ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
五月下旬の阪神校。
午後の最終授業を終えたのに、教室の窓からは夕方とはとても思えぬほどの明るい光が差し込んでいた。
日没はまだ遠く、阪神レース場の彼方に望む六甲の山並みは、初夏の青葉の鮮やかさをそのまま夕日にさらしている。
窓から流れ込む風には、まだ冬の余韻も、梅雨の湿りもなく、ただ温かく乾いた季節の匂いがあった。
わたくしは、自分の机の脇で帆布の手提げを開けながら、ふと、教室の中ほどの席へと視線を向けた。
ハクセツさんが、自分の鞄をゆっくりと閉じていらっしゃる。
白銀の髪が、初夏の光を受けて柔らかく輝いていた。
いつもそうだった。教室の喧騒の只中にいながら、あの方の周りだけが、まるで透明な硝子で隔てられているように静かなのだ。
──また、おひとりですわね。
わたくしは、薄く息を吐いた。
先週のことだった。
東京レース場、芝1600m、ヴィクトリアマイル。
あの方がついに、中央の頂点に立たれた。
テレビで拝見した、府中の直線の伸び。
四コーナーで最後方にいた白銀のシルエットが、外へ外へと膨らみ、やがて一気に内のすべてを抜き去って、ゴール板を一人だけが駆け抜けた。
わたくしは、画面の前で、思わず息を呑んだ。
地方から来た一人のウマ娘が、府中――中央のターフに自分の領域を描いてみせた。
──おめでとうを、お伝えしたい。
その思いが、レース場の中継が終わった瞬間から、ずっと胸の奥にあった。
翌週、阪神校に戻られたあの方を、わたくしは廊下でお見かけした。
けれども、そばを通り過ぎる時に「ヴィクトリアマイル、おめでとう存じます」と挨拶を申し上げる勇気が、その時はどうしても出なかった。
言葉だけの祝福では、あの直線で拝見した何かに、釣り合わない気がしてしまったのだ。
──だから。
わたくしは、手提げの中から、一冊の文庫本をそっと取り出した。
『樅ノ木は残った』、上巻。
山本周五郎の長編小説。
今年の春、遠征の合間に読み終えた一冊だった。馴染んだ場所を離れて転戦する車中は、トレーナーと一緒であっても、どこか心許ない。その心許なさのなかで読んだせいか、原田甲斐の孤独が、やけに胸に残った。
読み終えてから、ふと、ハクセツさんの面影が浮かんで離れなくなっていた。原田甲斐——お家のために、誤解されたまま、ひとりで重い荷を背負って立つ方。本心を誰にも語らず、ただ静かに、なすべきことをなさる人。
その姿が、ローズステークスの大外一気を、秋華賞三着の悔しさを、リゲルステークスの四バ身差を、そしてヴィクトリアマイルのあの直線を、ただ黙々と積み上げてこられた白銀の横顔と、なぜか重なって見えた。
もちろん、勝手な思い込みかもしれない。
ハクセツさんが「お家のため」に走っていらっしゃるのかどうか、わたくしには分からない。あの方が何を背負っていらっしゃるのか、本当のところは何ひとつ知らない。
けれども、あの研ぎ澄まされた孤独の輪郭だけは、原田甲斐のそれと、確かに通うものがあるように思えてならなかった。
──お祝いに、お貸ししてみようかしら。
その思いが、ヴィクトリアマイル以来、ずっと胸の片隅にあった。
不躾ではないかと、何度も自分に問うた。
あの方はわたくしの友ではない。同じクラスにいるだけの間柄。ローズステークスの後、廊下で擦れ違いざまに「おめでとう存じます」と短く声をかけた、それきりの関係。
あれから返ってきた「……ええ」の一言の、低い温度を、わたくしはまだ覚えている。
ヴィクトリアマイルのお祝いも、本当は同じ手順で、廊下で短くお伝えすればよかったのだ。それがいちばん簡潔で、いちばん波風が立たない。
けれども、と思う。
あの直線を拝見してから、わたくしの中で、どうしても「おめでとう存じます」の一言で済ませてはいけない、という気持ちが、こんなにも頑として動かないのだ。
──お貸しするだけのことですもの。
お厭であれば、お返しになるだけ。
わたくしは、文庫本の表紙を一度、指の腹で撫でた。山本周五郎、と書かれた著者名の上を、ゆっくりと。
そして、薄く息を整えた。
誰かの領域に踏み込むということは、いつだって、ためらいを伴うものだった。けれども今日は、そのためらいを一度だけ、自分に許そうと思った。
