ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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※ハクセツ視点


第十七話 先駆者

 九月の最初の週。

 阪神校の朝は、夏の終わりの蝉しぐれと、わずかに乾き始めた風が混じり合う、奇妙な季節の境目にあった。

 

 わたしはトレーナー室の前に立っていた。

 昨日、トレーナーから告げられた。今日の昼休みに秋の再始動について話したいから、トレーナー室に来てほしい——。

 短い、いつもの言葉だった。

 

 ヴィクトリアマイル制覇からおよそ三ヶ月。

 六月の始め、わたしは一度実家に戻った。梅雨の前の千葉で、ぼんやりと過ごす数週間。家族と顔を合わせ、地元の海風に当たり、刃を一度、鞘に納めるような日々だった。

 

 七月に阪神校へ戻ってからも、本格的に身体を追い込むようなことはしていない。

 朝の散歩、午後の軽いジョギング、整体、栄養管理。刃を研ぐ作業からは、しばらく遠ざかっていた——それだけの日々が、こんなにも長く感じられたのは初めてだった。

 

 もう走りたい。刃を、研ぎ直したい。

 その熱が、肌の奥でじりじりと滾り始めている。

 

 わたしは扉を、軽く二度ノックした。

 応えはなかった。

 

 もう一度、少し強めに叩いてみる。やはり、返事はない。

 わたしは小さく舌打ちをして、扉のノブに手をかけた。トレーナーが呼んだのだから、不在だとしても、後で戻ってくるはずだ。先に部屋で待っていればいい。

 

 扉を開けると、室内は静かだった。

 窓は半分ほど開いていて、レースのカーテンが、初秋の風にゆっくりと揺れている。机の上には、開かれたバインダーと、まだ湯気の余韻を残しているマグカップ。

 

 ほんの少し前まで、トレーナーがこの椅子に座っていた痕跡が、室内のあちこちに残っていた。

 ……トイレか、それとも宝塚トレーナーに呼ばれでもしたか。

 わたしは小さく息をついて、ソファに腰を下ろそうとした。

 

 その時、視界の端で、机の上のもう一つの紙面が目に入った。

 スポーツ紙。

 読みかけていたものらしく、一面が見えるように広げられたまま、バインダーの隣に放られている。

 

 わたしは、特に意識もせず、その紙面に視線を落とした。

 そして、見覚えのある名前が、見出しの真ん中に大きく印刷されているのを見た。

 

 ——スピードシンボリ、凱旋門賞へ。

 

 わたしはソファに腰を下ろすのをやめて、机のすぐ脇まで歩み寄った。

 別に、興味があるわけではなかった。

 ただ、スピードシンボリという名前は、これまでにも何度か耳にしたことがあった。中山校所属。63世代の先輩。日本のウマ娘として欧州へ渡った先駆者——わたしとは、戦場も、世代も、何ひとつ重なるところのない存在だ。

 

 わたしは、紙面に視線を走らせた。

 先月のドーヴィル大賞典——フランスのGⅡを制したらしい。日本のウマ娘による欧州GⅡ初制覇。その前の月、英国のGⅠ、KGVI & QESでは十三着惨敗を喫している。

 

 そして次は、十月の凱旋門賞。

 

 わたしは、その記事をなぞるように読み進めていた。

 別に、興味があるわけではなかった。

 ただ、紙面の中ほどに小さく囲まれて掲載されていた、スピードシンボリ本人のコメントに、視線が止まった。

 

『世界で戦うために、ここまで来ました』

 

 短い一行だった。強い言葉でもなければ、派手な言葉でもなかった。

 ただ、その言葉を発した者の足元には、ひとつだけ、紛れもない事実が積み重なっていた。

 

 わたしは、自分の指先が新聞の余白の上で止まっているのに気づき、すぐに引っ込めた。

 

 ……何を、考えているのか。

 

 わたしは一度頭を振って、ソファへ向かった。

 腰を下ろした拍子に、ソファの背もたれが軽く音を立てた。窓の外で、夏の終わりの蝉が、まだ鳴き続けていた。

 

