、ひとつもなかった。
ただ、ペン先で線を引き、新しい日付に丸を打ち、淡々と次の作業に取りかかっている。
変な男だ、と思う。
昨日の昼、わたしが「考えさせて」と言ったときと、今朝、わたしが答えを持ってきたときと、彼の声の温度はほとんど変わらない。けれども、眼差しの奥のどこかだけが、わずかにずれている。
わたしは、それ以上は考えないことにした。
「他に何か」
「いいえ」
「それでは、午後にまたここへ。詳しいメニューはそこで」
「ええ」
わたしはわずかに頷き、扉へ向かう。
ノブに手をかけて、振り返らずに、短く告げた。
「お疲れさま」
「ええ。お疲れさまです、ハクセツ」
扉を閉め、廊下に出る。
昨日とは違って、足は止まらない。
渡り廊下を通って外へ出ると、東の空が、薄紫から橙へと色を変えかけていた。
校舎の向こう、六甲の稜線が、まだ青いシルエットのまま夜の名残を残している。
風は乾いている。夏の終わりの蝉の声はもうほとんど消えていて、代わりに、芝の上を渡ってくる風が、頬の輪郭をわずかに撫でて通り過ぎる。
わたしは、立ち止まって、その空を見上げた。
京都・芝2200。
ティアラ路線の、秋の頂点。
なぜそちらを選んだのか、わたしは誰にも語るつもりはない。
ただ、胸の内に、ひとつだけ残っているものがある。
わたしの刃の置き場所を、わたしが自分で選んだ。
それだけのことだ。
東の空が、橙から、わずかに金色を含み始める。
六甲の稜線が、その光に少しずつ縁取られていく。
わたしは、練習場へ向かって、ゆっくりと歩き出した。