ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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第二十一話 デイリー杯ジュニアステークス

 金曜の朝の阪神校は、ひやりと澄んでいた。

 正門前のロータリーに立つと、夏の終わりに嗅いだ蝉しぐれの名残はもうどこにもない。枯葉の匂いと、冬を先取りした乾いた冷気が頬を撫でていく。

 

 手元には数日分の荷物。明日の土曜、京都でジョセツがデイリー杯ジュニアステークスを走る。翌日の日曜、同じ京都で姉のハクセツがエリザベス女王杯に臨む。姉妹が二日続けて、同じ舞台に立つ。

 前日のうちに京都へ入り、現地に腰を据えて本番を待つ。それがレースに向かう俺たちの予定だった。

 

「おう、お待たせ」

 

 校門の方から宝塚が片手を上げて歩いてくる。その後ろに、三人のウマ娘の姿があった。

 先頭にジョセツ。明るい顔の奥に、隠しきれない緊張をにじませている。

 続いてヤマナラシ。少し俯きがちに、自分の鞄の持ち手を握っていた。

 そして二人の少し後ろを、いつものように歩いてくるハクセツ。

 

「ええ面構えやないか、三人とも」

 

 宝塚がジョセツとヤマナラシの肩をぽんと叩いた。

 俺はハクセツへ視線を向けた。

 

「ハクセツ。体調は」

「……問題ないわ」

 

 短い返事だった。いつもの、低く抑えた声。いつもと変わらないように見える。

 けれど、と俺は思う。トウメイの名を伝えたあの日から、彼女の様子がどこか普段と違って見えるのは、俺の気のせいだろうか。

 あの不撓不屈の女王と呼ばれる、無敗のトリプルティアラ。あの戦績を前にして何も感じないということはないだろう。

 もっとも、彼女が何を思っているのかは俺には分からない。彼女は自分の内側をめったに見せない。

 俺にできる仕上げは、すべて終えた。あとは彼女があの相手とどう走るか。それは俺の領分の外にある。走るのは彼女自身だ。

 

「ほな、行こか」

 

 宝塚が出発の合図を口にして、俺たちは歩き出す。

 その時だった。正門をくぐろうとした宝塚が、ふと足を止めて振り返った。朝陽に照らされた阪神校の校舎を、目を細めて見上げる。

 

「……なあ、春日」

 

 いつもの軽い調子とは少し違う声だった。

 

「この阪神校から遠征に出るのも、今日が最後やな」

 

 俺は足を止めた。

 新しいトレーニングセンター学園――栗東校への移行はもう目前に迫っていた。この秋を最後に、阪神校の関係者は新しい拠点へと移る。分かっていたことだ。書類の上ではとうに知らされていた。

 けれど宝塚にそうして声に出されると、胸の奥が不意に静かになった。

 この正門前で、何度レースへ向かう彼女たちの背中を見てきただろう。ハクセツの初めての中央。ジョセツのデビュー戦。そのすべての始まりが、この場所だった。

 それが、今日で終わる。

 

「……そうだな」

 

 俺が言えたのはそれだけだった。

 宝塚はふっと笑って、また前を向いた。

 

「ま、湿っぽいのは無しや。今日と明日、しっかり勝って、笑って出てこか」

「ええ」

 

 三人のウマ娘は俺たちの少し前を歩いている。ジョセツがヤマナラシに何か話しかけ、ヤマナラシが小さく頷く。

 その少し後ろを、ハクセツが晩秋の空を見上げながら静かに歩いていた。

 阪神校の正門が、ゆっくりと背後へ遠ざかっていく。

 

 三ヶ月前、蝉しぐれの中を発った時と同じ五人。けれど、もうあの夏とは違う。

 俺たちは阪神校から発つ、最後の遠征へと歩き出した。

 

 

 翌日の午後、京都の空は厚い雲に覆われていた。

 パドックへ向かう前、俺はジョセツに最後の声をかけた。

 

「緊張していますか」

「ちょっとだけ。でも、大丈夫です」

 

 ジョセツはそう言って笑った。硬さの中に、いつもの弾むような明るさが覗いている。

 

「今日は前が飛ばしません。あなたは中団で待って、勝負所で動いて構わない。いつも練習してきた形です」

「はいっ」

 

 元気な返事だった。それからジョセツは、ふとスタンドの方へ視線を投げた。少し離れた場所に立つ、白銀の髪の姉へ。

 

「……明日は、お姉ちゃんの番ですもんね」

 

 声が少しだけ静かになった。

 

「だから今日は、わたしがちゃんと勝って、先につなげます。お姉ちゃんの背中、まだまだ追いかけてる途中なので」

 

 俺は小さく頷いた。

 

「ええ。行ってきてください」

 

 ジョセツは大きく頷くと、係員の誘導に従ってパドックへ歩いていった。

 

◆デイリー杯ジュニアステークス(GⅡ・京都 芝1600m 右 曇 良)

 

 俺はスタンドの一角で双眼鏡を構えた。ゲートに入っていくジョセツの横顔は、思いのほか落ち着いていた。

 俺のすぐ隣には宝塚とヤマナラシ。ハクセツは少し離れた場所から、妹の姿を静かに目で追っている。

 

 ゲートが開いた。

 十七人のウマ娘たちが一斉に飛び出す。

 隊列は、事前の読み通りに流れた。ハナを主張するウマ娘が少ない。

 誰も極端に飛ばさず、隊列は密集したまま、ゆったりとした持久戦の様相を見せ始めた。

 