 

 

 ソファに腰を下ろしてからどれくらい経っただろうか。

 廊下を歩く足音が聞こえてきた。一定のリズム、無駄のない歩幅。聞き慣れた足音だった。

 ノブが回り、扉が開く。

 

「すみません、宝塚に呼ばれていまして」

 

 トレーナーはいつも通りの声でそう言いながら、室内に入ってきた。手に短いメモを持っている。宝塚トレーナーから何か聞かされてきたらしい。

 

「お待たせしました、ハクセツ」

 

 わたしは、何も言わずに頷いた。

 トレーナーは、わたしに軽く目礼だけして、机へと回り込んだ。そして机に着く前に、まず机上を整え始めた。

 マグカップを脇へ寄せる。開いたままのバインダーを軽く整える。

 そして、放られたままだったスポーツ紙に、視線を一拍だけ落とした。

 

 ほんの一拍。

 次の瞬間には、彼は普段通りの所作で紙面を端から折り重ねていった。一面が見えなくなり、二面、三面と隠れていって、最後には四つ折りの整った長方形になった。机の脇のラックに、静かに収まる。

 

 わたしは、その所作を視野の端で追っていた。

 ただ机を整えただけだ、と頭の中で言い聞かせる。

 

「ハクセツ」

 

 トレーナーは椅子に腰を下ろし、こちらを向いた。

 

「秋からの再始動について、いくつかお伝えしておきたいことがあります」

「……ええ」

 

 わたしは短く応じた。

 

 トレーナーは、机の上のバインダーを開き、わたしの方に少しだけ傾けた。

 几帳面な字で書かれた、線表のようなもの。日付と、横軸にメニューが並んでいる。

 

「九月の第二週から、徐々に強度を戻していきます」

 

 ペン先が線表の上をなぞる。

 

「まずは軽い動きの範囲を広げて、心肺の感覚を戻す。第三週で坂の上り下りを織り交ぜ、第四週から本格的に、刃を研ぐ作業に戻ります。十月の第二週には、一度仕上がりを確認する場を設けようと考えています」

 

 ペン先は淡々と日付を滑っていった。

 計算され尽くした線表だった。休養明けに無理をさせず、しかし鈍ったままで秋を迎えさせるつもりもない。三ヶ月のブランクを五週かけて綺麗に埋めようとしている。

 

 わたしは線表を一通り眺めて、軽く頷いた。

 

「分かったわ。それで」

「ええ」

 

 ペン先が線表の十一月の欄に移った。

 

「秋の目標について、そろそろ決めなければなりません」

 

 線表の右側、十一月の三週目と四週目に、二つの○印が並んでいる。

 その下に、几帳面な字。

 

 ——エリザベス女王杯

 ——マイルチャンピオンシップ

 

 ヴィクトリアマイル制覇の翌日、トレーナーから告げられた、二つの選択肢。

 あの時、わたしは即答した。どちらの道を進むにせよ、わたしの刃がすべてを撫で斬りにする——そう答えた。それで終わるはずだった。

 

「どちらかの出走しか許可できない、と前にあなたは言ったわね」

「はい」

 

 トレーナーの目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。

 

「日程が近接しすぎています。両方を全力で戦うのは、あなたの身体に対しても、刃の精度に対しても、最適解ではありません」

 

 わたしは線表の二つの○印を、もう一度見た。

 

 いつものわたしなら、ここで何のためらいもなく答えていたはずだった。

 現にあの日、わたしはほぼそう答えた。「どちらに進むにせよ」、と。

 

 けれども今、わたしの口は、その種の答えを発する寸前で、なぜか止まっていた。

 

 ……世界で戦うために、ここまで来ました。

 

 頭の隅で、さっきの一行が、また響いた。

 関係のないはずだった。関係のないはずなのに、その一行が、小さな棘のように、わたしの即答を遮っていた。

 

「……少し、考えさせてもらえる?」

 

