ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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※ジョセツ視点


第二十四話 トレセン学園栗東校

 滋賀の朝は、六甲おろしの匂いがしなかった。

 

 阪神で慣れ親しんだ、あの湿って冷たい風とは違う。栗東の空気はもっと乾いていて、広くて、遠くの山の稜線までくっきり見えた。

 学生寮を出て、正門へと続くまっすぐな道を歩いていくと、真新しい門が見えてくる。大きく息を吸いこむと、知らない匂いがした。胸のなかまで、すうっと冷たくなる。

 

 正門をくぐると、ひらけた広場に出る。その真ん中に、三体の石像が立っていた。

 わたしは足を止めて、ぺこりと頭を下げた。

 ずっとずっと昔に走っていた、すごいお姉さんたちなんだって聞いた。今も、ここでみんなのことを見守ってくれている。……くわしいことは、よく知らない。

 でも、この広場を通るたびに、なんとなく頭を下げたくなる。おはようございます、って。

 

 石像はいつも通り、静かにわたしを見下ろしていた。なんだか少しだけ、背筋がのびる気がする。

 顔を上げると、広場の向こうに栗東のトレセン学園が広がっている。まだどこもかしこも新しくて、大きい。まっすぐ伸びた道の先に大きな校舎が建っていて、そのずっと奥に練習コースがある。

 阪神にいた頃の何倍も広い。西のいろんな学校から集まってきた子たちが、これからみんな、ここで走るんだ。

 そう思うと、足の裏がむずむずした。

 

 校舎に入ると、まだ木と塗料の匂いがした。廊下を歩くと、まだ硬い床板がこつこつと高く響く。その音まで新品みたいで、わたしは少し笑ってしまった。

 

「ジョセツちゃん、おはよう」

 

 振り返ると、ヤマナラシちゃんが立っていた。阪神の頃と変わらない、控えめな立ち姿。知らない校舎の知らない廊下で、見慣れた顔をひとつ見つけただけで、胸がぱっとあたたかくなる。

 

「ヤマナラシちゃん! おはよう。今日からまた、よろしくね」

「うん。クラスは、離れちゃったけどね。でも……なんだか、ほっとした」

 

 ヤマナラシちゃんはぽつりとそう言って、少しだけ笑った。

 この控えめな子が、わたしの顔を見てほっとしてくれる。それがうれしかった。またあとでね、と手を振って、わたしは自分の教室へ向かった。

 

 教室に入ると空気が違った。

 

 人はたくさんいる。机もほとんど埋まっている。なのにしんとしていた。誰もしゃべっていない。

 窓際の子は外を見て、うしろの子は鞄をいじって、目が合ってもすっと逸らされる。

 ここに前からいる子たちは、中京校から来たんだって聞いた。夏にひと足先に栗東へ移って、もうこの場所に慣れている子たち。わたしたち阪神校の組は、つい先週越してきたばかりだ。

 ついこの間まで、みんなターフの上では負けたくない相手だった。

 ……でも、それがどうして口をつぐむ理由になるんだろう。わたしにはうまくのみこめなかった。

 

 いや――その前に。

 教室のいちばんうしろ、窓際の席にムーティエちゃんがいた。

 金色の髪を片側で無造作に結わえて、頬杖をついている。まわりの席はぽっかり空いていた。誰もその隣には座らない。ムーティエちゃんがそういう子だからだ。一匹狼。阪神にいた頃から、いつも誰かの輪の少し外に一人でいた。

 でもわたしはまっすぐそこへ歩いていって、隣の椅子を引いた。

 

「ムーティエちゃん、おはよう! 隣、いい?」

「……好きにし」

 

 ムーティエちゃんはこっちも見ずにそう言った。いやがってるみたいな声。でも、椅子を引いたわたしを、追い払おうとはしなかった。これがいつものムーティエちゃんだ。

 わたしが座ると、反対の隣の子と目が合った。緑がかった髪の、見たことのない子。たぶん中京校の子だ。

 

「おはよう。わたし、ジョセツ。阪神から来たの。あなたは?」

 

