ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

25 / 25
第二十二話 エリザベス女王杯

 日曜の京都は、朝から厚い雲に覆われていた。

 昨日の曇りがそのまま夜を越して居座っている。雨が落ちるほどではない。だが、空のどこにも青はなく、淀のターフは鈍い銀色の光の下でしんと湿っていた。

 

 エリザベス女王杯。GⅠ、芝2200メートル。

 

 ハクセツが自分で選んだ道だ。あの夏の終わり、夜明け前のトレーナー室に立った彼女がただ一言「エリザベス女王杯」とだけ告げた、その本番。

 俺はスタンド下の通路で一度だけ立ち止まり、湿った空を見上げた。

 一年前の秋華賞を思い出さないわけにはいかなかった。同じ京都。あの日、彼女は最後方から大外を回し、すべてを撫で斬りにするつもりで追い込んだ。

 だが、その切っ先は頂点には届かなかった。クビ差の、三着。前が消耗しないスローと、短すぎる直線。彼女の刃が、初めて頂点に届かなかった場所だった。

 

 あれから一年。リゲルステークス、阪神ティアラステークス、ヴィクトリアマイル、アイルランドトロフィー。彼女は負けていない。だが、その四つはいずれも京都ではなかった。

 淀のターフだけが、まだ彼女に答えを返していない。

 

 

 地下バ道へ向かう前の、最後の打ち合わせ。手元の出走表に、俺はもう一度視線を落とした。

 ハクセツ、一番枠。十八人立ての、最も内。

 

 前へ行くウマ娘にとっては、経済コースを取れる絶好の枠だ。だが、スタートと同時に最後方へ下げ、外へ持ち出す彼女の戦法にとっては、これ以上ないほど遠い枠だった。最内から最後方の大外まで、十七人分の距離を横切って自分の射線を確保しなければならない。

 おまけに、今日は前へ行きたがるウマ娘が多かった。逃げ、先行がずらりと揃っている。前は序盤から激しく競り合い、流れはよどみなく速くなるだろう。速い流れは前を潰す。だが淀の直線は短く、最後方から差す脚には、前を捉えきるだけの距離が残されていない。

 

 大外は、遠い。

 頭の中で、何通りもの隊列を組んでは崩した。一番枠から最後方へ下げ、十七人分を横切って、最も外まで持ち出す。塞がれはしない。

 だが、誰より長い距離を回る。その余分な脚を、あの短い直線で取り返せるか。一年以上前、中山の模擬レースで内に詰まり刃を殺された彼女を、俺はまだ忘れていない。今日恐れるべきは、あの日とは逆、閉じ込められることではなく、遠回りしすぎることだった。

 

 では、いっそ内を立ち回らせるか。だが密集を力でこじ開けるパワーは、あの小柄な体にはない。あの模擬レースが、それを証明している。何より、それは彼女の走りではない。

 去年この京都で彼女を負かしたのは、バ群を割って抜け出たスズガーベラだった。そして今日待つトウメイは、そのスズガーベラより遥かに強い。同じように、いや、もっと自在に、バ群の中から抜けてくる。

 彼女の刃が鈍いわけではない。府中の長い直線でなら、その切っ先は誰にも止められなかった。ただ、淀の短い直線は、刃が頂点に届く前にゴール板を寄越す。それだけのことだ。大外を、またこの舞台が阻むかもしれない。それは、分かっていた。

 

 だが、トウメイの土俵でバ群を割る勝負を挑めば、それこそ確実な敗北だ。怪物が最も得意とする領域で殴り合う道理はない。彼女に残された道は、結局、一本きりだった。

 この一年、リゲルでも府中でも研ぎ続けてきた大外。秋華賞のあの日より、刃は鋭くなっている。あの怪物に、この舞台で届くかは分からない。それでも、内で縮こまって着を拾うより、刃を限界まで振り抜く方がよほど彼女らしい。

 

 最悪の枠ごと、その刃に腹を括る。それが、俺の結論だった。

 俺は、決めたことを短く伝えた。

 

「今日は、前へ行きたがるウマ娘が揃っています。序盤から競り合って、流れはよどみなく速くなるでしょう」

 

 ハクセツは黙って聞いている。

 

「一番枠です。外へ持ち出すには、距離が要ります。それを恐れる必要はありません。最後方から大外へ回して、あなたの刃を振り抜いてください」

「……ええ」

 