 気づけば、わたしの口は、その言葉を発していた。

 言ってから、自分でも驚いた。即答できないわたしを、わたし自身が一番、不審に思っていた。

 

 トレーナーの眉が、わずかに動いた——いや、ほとんど動かなかったかもしれない。

 ただ、こちらを見る眼差しの温度が、ほんの一段、深くなったような気がした。

 

「ええ、構いません」

 

 彼は淡々とそう応えた。

 

「期日は、九月末までにお願いします。本格的な追い切りが始まる前に、ご返答いただければ十分です」

「……ええ」

「秋からの再始動については、以上です。何か質問は?」

 

 わたしは、首を横に振った。

 

 トレーナーは、バインダーを閉じて机の上に静かに置いた。

 会話は、五分にも満たなかった。

 

 わたしはソファから立ち上がり、扉へ向かった。ノブに手をかけて、振り返らずに短く告げた。

 

「お疲れさま」

「ええ。お疲れさまでした、ハクセツ」

 

 扉を閉める。

 

 廊下に出て、わたしは数歩進んで、立ち止まった。

 わたしの口が、なぜ「少し、考えさせてもらえる?」と発したのか——その理由を、わたしは自分でもまだ、言葉にできずにいた。

 

 ただ、机上のラックに片付けられた、四つ折りの新聞の輪郭だけが、なぜかまだ、目の奥に残っていた。

 

 窓の外で、夏の終わりの蝉が、まだ鳴き続けている。

 

 

 放課後の阪神校。

 ホームルームを終えた教室には、ぽつぽつと話し声が残るくらいで、ほとんどのウマ娘たちはもう練習へと散っていた。

 

 午後の授業は、ほとんど耳に入らなかった。トレーナー室を出てから、新聞の見出しの一行が、頭の片隅で時々騒いだ。

 

 わたしは自分の鞄から、読み終えたばかりの文庫本を取り出した。山本周五郎『さぶ』。表紙の角が、わたしの掌の中で少し丸くなりかけている。

 春のヴィクトリアマイルが終わってから、こうして文庫本を読むのが日課のようになってしまった。読まないでいるとなんとなく落ち着かない、と感じるくらいには。

 

 席を立ち、教室の窓際の方へと歩み寄る。

 この娘は、こちらに踏み込んでこない。だからわたしも、構える必要がない。それを楽だと感じている自分を、深く考えたことはなかった。

 

 この娘――ミスマルミチは自分の机で、いつもと変わらぬ姿勢で何か書き物をしていた。栗色の長い髪を緩く一つに結い、午後の光が、その横顔を柔らかく縁取っている。

 

「ごきげんよう、ハクセツさん」

 

 わたしの足音に気づいた彼女は、ペンを置いてゆっくりとこちらを向いた。

 

「これ、ありがとう。とても良かったわ」

 

 わたしは机の上に文庫本をそっと置いた。

 ミスマルミチは小さく微笑み、その本を両手で受け取った。

 

「ふふ、お気に召して何より。栄二は、いかがでしたの?」

「……愚かだったわ。最後の最後まで」

 

 わたしは少し考えてから、そう答えた。

 

「でも、愚かしさが、あの男の最も真っ直ぐな部分だったのかもしれない」

 

 ミスマルミチは瞳を細め、ふっと笑みをこぼした。

 

「ハクセツさんは、いつも栄二やさぶみたいな登場人物がお好きなんですのね」

「……それは、わたしの好みじゃなくて、あなたの選書の偏りでしょう」

 

「あら、見抜かれていましたの?」

 

 軽い応酬。それだけのこと。

 わたしは内心で、昼の動揺がまだ尾を引いていることを誰にも見せまいと、いつもより少しだけ口を意識して動かしていた。

 

 ミスマルミチは文庫本を引き出しの奥に丁寧に仕舞い、それから何か思い出したように顔を上げた。

 

「そういえば、秋は、どの舞台にいらっしゃるの?」

 

