ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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第二十五話 阪神ジュベナイルフィリーズ

 十二月の阪神は、朝から晴れていた。

 昨日までの雨は夜のうちに上がり、空は高く乾いている。だが芝はまだ水を含んでいた。稍重。

 パドックの柵の内側に立つと、踏まれた芝の匂いが、湿って重く立ちのぼってくる。

 阪神ジュベナイルフィリーズ。GⅠ、芝1600メートル。

 ジョセツの、初めてのGⅠだった。

 

 十八人が、順にパドックへ出てくる。

 柵のむこうは、すでに人で埋まっていた。何列も、何列も。新聞を握った男、子供を肩車した父親、身を乗り出して名前を叫ぶ声。

 ジュニア級ティアラ路線の頂点を決める一戦に、阪神は朝から、人を呑み込み続けている。

 

 赤と白が、その列の中に現れた。

 ひらひらとしたリボン。ふわりと広がるフリル。歩くたびに裾が揺れ、遅れて落ちる。

 俺は、あの申請書を思い出した。

 

 まっさらな用紙を前にして、ジョセツは目をつぶり、それから、ぱっと顔を上げた。赤と白がいいです。リボンとか、フリルとか、いっぱいつけたいです――お祭りみたいで、たのしいでしょう?

 

 姉と同じ色だった。

 あれは選んでから、そのことに気づいていた。考えて選んだのではない。ただ、浮かんだものがその色だった。それだけのことだ。

 俺はあのとき何か言いかけて、やめた。今もその先を言葉にできる気がしない。

 

 ハクセツの赤と白を、俺は一年余り見てきた。

 あの色は、静かだった。世間が望む楚々とした美少女の意匠を隅々まで模して、ゲートが開くまで、決して音を立てなかった。纏うための色ではなく、剥ぐための色だった。

 妹の赤と白は、鳴っていた。

 

 柵のむこうから、「わあ」と声が上がった。

 誰かが手を叩き、それに釣られて、また誰かが叩く。ジョセツは周回の列の中を、まわりの子たちのあとについて、ゆっくり歩いている。

 緊張はしていた。指先が、リボンの端を何度も摘まんでは離している。

 

 柵のいちばん前で、肩車の子供と目が合ったらしい。

 ジョセツは、その子に、にこりと笑いかけた。

 声が、変わった。

 

 どこがどう変わったのか、俺には説明できなかった。四方から降るざわめきの、どこか一角がふっと高くなり、それが隣へ、また隣へと伝染していく。うねりの向きが、少しずつ変わっていく。名前を呼ぶ声が増えたわけではない。拍手が揃ったわけでもない。

 ただ、パドックの空気が、ジョセツのほうへ傾いた。

 

 説明はできる。新しい勝負服が目を引いた。二番人気の新星が笑って見せた。だから沸いた。

 どれも正しく、どれも足りない。

 

 ハクセツのときは、こうではなかった。

 俺が知っている勝負服の披露は、あれだけだ。

 去年の秋、同じ色を纏った姉が京都に立ったとき、スタンドは確かに沸いた。だがあれは、こちらへ傾く沸き方ではなかった。楚々とした白い美少女、という虚像に向かって、外側から浴びせられる歓声だった。ハクセツはそれを微塵も受け取らず、ゲートが開いた瞬間に、まとめて叩き割った。

 浴びる者と、傾ける者。

 同じ色を着て、正反対のことが起きている。

 

 ジョセツが何かをしたから、人が動くのではない。そこにいて、ただ世界を素直に受け取っているだけで、周りが勝手に傾いていく。

 波だ、と俺は思う。もう何度もそう思ってきた。名前をつけたところで、中身は少しも分かっていない。

 俺には、担当が二人しかいない。刃と、波。比べられるものが、それきりしかない。

 

 周回を見ながら、俺は頭の中で、今日の隊列をもう一度組んだ。

 ジョセツ、十五番。七枠。十八人立ての、外目。

 前へ行くウマ娘には遠い枠だ。

 だが、後方から大外へ持ち出す走りにとっては、これ以上ない枠だった。誰にも邪魔されず、そのまま外を回せる。

 ハクセツなら、この枠を喜んだだろう。一年半、俺はその枠のことばかり考えてきた。

 この妹には、その道がない。

 