 短い返事だった。

 その横顔を、俺は一拍だけ見た。

 トウメイの名を、俺が伝えた日から彼女の様子はどこか普段と違って見える。表情は静かだ。いつも通り、低く抑えた声。だが、その奥の何かを、彼女は今日いつも以上に見せようとしない。

 彼女は自分の内側を、めったに見せない。それは出会った頃から変わらない。俺に分かるのは、その表面だけだ。

 

 出走表の、もう一つの名前に目をやる。

 十五番。トウメイ。

 十戦十勝。無敗のトリプルティアラ。一つ下の世代から、その勢いのまま殴り込んできたウマ娘。

 俺はこのウマ娘を、データで測ろうとして測りきれなかった。底が、まるで見えない。脚色も、勝ち方も、まだ誰にも上限を引かせていない。ハクセツが京都で逃した頂点に、この怪物は当たり前のような顔で立つのだろう。

 今日、最も警戒すべき相手。それは二週間前にハクセツへ伝えた通りだった。

 

「いつも通り、あなたの走りを」

 

 俺は結局それだけを告げた。

 ハクセツはわずかに目を細めた。それが、彼女なりの返事だった。

 

 係員の誘導に従い、赤と白の勝負服が地下バ道の薄暗がりへと遠ざかっていく。その小さな背中が見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。

 

◆エリザベス女王杯(GⅠ・京都 芝2200m 右 曇 良)

 

 俺はスタンドの所定の位置で双眼鏡を構えた。

 隣には、ジョセツがいた。昨日、自分のデイリー杯を走り終えたばかりの妹が、今日は姉の本番を見に、俺の横で手すりを握っている。

 

 ゲート入りが進む。十八人のウマ娘が順に枠へと収まっていく。淀のターフを、何万もの観客の熱気が満たしていた。その視線のほとんどは、二人に注がれている。無敗の怪物と、それを迎え撃つ白銀の刃。世間が観たいのは、その決戦だった。

 

 場内に、実況の声が響き渡る。

 

『秋のティアラ路線、その頂点を決めるエリザベス女王杯。今年は、史上初のトリプルティアラ――しかも無敗で成し遂げた十五番トウメイが、シニア級の待つこの淀へ殴り込んでまいりました。迎え撃つは、春の女王・一番ハクセツ。十八人、まもなくゲートインであります』

 

 ガシャン、とゲートが一斉に開いた。

 

『スタートが切られました。先手を奪ったのは十六番ファインローズ、逃げの手であります』

 

 俺はレンズを、まず先頭へ向けた。

 ハナを主張したのは、十六番ファインローズだった。

 何度もハクセツと同じレースを走り、そのたびに大外から差されてきた相手。前で運ぶ姿は幾度も見てきたが、これほど思い切ってハナへ出る逃げは知らなかった。今日は誰よりも早く、彼女は先頭の風を受けに行った。

 その理由を、俺は知らない。だが、ファインローズはハナを譲らなかった。譲るまいとするその内へ、シャダイターキンが、プライマルダイナが食らいついていく。前を取りたい者たちが競り合って、序盤から流れが動いていく。

 

 俺は、レンズを最内へ戻した。

 一番枠のハクセツはいつも通り、無理に前を取りに行かず、最後方へと下げた。

 

 そこからが、彼女の戦いだった。

 

 最内の枠から、最後方の、さらに大外へ。縦に伸びていく隊列を斜めに横切って、彼女は一完歩ずつ、外へ、外へと持ち出していく。前が競り合って伸びた隊列の、その最も外の縁。誰にも進路を塞がれない代わりに、誰よりも長い距離を走らされる、遠い遠い一本の道。

 双眼鏡の奥で、白銀がじりじりと外埒へ寄っていくのが見えた。行き場を失うのではない。自分の刃を振るえる場所まで、最悪の枠から、自力で出てくる。

 

 脳裏を、一年以上前の光景がよぎった。

 初めて彼女を見た、中山の模擬レース。あの日、内を突こうとした彼女の進路に先行勢の分厚い壁が立ち塞がり、弾けかけた末脚が、鞘ごと殺された。あの無残な失速を、俺はまだ忘れていない。

 

 だが、今日は違った。

 彼女はもう、壁の中で立ち往生してはいない。最も外の、最も遠い道を、自分の脚で選び取っている。あとは淀の短い直線が尽きる前に、その大外一気が、前の背中へ届くかどうかだ。

 