 あくまで何気ない口調だった。挨拶の延長線上にあるような、ふんわりとした問い。

 わたしの口は、いつもなら短く答えていたはずだった。エリザベス女王杯、あるいはマイルチャンピオンシップ、と。

 

 けれども、わたしの口は、止まった。

 

「……まだ、決まっていないの」

 

 言ってから、自分でも嫌な感じがした。

 昼にトレーナー室で発した一言が、まだ熱を持ったまま、舌の上に残っているような、そんな気分。

 

 ミスマルミチの薄い眉が、わずかに上がった。

 

「あら……」

 

 彼女はそのまま少し沈黙し、わたしの顔を一拍だけじっと見た。

 

「珍しいですわね。あなたが、決めかねていらっしゃるなんて」

 

 静かな声だった。咎める色も、面白がる色もない。ただ、事実として珍しい、とだけ告げる声。

 わたしは肩をすくめた。意識して、軽く。

 

「ええ。十一月の三週か、四週か。トレーナーが、どちらか一方しか出走できないと言うものだから」

 

 わざと事務的に告げた。

 会話を、ここで終わらせたかった。「あら、それは大変ですわね」と相槌でも返してくれれば、わたしは礼をして自分の席に戻る。それで一日が終わるはずだった。

 

 けれども、ミスマルミチは、相槌の代わりに、少しだけ間を取った。

 

「エリザベス女王杯と、マイルチャンピオンシップ、ですわね」

 

 わたしは、わずかに目を見開いた。

 わたしは具体的なレース名は出していなかった。「十一月の三週か、四週か」とだけ言ったはずだ。

 

 ミスマルミチは、わたしの反応に少しだけ薄く微笑んだ。

 

「ハクセツさんの実績を考えますと、その二つの日付を耳にすれば、何のレースか分かりますわ」

 

 なるほど。

 わたしは小さく息を吐いた。言われてみればそうだ。

 

「同じ京都ですわよね。エリザベス女王杯も、マイルチャンピオンシップも」

「……ええ」

「同じ京都の、けれども別の場所ですわね」

 

 ミスマルミチは、独り言のような調子でそう言った。

 わたしは机の縁に指を置いたまま、その言葉を反芻した。

 

 同じ京都の、別の場所。

 言われてみれば、当たり前のことだった。同じレース場の同じ芝でも、距離が違えば、戦場の性質はまったく違う。だからティアラ路線と路線混合レースでは、対峙する相手も、レースの作りも別物になる。

 頭では分かっていた。けれどその「違い」を、わたしは今まで意識したことがなかった。

 

 わたしの刃は、どちらでもすべてを撫で斬る。

 それで終わるはずだった。

 

「……あの」

 

 ミスマルミチが、ふと、少しだけ姿勢を変えた。

 

「不躾なお話ですけれど」

 

 いつもの前置きだった。

 

「一年前のローズステークス、覚えていらっしゃる?」

 

 わたしは、視線を彼女に戻した。

 

「……ローズステークス?」

「ええ。昨年の九月、阪神の芝1800。……わたくしも走っていましたの」

 

 ミスマルミチは小さく微笑んだ。

 

 わたしは、机の上の指を、わずかに動かした。

 

 昨年のローズステークス。わたしが地方から移ってきて、初めて勝った中央の重賞。

 大外を回って、最後の直線で先頭集団を一気に撫で斬りにした、あのレース。

 あの日、わたしが背中越しに置き去りにしたバ群の中に、目の前のミスマルミチがいたのか。

 

「……知らなかったわ」

「ええ、当然ですわ。あなたは前だけを向いていらしたのですから」

 

 ミスマルミチは、淡々とそう言った。皮肉でも、嫉妬でもない、ただ事実を述べる口調。

 

「同じ追込脚質でしたの。けれど、わたくしの脚は、あの日、何ひとつ繰り出せませんでした」

 

 彼女は瞳を細め、わずかに窓の外へと視線を泳がせた。

 

「あなたの末脚は、わたくしの後ろにいたわたくしから見ても、別の生き物のようでしたわ。同じ脚質のはずですのに」

 

