ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
九月の第一週が過ぎ、阪神校の朝には蝉しぐれに混じってわずかに乾いた風が届くようになっていた。
俺はトレーナー室の窓を細く開け、机の上にジョセツの調整記録を広げていた。
先月末の、中京でのメイクデビュー。
芝2000メートル、五バ身半差の圧勝。デビュー戦としては、文句のつけようのない結果だった。
だが俺は手元の記録を何度も読み返しては、ペン先で同じ行をなぞっていた。
あの日のジョセツの走りは、ほとんど本能だった。
最後方で脚を溜め、第四コーナーを大外から回り、坂を踏み台にして前の七人を一気に飲み込んだ。けれど、坂を踏み台にすることを彼女は意識してやったわけではない。彼女の身体が、傾斜を勝手に受け止め勝手に前へと押し出した。それだけだ。
観る者を惹きつける引力。それがまだ荒削りな技術の穴を、すべて埋めていた。
天性で勝った。
トレーナーとしてそれは喜ばしいことであり、同時に考えなければならないことでもあった。
この子の天性をどう育てるか。姉とは、まったく違う育て方がいる。
ハクセツは自分で刃を研ぐウマ娘だった。俺が与えた課題を自分の意志で撫で斬りにしていく。俺の仕事は研ぐべき砥石を間違えないことだった。
ジョセツは、違う。彼女はまだ自分が何を持っているのかを知らない。本能のままに走って勝ってしまう。だからこそその本能の上に、いつ、どうやって意識を乗せていくか——そこを誤れば、この才能は荒削りのまま伸び止まる。
扉が軽く二度ノックされた。
「春日さん、失礼します」
明るい声とともに、ジョセツが入ってきた。阪神校指定の体操服の上に、薄手の上着を羽織っている。髪はいつものように緩く結われていた。
デビュー戦に勝った翌週だというのに、その表情に浮かれた色はなかった。明るいことは明るい。けれど、その奥のどこかが静かに前を向いている。
「次のことで、お話があると伺いました」
「ええ。座ってください」
ジョセツは机の向かいの椅子に腰を下ろした。背筋がきれいに伸びている。
「デビュー戦、見事でした」
「ありがとうございます! ……でも」
ジョセツは少しだけ目を伏せた。
「あの走り、自分でもよく分からないんです。気づいたら前に出ていて。坂のところも、どうやって上ったのか、覚えていなくて」
俺は内心で小さく頷いた。
彼女自身、分かっている。あれが本能で走ったレースだったということを。
「今は、それでいいんです」
俺はそう答えた。
「自分で分からないものを無理に分かろうとしなくていい。ですが、これから少しずつ、その『分からないもの』に、あなた自身の手で触れていくことになります」
「……はい」
ジョセツはまだ少し不思議そうな顔をしていたが、素直に頷いた。
俺は机の上のバインダーを少しだけ彼女の方へ傾けた。
「それで、次走のことです。あなたはこれからどこを目指したいですか」
漠然とした問いだった。
けれど、俺はあえてそう訊いた。レースの行き先を、俺が一方的に組むこともできる。
だが、ジョセツが自分の口で何を言うのか、先に聞いておきたかった。
ジョセツは少しだけ考えるそぶりを見せた。
いや——考えていたのではない。答えは最初から決まっていたのだろう。彼女はただ、それを言葉にする一瞬を、確かめていただけだった。
「お姉ちゃんと、同じ道に進みたいです」
迷いのない声だった。
「ティアラ路線です。お姉ちゃんが走った、秋華賞やヴィクトリアマイルの……あの道を、わたしも走りたい」
俺はすぐには答えなかった。
ハクセツがつい先日、自分の秋の進路を決めたばかりだった。
エリザベス女王杯。ティアラ路線の頂点のひとつ。
彼女がなぜそちらを選んだのか、俺は理由を訊かなかったし、彼女も語らなかった。ただ、夜明け前のトレーナー室に立った彼女の眼差しの奥に、それまでとは違う何かが宿っていたことだけは、覚えている。
あれは自分で選んだ者の目だった。
そして今、目の前のジョセツは姉と同じ道を選ぼうとしている。
同じ路線。けれど、選び方が違う。
ハクセツは与えられた道の中から、自分の足の置き場所を、自分の意志で選び取った。ジョセツは姉の背中を見て、その背中が走った道を追おうとしている。