 流れは、読み通りに速かった。

 逃げたファインローズに、シャダイターキンが並びかけ、その内をプライマルダイナも譲らない。前を取りたいウマ娘が何人も競り合って、隊列はぐんぐん縦に伸びていく。淀まない、よどみのない本気の流れだった。

 速い流れは、前を潰す。前がやり合って消耗すれば、後ろから差す脚にも出番が来る。だが淀の直線は、短い。前がどれだけ苦しくなろうと、それを差し切るには、あまりに距離が足りない。まして、最も外を、最も長く回ってきた彼女には。

 

『先頭はファインローズ、いや、シャダイターキンも譲らない! 前が競り合って、これは速い流れとなってまいりました!』

 

 俺はレンズを、少しだけ動かした。

 十五番。トウメイ。

 トウメイは、後方まで下げなかった。

 

 バ群の中ほど。前でも後ろでもない、ちょうど脚を溜められる位置に、彼女はすっと収まっていた。身を削って大外へ持ち出したハクセツとは対照的に、無理をした様子はどこにもない。

 そして、その走りが違った。

 密集したバ群の、わずかな隙間へ、彼女はためらいなく身を滑り込ませていく。前との間に一完歩の空きが生まれるたび、そこへ流れ込み、また次の隙間へ。力で割るのでも、大きく外を回るのでもない。水が岩の隙間を抜けていくように、あるべき場所へ、ただ流れて、位置を上げていく。

 

 あれが、トウメイか。

 最後方から大外を回すような、大きな賭けはいらない。バ群の只中に涼しい顔で構えて、開いた隙間を選び、こともなげに前へと進んでいく。

 俺がデータで測りきれなかったものの正体を、俺はいま双眼鏡の中で見ていた。

 

 第三コーナー。名物の、淀の坂。

 起伏に差しかかって、速い流れで飛ばしてきた前の脚が、坂に削られていく。逃げたファインローズが、シャダイターキンが、懸命に食らいつく。だが、競り合って使った脚は、もう残っていない。前が、ずるずると苦しくなっていく。

 

『さあ淀の坂、ここで動いたのは十五番トウメイか! バ群の隙間を割って、ぐんぐん位置を上げてまいります!』

 

 そして、その坂の途中でトウメイが、抜け出した。

 バ群の中ほどから、勝負所でするりと前へ。力んだ様子は微塵もない。脚の回転が、一段上がっただけ。それだけで、彼女は苦しくなった前を、一人、また一人と置き去りにしていく。

 

 第四コーナーを回り、短い直線へ。

 トウメイが、先頭に立った。

 

『先頭はトウメイ! 抜け出した、早くも後続を突き放しにかかります!』

 

 その、はるか外から白銀が、伸びてきた。

 最後方から大外を回り切ったハクセツが、直線を向いて、ようやくその刃を解き放つ。誰にも塞がれない、一番外の、一本道。長く、長く脚を使う、彼女の大外一気。

 坂で脚を失った前の一団を、外から、まとめて呑み込んでいく。一完歩ごとに、鈍く光る切っ先が、前を斬り伏せていく。

 

 これが、ハクセツだ。

 彼女の刃は、鋭かった。一年前より、確かに鋭くなっていた。

 だが、遅かった。

 

 彼女が前の一団を抜き去ったとき、トウメイの背中はもう、はるか前にあった。

 先に抜け出したトウメイは、力みのない走りのまま、淀の直線でなお伸びていた。ハクセツがなおも漸進してくる、その速度すらも置き去りにするように。差は、縮まらない。それどころか広がっていく。

 実況が、トウメイの名を連呼していた。世代を越えた怪物が、無敗のまま、淀の記録を塗り替えようとしている。淀じゅうの視線が、その一人に吸い寄せられていく。だが俺の双眼鏡は、その後ろで届かないと知りながらなお外を伸び続ける、白銀だけを追っていた。

 

 俺はただ、その物理的な推移を、観測するしかなかった。

 隣で、ジョセツは声を上げなかった。

 半年前の府中で、姉が差し切ったあの瞬間、喉が裂けんばかりに叫んだ妹が。今日は、手すりを握りしめたまま、ひとことも発せられずにいた。

 

 残り200メートル。

 先頭、トウメイ。独走。そのはるか後ろ、外を回り切ったハクセツが、前をまとめて呑み込みながら、二番手の集団に襲いかかる。先頭を争ったファインローズはもう脚が上がり、粘り込むのは、同じ流れを前で作ったシャダイターキン。ハクセツが、そのわずかな差に、外から迫る。

