ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
滋賀の朝は、六甲おろしの匂いがしなかった。
阪神で慣れ親しんだ、あの湿って冷たい風とは違う。栗東の空気はもっと乾いていて、広くて、遠くの山の稜線までくっきり見えた。
学生寮を出て、正門へと続くまっすぐな道を歩いていくと、真新しい門が見えてくる。大きく息を吸いこむと、知らない匂いがした。胸のなかまで、すうっと冷たくなる。
正門をくぐると、ひらけた広場に出る。その真ん中に、三体の石像が立っていた。
わたしは足を止めて、ぺこりと頭を下げた。
ずっとずっと昔に走っていた、すごいお姉さんたちなんだって聞いた。今も、ここでみんなのことを見守ってくれている。……くわしいことは、よく知らない。
でも、この広場を通るたびに、なんとなく頭を下げたくなる。おはようございます、って。
石像はいつも通り、静かにわたしを見下ろしていた。なんだか少しだけ、背筋がのびる気がする。
顔を上げると、広場の向こうに栗東のトレセン学園が広がっている。まだどこもかしこも新しくて、大きい。まっすぐ伸びた道の先に大きな校舎が建っていて、そのずっと奥に練習コースがある。
阪神にいた頃の何倍も広い。西のいろんな学校から集まってきた子たちが、これからみんな、ここで走るんだ。
そう思うと、足の裏がむずむずした。
校舎に入ると、まだ木と塗料の匂いがした。廊下を歩くと、まだ硬い床板がこつこつと高く響く。その音まで新品みたいで、わたしは少し笑ってしまった。
「ジョセツちゃん、おはよう」
振り返ると、ヤマナラシちゃんが立っていた。阪神の頃と変わらない、控えめな立ち姿。知らない校舎の知らない廊下で、見慣れた顔をひとつ見つけただけで、胸がぱっとあたたかくなる。
「ヤマナラシちゃん! おはよう。今日からまた、よろしくね」
「うん。クラスは、離れちゃったけどね。でも……なんだか、ほっとした」
ヤマナラシちゃんはぽつりとそう言って、少しだけ笑った。
この控えめな子が、わたしの顔を見てほっとしてくれる。それがうれしかった。またあとでね、と手を振って、わたしは自分の教室へ向かった。
教室に入ると空気が違った。
人はたくさんいる。机もほとんど埋まっている。なのにしんとしていた。誰もしゃべっていない。
窓際の子は外を見て、うしろの子は鞄をいじって、目が合ってもすっと逸らされる。
ここに前からいる子たちは、中京校から来たんだって聞いた。夏にひと足先に栗東へ移って、もうこの場所に慣れている子たち。わたしたち阪神校の組は、つい先週越してきたばかりだ。
ついこの間まで、みんなターフの上では負けたくない相手だった。
……でも、それがどうして口をつぐむ理由になるんだろう。わたしにはうまくのみこめなかった。
いや――その前に。
教室のいちばんうしろ、窓際の席にムーティエちゃんがいた。
金色の髪を片側で無造作に結わえて、頬杖をついている。まわりの席はぽっかり空いていた。誰もその隣には座らない。ムーティエちゃんがそういう子だからだ。一匹狼。阪神にいた頃から、いつも誰かの輪の少し外に一人でいた。
でもわたしはまっすぐそこへ歩いていって、隣の椅子を引いた。
「ムーティエちゃん、おはよう! 隣、いい?」
「……好きにし」
ムーティエちゃんはこっちも見ずにそう言った。いやがってるみたいな声。でも、椅子を引いたわたしを、追い払おうとはしなかった。これがいつものムーティエちゃんだ。
わたしが座ると、反対の隣の子と目が合った。緑がかった髪の、見たことのない子。たぶん中京校の子だ。
「おはよう。わたし、ジョセツ。阪神から来たの。あなたは?」
その子はびっくりしたみたいに顔を上げて、それからおずおずと名前を教えてくれた。
名前を訊いて、どこから来たのか訊いて、返ってきた答えに笑う。それだけのことだった。
気づくと、その子の肩から力が抜けていた。前の席の子が振り返って話に混ざってくる。斜め前の子がくすっと笑った。
さっきまでしんとしていた教室の、うしろのほうだけ、いつのまにかあちこちで小さなさざめきが立ちはじめている。
わたしはそれがうれしかった。みんな、しゃべるとこんなにいい顔をするのに。黙っているのはもったいない。ただそう思っただけだった。