どちらが良い悪いではない。ジョセツはまだ、デビューしたばかりのジュニア級だ。目標とすべき背中があり、それを追えること自体が、この子の幸運であり、強さだった。
「いいでしょう」
俺はバインダーの新しいページを開いた。
「ティアラ路線を目指すなら、ジュニア級の大目標は、阪神ジュベナイルフィリーズです」
「阪神……ジュベナイルフィリーズ」
「十二月の、ジュニア級ティアラ限定のGⅠです。芝1600メートル。トリプルティアラへの、最初の大きな入口になります」
ジョセツの目が、わずかに見開かれた。
GⅠ、という言葉の重みを、彼女なりに受け止めているのが分かった。デビュー戦に勝ったばかりの子が、いきなり年末のGⅠを口にされたのだ。臆してもおかしくない。
だが、ジョセツは臆さなかった。むしろ、その瞳の奥に、静かな火が灯ったように見えた。
「お姉ちゃんも、最初は……地方から、中央に来て、それでも勝ち上がっていったんですよね」
「ええ」
「なら、わたしも。一歩ずつ、上がっていきます」
俺はペン先で線表の上に丸を打った。
阪神ジュベナイルフィリーズ。十二月。
その手前に、いくつかの段階を置く必要がある。
「ですが、いきなり年末のGⅠではありません。そこに至るまでに、あなたの走りを試しておきたい場所があります」
俺は線表の九月の欄を指した。
「九月の末、中山でサフラン賞というレースがあります。芝1600メートル、ティアラ路線限定の一勝クラスです」
「中山……」
「あなたのデビュー戦は、中京の芝2000でした。ですが阪神ジュベナイルフィリーズは、芝1600。距離が違います。まずは、マイルの距離であなたの走りがどう変わるか、見ておきたいんです」
ジョセツは真剣な顔で頷いた。
「それに、中山はゴールの直前に急な坂があります。あなたがデビュー戦で『気づかないうちに』駆け上った、あの坂を——今度は、別のかたちで越えることになります」
俺はあえてそう付け加えた。
あの坂、という言葉にジョセツがわずかに反応した。自分が無意識に踏み台にした、あの中京の坂のことを思い出しているのだろう。
「同じ坂、ですか」
「はい。しかし中京とは違う坂です。ですが、坂であることに変わりはありません。デビュー戦のあなたは、本能で坂を越えた。今度のレースで、あなたが坂をどう走るか——それを、俺は見ておきたいんです」
言いながら、俺は内心で自分の言葉の意図を確かめていた。
サフラン賞は、ただの叩き台ではない。マイルへの距離適性を試すだけでもない。本能で勝った子が、条件の違う舞台で、その本能の上に何を乗せられるか——その最初の試金石だった。
そしてそれを観測することは、トレーナーとしての俺自身の、賭けでもあった。
「分かりました。サフラン賞、精一杯走ります」
ジョセツは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。その仕草に、デビュー前のような硬さはもうない。けれど、慢心もない。ただ、次の一歩を見据えた、静かな決意だけがあった。
「ええ。詳しいメニューは、追ってお渡しします」
「はい! ……あ、それと」
扉に向かいかけたジョセツが、ふと振り返った。
「お姉ちゃんは、秋、どのレースに出るんですか?」
無邪気な問いだった。
俺は少しだけ間を置いてから答えた。
「エリザベス女王杯です。十一月の、京都」
「エリザベス女王杯……」
ジョセツはその名を小さく繰り返した。そして、ぱあっと顔を輝かせた。
「同じ秋なんですね、わたしとお姉ちゃん。違うレースだけど、同じ秋に、二人とも走るんだ」
その笑顔に俺は何も言えなかった。
同じ秋。同じティアラ路線の、頂点と入口。
姉は自分で選んだ頂へ、妹は姉を追って入口へ。二人が、同じ季節の中で、それぞれの場所を目指して走り出そうとしている。
それは、この子たちの担当である俺にしか、見えない景色だった。
「ええ。そうですね」
俺はそれだけを返した。
ジョセツは満足げに頷いて、トレーナー室を出ていった。
扉が閉まると、室内には、また朝の静けさが戻ってきた。
俺は机の上に二枚の線表を並べた。