 中京のデビュー戦で、ジョセツは最後方から大外を回して勝った。だがあれは八人立てで、相手も未勝利の顔ぶれだった。GⅠの十八人が相手で、この重い芝で、最後にこの坂が待っている今日、外を回った分を一気に取り返す脚は、ジョセツにはない。

 長い距離を余分に回り、最後の一瞬で前を撫で斬りにする――そういう切れ味は、あの身体には積まれていない。姉の刃を、そのまま妹に持たせることはできない。外を回せば、回った分だけ、ただ遠くなる。

 代わりに、長い脚がある。踏んでも踏んでも減らない脚。デビュー戦から今日まで、俺が測り続けてきたのはそこだった。切れないが、尽きない。

 

 そして今日の条件は、その脚のためにあるようなものだった。

 稍重の芝は脚を削る。ゴール前には坂が待ち、そこへ至るまで、阪神の1600は緩やかな高低差を延々と孕んでいる。

 おまけに逃げが三人、先行がずらりと揃っていた。前は序盤から競り合い、流れはよどみなく速くなる。

 速い流れと、重い芝と、最後の坂。前は最後に止まる。だが今日は、後ろも同じだけ削られる。誰の脚も、直線までは残らない。

 持久戦だ。それも、極端な。

 

 なら、ジョセツの土俵だ。

 七枠十五番から、序盤で内へ潜らせる。前へは行かせない。中団。前が競り合って削れていくのを、バ群の中で待たせる。そして坂の手前、周りの脚が尽きはじめたところで、隙間から抜けさせる。

 長く脚を使って、じりじりと押し上げる。切れ味ではなく、尽きなさで勝負をする。

 それが、今日の勝ち方の予測だった。

 

 だが、バ群には壁がある。

 外を回るなら、考えることは何もない。ただ回して、伸ばせばいい。だがバ群の中で走るということは、常に判断を強いられるということだ。前が塞がる。隙間が開く。閉じる。また開く。そのどれに脚を合わせるかを、走りながら選び続けなければならない。

 選ぶには、考えなければならない。

 そして、ジョセツは考えると遅れる。

 

 栗東の練習コースで、ハクセツが言った言葉を思い出す。踏みこむときに、一瞬迷ってる。前は、なかったでしょう、そんな迷い――俺より先に、姉があれを見抜いていた。

 デビュー戦のジョセツは何も考えていなかった。ただ走って、勝手に前に出て、勝った。だがサフラン賞から、自分の走りを考えはじめた。考えられるようになった。それは間違いなく成長だ。デイリー杯で一バ身届かなかったのも、その代償にすぎない。

 乗せたものが、まだ重い。それだけのことだ。

 いずれ軽くなる、と俺は言った。それを忘れられたときに。

 

 ――いずれ。今日ではない。

 

 バ群で隙間を待たせれば、あの一瞬の迷いは、必ず出る。迷えば隙間は閉じる。閉じれば、詰まって終わる。

 では、外へ出すか。迷いは出ない。壁がないからだ。だが、届かない。あの脚では、外を回って届く道理がない。

 迷わせずに負けるか、迷わせて賭けるか。

 道は、二本ではなかった。一本しかなかった。

 バ群。あの一瞬の迷いごと、腹を括る。それが、俺の結論だった。

 

 周回が終わり、列が柵際で足を止める。俺は、決めたことを短く伝えた。

 

「前にも外へも出ないで、中団で我慢してください。周りが苦しくなるまで、動かないこと」

「はいっ」

「バ群の中は、壁ばかりです。塞がれます。何度も。……それでも、隙間は開きます」

 

 ジョセツは、勝負服の裾を揺らして、大きく頷いた。

 

「はいっ!」

 

 いい返事だった。良すぎるほどに。

 この子が今の話をどれだけ理解したのか、俺は測りかねていた。壁の意味も、隙間の意味も、たぶん半分も届いていない。それでいい。分かりすぎれば、余計に考える。

 

 ただ――ひとつだけ、引っかかった。

 その目が、澄んでいた。

 何も映していない、というのとは違う。むしろ逆で、そこには阪神のすべてが映っていた。スタンドも、芝も、光も、柵のむこうの何万という顔も。ただ、そのどれとも格闘していなかった。ぜんぶをそのまま受け取って、何ひとつ引っかかっていない。

