ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
冬休みを三日後に控えた、午後の遅い時間だった。
栗東の校舎は、まだ新しい匂いがする。木と、塗料と、乾ききっていない何かの匂い。廊下の床板は硬く、歩くたびに足音が高く跳ね返った。自分がいまどのあたりを歩いているのか、音のほうが先に教えてくれるような校舎だ。
わたしが向かっているのは、いつもとは逆の方角だった。
ミスマルミチが普通学科へ移ったことは、栗東に着いてすぐに知った。
廊下で、誰かが話しているのを聞いた。それだけだ。
本人から聞いたわけではないし、本人が言いに来るような娘でもない。
教室の名簿から、ミスマルミチの名前が消えていた。わたしの知り方は、その程度のものだった。
明日にはみな栗東へ移りますもの、とあの娘は言った。行き先が同じなのだから、貸し借りが明日を境にどうこうなるわけではない、と。あのときわたしは、それを当たり前のことだと思った。
同じ顔ぶれ。何も変わりはしない。
そう数えた顔ぶれの中に、わたしはこの娘を入れていた。
手提げの中には、文庫本が一冊入っている。
『あすなろ物語』。井上靖。
淀で負けた次の週に、わたしの机の上に置かれていた一冊だった。誰が置いたかは、書名を見るまでもなく分かった。レースのことは、一言も書かれていなかったし、後から何か言われることもなかった。
あの一ヵ月は、走る以外のことに使える時間がやたらとあった。皮肉な話だと思う。
校舎の反対の端に、その教室はあった。
扉は開いていた。中を覗いて、わたしは一度、足を止める。
黒板の横の壁に、開催予定表が貼られていない。
それだけのことだった。それだけのことなのに、わたしは自分がまったく別の校舎に入り込んだような気がした。
窓際の席に、ミスマルミチがいた。
栗色の長い髪を緩く結ったまま、いつもと変わらぬ姿勢で何か書いている。机の上には、見慣れない厚い本が二冊、重ねて置かれていた。
その周りだけが静かな硝子で隔てられているのも、変わらなかった。
わたしは、手提げから文庫本を取り出して、その机の脇に立った。
「読み終えたわ」
ミスマルミチは、ペンを置いて、ゆっくりとこちらを向いた。文庫本に視線を落とし、それから、薄く微笑む。
「あら。ごきげんよう、ハクセツさん。……ずいぶん、遠くまでいらっしゃいましたのね」
「校舎の端から端よ。遠くもないでしょう」
ミスマルミチは、両手で文庫本を受け取った。表紙を一度、指の腹で撫でる。癖なのだろうと思う。
「鮎太は、いかがでしたの?」
「……何にもならなかったわね。最後まで」
わたしは、少し考えてから、そう答えた。
「面白かったかと訊かれると、困るのだけれど」
「ふふ。それで、よろしいのですわ」
ミスマルミチは文庫本を引き出しに仕舞い、それから、同じ引き出しの奥から、別の一冊を取り出した。
見覚えのある装丁だった。
「では、こちらを」
『樅ノ木は残った』の、下巻。
「……上巻は、五月に読んだわ」
「ええ。ずっと、こちらでお預かりしておりましたの」
半年、この娘の引き出しの中にあったということだ。阪神校のあの机から、この机まで、そのまま運ばれてきたらしかった。
わたしは受け取った。上巻より、わずかに厚い。
「わたくし、走るのはやめましたの」
知っていたことでも、本人の口から出ると、少し重さが変わる。
「……聞いたわ」
「あら。驚いてくださいませんの」
「驚けば、あなたが困るでしょう」
ミスマルミチは、少しおかしそうに首を横に振った。
「ハクセツさんは、そういう方ですわね」
そして、机の上に重ねられた厚い本の背に、指を一本置いた。
「うちの家系には、あとから走る子がおりますのよ。……いちばん上の子が、再来年にはこちらへ参りますわ」
「……そう」
「わたくしは、あの三つの舞台に、一度も立てませんでしたでしょう」
なんでもないことのように言った。声の高さも、いつもと変わらない。
「けれど、届かなかった者にしか見えていないものも、いくらかはございますのよ。それを、きちんと言葉にして、家に持って帰りたいと思いましたの」
「トレーナーになるの」
「いいえ、まさか。そんな大それたものではございませんわ」
ミスマルミチは、机の上の本を軽く指で叩いた。
