ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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※ハクセツ視点


第二十話 不撓不屈の女王

 十一月がもうそこまで来ていた。

 アイルランドトロフィーからひと月足らず。府中の長い直線を撫で斬りにした感触は、まだ脚の裏に残っている。あの日の勝利はわたしの刃が鈍っていないことを、はっきりと教えてくれた。

 

 次は、エリザベス女王杯。

 わたしが自分で選んだ道だ。京都、芝2200。ティアラ路線の、秋の頂点。

 その本番を二週間後に控えた午後、わたしはトレーナー室にいた。

 

 トレーナーは机に向かい、いつものように一枚の紙を広げている。出走が見込まれる相手の戦績の一覧だった。トレーナーは数字を読むのが好きだ。わたしが脚で世界を測るように、トレーナーは数字で世界を測る。

 

「エリ女の想定メンバーです。例年通り、シニア級とクラシック級の実力者が揃います」

 

 トレーナーは淡々と何人かの名前を挙げていった。マイルで実績のある先行勢、長距離で堅実に伸びる差しの構え。どれも、これまで何度も見てきたような顔ぶれだ。わたしは黙って聞いていた。

 

 京都の2200。直線が短く、平坦な、あの内回り。

 

 一年前のことを、思い出さないわけにはいかなかった。

 秋華賞。同じ京都で、わたしは最後方から大外を回し、すべてを撫で斬りにするつもりで追い込んだ。けれど、わたしの刃は、頂点には届かなかった。

 三着。短すぎる直線が、わたしの末脚を断ち切った。

 あの舞台に、わたしはもう一度自分から挑もうとしている。

 その覚悟はできているつもりだった。

 

「ただ――一人だけ」

 

 トレーナーの声が、わずかに変わった。淡々とした調子は同じだがその奥に、これまでとは違う色があった。

 わたしは、視線を上げた。

 

「一人だけ、別格がいます」

 

 トレーナーは一枚の紙をわたしの前に滑らせた。

 戦績の一覧。一番上に見覚えのない名前があった。

 

 トウメイ。

 その横に並んだ数字を見て、わたしは思わず目を細めた。

 

 十戦十勝。

 負けが、一つもない。

 

「クラシック級です。あなたより、一つ下の世代」

 

 トレーナーは静かに言った。

 

「桜花賞、オークス、そして秋華賞を勝ちました。史上初のトリプルティアラウマ娘です。それも――無敗で」

 

 無敗の、三冠。

 その言葉が頭の中でゆっくりと像を結んでいく。桜花賞、オークス、秋華賞。ティアラ路線の三つの大舞台を、ただの一度も負けずに勝ち切った。一つ下の世代に、そんな相手がいる。

 

「そのトウメイが、エリ女に来ます。トリプルティアラの勢いそのままに」

 

 わたしは、紙の上の戦績を、もう一度なぞった。

 札幌のメイクデビューから、一つずつ。重賞をいくつか挟んで、桜花賞、オークス。そして――

 わたしの指が、ある一行で止まった。

 

 秋華賞。京都、芝2000。一着。

 

 わたしが、三着で跳ね返された場所。短すぎる直線が、わたしの刃を断ち切った、あの京都の2000を――この、トウメイというウマ娘は、無敗のまま、勝ち切っている。

 

「走り方を、見てください」

 

 トレーナーが紙の一点を指した。戦績の脇に小さく記された走り方の記録。

 直一気。

 

「デビュー当初は、後方からただ追い込むだけでした。やがて大外を回し、そして今は、バ群を割っても抜けてくる。同じ直一気でも、差し込む進路を自在に選べるようになっている。引き出しが、増え続けているんです」

 

 わたしはその記録をじっと見つめた。

 直一気。それは、わたしと同じ走り方だ。

 最後方から、誰にも邪魔されない大外を回し、一気に撫で斬る。わたしが一年以上をかけて研ぎ上げてきた、ただ一振りの刃。けれどわたしは大外を回る、その一択だけだ。

 このトウメイは――同じ直一気でありながら、大外からでも、バ群を割ってでも、好きな進路を選んで差してくる。

 わたしが、いまだに京都で届かない場所。短い直線、前が止まらない流れ。大外をぐるりと回るだけでは、間に合わない。あの壁を越えるための進路を、トウメイはいくつも持っているのだ。同じ、直一気のままで。