 俺が知っている、ジョセツの目ではなかった。

 考えているときのこの子は、もっと眉が寄る。今かな、まだかな、と口の中で呟く癖がある。今朝から、それが一度もなかった。

 

 緊張で頭が真っ白になっているのか。それとも――

 笛が鳴った。

 列が向きを変え、地下バ道へ向かって歩き出す。赤と白のリボンが、その背中で小さく揺れた。ジョセツは一度も振り返らなかった。

 

 俺は、さっき浮かびかけた考えの先を、追わなかった。追う理由がなかった。

 まだ、乗せたものを忘れられてはいない。いずれ軽くなる。だが、それは今日ではない。

 

 スタンドの上段に立つと、少し遅れて隣に足音が止まった。

 振り向かなくても分かった。ハクセツだった。

 白銀の髪を冬の風に晒したまま、彼女は何も言わずに、ターフを見ている。エリザベス女王杯から、まだひと月も経っていない。淀で五バ身をつけられた背中が、今は妹の走る場所へ向いていた。

 

 一ヶ月前は、逆だった。

 あの日、この位置にいたのはジョセツで、走っていたのがハクセツだった。妹は俺の隣で、姉が敗れるのを、一言も発さずに見ていた。ヴィクトリアマイルで喉が裂けるほど叫んだ子が、あの日は最後まで黙っていた。

 今日は、姉が黙っている。

 

 地下バ道から、十八人が姿を現す。歓声が、スタンドを揺らした。

 赤と白のリボンが、冬の風をはらんで、大きく鳴っていた。

 

「――来ました」

 

 俺が言うと、ハクセツは小さく顎を引いた。それだけだった。

 枠入りが始まる。十八人が、順に扉の中へ収まっていく。七枠十五番。赤と白が、ゲートの中へ消えた。

 

 予測は、この時点ですべて出揃っていた。

 前が競り合い、流れは速くなる。芝は重く、坂が待つ。誰の脚も残らない。ジョセツはバ群の中で我慢し、隙間を待ち、そこで一瞬迷い、それでもなお、前を捉えにいく。

 届くかは分からない。届かなくても、ジョセツはまだジュニア級だ。

 まだまだ成長の余地がある。

 

 ――そう、思っていた。

 

◆阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ・阪神 芝1600m 右 晴 稍重)

 

 ゲートが開いた。

 

『スタートしました。十八人、揃った発走であります』

 

 スタンドをどよめきが撫でた。

 場内放送の実況が、乾いた冬の空気を渡っていく。俺は手すりに手をかけたまま、七枠の赤と白を探した。

 いた。外目からジョセツが五分に出ている。

 行かない。前へ行かない。俺の指示通りじわりと脚を溜めたまま、周りが先に出ていくのを見送っている。

 

『先手を主張したのは五番ラインオブオネスト、そして八番タマミ。二人が並んで前を切ってまいりました。十番ケイサンタ、これも離れずについてまいります』

 

 前が速い。

 三人の逃げが譲らずに競り合っている。予測通りだった。誰も引かない。流れはよどみなく、一コーナーを回るころには、隊列はもう縦に伸びていた。

 

『十五番ジョセツ、内へ、内へと下げてまいります。中団、バ群の中に入りました』

 

 実況がその名を呼んだ。

 スタンドの一角が、それだけで沸いた。

 俺は声を聞きながら、頭の中で位置を組み直していた。七枠十五番から、序盤で内へ。前へも外へも行かせず、中団。すべて、伝えた通りに動いている。

 いい。ここまでは完璧だ。

 

 隣でハクセツは何も言わなかった。

 白銀の髪を風に晒したまま、まっすぐ向正面を見ている。腕を組んでもいない。ただ、立って見ていた。

 

『向正面。前の三人、なおも譲りません。後方、十七番グッドブルティナが動き出しました。外から、じわりと位置を上げてまいります』

 

 一番人気のグッドブルティナが、動いた。

 まだ早い、と俺は思った。この流れで、この芝で、この坂だ。あそこから長く脚を使えば、直線で必ず止まる。

 止まればいい。前が競り合って潰れ、後ろが早仕掛けで潰れる。その両方が潰れた真ん中を、ジョセツが抜ける。

 それが、俺の描いた絵だった。

 