ふと、横でため息が聞こえた。
ムーティエちゃんが頬杖をついたまま、じとっとした目でわたしを見ている。
「……自分、ようやるわ」
「え?」
「うちは静かにしときたいから、いちばん端っこ来たんや。誰も来おへんように。……なんでこうなんねん」
見回すと、たしかに、さっきまで誰もいなかったムーティエちゃんの周りに、いつのまにか人が集まっていた。中京校の子も阪神校の子も、ごちゃまぜに。
「あはは。にぎやかでいいじゃない」
「よぅない。……はぁ」
ムーティエちゃんは盛大にため息をついた。でも、席を立ってどこかへ行ってしまう、ということはしなかった。
周りの子たちがそれぞれの話に戻っていくと、ムーティエちゃんがぽつりと言った。
「……自分、この前のデイリー杯、二着やったやろ」
胸がちくりとした。
「あれ、勝てたレースやんか。うち見とったで。最後の最後、詰めが甘かったわ。……悔しかったやろ」
悔しい。わたしはその言葉を、口のなかでそっと転がした。
悔しくないと言えば嘘になる。あの日、坂の上で、あと一歩が届かなかった。前をゆく背中に手が掛からなかった。
でも――わたしがほんとうに悔しかったのは、たぶんそこじゃなかった。
あの日、スタンドはそんなに沸かなかった。わたしが二着で駆けぬけたとき、歓声は勝った子のほうへ流れていった。わたしの走りはあの日、誰の顔もぱっと明るくはしなかった――ように、思えた。
それがなんだかいちばん、さみしかった。
「……勝ちたいとも、思うんだけどね」
わたしは言葉を探しながら、ゆっくり言った。
「でも、それより……走ってると、みんないい顔するでしょ。応援してくれる人も、隣を走ってる子も。あれをもっと見たくて。……えへへ、うまく言えないんだけど」
ムーティエちゃんは切れ長の目を、すっと細くした。
「……あんた、前からそうやんな」
呆れたみたいな、でもどこか、あきらめたみたいな声だった。
「うちにはようわからんわ。自分のために走らんで、何がおもろいんか」
「えへへ」
「笑てごまかすなや」
予鈴が鳴った。
ムーティエちゃんはそれきり何も言わずに、また窓の外へ目を戻す。
わたしはふと思い出して言った。
「ねえ、ムーティエちゃん。デイリー杯、見てくれてたんだね。……ありがとう」
ムーティエちゃんは一瞬きょとんとした顔でこっちを向いて、それからふいと横を向いた。
「……べつに。たまたま目に入っただけや」
そっぽを向いたまま。でも、そのほっぺたがほんの少しだけ、赤かった。
◆
その日の夕方。栗東の練習コースで、わたしは春日さんと走りの確認をしていた。
まだ芝の匂いも新しいコースを一本流して戻ってくる。西の空が山の向こうで、ゆっくり茜色に溶けはじめていた。
コースの脇にお姉ちゃんがいた。
腕を組んで、わたしの走りを見ている。エリザベス女王杯から、まだ二週間も経っていない。
あの日、淀で五バ身をつけられて負けたお姉ちゃんは、栗東に来てからもどこか静かだった。口数がいつもより少ない。
「上体が高い」
わたしが戻ってくると、お姉ちゃんが短く言った。
「踏みこむときに、一瞬迷ってる。……前は、なかったでしょう。そんな迷い」
「え……」
わたしは、足を止めた。
「デビューのときのあなたは、何も考えていなかった。ただ走って、勝手に前に出て、勝った。……今は、考えてる。だから、遅れる」
考えてる。
言われてみると、そうかもしれない、と思った。
サフラン賞のあたりから、わたしは走りながら、いろんなことを考えるようになった。今かな、まだかな。ここで出たら、届くかな。
デイリー杯の、あの坂の上でも。
「……それって、だめってこと?」
お姉ちゃんは、少し黙った。
「さあ。……わたしには、わからない」
その言い方が、少しめずらしかった。お姉ちゃんは、わからないなんて、あんまり言わない。
「迷いは、悪いものではありません」
うしろから、春日さんの声がした。振り返ると、春日さんはわたしたちを見ながら、静かに言った。
「考えられるようになった、ということですから。……ただ、乗せたものが、まだ重い」
「乗せたもの?」
「いずれ、軽くなります。あなたが、それを忘れられたときに」
わたしには、意味がよくわからなかった。
忘れる? せっかく覚えたのに?