文庫本を片手に、わたくしはハクセツさんの机へとゆっくり歩み寄った。
「ごきげんよう、ハクセツさん」
なるべく、いつも通りの声を心がけた。
動揺を見せれば、きっとあの方は、すぐにそれを察してしまわれるだろう。あの透徹した眼差しは、おそらく、人の機微を見抜く力をお持ちなのだから。
ハクセツさんが顔を上げられた。
赤い瞳が、わたくしを真っ直ぐに見据える。
「……ええ」
短い、社交辞令にも満たないお応え。
予想していた通りの温度。けれども、無視はなさらない。それがハクセツさんなりの、最低限の礼儀でいらっしゃるのかもしれない。
「先週のヴィクトリアマイル、テレビで拝見いたしましたわ」
わたくしは、わずかに頭を下げた。
「あの直線、お見事でしたこと。心からお祝い申し上げます」
「……ありがとう」
そのお応えも、温度は低かった。けれども、わたくしを見上げる赤い瞳の奥に、一瞬だけ、何かが揺れたように思えた。
いえ、それは思い違いかもしれない。あの方の瞳はいつも、こちらが読み取れないほど深いところに沈んでいて、わたくしのささやかな祝福が届いたのかどうかも、本当のところは判じかねた。
わたくしは、慣れたように薄い微笑を保ったまま、視線をわずかに窓の外へと泳がせた。
夕方とは思えぬ明るさの初夏の空。風が、刈り込まれて青々とした練習場の芝を、ゆっくりと撫でている。
その光景を眺めながら、胸の内で一拍、間を取った。
ここで引き返してもよい。「ごきげんよう」と、もう一度頭を下げて、自分の席へ戻ることもできる。
お祝いの言葉だけは、もうお伝えできた。それで充分ではないか、と理性は囁いていた。
けれども。
わたくしは、もう一歩、ハクセツさんの机に近づいた。
「あの……不躾なお願いですけれど」
声に、ほんのわずか、自分でも気づかぬほどの硬さが混じったかもしれない。
「ハクセツさんは、本を読まれますの?」
「……本?」
ハクセツさんの眉が、わずかに寄ったように見えた。
不審そうな表情、と読み取ってよいのかもしれない。けれども、敵意ではない、と思いたかった。あの方は、無関心と不審を、似た顔で表現なさる気がしていた。
「いえ……読まれるかどうかは、存じませんの。ただ、もしお厭でなければ、と思いまして」
わたくしの言葉が、自分でも妙に拙くなった。手提げから取り出していた文庫本を、そっとハクセツさんの机の上に置こうとして——いや、置くのは押し付けがましいかと思い直して、両手で軽く支えるように差し出した。
「ヴィクトリアマイルのお祝いを、何かお渡しできないかと、ずっと考えておりましたの」
文庫本の表紙を、もう一度、指の腹で軽く撫でた。
「お言葉だけでは、なんだか足りない気がしてしまって。……勝手な思いですけれど」
「……」
「先日、読み終えましたの。とても、心に残る物語でしたから」
誰かに本をお貸しするという行為は、自分の内側のどこかを、相手に開いて見せるようなところがある。読んで何かを感じた一冊。心の柔らかいところに触れた一冊。
それを、ほとんど他人と申し上げてもよい同級生に差し出すというのは、わたくしにとっても、ささやかながら勇気のいることだった。
「ハクセツさんはこういうお話、お好きかと思いまして」
ハクセツさんの視線が、文庫本と、わたくしの顔を、一度ずつ往復した。
その赤い瞳に何が浮かんでいるのか、わたくしには判じかねた。
「……どうして、わたしに?」
お問いは、思っていたよりずっと直截に投げかけられた。
わたくしは、一瞬、目を瞠った。
社交辞令としての「ありがとう」で受け取って、その場で会話を終わらせてくださると思っていた。あの方ならば、それで充分なはずだった。
まさか、理由を、こうも真っ直ぐにお問いになるとは。
誤魔化しは利かなかった。
お世辞でも、社交辞令でもなく、ただ自分の本心を、誠実にお伝えするしかなかった。
わたくしは、薄く微笑んだ。
「主人公が、孤独でしたから」
声に、ほんの少しだけ、自分でも意外な静けさが宿った。
「お家のために、誤解されたまま、ひとりで重い荷を背負って立つ方なんですの。誰にも本心を語らず、ただ静かに、なすべきことをなさる方ですの」
窓の外、初夏の風が青葉を撫でていた。
わたくしは、その光景を視界の端に置きながら、もう一度、ハクセツさんの瞳を見た。
「読み終えて、ふと、ハクセツさんを思い出しましたの」