『三コーナーを回りました。前は五番、八番。十番ケイサンタが差を詰めてまいります。バ群、凝縮してまいりました』

 

 凝縮。その一語で、手すりを握る手に力が入った。

 ――違う。

 

『先頭、五番ラインオブオネスト、しかし脚色が怪しくなってまいりました。八番タマミ、なおも粘っております。十番ケイサンタ、これも脚色衰えません』

 

 前が、止まらない。

 ラインオブオネストはずるずると後退していく。競り合いで潰れたのだろう。

 だがタマミが残っている。ケイサンタも残っている。この流れを追いかけて、この芝で、この坂を前にして、まだ脚色が衰えていない。

 

 俺の計算では、前は最後に止まるはずだった。

 前が止まり、バ群がばらけ、そこに隙間が生まれる。ジョセツはその隙間を抜ける。

 止まらないなら、ばらけない。

 ばらけないなら、隙間が開かない。

 

 俺は、バ群の中の赤と白を探した。

 いた。中団のインコース。前にも横にも、ウマ娘がいる。壁だ。コーナーを回る密集の、その内側で、ジョセツは完全に囲まれていた。

 

 冷たいものが、背中を伝った。

 まだ動いていない。動けないのではない。動かないのだ。周りが苦しくなるまで動くな、と俺が言った。だから律儀に、その通りに待っている。

 だが、周りは苦しくなっていない。

 

 俺は「隙間は開きます」と言った。

 開かなかったら、どうしろとも言わなかった。

 

『第四コーナー。各ウマ娘、一団となって回ってまいります。さあ阪神の直線、坂が待っております』

 

 直線に十八人がなだれ込んだ。

 そこで初めて、バ群が縦に裂けた。

 俺の想定より、遥かに遅かった。前が最後まで踏ん張った分だけ、ばらけるのが遅れた。坂の入口で、ようやく脚が尽きはじめた者たちが後ろへ流れていく。

 その一瞬に、隙間が生まれる。

 一つだけ。

 

『十七番グッドブルティナ、伸びません! 一番人気、ここで脚色一杯であります!』

 

 止まった。予測通りだ。だが今、その報せに意味はなかった。

 俺の目は、ただ一点に張りついていた。

 バ群の内、ジョセツの前。二人のウマ娘の間に、ほんのわずかな空隙が開いている。

 開いた、と思った瞬間には、もう閉じかけていた。

 

 一完歩。

 あの隙間は、一完歩で閉じる。

 抜けるなら今しかない。今、この瞬間に踏み込まなければ、壁の中に置き去りにされる。詰まって何もできずに、ゴール板を迎える。

 

 そして、ジョセツは踏み込むときに迷う。

 俺はそれを知っていた。姉に指摘され、自分の目でも確かめ、そのうえで、この作戦を選んだ。迷いごと腹を括ると、そう決めた。

 ――迷う。ここで、必ず。

 

 隣で息を呑む音がした。

 俺は、その音の意味が分からなかった。分かるより早く、視界の中で、赤と白が動いた。

 

 迷いがなかった。

 ためらいも、確認も、半歩の躊躇も、何ひとつなかった。隙間が開いたことを、ジョセツは考えていなかった。考えていないから、待ってもいなかった。ただ、そこに空いた道へ、当たり前のように脚が入っていた。

 バ群が、割れた。

 

『――さあ、内から! 内から一人、上がってまいります!』

 

 実況の声が跳ねた。

 

『十五番ジョセツ! バ群を割って抜け出してまいりました! 鋭い、鋭い脚であります!』

 

 スタンドが爆ぜた。

 地鳴りのような声が、下から突き上げてくる。手すりが震え、足の裏が震え、空気そのものが押されて、俺の身体を後ろへ押しやろうとする。

 その中で俺は動けなかった。

 

 赤と白が、坂を駆け上がっていく。

 あの脚は切れない。俺はそう測ってきた。一瞬で突き放す脚はない。長く、じりじりと、削るように押し上げるしかない。

 その切れないはずの脚が、鋭かった。

 