 

『二着争いも熾烈だ、内で粘るシャダイターキン、外から捉えにかかる一番ハクセツ! さあ、どちらが前か――!』

 

 残り100メートル。

 トウメイの背中は、もう届かない。だが、ハクセツの脚は、それでも止まらなかった。振り絞った勢いのまま、シャダイターキンの肩へ並びかける。

 だが、その長い距離を回ってきた消耗か、脚どりが一完歩、大きく乱れた。あと半バ身というところで、シャダイターキンに前へ出られる。

 

 ここでも、譲るのか。

 俺がそう思った刹那、乱れたフォームを、彼女は歯を食いしばるように一完歩で立て直した。そして最後の一完歩、その首を、わずかに前へ突き出す。

 

 譲らない。

 頂点には届かない。それでも、彼女は二着を誰にも渡さなかった。

 

 二つの影が、ゴール板を駆け抜ける。

 

『先頭はトウメイ、そのままゴールイン! 無敗の女王が、シニア級の強豪たちをも撫で斬りにいたしました! 勝ちタイムは2分11秒5、コースレコードであります!』

 

 そして――

 

『二着はハナ差の攻防、ハクセツ、シャダイターキンをわずかに抑えて二着を死守いたしました!』

 

『桜花賞、オークス、秋華賞、そしてこのエリザベス女王杯。トウメイ、無敗のまま、世代を越えて頂点に立ってまいりました!』

 

 掲示板に、着順とタイムが掲げられていく。

 一着、トウメイ。2分11秒5。コースレコード。

 二着、ハクセツ。五バ身差。

 三着、シャダイターキン。

 

 そして三番人気に推された、昨年のこの女王杯の覇者スイートフラッグは、五着に沈んでいた。前年、ティアラ路線の頂点に立った者すら、この怪物の前では、影も踏めなかった。

 俺はゆっくりと双眼鏡を下ろした。

 

 淀のターフに、勝者を称える歓声が満ちていた。

 俺はその歓声の波から少しだけ離れた場所で、レコードタイムの数字を見つめていた。前が競り合った、あの速い流れ。誰もが脚を失う淀の坂。その全部を、バ群の中からこともなげに差し切って、レコード。無理のない涼しい顔のまま、淀の時計を塗り替えていったのだ。データで測りきれなかったあの底の見えなさを、俺はこの数字の中に、もう一度見ていた。

 

 半年前、府中の長い直線で、俺はこの双眼鏡の奥で、彼女が俺の計算を超える瞬間を見た。一年かけて積み上げた論理がたった一秒で凌駕されていく、あの戦慄を。

 今日は、逆だった。

 俺の予測は、当たった。最悪の方向に。一年前の秋華賞から、俺がずっと恐れていた負け方が、今日、そのまま現実になった。京都の短い直線は、今年も彼女の刃を、頂点の一歩手前で止めた。

 観測者として、俺はそれを止められなかった。データを集め、展開を読み、最適解を弾き出す。それが俺の仕事だったはずだ。だが、今日の俺にできたのは、ただ彼女が届かないのを見届けることだけだった。

 

 けれど彼女は、最後まで足を止めなかった。誰よりも長い大外を回り、届かないと分かってなお、最後の一完歩まで刃を振り抜いた。それでも二着は誰にも譲らないとばかりに。

 届かなかった。それは、動かしようのない事実だ。だが、あの最悪の枠から大外を回り切って、彼女が振るった刃は、鈍ってなどいなかった。今日の彼女の走りは、完璧だった。

 

 完璧で、それでも五バ身足りなかった。

 俺は、その事実の前で立ち尽くしていた。最後方から、大外へ。それは彼女の刃を最も鋭く振るう、唯一にして最強の一本だ。今日、彼女はそれを一分の隙もなく振り抜いた。なのにトウメイは、そんな大きな賭けなど要らないという顔で、バ群の中から涼しく抜け出て、五バ身も先でゴールしていた。

 彼女の一番の武器を、完璧に振るってなお届かない。ならば次に要るのは、もっと鋭い大外ではないのかもしれない。あの一本きりの刃を、彼女がこの先どう変えていくのか。俺には、まだ見えない。だが、その問いだけは確かに、今日、生まれていた。

 

 