 その子はびっくりしたみたいに顔を上げて、それからおずおずと名前を教えてくれた。

 名前を訊いて、どこから来たのか訊いて、返ってきた答えに笑う。それだけのことだった。

 気づくと、その子の肩から力が抜けていた。前の席の子が振り返って話に混ざってくる。斜め前の子がくすっと笑った。

 さっきまでしんとしていた教室の、うしろのほうだけ、いつのまにかあちこちで小さなさざめきが立ちはじめている。

 わたしはそれがうれしかった。みんな、しゃべるとこんなにいい顔をするのに。黙っているのはもったいない。ただそう思っただけだった。

 

 ふと、横でため息が聞こえた。

 ムーティエちゃんが頬杖をついたまま、じとっとした目でわたしを見ている。

 

「……自分、ようやるわ」

「え?」

「うちは静かにしときたいから、いちばん端っこ来たんや。誰も来おへんように。……なんでこうなんねん」

 

 見回すと、たしかに、さっきまで誰もいなかったムーティエちゃんの周りに、いつのまにか人が集まっていた。中京校の子も阪神校の子も、ごちゃまぜに。

 

「あはは。にぎやかでいいじゃない」

「よぅない。……はぁ」

 

 ムーティエちゃんは盛大にため息をついた。でも、席を立ってどこかへ行ってしまう、ということはしなかった。

 

 周りの子たちがそれぞれの話に戻っていくと、ムーティエちゃんがぽつりと言った。

 

「……自分、この前のデイリー杯、二着やったやろ」

 

 胸がちくりとした。

 

「あれ、勝てたレースやんか。うち見とったで。最後の最後、詰めが甘かったわ。……悔しかったやろ」

 

 悔しい。わたしはその言葉を、口のなかでそっと転がした。

 悔しくないと言えば嘘になる。あの日、坂の上で、あと一歩が届かなかった。前をゆく背中に手が掛からなかった。

 でも――わたしがほんとうに悔しかったのは、たぶんそこじゃなかった。

 あの日、スタンドはそんなに沸かなかった。わたしが二着で駆けぬけたとき、歓声は勝った子のほうへ流れていった。わたしの走りはあの日、誰の顔もぱっと明るくはしなかった――ように、思えた。

 それがなんだかいちばん、さみしかった。

 

「……勝ちたいとも、思うんだけどね」

 

 わたしは言葉を探しながら、ゆっくり言った。

 

「でも、それより……走ってると、みんないい顔するでしょ。応援してくれる人も、隣を走ってる子も。あれをもっと見たくて。……えへへ、うまく言えないんだけど」

 

 ムーティエちゃんは切れ長の目を、すっと細くした。

 

「……あんた、前からそうやんな」

 

 呆れたみたいな、でもどこか、あきらめたみたいな声だった。

 

「うちにはようわからんわ。自分のために走らんで、何がおもろいんか」

「えへへ」

「笑てごまかすなや」

 

 予鈴が鳴った。

 ムーティエちゃんはそれきり何も言わずに、また窓の外へ目を戻す。

 わたしはふと思い出して言った。

 

「ねえ、ムーティエちゃん。デイリー杯、見てくれてたんだね。……ありがとう」

 

 ムーティエちゃんは一瞬きょとんとした顔でこっちを向いて、それからふいと横を向いた。

 

「……べつに。たまたま目に入っただけや」

 

 そっぽを向いたまま。でも、そのほっぺたがほんの少しだけ、赤かった。

 

 

 その日の夕方。栗東の練習コースで、わたしは春日さんと走りの確認をしていた。

 まだ芝の匂いも新しいコースを一本流して戻ってくる。西の空が山の向こうで、ゆっくり茜色に溶けはじめていた。

 

 コースの脇にお姉ちゃんがいた。

 腕を組んで、わたしの走りを見ている。エリザベス女王杯から、まだ二週間も経っていない。

 あの日、淀で五バ身をつけられて負けたお姉ちゃんは、栗東に来てからもどこか静かだった。口数がいつもより少ない。

 

「上体が高い」

 

