ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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※ファインローズ視点


閑話 棘

 夜明け前の京都は、しんと冷えていた。

 東の稜線がわずかに白み始めたばかりで、スタンドの影は黒くわだかまったまま動かない。場内に人の気配はなく、芝を踏む私の足音だけが、やけにはっきりと響いていた。

 

 ラチ沿いを歩きながら、私はターフの感触を確かめていた。

 昨日から居座る雲は、夜を越えても切れないまま。けれど雨は落ちず、芝はよく締まっている。脚抜きは悪くない。今日のためのバ場だ。

 逃げて、先行して、内の経済コースを立ち回る私には、これくらい締まっていてくれた方がいい。

 

 今日、ここでエリザベス女王杯が行われる。私の、何度目かわからない大舞台。

 内ラチの柵に手をかけて、私は誰もいない直線の先を見据えた。

 

 22戦。それが、私がこれまで走ってきたレースの数だ。勝ったのは、たったの2回。

 それも、デビュー戦とずっと昔の一勝クラスのレースだけ。重賞は、一つも勝っていない。

 その代わり、二着ならたくさんある。阪神ジュベナイルフィリーズ、京都金杯、阪神ティアラステークス、アイルランドトロフィー。

 あと一歩、あと半バ身というところで、決まって誰かに差される。要するに、勝てない善戦マンというわけだ。

 

 器用なほうだとは思う。

 逃げて、先行して、内をうまく立ち回って、いつだって最後の直線までは自分の思った通りにレースを進められる。

 

 でも、勝てない。

 あと一歩のところで、いつも誰かに差される。重賞のタイトルが、私には一つもない。

 いつも、あと一歩だった。前々で粘って、粘って、これで届くと思った直線で決まって、後ろから来る。

 脚の回転が違う、信じられない末脚が。

 

 ハクセツ。

 あの白銀の髪を、私は何度ターフの上で見ただろう。

 いや、正確には見ていない。私はいつも前にいて、あの娘は後ろにいるからだ。見えるのは、ゴールの瞬間に視界の外から音もなく差し込んでくる影だけ。

 

 阪神のティアラステークス。府中のアイルランドトロフィー。

 私が必死に作った形を、あの娘は最後の最後で、大外からすべて持っていく。前で粘る私を、まるで景色か何かのように追い抜いて、涼しい顔で先頭でゴールしていく。

 悔しい、なんて言葉では足りない。

 

 ふん、と私は鼻を鳴らした。

 新聞も、ファンも、今日のレースは二人のウマ娘しか見ていない。

 下の世代から現れた、無敗のトリプルティアラ。トウメイ。十戦十勝、一度も負けたことのない化け物が、その勢いのままエリザベス女王杯に殴り込んでくる。

 そして、それを迎え撃つのが、ヴィクトリアマイルを勝ったハクセツ。

 

 無敗の怪物と、撫で斬りの刃。世間が観たいのは、その二人の決戦だ。

 世間の目は、その二人に釘付けだ。私のことなんて、その他大勢の一人。脇に追いやられた中の、ただの一人でしかない。

 

 上等だわ。

 

 私は柵を握る指に、少しだけ力を込めた。

 脇に追いやられるのは、今に始まったことじゃない。私はいつだって主役の後ろにいて、注目を浴びることもなく、それでも前を走り続けてきた。

 誰に騒がれるでもなく、前々で粘って、食らいついて。

 届かなくても、また走る。負けても、また前に行く。それが私だ。タイトルの一つもないからって、走るのをやめる理由にはならない。

 

 空が、少しずつ白んでいく。

 藍が薄れても、空はぼんやりと灰色のまま。稜線の向こうが、わずかに白んでいくだけだ。やがてこの場所は、何万もの観客と、地鳴りのような歓声で埋まるのだろう。その中で、私はまた、前を走る。

 

 今日こそあの白銀の影を、後ろに置き去りにしてやる。

 無敗の怪物だろうが、撫で斬りの刃だろうが、関係ない。私は私の走りで、全員、前で粘り潰してやる。

 