 控え室前。

 引き揚げてきたハクセツの勝負服には、激しいレースの汗が滲んでいた。最内から大外へ持ち出し、二着をもぎ取った、その消耗が。

 

 彼女は掲示板の着順を、しばらく睨みつけていた。

 一着から、五着まで。板に掲げられた名前を、ハクセツの視線が上から順に追っていく。そして、そのいちばん下で、ほんの一拍だけ止まった。掲示板に載るのは、五着まで。その下に、名前はない。

 何を思ったのか、俺には分からない。六着は、ファインローズだった。今日、誰よりも早くハナを奪いにいって、そして掲示板にあと一つ届かず沈んだ相手。ハクセツはすぐにまた、一着の名前へと視線を戻した。

 

「……届かなかったわ」

 

 ぽつりと、低い声が落ちた。

 

「あの坂を越えたところで、もう、前にいた。わたしが抜け出した時には、差はもっと広がってた」

 

 悔しさを、隠そうともしない声だった。だが、そこに一年前の秋華賞の後のような、自分を責める色はなかった。

 

「ええ」

 

 俺は、短く頷いた。

 

「あなたは、大外を回り切りました。一番枠から、誰よりも長い道を通って。あなたの刃は、今日、鈍ってなどいなかった」

 

「分かってるわよ、そんなこと」

 

 ハクセツは、ふっと息を吐いた。

 

「でも、それを言い訳にする気はないわ。あの子は大外なんかなくても、勝った。バ群の中から、平気な顔で抜けてきた。わたしの刃が鈍るから、わたしは大外を回る。それだけの違いを、あの子は何でもないみたいに飛び越えてみせた」

 

 俺は、彼女の言葉を聞きながら、迷った。

 慰めの言葉なら、いくらでもあった。今日は運がなかっただけだ。枠さえ良ければ。次は勝てる。そのどれかを口にすれば、彼女は少しは楽になるのかもしれない。

 

 ……いや。

 

 他人の言葉で落ち着いたままにするな。自分の足で確かめて、それでも残ったものを自分のものと呼べ、そんなことを、ハクセツは夜の自室でヤマナラシに告げたらしい。

 ヤマナラシが翌日の話し合いで宝塚に打ち明け、その宝塚から、俺は聞いていた。言葉そのままではないのかもしれない。だがそれは、誰よりも彼女自身の流儀だった。

 今日の敗北を、彼女がどう噛み砕き、どこへ運んでいくのか。それは、彼女自身が確かめていくことだ。俺が言葉で先回りして、均してやることではない。

 だから、俺は、別のことを言った。

 

「あなたは、二着を譲りませんでした」

 

 ハクセツが、顔を上げた。

 

「頂点には届かなかった。それでも、ハナ差で二着をもぎ取った。最悪の枠から大外を回り切って、最後の最後まで、諦めなかったからです」

 

 ハクセツは少しの間、俺を見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「当たり前でしょ。あんな化け物に勝てなかった上に、二着まで譲ったら、わたしは何のために走ってるのよ」

 

 その声には、悔しさの底に、確かに折れていないものがあった。揺らいでいるのかもしれない。だが、それを彼女は俺には見せない。見せないまま、前を向いている。

 俺に分かるのは、その表面だけだ。だが、その表面だけで、もう十分だった。

 

 ハクセツが、ターフの方へ視線を向けた。

 表彰へと向かう、茶褐色の小さな背中。何万もの歓声を浴びてなお、その佇まいは力みのない、ただ静かなものだった。

 

「次は、勝つわ」

 

 ぽつりと、けれど、揺るがない声だった。

 

「今日は、届かなかった。あの場所も、あの子も。でも次は、わたしのやり方で、必ず」

 

 俺はその横顔を見て、静かに頷いた。

 

 

 その時、スタンドの方から宝塚が小走りにやってきた。

 

「春日、お疲れさん。……惜しかったな」

 

 短く労ってから、彼は声のトーンを少しだけ変えた。

 

「昼間の黄菊賞、見たか。ヤマナラシちゃん」

 

 エリザベス女王杯の前に、同じ京都の芝でヤマナラシも一勝クラスを走っていた。ハクセツの本番に気を取られて、俺はまだその結果を聞けずにいた。

 

「いえ。どうでした」

「勝ちきれへんかった。けどな」

 

 宝塚は、首にかけたタオルで額を拭い、ふっと笑った。

 