 わたしが戻ってくると、お姉ちゃんが短く言った。

 

「踏みこむときに、一瞬迷ってる。……前は、なかったでしょう。そんな迷い」

「え……」

 

 わたしは、足を止めた。

 

「デビューのときのあなたは、何も考えていなかった。ただ走って、勝手に前に出て、勝った。……今は、考えてる。だから、遅れる」

 

 考えてる。

 言われてみると、そうかもしれない、と思った。

 サフラン賞のあたりから、わたしは走りながら、いろんなことを考えるようになった。今かな、まだかな。ここで出たら、届くかな。

 デイリー杯の、あの坂の上でも。

 

「……それって、だめってこと?」

 

 お姉ちゃんは、少し黙った。

 

「さあ。……わたしには、わからない」

 

 その言い方が、少しめずらしかった。お姉ちゃんは、わからないなんて、あんまり言わない。

 

「迷いは、悪いものではありません」

 

 うしろから、春日さんの声がした。振り返ると、春日さんはわたしたちを見ながら、静かに言った。

 

「考えられるようになった、ということですから。……ただ、乗せたものが、まだ重い」

「乗せたもの?」

「いずれ、軽くなります。あなたが、それを忘れられたときに」

 

 わたしには、意味がよくわからなかった。

 忘れる? せっかく覚えたのに?

 春日さんは、それ以上は何も言わなかった。

 

 わたしは、頭をかいた。二人とも、むずかしいことを言う。

 でも、お姉ちゃんの言葉はいつも短くてまっすぐだ。ちっともいやじゃなかった。ぜんぶほんとうのことだったから。

 

「えへへ。お姉ちゃん、よく見てるね」

「当たり前でしょう。ぼんやり見て、何になるの」

 

 もう一本、と春日さんに言われて、わたしはスタート地点へ戻った。

 走りだす前に、ちらりとお姉ちゃんのほうを見た。

 お姉ちゃんはまだ、わたしを見ていた。腕を組んだまま、じっと。その目が、いつものつんとした目とは少し違って見えた。なんだか――どう言えばいいんだろう。うまく読めない目だった。

 まだエリ女のこと、悔しいのかな。わたしはそう思った。あんなに強いお姉ちゃんが、負けたんだ。きっとまだ、いろいろ抜けきってないんだ。

 

 

 練習が終わるころには、日はもう山の向こうに深く傾いていた。

 

 春日さんが「また明日」と言って先に行ってしまうと、あとにはお姉ちゃんとわたしだけが残った。栗東の広いコースが夕日に赤く染まって、しんと横たわっている。

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

 わたしは、隣を歩くお姉ちゃんに言った。

 

「阪神ジュベナイルフィリーズ。……わたしの、はじめてのGⅠだよ」

「知ってるわよ」

「はじめて、勝負服も着るんだって」

 

 お姉ちゃんは答えなかった。ただ前を見て歩いている。

 わたしは少しだけ声を落とした。

 

「デイリー杯で負けたとき、わたし言ったよね。次は阪神ジュベナイルフィリーズで勝って、お姉ちゃんに追いつくって」

 

 お姉ちゃんはやっぱり、何も言わない。

 

「あのときは、勝って追いつくんだって思ってたんだけど……なんか最近、ちょっと違う気がするんだ。追いつくって、たぶん、お姉ちゃんと同じになることじゃなくて……」

 

 うまく言えなかった。その先が、自分でもまだよくわからなかった。

 お姉ちゃんはしばらく黙っていた。それから前を見たまま、ぽつりと言った。

 

「……あなたは、わたしとは違うでしょう」

 

 わたしはお姉ちゃんの横顔を見た。

 

「わたしは、みんなを蹴散らして前に出る。それしかできない」

 

 夕日が、お姉ちゃんの白銀の髪を赤く縁どっていた。

 

「あなたはそうじゃない。あなたが走ると、みんな勝手に集まってくる。……昔からそうだった」

「そう、かな」

 

 わたしはよくわからないまま、そう答えた。自分が走ると人が集まるなんて、考えたこともなかった。

 

