ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
ボストンバッグ一つと、手提げが二つ。
ベッドの上に並べたわたしの全財産は、たったこれだけだった。
地方の船橋校から、ここ中央の中山校へ転校してきた時もこんなものだった。
何度も泥にまみれボロボロになった体操着と、日用品。そして、手提げの底に沈んでいる使い古した蹄鉄が一つ。関東オークスで使ったものだ。荷造りには一時間もかからなかった。
ほんの少ししか使わなかった寮の部屋を振り返る。がらんとした空間には、当然ながら何の愛着も湧いてこなかった。
わたしは荷物を掴み、部屋の扉を開けた。
「……本当に、行っちゃうの?」
廊下には、不安げに眉を寄せた妹のジョセツが立っていた。
中等部で来年にデビューを控えている妹は、わたしと同じ白銀の髪を持っている。だが、地方でデビューしたわたしとは違い、最初からこの恵まれた中央の環境に入ることができた。
「急で悪いわね。でも、そういう世界でしょ」
「そうだけど……せっかく同じ中山に来てくれたのに」
寂しそうに赤い瞳を揺らす妹に、わたしはわざとらしく軽く肩をすくめてみせた。
「ちょっと面白いトレーナーに捕まったのよ」
「面白い……?」
「ええ。わたしの底意地の悪いいたずらに付き合ってくれる、妙に粘り強い変わり者」
戸惑うようにこちらを見つめる妹の頭を、わざと乱暴に撫で回す。
まだレースの厳しさを知らない、絹のような柔らかい髪。
不思議な子だ。地方でわたしが必死に空けてきた距離を、この子は微笑み一つで縮めてしまう。
「いい、ジョセツ。あなたはそのまま、最短距離で頂上まで駆け上がりなさい。わたしは――遠回りをしちゃったけれど、あなたを一番高いところで待ち受けてあげるから」
妹の頭から手を離す。その柔らかな髪の感触が、指先に残った。長い髪を結んだリボンが、少し傾いていた。
「……はいっ」
小さく、けれど力強く頷いたジョセツを残し、わたしは寮の玄関へ向かった。
あの坂道から、一週間。初夏の陽光の下、こちらに気づいたトレーナーが静かに歩み寄ってくる。
彼はわたしの足元に置かれたボストンバッグに手を伸ばすと、当然のような顔でそれを持ち上げた。
「……自分で持てますけど」
「少しでも脚への負担は減らすべきです」
反論を挟む隙のない声でそう告げると、彼は短く「行きましょうか」と促した。
その行動に一瞬だけ戸惑い、それからわたしは、呆れたように小さく息を吐いて彼の背中を追った。
◆
東京駅を発った新幹線の窓を、6月の陽射しが照らしていた。
隣の席に座るトレーナーは、出発してからずっと、膝の上で分厚いバインダーを広げたままだ。
通路を車内販売のワゴンが過ぎていく。ポリ容器の茶を売る声にも、彼は顔一つ上げない。
ページをめくる指先は鉛筆の芯で黒ずみ、俯いた横顔には、うっすらと隈が浮かんでいる。
「……少しは休んだらどうですか。昨日も徹夜だったんでしょう」
窓枠に肘をついたまま、わたしは声をかけた。
トレーナーはバインダーから顔を上げ、瞬きを一つする。
「問題ありません。明日、あなたにお見せする資料を整理しておきます」
「あなた、って」
「何か?」
「……いえ、別に」
わたしは流れる景色へ視線を戻した。
『あなた』
それが、彼からわたしへの呼び方だった。
変な男だ、と思う。
船橋にいた頃のトレーナーは、もっと近かった。練習のことも、レースのことも、こちらが何か言う前にあれこれ口を出してきた。
別に、それが嫌だったわけではない。トレーナーなんて、そういうものだと思っていた。
だが、彼は距離を詰めようともせず、ただ淡々と、恐ろしいほどの熱量でわたしの脚と向き合っている。
不思議と、楽だった。
――思えば、これまでの移動はすべて周囲に流されるだけだったように思う。
特に見所がないと地方の船橋校に入学させられ、ただ言われた通りに結果を出してきた。
そうすると、次は中央でも通用するのではないかと中山校行きを告げられ、ただその通りに転校した。