春日さんは、それ以上は何も言わなかった。
わたしは、頭をかいた。二人とも、むずかしいことを言う。
でも、お姉ちゃんの言葉はいつも短くてまっすぐだ。ちっともいやじゃなかった。ぜんぶほんとうのことだったから。
「えへへ。お姉ちゃん、よく見てるね」
「当たり前でしょう。ぼんやり見て、何になるの」
もう一本、と春日さんに言われて、わたしはスタート地点へ戻った。
走りだす前に、ちらりとお姉ちゃんのほうを見た。
お姉ちゃんはまだ、わたしを見ていた。腕を組んだまま、じっと。その目が、いつものつんとした目とは少し違って見えた。なんだか――どう言えばいいんだろう。うまく読めない目だった。
まだエリ女のこと、悔しいのかな。わたしはそう思った。あんなに強いお姉ちゃんが、負けたんだ。きっとまだ、いろいろ抜けきってないんだ。
◆
練習が終わるころには、日はもう山の向こうに深く傾いていた。
春日さんが「また明日」と言って先に行ってしまうと、あとにはお姉ちゃんとわたしだけが残った。栗東の広いコースが夕日に赤く染まって、しんと横たわっている。
「ねえ、お姉ちゃん」
わたしは、隣を歩くお姉ちゃんに言った。
「阪神ジュベナイルフィリーズ。……わたしの、はじめてのGⅠだよ」
「知ってるわよ」
「はじめて、勝負服も着るんだって」
お姉ちゃんは答えなかった。ただ前を見て歩いている。
わたしは少しだけ声を落とした。
「デイリー杯で負けたとき、わたし言ったよね。次は阪神ジュベナイルフィリーズで勝って、お姉ちゃんに追いつくって」
お姉ちゃんはやっぱり、何も言わない。
「あのときは、勝って追いつくんだって思ってたんだけど……なんか最近、ちょっと違う気がするんだ。追いつくって、たぶん、お姉ちゃんと同じになることじゃなくて……」
うまく言えなかった。その先が、自分でもまだよくわからなかった。
お姉ちゃんはしばらく黙っていた。それから前を見たまま、ぽつりと言った。
「……あなたは、わたしとは違うでしょう」
わたしはお姉ちゃんの横顔を見た。
「わたしは、みんなを蹴散らして前に出る。それしかできない」
夕日が、お姉ちゃんの白銀の髪を赤く縁どっていた。
「あなたはそうじゃない。あなたが走ると、みんな勝手に集まってくる。……昔からそうだった」
「そう、かな」
わたしはよくわからないまま、そう答えた。自分が走ると人が集まるなんて、考えたこともなかった。
「そうよ」
お姉ちゃんは短く言った。それ以上は何も言わなかった。
わたしたちはまた黙って歩きだした。
わたしは西の空を見た。もう暗くなりかけている。そのずっと向こうに、今度わたしが走る、阪神のターフがある。
はじめてのGⅠ。はじめての勝負服。
あそこでわたしが走ったら――みんな、どんな顔をするだろう。
そう思うと、胸の奥がぶるっと震えた。それが武者震いなのか、ただの楽しみなのか。わたしには区別がつかなかった。
◆
何日かたった、昼下がり。
午前の授業が終わって、トレーナー室に入ると、春日さんがデスク越しに、一枚の書類を差し出してきた。
「URAから、勝負服の申請書が届いています」
勝負服。
その言葉に、わたしはぱっと顔を上げた。
「勝負服!? わたしの、ですか!?」
「ええ。阪神ジュベナイルフィリーズは、GⅠですから」
春日さんは、いつもの静かな声で言った。
「GⅠに出走するウマ娘には、自分だけの勝負服が制作されます。どんなのがいいか、希望があるなら聞かせてください」
「わたしが、決めていいんですか?」
「あなたが着るものです。私が横から口を出すことじゃない」
わたしは、デスクの上の申請書をのぞきこんだ。まっさらな用紙。色の欄も、意匠の欄も、なにも書かれていない。ぜんぶ、ここに書きこむんだ。
胸が、どきどきしてきた。
わたしは目をつぶって、思いうかべた。わたしだけの勝負服。どんなのが、いいかな。
……ぱっと、うかんだ。
ひらひらの、リボン。ふわっと広がる、フリル。走ると風をはらんで、大きくはためくような。
旗みたいだ、と思った。お祭りの日に、町じゅうにいっぱい立っている、あの旗。あれが風でばたばた鳴ると、それだけで、これから楽しいことが始まるんだって、わかる。
お祭りの旗は、赤と白だ。
「あのね、春日さん」
わたしは顔を上げて言った。
「赤と白がいいです。それで、リボンとか、フリルとか、いっぱいつけたいです。ふわふわで、はなやかなの。走ると、ひらひらするやつ」
春日さんの、ペンを持つ手が止まった。
「……赤と、白」
「はいっ! お祭りみたいで、たのしいでしょう?」
言ってしまってから、わたしは、あ、と思った。
赤と白。
……お姉ちゃんと、同じ色だ。
考えて選んだわけじゃなかった。ただ、ぱっと浮かんだのが、その色だった。
それが、なんだかうれしかった。