「うちの子が走るときに、そばで見てやれるくらいの。……それだけのことですわ」
わたしは、何と返せばいいのか、すぐには分からなかった。
この娘は、一度だけ重賞を勝っている。今年の三月、中京の1400。桜花賞にも、オークスにも、秋華賞にも、一度も立てなかった。
それでも、あの日の中京は、ミスマルミチの場所だった。
届かなかった、とこの娘は言う。わたしは、その言い方が正確だとは思わない。
けれど、それを口に出すのは、たぶん、領分に踏み込むことだった。だからわたしは、何も言わなかった。
この娘は、決めたのだ。誰に相談するでもなく、誰に見せるでもなく、自分の行き先を。
「……ずいぶん、簡単に言うのね」
「簡単ではございませんでしたわ。ただ、決まってしまえば、話すのは簡単ですの」
ミスマルミチはそう言って、また机の上に視線を落とした。名残を惜しむでも、別れを惜しむでもない。
この娘は、いつもそうだ。踏み込んでこないから、わたしも構える必要がない。
「冬のあいだには、読み終わりませんわ、きっと。上巻より、少し長うございますの」
「読み終えたら返しに来るわ」
「ええ。楽しみにしておりますわ」
いつかと同じ返事だった。
廊下に出ると、足音がまた高く跳ね返った。来たときと同じ音のはずなのに、帰りのほうが、少しだけ長く聞こえる。
手提げの中には、また一冊ある。読み終えたら返す。返すから、また、あの机の脇に立てる。
校舎の端から端まで。今日はじめて歩いた道を、わたしはたぶん、これから何度も歩くことになる。
◆
冬休みに入った翌日、わたしたちは京都駅にいた。
年末の駅は、去年と同じように混んでいた。大きな荷物を抱えた家族連れ。学生。改札の手前で誰かを探している人。
一年前も、わたしはこの景色の中にいた。あのときは新大阪で、隣にはトレーナーがいて、わたしは一人で列車に乗った。
今年は、隣に妹がいる。
「お姉ちゃん、窓側でいい?」
「勝手にしなさい」
ジョセツはボストンバッグを網棚に押し上げると、さっさと窓側に収まって、外を見た。まだ何も動いていないホームを、飽きもせずに眺めている。
GⅠをひとつ勝ったばかりの子には、とても見えない。
列車が動き出してからも、ジョセツはよく喋った。栗東の食堂の話。同じ学年の誰かの話。ヤマナラシに借りたまま返しそびれている何かの話。わたしは相槌だけを打っていた。
淀のことは、一度も言わなかった。
忘れているわけではないと思う。この子は、言わないでいることができる。
東京で乗り換えて、総武線に揺られた。窓の外の建物が、少しずつ見覚えのある低さになっていく。冬の田が、刈られたまま乾いて並んでいる。木の電柱。低い屋根。一年ぶりの高さだった。
家に着いたのは、日が落ちる少し前だった。
玄関を開けると、家の中の空気が、外より一段暖かかった。
奥で水を使う音がしていた。それが止まって、廊下を歩く足音になった。荷物が手から抜き取られていく。何か言われた気がするけれど、たぶん、返事のいらない類のものだった。
この家では、いつもそうだ。誰も、わたしに何かを説明させない。
夕方から、人が来た。
隣の家の人。向かいの人。商店街のほうから、わざわざ。年末の挨拶にかこつけて、みな同じ話をしに来た。
「テレビで見たよ」
「あの、阪神の」
「うちの人が、画面の前から動かなくてねえ」
ジョセツは、そのたびに玄関先まで出ていって、ちゃんと相手をした。誰にでも同じ顔で、同じくらい嬉しそうに。喋りながら、少しずつ人が増えていく。
増えたぶんだけ、あの子の声が明るくなる。
栗東の校舎でも、この子はそうやって人を集めている。同じことが、玄関のたたきの上で起きているだけだった。
わたしは、こたつから動かなかった。
誰も、わたしのところには来なかった。
助かった、と思う。玄関先で愛想を使うくらいなら、坂を三本上ったほうがましだ。
そう思っているのに、天板の木目を見ている時間が、少しだけ長かった。
去年の正月、この家でわたしは質問攻めにあった。
中央の芝はどうだったか。阪神校はどんなところか。ジョセツがこたつの向かいに座って、答えても答えても足りない顔で、いつまでも訊いてきた。うんざりした覚えがある。
今年は、何も訊かれない。
当たり前だ。この子はもう、訊く側ではない。
みかんの皮が、こたつの上に増えていく。