一枚はジョセツの——サフラン賞から、阪神ジュベナイルフィリーズへと続く道。
もう一枚は、ハクセツの——十月のアイルランドトロフィーを経て、エリザベス女王杯へと至る道。
ハクセツのアイルランドトロフィーは、芝1800の、エリザベス女王杯のステップ競走であるGⅡだった。
いきなり本番には向かわずに優先出走権のために出走して来るライバルたちと競い合う――それが、彼女の刃を本番までに研ぎ澄ますための、俺の組んだ道筋だった。
そこでハクセツの撫で斬りがどこまで通用するのか。それは、エリザベス女王杯本番を前にした、重要な確かめになるはずだ。
俺は二枚の線表を、しばらく眺めていた。
二人のこの秋の道は、もう一つ、別の予定とも重なっている。
十一月の中旬、阪神校は栗東へと移る。新しいトレーニングセンター学園の開場式は、十一月十一日。事前に何度も通達されてきた日程だ。事務手続きも、移転の段取りも、すでに動き始めている。
もっとも、姉妹のレースはいずれもその前に収まる。エリザベス女王杯も、まだ阪神校に籍を置いているうちに巡ってくる。移転の話を、あの子たちに改めて伝えるのは、もう少し先でいいだろう。
姉と妹。刃と波。同じ秋を、別々の道で駆け上がっていく二人。
窓の外で、夏の名残の蝉がまだ細く鳴いていた。
◆サフラン賞(1勝・中山 芝1600m 右 晴 良)
九月の最終週、日曜。中山レース場。
俺はパドックを囲む人垣の後方から、周回するウマ娘たちを眺めていた。
空はよく晴れていた。夏の盛りの湿った熱はもうなく、午後の光が、芝の上を渡る風にほどよく乾いている。秋が、確かに一歩、踏み込んできていた。
サフラン賞、芝1600メートル。十六人立て。
手元の出走表に、俺は改めて視線を落とした。ジョセツの単勝人気は、六番。デビュー戦に勝ったとはいえ、まだ一勝クラス。相手も同じ条件だ。このクラスでの人気はそこまで気にするものではない。
一番人気は、アマナーダイナ。デビュー戦を見た限りでは堅実な差しウマ娘だ。今日のレースの、展開のキーになる一人だろう。
俺はパドックの中のジョセツに目を戻した。
周回するジョセツは、落ち着いていた。デビュー戦の中京で見せた、あの初々しい硬さは、もうほとんど消えている。脚を運ぶリズムが、一定している。気負いもなければ、緩みもない。仕上がりは、悪くない。
ジョセツがこちらに気づいて、人垣の向こうから、ぱっと笑顔を向けてきた。小さく手を振りそうになって、けれども周囲の目を意識したのか、途中で止めて、代わりに軽く頷いてみせる。
その一連の仕草で、パドックの空気が、わずかに動いた。
近くにいた何人かの観客が、つられたようにジョセツの方へ視線を向ける。「あの子、可愛いな」とでもいうような、ごく軽い注目。けれども、その軽い注目が波紋のように、少しずつ広がっていく。
俺はその光景を、黙って見ていた。
あの引力は、走っているときだけのものではない。ただ笑って、ただ頷いただけで、彼女は人の視線を自分の方へ手繰り寄せる。中京のターフで観客を巻き込んだあの大きな波は、こうした小さな波紋の、おそらく延長線上にあるのだろう。
走らずとも、人を惹きつける。それがこの子の天性だった。
俺はジョセツに向かって、短く頷き返した。
それ以上は何も伝えなかった。位置取りの指示は、もう昨日のうちに渡してある。今日のレースで、彼女が何を掴むか——それを見届けるのが、俺の役目だった。
本バ場入場。
ジョセツがゲートへと向かっていく。白銀の髪が、午後の光を受けて淡く輝いた。
俺は双眼鏡を構えた。
ゲートが、開いた。
予想していた通り、ペースは上がらなかった。
飛ばしていくウマ娘がいない。逃げウマ娘が少なく、誰もが互いの出方をうかがうように、最初の数百メートルが、ゆったりと流れていく。スローペース。この距離にしては、明らかに遅い。
ジョセツは中団にいた。
昨日、俺が渡した指示の通りだ。デビュー戦のような最後方ではなく、集団の中ほどに身を置く。前にも後ろにもウマ娘がいる、囲まれた位置。
そこは、彼女にとって初めての場所だった。
中京では最後方から大外を回り、ただ前だけを見て駆け抜けた。