『八番タマミ、粘る! 十番ケイサンタも粘っております! しかし十五番ジョセツ、見る見る差を詰めてまいります! 残り200――』

 

 前は、最後まで止まらなかった。

 タマミは粘った。ケイサンタも粘った。俺が「止まる」と読んだ二人は、坂を上りきってなお脚を使っている。それを、ジョセツが捉えにいく。

 止まった相手を拾うのではない。

 止まらない相手を、削り取っていく。

 

『十五番ジョセツ、先頭に立った! なおも伸びる、なおも伸びます!』

 

 残り100。

 スタンドの声が一つに融けた。もう誰の名前も聞き取れない。ただ、うねりだけがある。ジョセツがパドックで傾けた空気の、何十倍の質量が、いま一方向へ雪崩れている。

 俺はそのうねりの中に立っていた。

 

 赤と白のリボンが鳴っている。

 風をはらんでばたばたと。

 

『ゴール板――先頭でゴールイン、十五番ジョセツ! 二バ身半、後続を突き放してのゴールインであります!』

 

 しばらく、何も考えられなかった。

 スタンドの歓声が、遠くで鳴っている。掲示板に着順が灯った。一着、十五番、ジョセツ。二着に十二番スターウイング。三着に八番タマミ。四着に十番ケイサンタ。

 勝ちタイム、1分38秒1。

 

『――ジュニア級ティアラ路線の頂点が、決まりました。デビューから四戦、GⅠでの戴冠であります。バ群を割って抜け出したあの脚、この重い芝と、最後の坂を、まったく苦にいたしませんでした』

 

 実況が勝者を讃えている。

 俺の耳には、半分も入っていなかった。

 

 俺の予測は、大筋では当たっていた。

 流れは速くなった。芝は重く、坂は堪えた。一番人気は伸びず、後ろから来た者はことごとく届かなかった。この舞台で勝てるのは、長く脚を使える者だけだった。

 だが、ジョセツだけを読み違えた。

 

 ジョセツは迷わなかった。

 俺は「いずれ軽くなる」と言った。あの言葉に嘘はない。乗せた意識が身体に馴染めば、判断はやがて考える手前に降りてくる。そういうものだ。そう教わったし、そう信じている。

 だが俺は、それを「いずれ」と言った。

 半年か。一年か。クラシック級になるころか。少なくとも、今日ではないだろう。

 

 俺はそう考えていた。

 考えていたのは、俺だ。

 ジョセツではない。

 

 背中にまだ冷たいものが残っていた。それは恐怖に似ていた。だが恐怖ではなかった。もっと近くて、もっと個人的な、名前のない何かだった。

 俺はジョセツの走りを測ってきた。だから作戦を組めた。だから今日、勝てた。

 測れなかったものが、一つだけあった。

 いつ、ジョセツが考えるのをやめるか。

 

 隣を見た。

 ハクセツは、ターフを見ていた。

 ジョセツが赤と白の裾を揺らして、歓声の海の中を歩いている。手を振っている。スタンドが、それに応えてまた爆ぜる。

 ハクセツは何も言わなかった。

 

 だが、分かる気がした。

 あの隙間が開くより前に、彼女は息を呑んだ。

 俺が隙間を見ていたとき、彼女は妹の脚を見ていたのではないか。

 

「……気づいていたんですか」

 

 俺が言うと、ハクセツはこちらを見なかった。ターフを見たまま、短く答えた。

 

「踏みこみに、いつもの引っかかりがなかったわ」

 

 それだけだった。

 俺は口を開こうとして、何も出てこなかった。

 俺はジョセツの何を測っても、ジョセツがいつそれを手放すかを測れない。彼女は測らない。ただ、見ている。

 そして、俺より先に見た。

 

 スタンドの下で、赤と白が跳ねている。

 ジョセツは今日、自分が何をしたのか、たぶん分かっていない。壁がどれだけ厚かったかも、隙間がどれだけ狭かったかも、自分の脚がどれだけ鋭かったかも。

 考えていなかったから、鋭かった。

 

 俺はこの一年半、外から測ることを覚えてきた。

 だが、外から測るだけでは、変わる瞬間を見落とす。

 

 それを今日、初めて思い知った。

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