 そう思った時だった。

 ラチの向こう、薄明かりの差し始めたターフの入り口に、人影が一つ、立っていた。

 白銀の髪が、雲を透かした薄明かりの中で、淡く色を帯びていた。

 

 白銀は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 小柄な体。赤い瞳。何度も、何度も、私の前を奪っていったウマ娘。ハクセツ。

 

 顔は知っている。同じ阪神校の、同じ学年だ。教室で見かけることもあれば、練習場ですれ違うこともある。

 けれど、こうして真正面から顔を見るのは思えば、これが初めてだった。お互い、群れたがる性質ではない。私は私で勝手に走ってきたし、この娘もまた、ただ一人で自分の刃を研いでいた。

 同じ場所にいても、私たちの間に会話はなかった。

 

 ハクセツは私の数歩手前で足を止めた。私を認めて、その赤い瞳が、わずかに細められる。

 

「……ファインローズ」

「あら。あんたも下見?」

 

 私は、できるだけ何でもないように言った。

 

「ええ」

 

 短い返事だった。低く、抑えた声。表情はほとんど動かない。同じ学校にいても、この娘がレース前にどんな顔をするのか、私は知らない。話したことが、なかったから。

 しばらく、二人とも黙っていた。場内は静かで、白み始めた空の下、芝の匂いだけがあった。

 

 先に口を開いたのは、私だった。

 

「何度も走ったわね、あんたとは」

 

 ハクセツは何も言わない。ただ、こちらを見ている。

 

「教室じゃ、一度も口をきいたことがないのに。おかしなものね。トラックの上だと、嫌ってほど顔を合わせる。阪神でも、府中でも。私はいつも前にいて、あんたはいつも後ろにいた。そんで最後の直線で、あの大外から、全部持っていく」

 

 私は、柵から手を離した。

 

「悔しかったわよ。何度もね」

 

 言ってしまってから、自分でも少し驚いた。こんなことを、面と向かって言うつもりはなかった。

 でも、誰もいない夜明けのターフが、私の口を軽くしているのかもしれなかった。

 

「あなたは」

 

 ハクセツが、初めて口を開いた。

 

「いつも、わたしの前にいた」

 

 それだけだった。けれど、その一言には、妙な重みがあった。突き放すでも、媚びるでもない。ただ、事実をそのまま置いたような声。

 

「……ふん」

 

 私は鼻を鳴らした。

 この娘は、こういう娘だ。余計なことを言わない。慰めも、挑発もしない。ただ、自分の走りだけを淡々と研いでいる。

 だからこそ、何度も私を撫で斬ってこられたのだろう。

 

 空が、また少し明るくなった。

 私は、ハクセツの赤い瞳を真っ直ぐに見据えた。言っておきたいことが、あった。

 

「言っとくけど」

 

 私は、はっきりと告げた。

 

「今日、私はあんたを倒すわよ。本気でね。逃げて、粘って、あんたの大外なんか届かないところで、先頭でゴールしてやる」

 

 ハクセツは、黙って聞いている。

 

「私には、重賞のタイトルの一つもない。あんたは、ヴィクトリアマイルを勝った。格が違うって、世間は言うんでしょうよ。でもね、ターフの上じゃ、そんなものは関係ない。私は私の走りで、あんたを負かしにいく」

 

 言い切って、私は一度、息を吸った。

 ここからが、本当に言いたいことだった。

 

「……でも」

 

 私は、スタンドの向こう、まだ薄暗い空の一点を見た。そこに、あの娘がいるわけではない。けれど、今日この場所に下の世代から殴り込んでくる、無敗の化け物がいる。

 

「あの子にだけは、負けるんじゃないわよ」

 

 ハクセツの赤い瞳が、わずかに揺れた気がした。

 

「トウメイ。無敗のトリプルティアラ。下の世代の、十戦十勝の怪物。世間は、あの子が勝つと思ってる。あんたじゃなくてね」

 

 私は、ハクセツに一歩近づいた。

 