誰にも邪魔されない、開けた進路。けれど今日は違う。前が詰まり、横にウマ娘がいて、自由に動けない。スローペースの中団は、バ群がもっとも密集する、我慢を強いられる場所だ。
双眼鏡の中で、ジョセツの表情は見えない。けれど、その走りのリズムに、わずかな乱れがあるのを、俺は見て取った。
焦れている。
当然だった。彼女の脚は、開けた場所で本能のままに伸ばすことを覚えている。囲まれて、抑えて、待つ——そんな走りを、彼女はまだ知らない。本能は「前へ出ろ」と告げているはずだ。
けれどそれをやれば、スローのペースで早仕掛けになり、最後の坂で脚が上がる。
待て。
俺は心の中でそう念じた。届くはずもない言葉を。
バ群の中で、ジョセツの白銀が小さく揺れた。一度、前へ出ようとして——けれど、出なかった。
彼女は、こらえた。
双眼鏡を握る俺の指に、知らず力が入っていた。
本能のままなら、出ていただろう。
けれど彼女は、出なかった。それが、昨日渡した指示を覚えていたからなのか、それとも、バ群の中で何かを感じ取ったからなのか——それは、分からない。
ただ、彼女は中団で脚を溜め続けた。本能に逆らうことを、彼女の身体が、初めて受け入れていた。
第三コーナーから、第四コーナーへ。
ペースが、ようやく上がり始める。スローで脚を溜めたウマ娘たちが、一斉に動き出す。最後の直線、最後の瞬発力勝負。
ジョセツが、仕掛けた。
中団からバ群を割って、前へ。
開けた大外ではない。ウマ娘とウマ娘の、わずかな隙間。彼女はその隙間を、縫うように抜けていく。デビュー戦の、豪快な大外一気とはまるで違う。狭い、窮屈な、技術のいる進路。
俺は息を詰めて、その走りを追った。
先頭で粘るのは、アマナーダイナ。一番人気の差しウマ娘が、いち早く抜け出して、ゴールへと向かっている。
その背中を、白銀が追う。
そして——ゴール前の、急坂。
中山名物の、最後の登り。ここで多くのウマ娘が、脚を鈍らせる。アマナーダイナの脚も、坂にかかって、わずかに重くなった。
ジョセツの白銀が、坂に差しかかる。
俺は見た。彼女は、坂を駆け上がった。
デビュー戦の中京でも、彼女は坂を上った。けれどあのときは、本能だった。身体が勝手に傾斜を受け止め、勝手に押し出した。彼女自身は、どうやって上ったのかすら、覚えていなかった。
今日は——違った。
完全に意識的、とまでは言えない。彼女がこの坂を、理屈で計算して上ったわけではないだろう。けれど、中団で脚を溜め、バ群を割り、そして坂で伸びる——その一連の流れの中に、デビュー戦にはなかった何かが、確かに混じっていた。
本能の上に、ほんのわずか、意識の萌芽が乗っていた。
白銀が、急坂を登りきり、アマナーダイナを捉える。そして、捉えたと思った次の瞬間には、もう、前に出ていた。
観客のざわめきが、波のように、スタンドを駆け上がっていく。
白銀の波が——今度は、バ群の内側から、坂を越えて、湧き上がった。
ゴール。
ジョセツが、先頭で駆け抜けた。
二着のアマナーダイナとの差は、二バ身半。タイムは、1分38秒7。
俺は双眼鏡を下ろした。
完勝だった。デビュー戦の五バ身半のような、突き放す圧勝ではない。けれど、内容は——むしろ、こちらの方が上だった。
スローの持久戦。我慢を強いられる中団。バ群を割る窮屈な進路。そして、ゴール前の急坂。デビュー戦とは何もかも違う、技術のいる条件。その全部を、彼女はくぐり抜けて、勝ち切った。
俺が昨日渡した指示。中団で待て、という指示。それを、彼女は守り抜いた。本能に逆らって、待つことを覚えた。そして、最後にその本能を、今度は意識の側から解き放った。
俺の組んだ通りに、彼女は走った。予測の、内側だった。
けれど——その「予測の内側」を、彼女はきれいに走り切ったのだ。荒削りな本能だけで勝った中京から、ほんの一歩、確かに進んでいる。
この子は、阪神ジュベナイルフィリーズで、頂を狙える。
俺はそう確信した。
双眼鏡の向こうで、ジョセツが、こちらを探すように、スタンドを見回していた。そして、俺を見つけると、今度は周囲の目も気にせず、大きく手を振った。
その顔は満面の笑みだった。
◆
サフラン賞から、数日が過ぎた。