 わたしは何も言わなかった。

 なんと答えればいいのか、分からなかった。

 

「ふふ、申し訳ありません。昔の話を、いきなり」

 

 ミスマルミチは小さく頭を下げ、机の上で手を組み直した。

 それから、少しだけ、声のトーンを落とした。

 

「……わたくし、本当は、桜花賞に出たかったんですの」

 

 わたしは、少しだけ視線を上げた。

 

「あの春のフィリーズレビュー、十二着でした。それで桜花賞の本戦には乗れませんでしたの。秋には、もう一度京都に挑みましたわ。ローズステークス。あなたが大外から駆け抜けた、あの日。わたくしは、本戦の秋華賞にも、結局乗れませんでした」

 

 ミスマルミチは、机の縁に置いた指を、ゆっくりと撫でた。

 

「ティアラの三冠。桜花賞、オークス、秋華賞。わたくしは、その三つのターフのどこにも、立てませんでしたの」

 

 彼女の声には、悲哀も、自己憐憫もなかった。ただ淡々と、事実だけを並べる声。

 

「だから、というわけではないのですけれど」

 

 ミスマルミチは、わたしを見た。

 

「あなたが秋華賞で三着まで届いたあの日、わたくしは寮のテレビの前で、ぼんやり拝見しておりましたの」

 

 わたしは、その瞳を見返した。

 

「ただ、それだけの話ですわ」

 

 会話が、ぽつりと途切れた。

 わたしの中で、何かが、ゆっくりと動いていた。動いているのは確かなのに、それが何なのか、まだ言葉にできない。

 

 ティアラの三冠。

 その三つのターフのどこにも立てなかった同期。

 わたしが大外から撫で斬りにしたあの日、最後方にいた者の一人。

 

 わたしが「無自覚に」歩いてきた道を、彼女は「強く憧れて、届かなかった」者として歩いていた。

 同じ場所にいたのに、二人が見ていたものは、たぶん、まったく違うものだった。

 

「……そう」

 

 わたしは、それだけを返した。

 他に、何も言えなかった。

 

 ミスマルミチは小さく微笑み、机の上で軽く頭を下げた。

 

「お引き留めしてしまって、申し訳ありません。秋のお決断、ご無理なさらず」

「……ええ」

 

 わたしは短く頷き、自分の鞄を肩にかけた。

 

「次の本、お決まり?」

 

 扉に向かいかけたわたしの背中に、ミスマルミチが穏やかな声を投げかけた。

 

「……あなたの選書に任せるわ。今までもそうだったから」

「ふふ、ありがとう存じます」

 

 わたしは振り返らずに、教室の扉を開けた。

 

 廊下に出ると、放課後の校舎は静かだった。

 午後の光が、廊下の床に長い斜めの影を落としている。

 

 わたしは、扉を閉めてから、二、三歩進んで、立ち止まった。

 昼にトレーナー室を出たときも、こうやって立ち止まった。

 あのときは、新聞の見出しの一行が頭に残っていた。今度は、目の前の同期の声が、まだ耳の奥にある。

 

 同じ京都の、別の場所。

 ティアラの三冠の、どこにも立てなかった者。

 

 わたしの刃は、どちらでもすべてを撫で斬る——本当に、そう言い切れるのか。

 今日まで、ためらいなくそう言えていたはずのことが、たった半日のうちに、わずかに位置をずらしている。

 

 誰も歩いていない廊下で、わたしは小さく舌打ちをした。

 答えは、まだない。

 

 ただ、窓の外の蝉の声が、いつのまにか、少しだけ細くなっていた。

 

 

 夜になっても、空気はまだ熱を残していた。

 けれども、窓を細く開ければ、夏の盛りには感じなかった澄み方が、確かに混じり始めている。蝉の声はずいぶん遠くなり、代わりに、まだ覚束ない虫の鳴き声が、芝の彼方から細く届いていた。

 