 

「……どんな娘なの」

 

 気づけば、わたしはそう呟いていた。

 トレーナーは少しの間紙の上の数字を見つめてから、答えた。

 

「正直に言えば、分かりません。データだけでは、測りきれないウマ娘です」

 

 トレーナーはめずらしくそう言った。

 

「ただ一つ言えるのは――この秋、最も警戒すべき相手だということです。あなたにとって」

 

 わたしにとって。

 トレーナーがはっきりとそう言った。それが、何を意味するのかはわたしにも分かった。

 これまで、トレーナーがレース前にここまで言ったことはなかった。府中でも、阪神でも、トレーナーは「いつも通り走ればいい」と、それだけを言った。

 わたしの刃を信じて。

 

 そのトレーナーが初めて、「警戒すべき相手」と言った。

 わたしは紙の上のトウメイという四文字を見つめた。

 無敗の三冠。

 わたしと同じ追込脚質でありながら、わたしが届かない場所まで駆け上がった、一つ下の世代のウマ娘。

 

 胸の奥で、何かが小さく揺れた。

 それが闘志なのか、それとも――別の何かなのか。わたしには、まだ分からなかった。

 

 

 その姿を初めて見たのは、翌日の夕暮れだった。

 調整を終えたわたしが練習場の脇を歩いていると、走路の方で一人のウマ娘が軽く流していた。

 最初は気にも留めなかった。茶褐色の髪を無造作に下ろした、小柄な子。のんびりとした、気の抜けたような走り出しだった。誰かが軽く流しているだけだ、と思った。

 

 けれど、視線が離せなくなった。

 その子がコーナーを回って直線に向き、ふっと加速した。ただ、それだけだった。力んだ様子もない。脚の回転が一段上がっただけ。なのに――その走りは、信じられないほど速かった。

 

 大外を、撫でるように回ってくる。

 わたしと同じだ。最後方から大外を、一気に。けれど、その質がまるで違った。わたしの大外が撫で斬る刃なら、その子のそれは――力の抜けた、流れる水のようだった。

 何ひとつ力んでいないのに、誰よりも速い。

 

 ぞくり、と背筋が震えた。

 

 走り終えたその子が、ゆっくりとこちらに歩いてくる。息はまったく乱れていない。あれだけの脚を使って、汗の一つもかいていなかった。

 そして、わたしに気づくと、垂れ気味の目を、ふわりと細めた。

 

「あら」

 

 のんびりとした声だった。

 

「もしかして……ハクセツ先輩、ですか」

 

 わたしは答えなかった。ただ、その子を見ていた。

 

「やっぱり。ふふ、お会いできて嬉しいですわ」

 

 その子は急ぐでもなく、わたしの前で足を止めた。

 

「トウメイと申します。クラシック級の」

 

 トウメイ。

 昨日トレーナーが滑らせた紙の、一番上にあった名前。十戦十勝。無敗の三冠。わたしと同じ追込で、わたしが届かない場所まで駆け上がった、一つ下の世代。

 それが、この子だった。

 のんびりとした、眠たげな目。力みのない、緩やかな佇まい。とても十戦すべてを無敗で勝ち切った娘には見えなかった。

 

「ヴィクトリアマイル、見ていましたわ」

 

 トウメイは、ゆったりと言った。

 

「あの大外。痺れました。最後方から、前を全部撫で斬って。……わたくし、ああいう走りに、憧れるんです」

 

 憧れる。

 その言葉が、奇妙に胸に刺さった。

 この子はわたしに憧れていると言う。けれど――わたしはこの子の戦績を、昨日見たばかりだ。桜花賞、オークス、秋華賞。一つも負けずに。わたしが三着で跳ね返されたあの京都の頂点すら、この子は涼しい顔で勝ち切っている。

 憧れられる、いわれがない。むしろ――。

 