 ジョセツは中団にいた。

 最後方ではない。姉のように、最外で脚を溜めて待つのでもない。バ群のただ中、前後を囲まれた密集の中だ。

 それが、このレースに向けて練習してきた戦術だった。中団で待ち、勝負所でバ群を割って抜け出す。

 今日のような緩い流れなら、なおさらこの形が活きる。

 

 レースは第三コーナーへ差しかかった。

 淀の坂。名物の起伏を、隊列が一団となって上っていく。経験の浅いジュニア級のウマ娘にとって、この坂は心を折りにくる壁だ。

 その坂の途中で、ジョセツが動いた。

 囲まれた中団から、バ群の隙間を縫うように前へ。外へ持ち出す余裕はない。

 ならば、開いた進路を一つずつ的確に拾っていく。坂を下りながら、ジョセツの脚が確かに伸びていた。

 

 最終コーナーを回り、短い直線を向く。

 先頭で粘るのは七番、ラドールターフ。先行して早めに抜け出した一人だ。それを追って、ジョセツがバ群を割って前へ出てきた。

 一番人気のクリシバを、まず一完歩、外から交わす。

 

 残り200メートル。

 ジョセツの脚はまだ伸びている。前を行くラドールターフとの差が、じりじりと詰まっていく。

 

 残り100メートル。

 差は、あと一バ身。

 

 詰まる。届け、と祈るように俺はレンズの中の白銀を見つめた。送り出しの時の、あの声が耳に残っている。今日は、わたしがちゃんと勝って、先につなげます――。

 

 だが。

 懸命に伸びるジョセツの脚は、世代でも明らかに上位のものだった。それでも、先に抜け出したラドールターフの脚が、最後まで鈍らなかった。

 持久戦の地力勝負を、ほんのわずかに、前が上回った。

 

 二つの影がゴール板を駆け抜ける。

 

「ラドールターフだ! ラドールターフ、逃げ切りました!」

 

 一着、ラドールターフ。二着、ジョセツ。その差、一バ身。

 俺はゆっくりと双眼鏡を下ろした。

 届かなかった。あと一バ身。デビューから無敗で来た彼女の、初めての黒星だった。

 

 

 その夜、京都の宿はしんと静まっていた。

 夕食のあと、俺は一人、廊下の窓辺で翌日のレース資料に目を通していた。エリザベス女王杯。明日の、ハクセツの本番。

 足音がして顔を上げると、ジョセツが立っていた。

 

「春日さん。あの……今日は、すみませんでした」

 

 少し俯いた顔から、いつもの明るさが影をひそめている。

 

「勝てるって言ったのに。あと一歩、届かなくて」

 

 二連勝のあとの、初めての黒星。勝って先につなげると笑って出ていった彼女にとって、あの一バ身は軽いものではなかったのだろう。

 

「謝ることはありません」

 

 俺は静かに言った。

 

「今日のあなたは、練習で取り組んできた形の通りに走った。あなたの走りは、この世代で間違いなく上位です」

「でも、負けました」

「ええ。負けました」

 

 俺はそこを誤魔化さなかった。

 

「相手が、ほんの少しだけ上回った。それだけのことです。今日のあなたに、恥じるものは何もない」

 

 ジョセツはしばらく黙っていた。それからゆっくりと顔を上げた。その瞳に、もう涙の気配はない。代わりに芯のある光が戻っていた。

 

「……次は、勝ちます」

 

 はっきりとした声だった。

 

「阪神ジュベナイルフィリーズ。あそこでちゃんと勝って、お姉ちゃんに追いつきます」

 

 俺は頷いた。この子は転んでも、すぐに前を向く。姉とはまた違う強さが、この妹にはあった。

 

「ええ。帰ったらまた一緒に練習です」

 

 ジョセツは少しだけ、いつもの笑顔を取り戻した。それから、ふと廊下の先の一室へ視線を向けた。ハクセツの部屋だ。

 

「……お姉ちゃん、大丈夫かな」

 

 声がまた変わった。自分の負けではなく、明日の姉を案じる声だった。

 

「明日の相手、すごく強いんですよね。お姉ちゃん、勝てるのかな」

 

 俺はすぐには答えられなかった。

 トウメイ。無敗のトリプルティアラ。ハクセツが最も苦手とする京都で、彼女はその化け物と走る。データの上では、勝ち負けを断じることはできない。それが正直なところだった。

 

「……分かりません」

 

 俺は正直に言った。

 

「ですが、あなたの姉は、ここ一番でいつも俺の予想を超えてきました。明日も、そうでないとは限りません」

 

 ジョセツはその言葉に少しだけ安心したように頷いた。

 

「うん。お姉ちゃんなら、きっと」

 

 そう言って、ジョセツは自分の部屋へ戻っていった。

 一人になった廊下で、俺は窓の外に目をやった。京都の夜空は、厚い雲に覆われたままだった。

 明日、この京都でハクセツが走る。一年前、彼女の刃が初めて届かなかった、あの淀のターフで。

 よりにもよって、自分と同じような出自を持ち、自分が越えられなかった場所を涼しい顔で越えてきた、あの不撓不屈の女王を相手に。

 

 俺にできる仕上げは、もう終わっている。あとは彼女が走るだけだ。

 あの相手を前に、彼女がどんな走りを見せるのか。それを俺はただ、見届けるしかない。

 窓の外の雲がわずかに切れて、星の光が一つ覗いた。

 

 明日が、来る。

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