「そうよ」

 

 お姉ちゃんは短く言った。それ以上は何も言わなかった。

 わたしたちはまた黙って歩きだした。

 わたしは西の空を見た。もう暗くなりかけている。そのずっと向こうに、今度わたしが走る、阪神のターフがある。

 はじめてのGⅠ。はじめての勝負服。

 あそこでわたしが走ったら――みんな、どんな顔をするだろう。

 そう思うと、胸の奥がぶるっと震えた。それが武者震いなのか、ただの楽しみなのか。わたしには区別がつかなかった。

 

 

 何日かたった、昼下がり。

 午前の授業が終わって、トレーナー室に入ると、春日さんがデスク越しに、一枚の書類を差し出してきた。

 

「URAから、勝負服の申請書が届いています」

 

 勝負服。

 その言葉に、わたしはぱっと顔を上げた。

 

「勝負服!? わたしの、ですか!?」

「ええ。阪神ジュベナイルフィリーズは、GⅠですから」

 

 春日さんは、いつもの静かな声で言った。

 

「GⅠに出走するウマ娘には、自分だけの勝負服が制作されます。どんなのがいいか、希望があるなら聞かせてください」

「わたしが、決めていいんですか?」

「あなたが着るものです。私が横から口を出すことじゃない」

 

 わたしは、デスクの上の申請書をのぞきこんだ。まっさらな用紙。色の欄も、意匠の欄も、なにも書かれていない。ぜんぶ、ここに書きこむんだ。

 胸が、どきどきしてきた。

 わたしは目をつぶって、思いうかべた。わたしだけの勝負服。どんなのが、いいかな。

 

 ……ぱっと、うかんだ。

 

 ひらひらの、リボン。ふわっと広がる、フリル。走ると風をはらんで、大きくはためくような。

 旗みたいだ、と思った。お祭りの日に、町じゅうにいっぱい立っている、あの旗。あれが風でばたばた鳴ると、それだけで、これから楽しいことが始まるんだって、わかる。

 お祭りの旗は、赤と白だ。

 

「あのね、春日さん」

 

 わたしは顔を上げて言った。

 

「赤と白がいいです。それで、リボンとか、フリルとか、いっぱいつけたいです。ふわふわで、はなやかなの。走ると、ひらひらするやつ」

 

 春日さんの、ペンを持つ手が止まった。

 

「……赤と、白」

「はいっ! お祭りみたいで、たのしいでしょう?」

 

 言ってしまってから、わたしは、あ、と思った。

 赤と白。

 ……お姉ちゃんと、同じ色だ。

 考えて選んだわけじゃなかった。ただ、ぱっと浮かんだのが、その色だった。

 それが、なんだかうれしかった。

 

 春日さんは、まだペンを止めたままだった。

 じっと、わたしの顔を見ている。何かを確かめるみたいに。

 わたしは、きょとんとした。

 

「……えっと。だめ、でしょうか?」

「いえ」

 

 春日さんは、静かに首を振った。

 でも、その目が、ほんの少しだけ揺れた気がした。なんだか――どう言えばいいんだろう。うまく読めない目だった。この前、練習を見ていたお姉ちゃんの目と、少しだけ似ていた。

 

「……あなたは、」

 

 春日さんは何か言いかけて、それから、少しだけ間を置いた。

 

「……いえ。似合うと思います」

「えへへ。ありがとうございます!」

 

 春日さんは、申請書にさらさらとペンを走らせた。

 

「分かりました。赤と白の、洋風の意匠ですね。あなたの希望通りに、手配しておきます」

「はいっ! おねがいします!」

 

 わたしは、ぺこりと頭を下げた。

 むずむずする。まだ見てもいない、わたしだけの勝負服。それに袖を通して、はじめてのGⅠに立つ。想像するだけで、足の先が、そわそわした。

 

 トレーナー室を出るとき、ちらりと振り返ると、春日さんはまだ、机の上の申請書を見下ろしていた。

 赤と白。お姉ちゃんと、同じ色の、わたしの勝負服。

 春日さんが何を考えているのか、わたしには分からなかった。でも、なんとなく、声をかけそびれて、わたしはそっとドアを閉めた。

 

