ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
六甲おろしが、日ごとに冷たくなっていた。
エリザベス女王杯から、一夜が明けた。淀の直線で振り抜いた大外の感触は、まだ脚の裏に残っている。あの日、わたしは自分の刃を一分の隙もなく振るった。それでも、あの水のような走りには五バ身届かなかった。
その悔しさが、まだ何ひとつ抜けきらないうちに、時代の方が先に動いた。
栗東。新しいトレーニングセンター学園。その開場式は、明日だった。
昨日、淀で敗れたばかりだというのに、時代は明日にはもう、わたしたちを新しい場所へ押し出そうとしている。この秋を最後に、阪神校の関係者は、みな新天地へと移る。とうに通達されていたことだ。大きな荷は、数日前にはもう栗東へ運び出されていた。
だから、今わたしの手元に残っているのは、明日、自分で持っていく手荷物だけだった。
わたしは自室でその最後の荷を、鞄に詰めていた。
ボストンバッグを一つ。手提げを二つ。
一年半前、船橋から中山へ移ったときも、中山から阪神へ移ったときも、わたしの全財産は、これだけだった。何度も泥にまみれた体操着と、日用品。
けれど今日、この手荷物に何を入れるかを、わたしは一つずつ、選んでいた。
これから移る新しい場所へ、自分の手で持っていくもの。それを決めるのは、書類でも、運送屋でもなく、わたし自身だった。
向かいのベッドの端では、ヤマナラシが、自分の手荷物を几帳面に畳んでいた。
がらんとした部屋の中で、その控えめな所作だけが、いつもと変わらない。壁の棚も、机の中も、もうほとんど空だ。二人で過ごしたこの部屋は、じきに、ただの空き部屋になる。
わたしは振り返るような趣味は持ち合わせていない。ただ、明日も栗東で同じ部屋になるこの娘が、隣で黙々と荷を畳んでいる。それだけが、変わらずに、そこにあった。
机の上に、文庫本が一冊、伏せて置かれている。
ミスマルミチが貸してくれた、まだ読み終えていない一冊。わたしは、それを手に取って、手提げの中へ入れた。
一年半前のわたしの手荷物には、こんなものはなかった。誰かから借りたものも、返さなければならないものも、何ひとつ。群れれば足を引っ張られる。すべてを自分だけで完結させる。それが、わたしの唯一の流儀だった。
最後に机の一番下の引き出しを開ける。
奥にすり減った蹄鉄が一つ、沈んでいた。
関東オークスで使った、地方の泥と砂がこびりついたままの鉄の塊。船橋から中山へ、中山から阪神へ、移るたびに手荷物の底へ入れて運んできた、どうしても捨てられなかったもの。
わたしはそれを手に取った。
冷たく、重い。掌の中でその無骨な重みが、いつものように少しずつ熱を帯びていく。
この蹄鉄をあの水のような子なら、とうに置いてきているのだろう。わたしにはそれができない。けれど、それはもう、淀へ発つ前に一度、決めたことだった。
わたしが手を止めたのは、そこではなかった。
蹄鉄を布で包み手提げに入れると、その隣に、さっきの文庫本があった。
すり減った鉄の塊と、角の丸くなった一冊の文庫本。地方の泥と屈辱の象徴と、同じクラスの娘から借りた、まだ読み終えていない物語。明日、自分の手で栗東へ持っていくと、わたしが選んだ二つ。
その二つが同じ手提げの中に、並んで収まっている。
わたしはその光景を、しばらく見ていた。
船橋で走り始めた頃のわたしの荷には、どちらもなかったものだ。捨てられない過去も、返す先のある縁も。握りしめて手放せないものと、誰かから受け取って、返そうとしているもの。まるで正反対の二つが、今、一つの手提げの中で、隣り合っている。
昨日、淀で負けたばかりだった。悔しさも、届かなかった五バ身も、まだ何ひとつ片付いていない。なのに、手だけがこうして明日の荷を、選び終えている。
――次はわたしのやり方で勝つ。
控え室の前でそう言った。折れてはいなかった。けれど、「わたしのやり方」が、この先どういう形になるのか、その答えは、まだわたしの中にもなかった。
あの大外一気を、もっと鋭く研ぐだけでいいのか。それとも——。
掌に残った蹄鉄の熱が、まだ問いのままくすぶっていた。
わたしは引き出しを閉め、手提げの口を、静かに締めた。
◆
放課後の教室は、がらんとしていた。