 わたしは寮の自室で、机に向かっていた。

 手元の文庫本——ミスマルミチが今日返してきた『さぶ』ではなく、彼女が新しく選んでくれた一冊——を開いてはいたが、文字はほとんど目に入っていなかった。

 

 同じ行を、もう何度も読み返している。

 頭の中の半分は、まだ昼のトレーナー室と、午後の教室を行き来していた。

 

 向かいのベッドの端では、ヤマナラシがノートに向かって何か書きつけていた。

 普段、寝る前の静かな時間に、彼女は読書か、こうしてノートに何かをまとめている。今夜のノートは、いつもより長く開かれているように見えた。

 

 わたしは脇灯を少しだけ強め、文庫本のページから視線を上げた。

 

「ヤマナラシ」

「は、はい」

 

 声をかけられて、彼女はわずかに肩を跳ねさせた。

 

「ずいぶん書き込んでいるのね」

「あ……ええ、はい。デビュー戦の、録画の感想を、まとめていて」

 

 ヤマナラシは少し躊躇った後、ノートをそっと閉じた。

 

「あの……ハクセツさん」

「何」

「デビュー戦の、わたしの走り——」

 

 ヤマナラシは膝の上で指を組み、視線をわずかに落とした。

 

「録画を、何度か見直したんです。タイムは出ていたし、勝ったから、宝塚トレーナーも褒めてくださって。でも」

「でも?」

「あの走り、わたしのものじゃない気がして」

 

 わたしは文庫本のページから視線を上げた。

 

「ジョセツさんが前の日に見せた走り、覚えていますか。中京のメイクデビュー」

「ええ」

「あれを、わたし、本能で、なぞってしまったんです。多分」

 

 ヤマナラシはそこで言葉を区切り、ふっと息を吐いた。

 

「自分の走りを見つける前に、誰かの走りを、先に身体で覚えてしまった気がして」

 

 わたしは、机の上に肘をついて、ヤマナラシを見た。

 彼女の声には、卑下も、嘆きも、混じってはいなかった。ただ、自分の身体に起きた事実を確かめている、それだけの声だった。

 

「ヤマナラシ」

「はい」

「あなたの走りが、あなたのものでなくなった、と思っているの?」

「……分かりません。けれど、自分のものだとも、まだ言い切れません」

 

 わたしは少しだけ間を置いて、文庫本を閉じた。

 

「なぞる、ことが悪いとは思わないわ。誰だって、最初は誰かの背を見て走るのよ」

 

 言いながら、わたしは胸の内で、自分の言葉に少しだけ違和感を覚えた。

 誰だって、と簡単に括れる類の話だろうか。少なくともわたしは、誰かの背を見て走った覚えはない。地方の十六戦、わたしの脚を作ったのはわたし自身の意志だけだったはずだ。

 

 けれども、と思う。

 わたしが「誰の背も見なかった」のは、本当に意志だったのか。それとも——周りに見るべき背が、ただいなかっただけなのか。

 

「大事なのは」

 

 わたしは、その違和感を一度脇へ置いて、ヤマナラシに向き直った。

 

「なぞった軌道の上で、いつか自分の脚で蹴り直すこと。それができれば、もう誰かの走りじゃない。あなたの走りよ」

 

 ヤマナラシはわたしをじっと見つめた後、ふっと、肩の力を抜いたように笑った。

 

「ハクセツさんに、そう言ってもらえると、不思議と落ち着きます」

「……それは、よくないわ」

「え?」

「他人の言葉で落ち着いたままにしないで。自分の足の感覚で確かめて、確かめて、それでも残ったものを、自分のものと呼びなさい」

 

 ヤマナラシは目を瞬かせ、それから、もう一度小さく頷いた。

 

「……はい。ありがとうございます」

 

 彼女はノートを閉じ、ベッドの脇灯を残して、布団の中に身を滑り込ませた。

 

「おやすみなさい、ハクセツさん」

「おやすみ」

 

 しばらくして、ヤマナラシの寝息が、規則的になり始めた。

 

 わたしは脇灯の明かりを少しだけ絞り、机の上の文庫本を脇へ寄せた。

 