 

 十二月二週。阪神レース場。

 

 控室で、わたしははじめて、それに袖を通した。

 赤と白。ひらひらのリボン。ふわっと広がるフリル。想像していたよりも、ずっときれいだった。

 鏡の前でくるりと回ってみる。裾がふわりと持ちあがって、遅れて落ちる。

 ……えへへ。

 思わず、声が出た。旗だ。ほんとうに、お祭りの旗みたいだ。

 

 窓の外から、遠く、音が届いていた。

 ざわざわとした、大きな、うねるような音。何万人もの人が、いっぺんにしゃべっている音。阪神のスタンドが、もう埋まりはじめている。

 わたしは、ぎゅっと、両手を握った。

 握るものは、何もなかった。ただ、手のひらが少しあたたかい。

 

 パドックに出ると、音の壁にぶつかった。

 

 声。拍手。誰かの叫び声。名前を呼ぶ声。それが四方から、いっぺんに押し寄せてくる。デイリー杯のときとは、量がちがう。桁が、ちがう。

 わたしは思わず、足を止めそうになった。

 柵のむこうに、人の顔がぎっしり並んでいる。何列も、何列も。みんな、こっちを見ている。新聞を握りしめた人。子どもを肩車した人。身を乗り出して、口を大きく開けて叫んでいる人。

 わたしは、まわりの子たちのあとについて、ゆっくり歩いた。

 勝負服の裾が、歩くたびにひらひら揺れる。誰かが「わあ」と声をあげたのが、聞こえた気がした。

 柵のいちばん前に、小さな子がいた。お父さんの肩に乗って、こっちを見ている。目が合った。

 わたしは、その子に、にこっと笑いかけた。

 そのときだった。

 

 声が、変わった。

 

 どこがどう、とは言えない。ただ、四方から降ってくるざわめきの、どこかの一角が、ふっと高くなった。それが、隣へ、また隣へと、伝わっていくみたいに。うねりの向きが、少しずつ、変わっていく。

 わたしは、歩きながら、なんとなく顔を上げた。

 

 ――この声、なんだろう。

 

 声は、たしかにわたしのほうを向いていた。でも、それが何なのか、わたしにはわからなかった。応援されているのとも、違う気がした。もっと、こう――

 うまく、言えない。

 ただ、胸の奥のあたりが、ふわ、と押しあげられるような感じがした。あたたかくて、少し、こわいような。

 

 わたしは、その感じの名前を探そうとして――

 

 笛の音がして、わたしは、はっと前を向いた。

 列が向きを変える。となりの子の背中が近づく。地下バ道へ向かう合図だ。

 もう、さっきの感じは、どこかへ行ってしまっていた。かわりに、足の先から、じんじんと熱があがってくる。

 走るんだ。もうすぐ。

 

 地下バ道を抜けると、光があふれた。

 本バ場入場。

 目の前に、阪神のターフが広がっている。冬の芝は、少し茶色く枯れて、それでも夕方の光を受けて、金色に光っていた。

 

 スタンドから、どっと歓声があがる。さっきのパドックの比じゃない。空気がびりびり震えて、腹の底まで届いてくる。

 

 わたしは、その光のなかへ、一歩踏み出した。

 勝負服のリボンが、風をはらんで、ばたばたと鳴った。

 ああ、鳴ってる。

 お祭りの旗が、鳴ってる。

 

 昔、テレビで見た。

 お姉ちゃんが、この場所を走っていた。喉が裂けるくらい、わたしは叫んだ。あのとき、胸のなかで、なにかがぱっと開いた。

 今、わたしが、ここにいる。

 

 スタンドを見上げる。何万という顔が、遠くに小さく並んでいる。そのひとつひとつが、どんな顔をしているのか、ここからでは見えない。

 でも、わたしが走ったら――きっと。

 

 わたしは、ゲートのほうへ、身体を向けた。

 もう、何も、考えていなかった。

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