教室の後ろのロッカーはとうに空になり、貼り出されていた開催予定表も、もう剥がされている。机の中を最後に検める同級生が数人いるだけで、いつものざわめきはどこにもなかった。明日にはこの校舎から、誰もいなくなる。
わたしは自分の机の中に忘れ物がないかを確かめて、蓋を閉じた。
窓際の席で、ミスマルミチが、栗色の長い髪を緩く結ったまま、いつもと変わらぬ姿勢で何か書いていた。がらんとした教室の中でも、その周りだけが、相変わらず静かな硝子で隔てられているようだった。
わたしは鞄から一冊の文庫本を取り出して、彼女の机の脇に立った。
「これ、まだ途中なの」
ミスマルミチは、ペンを置いて、ゆっくりとこちらを向いた。文庫本に視線を落とし、それから、薄く微笑む。
「あら。読み終える前に、お返しになるの?」
「引っ越しの荷を詰めていたら、目についたのよ。中途半端に持っていくのも、据わりが悪いでしょう」
「まあ。……でしたら、お持ちになっていてよろしいのに」
ミスマルミチは、差し出された文庫本を受け取ろうとせず、ただ品よく首を横に振った。
「明日には、みな栗東へ移りますもの。急いてお返しいただくことも、ございませんわ。続きは、あちらでお読みになって」
わたしは差し出した手を、少しだけ宙に留めた。
言われてみれば、当たり前のことだった。この娘とわたしは行き先が同じだ。教室が変わるだけで、この貸し借りが、明日を境にどうこうなるわけではない。
わたしはなぜだかそれを口実のように思っていた。読み終えたら返す。返すから、またこの娘の机の前に立つ。そういう、続きのための小さな約束事として、この一冊を握っていた気がする。けれど、この娘にとっては、そんな口実は、はじめから要らないものらしかった。
「……そう。じゃあ、栗東で返すわ」
「ええ。楽しみにしておりますわ」
ミスマルミチは、それだけ言って、また机の上に視線を落とした。名残を惜しむでも、別れを惜しむでもない。この娘は、いつもそうだ。踏み込んでこないから、わたしも構える必要がない。
だからこそ、この静かな縁は、場所が変わったくらいでは、きっと途切れない。
わたしは文庫本を鞄に戻し、教室を出た。据わりが悪いと思っていたのは、たぶん、わたしの方だけだった。
◆
廊下は、夕方の斜めの光で満たされていた。
人の消えた校舎に、最後の運び出しを待つ荷が、渡り廊下の脇にわずかに残されている。それも、じきに運ばれていくのだろう。窓の外、六甲の稜線が、晩秋の淡い光の中で霞んでいた。
その窓辺に、一人のウマ娘が、外を見て立っていた。
黒に近い茶の髪を、後ろで無造作に結わえている。振り向いた顔には、勝気な目。
ファインローズだった。
「……あら。あんたも、まだ残ってたの」
「机を片付けていただけよ」
「ふうん」
ファインローズは、鼻を鳴らすように短く応えて、また窓の外に視線を戻した。
この娘と、まともに顔を合わせるのは、あの夜明け以来だった。淀のレース場、下見の朝。教室では一度も口をきいたことがないのに、と彼女は言った。トラックの上では、嫌ってほど顔を合わせるのに、と。
その通りだった。同じ阪神校の、同じ学年で、それでもわたしたちはこうして廊下で言葉を交わすことが、ほとんどなかった。
そして、あのレースで。彼女は、宣言通りにハナを主張した。誰よりも早く先頭の風を受けにいって、そして掲示板には、載らなかった。
「……この前は」
わたしは口を開いた。
「あなたが、いちばん前を走っていたわね。スタートから」
「ふん。言われるまでもないわよ」
ファインローズは、窓の外を見たまま、素っ気なく言った。
「逃げて、粘って、あんたの大外なんか届かないところで先頭でゴールしてやる。そう言ったでしょ。……坂で、一杯になったけどね」
その声に、湿ったものはなかった。負けた者の悲哀でも、言い訳でもない。ただ、そういう事実があった、と置くだけの、乾いた声だった。
「でも、あんたも」
ファインローズが、こちらを向いた。勝気な目が、真っ直ぐにわたしを見据える。
「あの怪物に、勝てなかったじゃない」
「……ええ。届かなかったわ」
「そう」
わたしはそれを誤魔化さなかった。あの夜明け、この娘に「負けないわ」と返した。あなたにも、あの子にも、誰にも、と。その口で言ったことを、わたしは淀で果たせなかった。