春日さんは、まだペンを止めたままだった。
じっと、わたしの顔を見ている。何かを確かめるみたいに。
わたしは、きょとんとした。
「……えっと。だめ、でしょうか?」
「いえ」
春日さんは、静かに首を振った。
でも、その目が、ほんの少しだけ揺れた気がした。なんだか――どう言えばいいんだろう。うまく読めない目だった。この前、練習を見ていたお姉ちゃんの目と、少しだけ似ていた。
「……あなたは、」
春日さんは何か言いかけて、それから、少しだけ間を置いた。
「……いえ。似合うと思います」
「えへへ。ありがとうございます!」
春日さんは、申請書にさらさらとペンを走らせた。
「分かりました。赤と白の、洋風の意匠ですね。あなたの希望通りに、手配しておきます」
「はいっ! おねがいします!」
わたしは、ぺこりと頭を下げた。
むずむずする。まだ見てもいない、わたしだけの勝負服。それに袖を通して、はじめてのGⅠに立つ。想像するだけで、足の先が、そわそわした。
トレーナー室を出るとき、ちらりと振り返ると、春日さんはまだ、机の上の申請書を見下ろしていた。
赤と白。お姉ちゃんと、同じ色の、わたしの勝負服。
春日さんが何を考えているのか、わたしには分からなかった。でも、なんとなく、声をかけそびれて、わたしはそっとドアを閉めた。
◆
十二月二週。阪神レース場。
控室で、わたしははじめて、それに袖を通した。
赤と白。ひらひらのリボン。ふわっと広がるフリル。想像していたよりも、ずっときれいだった。
鏡の前でくるりと回ってみる。裾がふわりと持ちあがって、遅れて落ちる。
……えへへ。
思わず、声が出た。旗だ。ほんとうに、お祭りの旗みたいだ。
窓の外から、遠く、音が届いていた。
ざわざわとした、大きな、うねるような音。何万人もの人が、いっぺんにしゃべっている音。阪神のスタンドが、もう埋まりはじめている。
わたしは、ぎゅっと、両手を握った。
握るものは、何もなかった。ただ、手のひらが少しあたたかい。
パドックに出ると、音の壁にぶつかった。
声。拍手。誰かの叫び声。名前を呼ぶ声。それが四方から、いっぺんに押し寄せてくる。デイリー杯のときとは、量がちがう。桁が、ちがう。
わたしは思わず、足を止めそうになった。
柵のむこうに、人の顔がぎっしり並んでいる。何列も、何列も。みんな、こっちを見ている。新聞を握りしめた人。子どもを肩車した人。身を乗り出して、口を大きく開けて叫んでいる人。
わたしは、まわりの子たちのあとについて、ゆっくり歩いた。
勝負服の裾が、歩くたびにひらひら揺れる。誰かが「わあ」と声をあげたのが、聞こえた気がした。
柵のいちばん前に、小さな子がいた。お父さんの肩に乗って、こっちを見ている。目が合った。
わたしは、その子に、にこっと笑いかけた。
そのときだった。
声が、変わった。
どこがどう、とは言えない。ただ、四方から降ってくるざわめきの、どこかの一角が、ふっと高くなった。それが、隣へ、また隣へと、伝わっていくみたいに。うねりの向きが、少しずつ、変わっていく。
わたしは、歩きながら、なんとなく顔を上げた。
――この声、なんだろう。
声は、たしかにわたしのほうを向いていた。でも、それが何なのか、わたしにはわからなかった。応援されているのとも、違う気がした。もっと、こう――
うまく、言えない。
ただ、胸の奥のあたりが、ふわ、と押しあげられるような感じがした。あたたかくて、少し、こわいような。
わたしは、その感じの名前を探そうとして――
笛の音がして、わたしは、はっと前を向いた。
列が向きを変える。となりの子の背中が近づく。地下バ道へ向かう合図だ。
もう、さっきの感じは、どこかへ行ってしまっていた。かわりに、足の先から、じんじんと熱があがってくる。
走るんだ。もうすぐ。
地下バ道を抜けると、光があふれた。
本バ場入場。
目の前に、阪神のターフが広がっている。冬の芝は、少し茶色く枯れて、それでも夕方の光を受けて、金色に光っていた。
スタンドから、どっと歓声があがる。さっきのパドックの比じゃない。空気がびりびり震えて、腹の底まで届いてくる。
わたしは、その光のなかへ、一歩踏み出した。
勝負服のリボンが、風をはらんで、ばたばたと鳴った。
ああ、鳴ってる。
お祭りの旗が、鳴ってる。
昔、テレビで見た。
お姉ちゃんが、この場所を走っていた。喉が裂けるくらい、わたしは叫んだ。あのとき、胸のなかで、なにかがぱっと開いた。
今、わたしが、ここにいる。
スタンドを見上げる。何万という顔が、遠くに小さく並んでいる。そのひとつひとつが、どんな顔をしているのか、ここからでは見えない。
でも、わたしが走ったら――きっと。
わたしは、ゲートのほうへ、身体を向けた。
もう、何も、考えていなかった。