「この前の紫菊賞は、なんや迷子みたいな走りやったやろ。今日のあの子は、ちゃうかった。……理屈はようわからん。けど、レースの後の顔がちょっとだけ晴れとってな。なんか掴みかけとるんかもしれん。何をとは、よう言えんけどな」

 

 俺は、頷いた。

 なぞった軌道を、自分の脚で蹴り直せ。あの夜、ハクセツがヤマナラシに告げたという言葉。その相手が今日、この淀のターフで確かに一歩を踏み出していた。宝塚の勘は、いつも理屈の俺より先に、ものごとの本質に触れる。

 

 ハクセツがヤマナラシの名に、わずかに耳を傾けたのが分かった。

 それぞれが、それぞれの場所で、自分の走りを確かめている。

 

 淀のターフの上空を、厚い雲がゆっくりと流れていく。

 この秋を最後に、俺たちは阪神校を離れ、新しいトレーニングセンター学園へと移る。この京都での三日間が、阪神校から発つ、最後の遠征だった。姉妹の秋も、ヤマナラシの一歩も、そのすべてをこの場所で迎えた。

 

 だが、終わりではない。

 無敗の怪物が、淀の頂点に立っている。ハクセツが、自ら選んだ舞台で、初めて届かなかった相手。そして、彼女が「次は勝つ」と告げた相手。

 

 俺は、手元のバインダーを開いた。

 届かなかった五バ身。コースレコード。そこに並ぶ数字は、ひとつとして彼女に味方していなかった。

 俺はペンを取り、その敗北を、ありのまま書き留めた。淀の直線の果てにあった答えは、ごまかしようのない敗北だった。

 

 だが、その数字のどこにも記されていないものが、ひとつだけあった。

 控え室で彼女が見せた、折れていない目。それだけは、どんなタイムよりも雄弁だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

ステイゴールドになったけど(作者:灯火011)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

気づいたらステイゴールド。▼っても、既にいろんなステゴの記憶がある彼女。その中に一人、おっさんが混じってもまぁそれはステゴ。▼19話からは蛇足編です。おっさんステゴの旅路をご覧になりたい方は、是非。


総合評価:2080/評価:8.57/完結:48話/更新日時:2026年06月29日(月) 21:00 小説情報

親愛なるシャーロックへ(作者:カニ漁船)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

決まっている運命を覆すために。メジロ復活のために奮闘する。


総合評価:3955/評価:8.72/連載:33話/更新日時:2026年07月10日(金) 23:00 小説情報

転生したら牧場潰れかけてた。でも馬買った(作者:佐月檀)(原作:ウイニングポスト)

 東新(あずまあらた)は転生者である。▼ 諸事情により牧場を継ぐことになった新。しかし資金難により牧場は潰れかけ。▼ だが、東新は転生者である。▼ この逆境をなんとかしようとしてもなかなかできなかった日々を打ち砕くべく、彼は近くの大牧場に乗り込み、幼駒を1頭、購入した。▼ その1頭は、新すらも知る1頭。▼ 史実において、『晩成馬』として知られるその馬に、新は…


総合評価:158/評価:7.75/連載:3話/更新日時:2026年04月10日(金) 18:43 小説情報

手違いTS転生ウマ娘の運命改変録 〜ウマ娘トレーナーは史実を書き換えたい〜(作者:みやび)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

 三女神に託された使命があった。▼ 運命を変える特異点として、トレーナーとなり、一人でも誰かを救う。▼ そんなはずだったのに転生先はウマ娘。▼ 三女神の手違いでそうなった彼女は、どうにかこうにかしてトレーナーになったのだが……▼「全然担当が集まらねえ」▼ ヒトトレーナー優先の世界で、どうにか頑張るウマ娘トレーナーの話。


総合評価:964/評価:7.14/連載:44話/更新日時:2026年07月11日(土) 06:00 小説情報

衝撃のその先へ…(作者:アグD)(オリジナル現代/スポーツ)

どれだけ勝っても、どれだけ走っても、あいつの影から逃げられなかった。▼走って走って、走り続けても心は常に恐怖に満ちていた。▼これは、競馬を知らなかった男が、皇帝と帝王の宿命を背負い、▼英雄の影を追い続ける物語。▼2006世代(ディープの一つ下)にテイオー産駒の架空馬を突っ込んでみた話。


総合評価:486/評価:8.06/連載:24話/更新日時:2026年05月28日(木) 21:45 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>