 窓の外を見た。

 月は半分ほどに欠けていたが、九月の夜気の中で、その輪郭は妙にくっきりとしていた。

 六甲の稜線が、月の光で薄く銀色に縁取られている。

 

 わたしは椅子の上で軽く脚を組み直し、目を閉じた。

 ヤマナラシの言葉が、まだ室内に残っているような気がした。

 

 ——自分の走りを見つける前に、誰かの走りを、先に身体で覚えてしまった気がして。

 

 わたしは、その一言を、何度か胸の中で反芻した。

 ヤマナラシは、ジョセツの走りをなぞった。

 なぞったことを自分で気づいて、それを「自分のものではない」と捉え、確かめようとしている。

 

 その姿は、わたしから見れば、ずいぶん健全に映った。

 なぞったことを悪いと決めつけず、しかしこれで自分の走りができたと勘違いもしない。確かめながら、ゆっくりと、自分の脚を作っていく道筋。

 

 ——では、わたしは。

 

 わたしは、なぞらなかった。

 地方の十六戦も、転入してからの中央のレースも、わたしの脚はわたしの脚だった。誰の背も追わず、ただ自分の刃を研ぎ、ただ自分の意志で振り抜いてきた。

 

 そう思っていた。

 

 けれども、今日の午後、ミスマルミチが教室でわたしに言った。

 

 ——同じ京都の、けれども別の場所ですわね。

 

 ——あなたが秋華賞で三着まで届いたあの日、わたくしは寮のテレビの前で、ぼんやり拝見しておりましたの。

 

 ——ティアラの三冠。わたくしは、その三つのターフのどこにも、立てませんでしたの。

 

 わたしは机の縁に置いた指先を、わずかに動かした。

 

 ティアラ路線。

 わたしが無自覚に走ってきた場所。

 そこへ憧れて届かなかった同期がいて、その横を、わたしは何の意識もなく駆け抜けていた。

 

 誰の背も追わなかった——その自負は、間違ってはいない。

 けれども、わたしがどの場所を走るかを、自分で選んだことが、これまでにあっただろうか。

 

 地方時代、与えられたターフを走った。

 中央に移ってからも、トレーナーが組んだローテーションの上を、ただ走った。

 ティアラ路線という枠の中にいたことを、わたしは、つい今日まで、本当の意味では意識していなかった。

 

 わたしは目を開けて、もう一度、月を見た。

 半分の月が、夜気の中で、わずかに輪郭をふくらませた気がした。

 

 ——ヤマナラシは、なぞった軌道の上で、自分の脚で蹴り直そうとしている。

 ——わたしは、誰の軌道もなぞらなかった。けれども、与えられた地図を、ただ撫で斬りにしてきただけだった。

 

 二人の場所は、まったく違う。

 違うけれども、どこかで、同じ問いの前に立っている。

 

 自分の走りを、自分のものと呼べるか。

 その確かめを、一度でも、自分で行ったことがあるか。

 

 わたしは、椅子の上でゆっくりと息を吐いた。

 吐いた息が、夜気の中に薄く溶けていく。

 

 エリザベス女王杯と、マイルチャンピオンシップ。

 昼のトレーナー室では、「どちらでも撫で斬りにする」とは、もう言えなかった。

 言えなかった理由が、今、わずかに見えかけている。

 

 わたしが選ぶべきは、どちらが勝てるか、ではない。

 わたしの刃を、どこに置けば、わたしの意志で振り抜いたと言えるのか。

 その問いの方なのだ、たぶん。

 

 答えは、まだない。

 今夜のうちには、たぶん出ない。

 

 けれども、今夜のうちに、問いの形だけは、わたしの中で固まりかけていた。

 

 わたしは脇灯を消した。

 部屋が、月明かりだけになった。

 ヤマナラシの寝息と、虫の声と、夜気の澄み方が、それぞれの距離を保ちながら、静かに同じ室内に共存していた。

 