ふと、ミスマルミチのことを思い出した。
家に持って帰りたい、とあの娘は言った。届かなかった者にしか見えていないものを、きちんと言葉にして。
わたしがこの家に持ち帰ったものは、ボストンバッグがひとつと、読みかけの文庫本が一冊だった。
淀の五バ身は、まだ言葉になっていない。
夜になっても、玄関のあたりは時々騒がしかった。
冬休みは、まだ半分も終わっていなかった。
◆
年の瀬の午後だった。
こたつの上には、みかんの皮が積み上がっている。ジョセツが立ち上がってテレビをつけたのは、こちらが何か言うより先だった。
「有馬記念、今日だよ」
わたしは、見るつもりがなかった。
冬休みのあいだくらい、ターフのことは忘れても良いですよと、去年もトレーナーに言われた。今年は何も言われなかったけれど、たぶん同じことを思っているだろう。
画面が、ゆっくりと明るくなった。
中山。芝2500。十六人。
白黒の粗い粒子の中で、パドックを回る一団が映っていた。色がない。誰の髪の色も、芝の色も、空の色も分からない。
それでも、わたしには分かった。
三番目に映った一人が、トウメイだった。
顔がはっきり見えたわけではない。歩き方でも、背丈でもない。ただ、トウメイの周りだけが、画面の中で少し違う速さで流れているように見えた。
淀で見たときと同じだ。色を全部抜かれても、水は水だった。
わたしは、トウメイが今日ここにいることを知らなかった。
エリザベス女王杯から、まだ二ヵ月も経っていない。あの日、わたしを五バ身ちぎった相手は、それきり秋の路線から消えたのだと、どこかで勝手に思っていた。消えるわけがない。
ただ、わたしが見ていなかっただけだ。
出走者の名前が順に読み上げられていく声が、こたつの向こうから流れてくる。知らない名前ばかりだった。ティアラ路線では一度も聞かなかった名前。世代も、所属も、ばらばらの十六人。
その中に、聞いたことのある名前がひとつだけあった。
スピードシンボリ。
九月の新聞で読んだ名前だ。中山校。66世代。欧州へ渡った、日本のウマ娘の先駆者。夏に英国のGⅠで十三着に沈んで、翌月にフランスのGⅡを勝った人。
あのとき、わたしは新聞を見下ろして、こう思っていた。戦場も、世代も、何ひとつ重なるところのない存在だ、と。
いま、その人とトウメイが、同じ画面の中を歩いている。
重ならないところにいる、と決めていた。
誰が決めたわけでもない。わたしが、そう思っていただけだった。
レースが始まった。
テレビの中の中山は、ずいぶん遠くに見えた。実況の声は少し割れていて、ターフを蹴る音は入ってこない。歓声だけが、砂粒のような雑音になって混ざっている。
トウメイは後ろにいた。淀のときのようにバ群を抜けていくのではなく、最後方に近いところで、ただ待っている。
わたしは、こたつから動かなかった。
三コーナー。四コーナー。画面の中の一団が塊のまま曲がって、直線に向いた。
外から、一人が上がってくる。粒子の粗い灰色の中でも、その伸び方だけははっきりしていた。あの日と同じだ。前にいる者が、順に後ろへ流れていく。
流れていって、最後の一人が残った。
実況の声が高くなる。二人の間隔が詰まる。詰まって、詰まりきらないまま、ゴール板が過ぎた。
画面に着順が出た。
一着の名前の下に、トウメイの名前があった。
負けた、とは思わなかった。
思ったのは、別のことだった。
――トウメイは、もうあそこにいた。
淀でわたしを五バ身ちぎった相手が、その翌月には中山にいて、知らない名前ばかりの十六人の中で走って、負けていた。わたしがまだ自分の脚のことばかり考えているあいだに、トウメイは次の場所まで行って、そこで一度負けて、それでもあそこに立っていた。
差は、五バ身ではなかった。
実況が、勝った相手の名前を繰り返している。
世界で戦うために、ここまで来ました。九月の紙面の隅に、小さく囲まれていた一行を思い出した。あのときは、遠い人の言葉だと思った。
テレビの中の中山は、この家から電車で行ける場所にある。
船橋のすぐ隣だ。わたしが十六戦を走った、あの深い砂の。
中央に上がってから、わたしは新潟にも、阪神にも、京都にも、東京にも立った。中山にだけは、一度も立っていない。
隣で十六戦走って、隣には一度も入れなかった。
「……お姉ちゃん」