だが、今回の移動は違う。周囲の声に流されているわけじゃない。
わたし自身が選んだのだ。
『その代わり、わたしを一番高い場所で勝たせてください』
自分から突きつけた言葉が、まだ耳の奥に残っている。
窓ガラスに反射する自分の赤い瞳を見る。
胸の奥底で、久しく覚えていなかった熱がふつふつと湧き上がっていた。
◆
阪神校での転入手続きは、拍子抜けするほどあっさりと終わった。
事務室の隅では、古い扇風機が生ぬるい風をかき回していた。書類のほとんどは、トレーナーが手際よくこなしてくれた。
何度か、こちらを窺うような視線を感じた。
この人は、それを気にする様子もなくペンを走らせ続けていた。
「今日は荷解きをして、ゆっくり休んでください。本格的な調整は明日から始めましょう」
学生寮の入り口まで案内してくれたトレーナーは、それだけ言い残して去っていった。
本当に、掴めない男だ。
寮母から指定された二人部屋の扉を開ける。
中には、すでに先客がいた。
「あっ……」
ベッドの上に身を縮めるようにして座っていた娘が、びくりと肩を震わせてこちらを見た。
肩の下まで流れる、深い赤褐色の髪。長めの前髪越しの、おどおどとした視線。どこか自信なさげに伏せられた耳。
中山で別れてきた妹のような無垢さがありながら、彼女が纏っている空気は明らかに萎縮のそれだった。
「今日からここでお世話になる、ハクセツ。中山から転校してきたわ」
わたしがボストンバッグを床に置きながら名乗ると、彼女は慌ててベッドから立ち上がった。
「や、ヤマナラシです……っ。あの、よろしくお願いします……」
消え入りそうな声だった。
そういえば、新幹線の中でトレーナーがそんな話をしていた気がする。
彼の同僚が、大所帯のチームに馴染めずにいる引っ込み思案なウマ娘を担当することになり、その娘と同室になる、と。
わたしは自分のクローゼットに荷物を放り込んだ。荷物の少なさに、背後でヤマナラシが息を呑む気配がした。
「あ、あの……お荷物、それで全部、なんですか……?」
「ええ。これで全部よ」
「そ、その……足りないものがあったら、わたしので良ければ使ってください……!」
おずおずと、けれど必死な申し出だった。
振り返ると、ヤマナラシは怯えたように身を縮めながらも、真っ直ぐにわたしを見ていた。
「……結構よ。必要なものは自分で揃える主義なの」
短くそう返すと、彼女はしゅんと耳を伏せる。
「……そんなに怯えなくていいわよ。取って食ったりしないから」
「ひゃっ……あ、あの、慣れてなくて……っ。ご、ごめんなさい……」
謝られてしまった。これではまるで、わたしが一方的に苛めているみたいじゃないか。
乱暴に頭を掻き、わたしはベッドの端に腰を下ろして彼女をまっすぐに見つめた。
「ねえ、ヤマナラシ」
「は、はいっ」
「あなたも、走るのは好きなんでしょ?」
唐突な問いに、ヤマナラシは目を丸くした。
戸惑うように視線を彷徨わせた後、彼女は小さく、しかし確かに頷いた。
「……好き、です。走るのだけは……ずっと」
「ならいいわ。それだけあれば十分よ」
わたしはそれ以上踏み込むことはせず、シーツの上に軽く身を投げ出した。
恵まれた中央の環境にいるのに、勝手に萎縮して震えている。昔のわたしなら、「甘ったれるな」と苛立ちをぶつけていたかもしれない。
――けれど。
さっき、ヤマナラシは震えながらも見知らぬわたしに手を差し伸べた。走ることが好きだと、はっきり答えた。
どうやら、ただ怯えているだけの娘でもないらしい。
開け放たれた窓の外から、阪神のターフを駆け抜けるウマ娘たちの足音が微かに聞こえてくる。中山とは違う、どこか柔らかい風の匂い。
明日から、あの芝を蹴るのだ。
わたしは新しいベッドに寝転がったまま、しばらくその音に耳を澄ませていた。
◆
翌朝。
わたしは阪神校の一角に建つトレーナー棟、そのこぢんまりとしたトレーナー室のパイプ椅子に座っていた。
机を挟んだ向かい側では、トレーナーが昨日から手放さないあの分厚いバインダーを開いている。
「昨晩はよく眠れましたか」