ファインローズは、少しの間わたしの顔をじっと見ていた。それから、ふっと、口の端を歪めるように笑った。
「まあ、五バ身もつけられて、それでも二着は死守したんでしょ。しぶといわね、相変わらず」
「あなたに言われたくないわ」
「はっ。違いないわね」
ファインローズは、短く笑って、窓の外へ、顎をしゃくった。六甲の向こう、これから移っていく先を指すように。
「次は、あっちで走るのよ。……せいぜい、また前で待っててあげる。あんたの大外が届く前に、今度こそ振り切ってやるんだから」
「望むところよ」
わたしは短く返した。
ファインローズは、それ以上何も言わず、窓辺を離れて、廊下の向こうへ歩いていった。きびきびとした、迷いのない足取り。振り返りはしなかった。
わたしたちはそういう間柄だ。慰めも、馴れ合いもいらない。ただ、次のターフで、また前と後ろで顔を合わせる。それだけのこと。場所が阪神から変わっても、それは何一つ変わらない。
わたしはその背中が廊下の角に消えるまで、見送っていた。
あの夜明けの発破は、まだこの娘の中にも、残っているのだろう。
◆
渡り廊下を、外へ向かって歩く。
残された僅かな荷の間を抜けて、トレーニング場の方へ出ようとした、そのときだった。
荷の陰から、ゆっくりと、一人のウマ娘が歩いてきた。
濃い栗茶の髪を、無造作に下ろしている。急ぐでもない、力みのない足取り。垂れ気味の目が、わたしを認めて、ふわりと細められた。
「あら。ハクセツ先輩」
トウメイだった。
のんびりとした声。淀で、無敗のまま頂点に立ったばかりのウマ娘とは、とても思えない緩やかさ。あの日、わたしの刃が五バ身届かなかった相手が、今、同じ校舎の廊下を、こうして歩いている。
「先輩も、まだ残っていらしたのですね」
「……ええ」
わたしが短く応じると、トウメイは、おっとりと笑った。
「栗東でも、またご一緒できますわ」
その言葉に、悪意はなかった。それは、分かった。この子はただ、また同じ場所で走れることを、無邪気に喜んでいるだけだ。淀でわたしに何を突きつけたのかも、たぶん、深くは考えないまま。
だからこそ、その一言は、どんな挑発よりも重く、わたしの胸に沈んだ。
栗東へ移っても、同じ学園。同じ屋根の下。あの、越えられなかった水のような走りが、これからも毎日、すぐ近くにある。淀で振り切られた背中と、廊下ですれ違いながら暮らしていく。
淀で突きつけられた五バ身は、もう遠いレースの記憶では、なくなる。
「エリザベス女王杯」
トウメイが、ふと言った。
「あの大外。今度も、痺れましたわ。あんなに遠くから、あんなに鋭く」
わたしは答えなかった。
その言葉が、称賛なのか、それとも——気づかぬままの、残酷な確認なのか。この子には、その区別すらないのだろう。ただ美しいものを見たと、思ったことを、そのまま口にしている。
「……あなたには、届かなかったけれどね」
気づけば、わたしはそう言っていた。突き放すような響きになった。
トウメイは、きょとんとして、それから、おっとりと首をかしげた。
「そう、でしょうか。どうでしょうねえ」
間延びした声だった。
「いつ、あの大外が視界へ飛び込んでくるのかと、最後まで気になっておりましたの。ふふ」
本気か、世辞か、判じかねた。この子の言葉は、いつも、掴んだと思った瞬間に、水のように指の間をすり抜けていく。
トウメイは、ぺこりと小さく頭を下げると、濃い栗茶の髪を揺らして、のんびりと廊下の向こうへ歩いていった。
わたしはその小さな背中を、見送った。
ファインローズの背中とは、まるで違った。あの娘の背中には、確かに何かが刺さっていた。この子の背中には——何も見えない。握りしめるものも、追いすがるものも、少なくともわたしには見えなかった。ただ、流れる水のように、次の場所へ歩いていくだけだった。
わたしの掌の奥であの蹄鉄の重みが、ふいにまた熱を持った気がした。
◆
トレーニング場の脇を抜けて、正門へ向かう。
夕暮れの阪神校は、静まり返っていた。朝には荷を運ぶ人の出入りで慌ただしかった構内も、日が傾いた今は、もう人影もまばらだ。見慣れたターフが、茜色の光の中で、静かに横たわっている。
明日には、わたしはもうここにいない。
正門のロータリーに、見覚えのある背中が二つあった。
トレーナーと、ジョセツ。