俺は阪神校の練習場の脇で、宝塚と並んで立っていた。夕方の斜光が、芝の上に長い影を落としている。トラックでは、それぞれの担当ウマ娘たちが、思い思いのメニューをこなしていた。
「ジョセツちゃん、ようやったな」
宝塚がストップウォッチを首から下げたまま、こちらに声をかけてきた。
「中山のサフラン賞、見せてもろたで。中団で我慢して、最後にきっちり差し切る。デビュー戦の大味な勝ち方とは、えらい違いやったわ」
「ええ。本人も、何か掴みかけている」
俺は短く応じた。
「あの子は、本能で走るウマ娘です。今回は、その本能を一度抑えて、最後に解き放った。まだ無意識の延長ですが——あれが、意識に変わっていけば」
「阪神ジュベナイルフィリーズ、か」
宝塚はニヤリと笑った。
「ええ。狙えると思っています」
宝塚は満足げに頷いて、それからトラックの一角へ視線を投げた。
その視線の先で、一人のウマ娘が、黙々と走り込みを続けていた。
ヤマナラシだった。
「うちのヤマナラシちゃんは、来週や」
宝塚が声のトーンを少しだけ落とした。
「京都の紫菊賞。芝2000。今度は、ジョセツちゃんとは別のレースやけどな」
俺はヤマナラシの走りに目を向けた。
フォームは、悪くない。むしろデビューしたての頃より、ずいぶん安定している。だが——その走りには、どこか、自分の形を探しあぐねているような、迷いの色があった。
走り終えたヤマナラシが、こちらに気づいて、小さく頭を下げた。それから、ふと、トラックの反対側へ視線を向ける。
その視線の先には、ジョセツがいた。
サフラン賞を勝ったばかりのジョセツが、軽い流しを終えて、明るく笑いながらクールダウンをしている。白銀の髪が、夕日に輝いていた。
ヤマナラシは、その姿をしばらくじっと見ていた。
羨望、ではなかった。嫉妬でも、焦りでもない。ただ——何かを確かめようとするような、静かな目だった。
俺はその横顔を見て、ふと思い出した。
ヤマナラシのデビュー戦。あの走りは、前日に走ったジョセツの走りに、どこか似ていた。意識してのことではないだろう。彼女の身体が、間近で見たジョセツの走りを、無意識になぞってしまった——そんなふうに、俺の目には映った。
あのとき俺が見て取ったものを、ヤマナラシ自身も、どこかで感じ取っているのかもしれない。
なぞった走り。借り物の形。それを、自分のものにできるのか。あの静かな目は、たぶん、その問いの前に立っている。
けれど、それは——俺が口を出すことではなかった。
ヤマナラシは、宝塚の担当だ。そして何より、自分の走りを自分のものにする作業は、本人にしか、できない。トレーナーにできるのは、その傍らに立つことだけだ。
「あの子も、あの子のペースで進んどるよ」
宝塚が俺の視線を追って、静かに言った。
「ジョセツちゃんみたいに、派手にはいかん。けどな、ゆっくりでも、自分の形を探しとる。それでええんや」
俺は頷いた。
「ええ。それでいいと思います」
ヤマナラシがもう一度、ジョセツの方を見た。それから、視線を前に戻し、再びトラックへと走り出していった。その背中を、宝塚が目を細めて見送っている。
夕暮れのトラックには、三人のウマ娘がいた。
サフラン賞を勝ち、阪神ジュベナイルフィリーズという頂を見据え始めたジョセツ。来週の紫菊賞を前に、まだ自分の形を探し続けているヤマナラシ。
そして、この場にはいないが——十月のアイルランドトロフィーへ、その先のエリザベス女王杯へと向かう、ハクセツ。
三人とも、それぞれの秋を、それぞれの場所で走り始めている。姉は自分で選んだ頂へ。妹は姉を追って入口へ。そして、まだ自分を探す者は、借り物の形の、その先へ。
俺は、トラックを渡る風の中で、その光景を眺めていた。
かつての俺なら、ただ観測するだけだった。データを取り、予測を立て、結果を記録する。それが、トレーナーとしての俺の仕事だと思っていた。
けれど、今は——少しだけ、違う。
この子たちが、それぞれの場所で何を掴むのか。それを、ただ外から測るのではなく、傍らで見届けたい。そう思っている自分が、確かにいた。
秋はまだ始まったばかりだった。
西の空が、夕日に赤く染まり始めている。その光の中で、三人のウマ娘の影が、それぞれの方向へ、長く伸びていた。