「なに」
「ううん。なんでもない」
ジョセツは、みかんの皮をもう一つ剥いて、こたつの上に置いた。
この子は、言わないでいることができる。
テレビの中では、まだ何かが続いていた。
◆
一月の京都駅は、年末より静かだった。
改札を抜けると、柱の脇にトレーナーが立っていた。去年と同じだ。新大阪でも、この人は同じ立ち方で待っていた。
「お帰りなさい。お疲れ様です」
「……出迎えなんて、要らないって言ったでしょう」
「担当ウマ娘の体調管理はトレーナーの義務です。栗東までご一緒しますよ」
この人は、こういうところだけは一年半、何ひとつ変わらない。
ジョセツが横から荷物を持ち上げて、先に歩き出した。実家で持たされた餅だの何だので、行きより重くなっている。
わたしのボストンバッグの中では、読みかけの下巻が、まだ半分より手前で止まっていた。
電車の中で、ジョセツはよく喋った。近所の人が何人来たか。父が何を言ったか。トレーナーは相槌の合間に短く質問を挟んで、そのたびにジョセツが嬉しそうに喋る量を増やしていく。
有馬記念の話は、出なかった。ジョセツも出さなかったし、わたしも出さなかった。
寮の前に着いたのは、日が落ちてからだった。
冬の栗東は、下から風が来る。まだ新しい寮の白い壁が、外灯の光でやけに明るく見えた。
「じゃあ春日さん、ありがとうございました! お姉ちゃん、先に上がってるね」
「ええ」
ジョセツは荷物を抱え直して、扉の向こうへ消えていった。荷物のせいで少し前のめりの歩き方だった。
扉が閉まる。
トレーナーが、わたしのほうを見た。
「……ハクセツ?」
わたしは、動かなかった。
あの子は今年、クラシック級になる。
桜花賞。オークス。秋華賞。二ヵ月前にトウメイが無敗で駆け抜けた三つを、あの子も同じ順番で通っていくのだろう。その先には、エリザベス女王杯がある。
クラシック級とシニア級が同じターフに並ぶ場所。わたしが自分で選んで、五バ身ちぎられた場所。
――あなたを一番高いところで待ち受けてあげるから。
一年半前、わたしはあの子にそう言った。
言ったときは、もっと遠い話のつもりだった。
「今年のローテーション、まだ組み終えていないでしょう」
「いくつか案の段階です」
「2200を、入れて」
トレーナーは、すぐには答えなかった。
「……エリザベス女王杯の前に、ということですか」
「ええ」
「理由を、」
そこで、トレーナーは言葉を切った。
外灯の下だ。顔は見えている。逸らすつもりもなかった。読み取れるものがあるなら読み取ればいい。この人はいつもそうしてきたし、わたしはそれを黙って許してきた。
けれど、続きは来なかった。
「――分かりました。組み直します」
あっさりしていた。拍子抜けするほどに。
「訊かないの」
「必要があれば、あなたが言います」
この人は昔からそうだ。踏み込んでこない。掴めない。
けれど今日のそれは、いつもの掴めなさとは、どこか手触りが違った。何が違うのかは、分からなかった。
「一つだけ、先に申し上げておきます」
トレーナーは、コートのポケットに手を入れたまま言った。
「2200を使うということは、たぶん、大外一択では組めません」
「……そう」
「あなたの脚が、あの距離で足りなかったわけではないと思っています。届かなかったのは、動き出した位置です」
淡々とした声だった。慰めるつもりも、責めるつもりもない言い方だ。
「位置を取りに行くなら、バ群の中を通ることになります」
「壁に捕まるわね」
「ええ。捕まります」
トレーナーは、否定しなかった。
「あなたの脚は、詰まれば止まります。それは一年半前から何も変わっていません」
新潟へ向かう特急の中で、この人はわたしにこう言った。あの末脚を、二度と壁に殺させたくない、と。だから大外一択なのだと。
あのとき肩が強張ったのを、まだ覚えている。
「わたしが自分で選んだのよ」
「ええ。ですから、組みます」
それだけ言って、トレーナーは軽く頭を下げ、坂のほうへ歩き出した。
答えは、何も出ていない。
もっと鋭い大外を研ぐのか、別の進路を手に入れるのか。淀の直線で自分に問うたことに、わたしはまだ一つも答えられていない。
ただ、行く先だけが決まった。
風が正面から吹き上げてくる。
ボストンバッグの中で、読み終えていない一冊が、鈍く重かった。