 明日、トレーナーに何を伝えるか。

 その答えはまだ持っていなかったが、答えへの道筋だけは、たぶん、もう外れない場所に立っている。

 

 わたしは、ベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりと夜の中に沈んでいった。

 

 

 夜明け前のトレーナー室。

 わたしは、早く着きすぎていた。

 

 時刻はまだ、五時を少し過ぎたばかり。

 昨日、教室を出て自室に戻ったあと、夜の中で問いの形だけが固まり、明け方近くに目が覚めた。そのまま二度寝するつもりも起きない。

 

 外はまだ薄藍色だった。

 寮の廊下も、トレーナー棟へ続く渡り廊下も、人の気配がほとんどない。九月の朝の冷たさは、もう半袖のシャツでは少し心許ない。

 

 わたしは扉を、いつもより少しだけ強めにノックする。

 

 応えはすぐにあった。

 

「ハクセツ?」

 

 驚いた声、ではない。

 ただ、こんな時間に立っているのが意外だ、という色の声。

 わたしは扉を開けて、中に入った。

 

 トレーナーは、机に着いていた。机の上には、すでに開いたバインダーと、湯気を上げ始めたばかりのマグカップ。誰よりも早く出てきて、誰よりも長く机に向かう——それが、この男の朝らしい。

 

「ずいぶん早いですね」

 

 彼は短くそう告げた。

 咎める色も、面白がる色もない、いつもの観察するような声。

 

「ええ」

 

 わたしは扉を後ろ手で閉め、机の前まで歩み寄る。

 立ったまま、口を開いた。

 

「決めたわ」

 

 トレーナーはペンを置く。

 そして、わたしの目を真っ直ぐに見上げてきた。

 

「エリザベス女王杯」

 

 たった一語。

 

 トレーナーの眼差しの温度が、昨日の昼よりも、また一段、深くなったような気がする。

 

「分かりました」

 

 彼は短く応じる。

 

「では、十一月三週、京都・芝2200。今日からの調整は、その日に合わせて組み直します」

「ええ」

 

 彼は、何も訊かない。

 なぜそちらを選んだのか、なぜ今朝こんなに早く来たのか——その種の問いは、ひとつもなかった。

 

 ただ、ペン先で線を引き、新しい日付に丸を打ち、淡々と次の作業に取りかかっている。

 

 変な男だ、と思う。

 昨日の昼、わたしが「考えさせて」と言ったときと、今朝、わたしが答えを持ってきたときと、彼の声の温度はほとんど変わらない。けれども、眼差しの奥のどこかだけが、わずかにずれている。

 

 わたしは、それ以上は考えないことにした。

 

「他に何か」

「いいえ」

「それでは、午後にまたここへ。詳しいメニューはそこで」

「ええ」

 

 わたしはわずかに頷き、扉へ向かう。

 ノブに手をかけて、振り返らずに、短く告げた。

 

「お疲れさま」

「ええ。お疲れさまです、ハクセツ」

 

 扉を閉め、廊下に出る。

 昨日とは違って、足は止まらない。

 

 渡り廊下を通って外へ出ると、東の空が、薄紫から橙へと色を変えかけていた。

 校舎の向こう、六甲の稜線が、まだ青いシルエットのまま夜の名残を残している。

 風は乾いている。夏の終わりの蝉の声はもうほとんど消えていて、代わりに、芝の上を渡ってくる風が、頬の輪郭をわずかに撫でて通り過ぎる。

 

 わたしは、立ち止まって、その空を見上げた。

 

 京都・芝2200。

 ティアラ路線の、秋の頂点。

 

 なぜそちらを選んだのか、わたしは誰にも語るつもりはない。

 ただ、胸の内に、ひとつだけ残っているものがある。

 

 わたしの刃の置き場所を、わたしが自分で選んだ。

 それだけのことだ。

 

 東の空が、橙から、わずかに金色を含み始める。

 六甲の稜線が、その光に少しずつ縁取られていく。

 

 わたしは、練習場へ向かって、ゆっくりと歩き出した。

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