「……あなたの方が、よほど強いでしょう」

 

 気づけば、わたしはそう言っていた。突き放すような響きになった。

 トウメイは、ふしぎそうに首をかしげた。

 

「そうでしょうか。どうでしょうねえ」

 

 間延びした声だった。

 

「わたくし、難しいことはよく分かりませんの。気づいたら、前にいるだけで」

 

 気づいたら、前にいる。

 その言葉の軽さにわたしは戸惑った。

 わたしは一年以上をかけて、一振りの刃を研いできた。地方の泥を、屈辱を、すべて握りしめて。撫で斬るというただ一つの走りに、自分のすべてを賭けてきた。

 

 なのに、この子は――「気づいたら、前にいる」と言う。執着も、気負いも、恨みもない。ただ、走っていたら勝っていた、と。

 わたしには最も理解できない種類の強さだった。

 

「ハクセツ先輩とわたくし、似ているのですってね」

 

 トウメイがふいに言った。

 

「二人とも、小柄だとか。誰にも期待されないところから、来たのだと」

 

 わたしは、息を止めた。

 小柄。期待されない出自。それは、わたしが誰にも語らず、胸の奥に握りしめてきたものだった。それを、この子は屈託のない声で口にした。まるで、天気の話でもするように。

 

「あなたは……それを、悔しいと思わないの」

 

 わたしの声が、少しだけ掠れた。

 トウメイはきょとんとした。それから、おっとりと笑った。

 

「悔しい……? ふふ、どうしてでしょう。もう、過ぎたことですもの。わたくし、過去のことは、あまり覚えていないんです」

 

 過去のことは、覚えていない。

 わたしが引き出しの奥に、すり減った蹄鉄を一つ、大事に保管していることを思った。地方の泥を、屈辱を、走る力に変えるために。

 この子は、それを置いてきたのだ。軽やかに。何の未練もなく。

 

 わたしとはまるで逆だった。同じ境遇から来て、同じ走りを持ち、それでも――心の在り方が、何もかも正反対だった。

 

「……京都は」

 

 トウメイは、おっとりと首をかしげた。

 

「ハクセツ先輩は、お好きですか?」

 

 悪気はなかった。それは、分かった。

 この子はただ、無邪気に尋ねただけだ。わたしがあの京都で三着に敗れたことなど、知りもせずに。だからこそ、その問いはどんな挑発よりも深く、わたしの古い傷をえぐった。

 

 わたしは答えられなかった。

 好きか、嫌いか。そんな言葉では足りなかった。あれは、わたしが越えられなかった壁だ。そして二週間後、わたしはもう一度そこへ挑む。この、目の前の化け物と同じ舞台で。

 

 わたしの沈黙をどう受け取ったのか。トウメイはふわりと微笑んだ。

 

「エリザベス女王杯、ご一緒できるのですね」

 

 のんびりとした、嬉しそうな声だった。

 

「楽しみですわ、ハクセツ先輩。あなたと、同じレースを走れるなんて」

 

 屈託のない、純粋な響き。その奥に敵意のかけらもない。

 だからこそ、わたしは最後にこう訊かずにいられなかった。

 

「……あなたは、負けるのが怖くないの」

 

 無敗。十戦十勝。一度も負けたことのないウマ娘。その記録に、傷がつくことを。

 トウメイは、少しの間黙った。

 

 そして――おっとりとした表情のまま、その垂れ気味の目の奥だけが、ふっと変わった。

 柔らかいのに、笑っていない。底の見えない静かな目だった。

 

「怖い、ですか」

 

 声が、わずかに低くなった。

 

「さあ……どうでしょう。ただ、わたくし――止まりませんから。何があっても」

 

 ぞくり、と、今日二度目の震えが背筋を走った。

 力の抜けた、流れる水のような走り。屈託のない、おっとりとした笑み。そのすべての奥に、こんなにも硬く、揺るがないものが沈んでいる。

 決して折れない。何があっても、止まらない。

 それが、この子の正体だった。

 

 トウメイは次の瞬間にはもう先程のおっとりとした顔に戻っていた。

 

「では、また。京都で」

 