「私たちの世代は、桜花賞もオークスも、ルピナスが獲った。でもルピナスは今日はいない。秋華賞は、スズガーベラ。エリ女に来てる私たちの世代で、GⅠを勝ったことがあるのは、あんたと、スズガーベラだけ。私には、何もない」

 

 声が、少し熱を帯びるのが自分でも分かった。

 

「でもね、下から来た化け物に私が――私たちの世代が、まとめて舐められてたまるもんですか。GⅠを勝ってようが勝ってなかろうが、関係ない。あの怪物に頂点を獲らせるくらいなら――」

 

 私は、言葉を切った。そして、はっきりと言った。

 

「私が勝つ。でも、もし私が届かなかったら、その時はあんたが勝ちなさい。あの子を、私たちの世代で、必ず止めるのよ」

 

 長い沈黙があった。

 ハクセツは、私をじっと見ていた。赤い瞳の奥で、何かが動いているようにも見えたし、何も変わっていないようにも見えた。

 やはり、この娘の内側は、私には読めない。

 やがて、ハクセツが口を開いた。

 

「……勝手なことを言うのね」

 

 低い声だった。けれど、その声には、かすかに笑うような響きが混じっていた。

 

「自分が勝つって言いながら、わたしにも勝てって」

「当たり前でしょ。私は本気で勝つわよ。でも、あんたが負けるのももっと嫌なの。矛盾してて悪かったわね」

 

 ハクセツはふっと息を吐いた。それから、まっすぐに私を見て、言った。

 

「負けないわ」

 

 その声は、低く、けれど揺るがなかった。

 

「あなたにも。あの子にも。誰にも」

 

 私は、思わず口角を上げた。

 ああ、そうこなくちゃ。これでこそ、私が何度も追いかけてきた、撫で斬りの刃だ。

 それ以上、言葉はなかった。

 ハクセツは小さく頷くと、踵を返して、ラチ沿いを戻っていった。小柄な背中が、白み始めたターフの向こうへ、ゆっくりと遠ざかっていく。引き止めはしない。私たちは、そういう間柄ではない。言うべきことは、もう言った。

 

 私は一人、ターフに残った。

 空は、すっかり明けていた。藍は東の彼方に押しやられ、けれど鈍色の雲に覆われたまま、青はどこにもない。淡い光が、雲越しにぼんやりと芝を照らしている。

 あと数時間もすれば、この場所は何万もの観客で埋まり、地鳴りのような歓声が、この静けさを塗り潰すのだろう。

 そして、私は走る。誰に騒がれるでもない、いつもの位置から。

 

 ふと、自分の言ったことを思い返して、私は小さく笑った。

 あんたも負けるんじゃないわよ、だなんて。

 自分が勝つと言っておきながら、相手にも勝てと焚きつける。我ながら、ずいぶん勝手な話だ。あの娘の言う通りだった。けれど、それが私の本音なのだから、仕方がない。

 私は私で、本気であの白銀を負かしにいく。その上で、もし私の脚が届かなかったならその時は、あの娘に、あの怪物を止めてほしい。

 矛盾している。でも、それでいい。

 

 負けず嫌いというのは、きっと、こういう厄介な棘のことを言うのだろう。誰にも譲りたくないのに、譲れない相手がいる。刺さったまま、抜けない棘を抱えて、それでも前を走る。

 私は、もう一度、誰もいない直線の先を見据えた。

 今日、ここで決着がつく。無敗の怪物か、撫で斬りの刃か。世間は、そのどちらかだと思っている。

 

 冗談じゃない。

 その二人の、さらに前で、先頭でゴール板を駆け抜けてやる。それができたら、最高だ。できなかったとしてもその時は、せいぜい、あの白銀の背中を、最後まで追いかけてやる。

 

 私は、ターフに背を向けて、歩き出した。

 雲を透かした鈍い光が、それでも背中を押すように、ターフに広がっていた。

 

 番狂わせというのは、いつだって、人気薄の足元から始まるものだ。




※閑話は水曜日に投稿と決めていたのに、ゾロ目で縁起が良いからと7月7日の7時7分に投稿予約してしまった。あとは七夕だしね。
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