トレーナーは、いつものように、バインダーを小脇に抱えていた。その隣で、ジョセツが、白銀の髪を夕日に染めて、ぼんやりと構内を眺めていた。
「あ、お姉ちゃん」
わたしに気づいて、ジョセツが小さく手を上げた。昨日、淀のスタンドで、一言も声を上げられずにいた妹だ。今日は、その顔に、少しだけいつもの明るさが戻っている。
「荷造り、終わったの?」
「ええ。手荷物だけだもの、すぐよ」
わたしは二人の隣に並んだ。
トレーナーが、こちらを一瞥する。「体調は」とも、「明日の集合は」とも、言わなかった。ただ、わたしがそこに立ったことを確かめて、また視線を構内へ戻した。
淀の敗戦について、この人は、昨日から何も蒸し返さない。仕上げるべきものは仕上げた。走ったのはわたしだ。それで、昨日の敗北そのものについては、もう言葉を重ねる必要がないと思っているのだろう。
わたしはそれでいいと思った。
三人で、しばらく黙って構内を眺めていた。
この正門を、わたしは何度くぐっただろう。
一年半前、地方の泥をまとったまま、この校舎に初めて足を踏み入れた。ボストンバッグ一つと、手提げが二つ。あの頃のわたしは群れを拒み、誰も寄せつけず、ただ自分の刃だけを研いでいた。
あの日から、ここで、すべてが始まった。
レパードステークスの、初めての重賞。ローズステークスの初めての芝。淀で跳ね返された秋。府中で掴んだ、一番高い場所。そして——同じ淀で、初めて自分から挑んで、届かなかった秋。
その全部を、この阪神校で迎えた。
「……なんだか、変な感じだね」
ジョセツが、ぽつりと言った。
「ずっとここが、わたしたちの場所だったのに。明日から、違う場所になるなんて」
「そうね」
わたしは短く応じた。
ジョセツの言う通りだった。阪神校は、わたしが自分で選んだ場所だった。中山から、自分の意志で移ってきた場所。なのに、ここを出ていくことは、わたしが選んだわけではない。時代が、そう決めた。書類が、そう告げた。
わたしの意志とは関わりなく、世界の方が、わたしを次の場所へ運んでいく。
妙な気分だった。けれど——と、わたしは思う。
持っていくものは、わたしが選んだ。
あの手提げの中に何を入れるかは、書類でも、時代でもなく、わたしが決めた。蹄鉄と、文庫本。捨てられない過去と、返す先のある縁。行き先を選べなくても、何を携えていくかだけは、わたしのものだ。
それだけ握っていれば、どこへ運ばれようと、わたしはわたしのままでいられる。
顔を上げて、構内の向こう——東の空へ、視線を送る。
栗東は、あちらだ。滋賀の、まだ見たこともない土地。
昨日まで、わたしは移った先も似たようなものだろうと、どこかで思っていた。同じ顔ぶれ。同じ路線。ミスマルミチも、ファインローズも、あの水のような子も、みな同じ場所へ移る。何も変わりはしない、と。
けれど、今日、ふと気づいた。
栗東は、阪神校よりも、ずっと大きな器なのだ。
西の各地から、いくつもの学校のウマ娘たちが集まってくる。中京校や京都校の、まだ顔も知らない者たち。これまで走ったこともない路線を進んできた者たち。わたしが撫で斬りにしてきたティアラ路線の、そのさらに向こうにいる連中が。
限られた顔ぶれの中で研いできた刃が、これから、もっと広い戦場へ出ていく。
淀で、わたしは知った。あの大外一気を、一分の隙もなく振るってなお、届かない相手がいることを。一本の刃だけでは、越えられない場所があることを。
ならば。
わたしの「やり方」が、この先どう変わっていくのか、その答えは、まだ出ていない。もっと鋭く大外を研ぐのか。それとも、あの子のように、別の進路を手に入れるのか。今のわたしには、まだ分からない。
けれど、その問いを抱えて挑む場所は、もう決まっている。この校舎ではない。もっと広い、まだ見ぬ者たちの待つ場所だ。
「行くわよ」
わたしは二人に短く告げた。
トレーナーが、静かに頷いて歩き出す。ジョセツが「うんっ」と応えて、その後を追う。
わたしは最後にもう一度だけ、茜色に染まる阪神校を振り返った。
ここで、すべてが始まった。ここで頂点を掴み、ここで、届かない相手も知った。
その全部を、わたしは置いていく。置いていって、そして——手荷物一つ分の、大事なものだけを、次の場所へ連れていく。
六甲おろしが、背中を押すように吹いた。
わたしは正門に背を向けて、歩き出した。
東の空の、まだ見たこともない場所へ向かって。