言ってしまった、と思った。
言葉にすればすぐに陳腐になるだろうと予感していたものを、それでも口にしてしまった。
けれども、不思議と後悔はなかった。陳腐かどうかは聞き手の判断であって、自分が誠実に発した言葉である限り、それだけで充分だと思った。
「もちろん、勝手な思い込みですわ。ご無礼を承知で、申し上げております」
付け加えながら、わたくしはわずかに頭を下げた。
逃げ道、と言ってもよかった。「思い込み」と先回りして申し上げることで、ハクセツさんが拒絶しやすくしておく。これも、家で躾けられてきた習い性かもしれなかった。
ハクセツさんは、しばらく黙っておられた。
その沈黙の意味を、わたくしには測りかねた。
怒っていらっしゃるのか、呆れていらっしゃるのか、それとも、考えていらっしゃるのか。
初夏の光が、白銀の髪を金色に縁取っていた。その横顔は、依然として、教室の喧騒から切り離された場所にあるように見えた。
わたくしは、わずかに息を詰めながら、お応えを待った。
「……本は、あまり読まないわ」
しばらくの沈黙の後、ハクセツさんは短くそうお告げになった。
わたくしは、内心、わずかに肩を落とした。
やはり、不躾だったかもしれない。お祝いは言葉だけにしておくべきだった。ヴィクトリアマイルを勝ったばかりの方に、いきなり読書を勧めるなど、見当違いだったのかもしれない。
お返しになるなら、それで構わない、と先ほど自分に言い聞かせたばかりだった。
お返しください、と申し上げかけた、その時。
「……でも」
ハクセツさんの声が、続いた。
「一度、読んでみるだけよ」
差し出されていた文庫本を、あの方は無造作にお受け取りになった。
わたくしは、ほっと、内側で小さく息を吐いた。
その安堵が、思いのほか大きかったことに、自分でも少し驚いた。お貸しできた、というよりも、拒絶されなかった、という事実が、なぜかこんなにも、胸の奥に温かいものを残した。
「ありがとう存じます」
口をついて出た言葉は、まるで自分のほうが借りを作ったかのような言い方になった。けれども、それは決して間違いではなかった。
あの方を少しだけ知ることを許される、その機会を頂いたのだから。
「下巻もございますから、お読みになりましたら、いつでも」
「……ええ」
ハクセツさんは鞄を開け、文庫本を中にお仕舞いになった。
その動作には、相変わらず無駄がなかった。けれども、鞄の中にひとつ、新しい場所が増えたように——そう感じたのは、おそらく、わたくしの勝手な思い入れに過ぎないのだろう。
「ごきげんよう」
わたくしは丁寧に頭を下げ、自分の机へと戻った。
机に着いて、自分の手提げを閉じながら、もう一度、ハクセツさんの方を視野の端で確かめる。
あの方はもう、こちらをご覧になってはいなかった。鞄の留め金を、ゆっくりと留めていらっしゃる。普段と何ら変わらない、いつもの放課後の所作。
けれども、と思った。
あの鞄の中には、確かに、一冊の文庫本がある。
──お読みになってくださるかしら。
胸の内で、控えめにそう願った。
「あまり読まないわ」とおっしゃった。
つまり、これまではほとんどお読みにならなかった、ということ。
もしあの方が今夜、ご自分のお部屋で、ふとあの文庫本を手に取ってくださったら——それは、わたくしの祝福が、ヴィクトリアマイルを勝った白銀の刃に、ほんの少しだけ届いたということなのかもしれない。
願いながら、それと同時に、もしお読みにならなくても、それはそれで構わないのだ、と思った。
お貸ししてみたかっただけ。原田甲斐とハクセツさんが、ほんの少しだけ重なって見えたことを、自分の内側だけに留めておくのは惜しかった、ただそれだけのこと。
こうした小さなためらいと、小さな安堵を、ひとつずつ、静かに重ねていく。
わたくしの世界との触れ合い方は、いつもそうだった。
ふと、自分の手提げから取り出した別の文庫本——『樅ノ木は残った』下巻——を、机の引き出しの中にそっと仕舞いながら、わたくしは薄く微笑んだ。
──いつ、お返しになるかしら。
その問いに、自分でも答えを持っていなかった。
けれども、ハクセツさんが下巻を借りにいらしてくださる日のことを想像すると、不思議と、胸の奥に小さな灯がともった。
初夏の光が、教室の床に、長い長い影を落としていた。
※13話と14話の間くらいの時系列の話です。