 そう言ってぺこりと頭を下げると、茶褐色の髪を揺らしてのんびりと去っていった。

 わたしはその小さな背中をいつまでも見送っていた。

 

 

 その夜、わたしは自室の窓辺に立って暮れきった六甲の稜線を眺めていた。

 寮の灯りはもうほとんど消えている。同室のヤマナラシは眠りについていた。あの子はあの子で、自分の走りを探し始めている。

 

 わたしは暗い窓に映る自分の顔を見つめた。

 トウメイ。

 あの、のんびりとした眠たげな目が、瞼の裏から離れない。

 わたしと同じだった。小柄な体。期待されない出自。最後方から大外を撫でる、追込の走り。何ひとつ、違わないはずだった。

 

 なのに、何もかもが違った。

 

 わたしは地方の泥を握りしめて走ってきた。屈辱を、悔しさを、すべて刃に変えて。撫で斬るという、ただ一つの走りを一年以上かけて研ぎ上げた。それが、わたしのすべてだった。

 けれど、あの子は――何も握りしめていなかった。過去を置き、執着を捨て、ただ流れる水のように走って、気づけば頂点に立っていた。

 

 わたしが炎なら、あの子は、静かな水だ。

 そして、その水はわたしが越えられなかった京都の壁を、いとも涼しく越えていた。

 わたしの胸の奥で、昨日から揺れていたものの正体が、ようやく見えた気がした。

 

 ――わたしの刃は、本当に、あの子に届くのだろうか。

 

 京都。短い直線。前が止まらない流れ。わたしの大外一気が、ただ一度、断ち切られた場所。そこへわたしはもう一度挑む。よりにもよって、あの揺るがない水を相手に。

 闘志を研ぎ続けるだけで、あの自然体に勝てるのか。撫で斬る刃だけで、あの折れない芯を断てるのか。

 

 答えはなかった。

 生まれて初めて、自分の刃が心もとなく思えた。

 

 わたしは窓辺を離れ、机の引き出しをそっと開けた。

 奥にすり減った蹄鉄が一つ沈んでいる。関東オークスで使った、地方の泥と砂のこびりついた鉄の塊。わたしが、決して捨てられなかったもの。

 それを手に取った。

 

 冷たく、重い。けれど、この重さがわたしをここまで連れてきた。地方の泥から、中央の頂点へ。この屈辱の重さこそが、わたしの刃の研ぎ汁だった。

 トウメイはこれを置いてきた。わたしにはそれができない。できなくて、いい。

 

 わたしはわたしのやり方でしか、走れない。

 握りしめた蹄鉄の冷たさが、掌の中でゆっくりと熱を帯びていく。

 あの子のように、力を抜くことはできない。過去を手放すことも、執着を捨てることも。わたしは、握りしめたまま、研ぎ続けたまま、あの京都へ行く。

 

 それで届くかは、分からない。

 届かないかもしれない。あの水のような走りに、あの折れない芯に、わたしの刃は断ち切られるのかもしれない。

 

 それでも――。

 

 わたしは蹄鉄をもとの引き出しの奥へ戻した。そして、静かに閉めた。

 逃げる道はなかった。エリザベス女王杯は、わたしが自分で選んだ道だ。誰に強いられたわけでもない。あの夏の終わりに、わたしが、わたしの意志で刃の置き場所に選んだ場所。

 

 ならば、行くしかない。揺らいだまま、心もとないまま、それでも。

 わたしはもう一度、窓の外を見た。

 暗い空のずっと向こう。二週間後、わたしはあの京都の芝に立つ。そこには、あの揺るがない水がいる。

 

 胸の奥の揺らぎは消えなかった。けれど、その揺らぎごとわたしは握りしめることにした。蹄鉄と同じだ。捨てられないものは、抱えたまま走るしかない。

 わたしの刃が、あの水に届くのか。

 その答えは京都の、あの短い直線の果てにしか、ないのだろう。

 

 わたしは窓辺のカーテンを引いた。

 明日からの二週間。わたしの刃を、これまでのどんな時よりも、深く研ぎ上げる。

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