「ええ。地方の硬い布団よりはね。……それより、さっさと始めましょう。今日からの練習の話よ」
「ええ、その前に」
トレーナーはバインダーのページをめくり、一枚の用紙を取り出して机の中央に置いた。
そこには『プランA』と太い字で書かれている。
「これが、あなたの今後の基本方針です。来年の5月、ヴィクトリアマイルを大目標に据えます」
わたしは用紙を一瞥し、小さく鼻を鳴らした。
「ずいぶん気の長い話ね。来年の春まで、わたしに何をしろって言うの?」
「休養と、フォームの修正です。あなたの脚は、地方の16戦で蓄積した疲労のピークにある。今は走るよりも、まずダメージを抜くことが最優先です。そして今年は、来年のために――」
「却下よ」
わたしはトレーナーの言葉を遮り、机に身を乗り出した。
「のんびり脚を休ませている暇なんてない。わたしは、今すぐ中央の連中を黙らせたいのよ。……中山であなたが見せてくれた四つのプラン。その中にあるでしょう?」
「……どのプランを選ぶつもりですか」
「今年の秋華賞に出走するルート、よ」
その言葉に、トレーナーの手がピタリと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、目を細めた。
「おすすめしないプランですが」
静かに、だが明確な警告のトーンだった。
「地方から転入してきたあなたには、中央での収得賞金がありません。当然、賞金順で秋華賞のゲートに入ることは不可能だ。……10月の本番に出走するためには、9月に行われるトライアルレースに出走し、優先出走権を自力でもぎ取るしかない」
「……」
「10月の本番で勝つためには、まず9月のトライアルを突破できる状態まで仕上げる必要がある。……残り二か月半。今のあなたの脚で強行するには、あまりにもリスクが高すぎる」
「でも、あなたが提示した以上、不可能じゃないんでしょう?」
パイプ椅子から立ち上がり、わたしは彼を真っ直ぐに見据えた。
「おすすめしなくても、そのバインダーの中に秋華賞ルートがあるのならわたしはそれを選ぶ」
頑ななわたしの態度に、トレーナーは小さく息を吐いた。
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。難しい計算でもしているかのように、彼は黙ってバインダーを見つめていた。
やがて彼は、バインダーの奥から別の用紙――『プランD』を引き抜き、机に置いた。
「……分かりました。ただし、条件があります」
「何?」
「これから夏の間、私が組むメニューを一度でもクリアできなかったら、その時点で秋華賞への出走は白紙に戻します。問答無用でプランAに切り替える。約束できますか」
「望むところよ」
わたしは迷いなく頷き、その過酷な計画書を手繰り寄せた。
トレーナーは、10月の本番で『勝つ』と言った。
出走や良い勝負を目標にしない、その言葉にわたしは気づかないうちに身震いしていた。それが昂揚なのか、畏怖なのか――自分でも名前をつけられない震えだった。
史実ではハクセツの地方最後のレース、1968年の関東オークスは5月15日開催でしたがウイポルールでは6月2週開催。
そしてウイポルールではDLC馬は6月1週に譲渡されます。
さらにウマ娘世界での年4回の模擬レースを独自解釈として3月6月9月12月開催と設定しています。
この辺りの整合性を取るために、作中では
6月2週、ハクセツ関東オークス出走。
6月3週、ハクセツ船橋から中山に転校。そして模擬レースへ。
6月4週、ハクセツ中山から阪神に転校。
という弾丸スケジュールになっています。
このためにウイポ内で6月1週に譲渡された際に登録されている6月4週のラジオNIKKEI賞は出走を取りやめています。
主人公である春日の本拠地を関東にすればまだ少しは緩和されたのですが、作者が関西出身のためにウイポでは毎回本拠地を関西にしている弊害が出てしまったという訳です。
模擬レースの開催月の独自解釈についてはまた別の機会に話すと思います。