ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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第三話 レパードステークス

 七月に入ると同時に、阪神校にはうだるような夏がやってきた。

 

 プランDは、一切の妥協を許さない過酷な内容だった。

 日中は一点集中のメニューが課される。一定距離を流した後、ホイッスルの音を合図に一気に加速する――ただそれだけの反復だ。地方の泥で身につけた暴力的な爆発力を、芝の上で寸分の迷いなく解き放つための訓練。彼女の唯一にして最大の武器である末脚を、さらに鋭く、さらに速く引き抜けるようにするための作業だった。

 そして夕方から夜にかけては、俺が徹底的に脚をほぐし、翌日に備える。

 

 ハクセツは、一度も音を上げなかった。

 

 そして俺は今、陽炎が揺れるターフの脇で、ストップウォッチを片手に、トラックを駆け抜ける二つの影を追っていた。

 

「ほら、顎が上がってる! もっと腕を振って前傾姿勢!」

「ひゃ、はいっ……! で、でもこれ以上、脚が……っ!」

 

 前を走るウマ娘――ヤマナラシに、真横からハクセツの容赦ない檄が飛ぶ。

 プランDをハクセツが選び取ってから約二週間。地方での過酷な十六戦で蓄積していた負担は、徹底したケアと緻密なメニュー管理によって、少しずつ彼女の脚から抜け落ちつつあった。

 危うかった脚元に確かな芯が通り始めているのを、ストップウォッチのラップタイムが証明している。

 だが、今の彼女は持ち前のスピードを完全に殺し、あきらかに格下であるヤマナラシの遅いペースに付き合わされていた。

 

「すまんなぁ、春日。ヤマナラシちゃんの併走に、お前のとこのハクセツちゃんを付き合わせてもうて」

 

 首にタオルを巻いた同期の宝塚が、申し訳なさそうに、けれどどこか嬉しそうに隣で頭を掻いた。

 

「気にしなくていい。彼女にとっても、他人のペースに合わせる我慢を覚えさせるいい機会だしな」

「サンキューな。それにしても、ハクセツちゃんはええ娘やな」

 

 コースの向こう側を眺めながら、宝塚は目を細めた。

 

「口ではあんなに文句ばっかり言うとるのに、絶対にヤマナラシちゃんの前に出ようとせえへん。きっちり併せて、後ろからプレッシャーかけながら引っ張ってくれとる。あの子、根はめちゃくちゃ面倒見ええんやろな」

 

 宝塚の言う通りだった。

 地方の深い砂で揉まれ、常に他者とぶつかり合ってきたハクセツの走りは、本来ならこんな手加減ができるほど器用なものではない。

 だが彼女は、隣を走る気弱なルームメイトの息遣いを聞き分け、歩幅を微調整し、決して彼女が完全に自信を失ってしまわない絶妙な位置をキープして走っている。

 

 中山に残してきたという、妹の姿を重ねているのかもしれない。

 

「遅いわよ! あと少しなんだから、最後まで踏ん張りなさい!」

「は、はいぃっ……!」

 

 遠くから響く刺々しい怒声に、俺は思わず小さく息を吐いて笑みをこぼした。

 

「本当に、不器用な奴だよ」

「春日がそれ言う?」

 

 宝塚が呆れたようにツッコミを入れてくる。

 やがて、規定の距離を走り終えた二人がペースを落とし、こちらへと戻ってきた。ヤマナラシは完全に息が上がり、今にも芝に倒れ込みそうになっている。

 

「はぁ、はぁっ……あ、ありがとう、ハクセツさん……」

「べ、別に。わたしは自分のメニューをこなしただけよ。ほら、さっさと宝塚トレーナーのところに行ってアイシングしてもらいなさい」

 

 そっぽを向きながら乱暴にタオルを渡すハクセツの顔には、微かに汗が滲んでいるものの、呼吸の乱れはほとんどない。

 俺がバインダーを開きながら無言で視線を向けると、彼女はツカツカとこちらへ歩み寄ってきた。

 

「何よ、その目は」

「いや。随分と頼もしい先輩だなと感心していたところです」

「……ッ、からかわないで。こっちだって、遅いペースに合わせるのに変な気を遣って脚が棒みたいなんだから」

 

 顔を赤くして睨みつけてくるハクセツに、俺は手元のスポーツドリンクを差し出した。

 

「お疲れ様です。脚の張りはどうですか?」

「大丈夫。あなたのしつこいケアのおかげで、前よりずっと軽いし、痛まないわ」

「そうですか。なら、次の段階へ進みましょう」

 

 俺はバインダーのページをめくり、一枚のレース登録用紙を見せた。

 

「プランDの第一関門です。来月、新潟へ向かいましょう」

 

 

 八月二週。うだるような猛暑の関西を抜け、俺たちは新幹線で新潟へと向かっていた。

 指定席の窓から流れる緑の景色を睨みつけながら、隣の席のハクセツはあからさまに不機嫌なオーラを放っている。

 

「……やっぱり、納得いかないわ」

 

 腕を組んだまま、彼女はぽつりとこぼした。

 

「秋華賞のトライアルに向けた叩き台が必要なのは分かるわよ。でも、どうして『レパードステークス』なの。あれはダート戦じゃない。せっかく中央の芝を走るためにあの地獄みたいなメニューをこなしてきたのに、どうしてまた砂埃を被らなきゃいけないの」

 

 彼女の不満はもっともだった。

 レパードステークスは、新潟のダートコースの重賞だ。目標としている秋の芝レースとは適性が違う。おまけに、出走メンバーの多くはダートを主戦場とする猛者たちだ。地方の砂で十六戦を走り抜いてきた彼女にとって、ダートへの回帰は足踏みに感じられるのだろう。

 

「目的は勝つことではなく、中央の空気に慣れることです」

 

 俺は膝の上のバインダーを開いたまま、淡々と答えた。

 

「地方と中央では、レースのペースも、バ群の密集度も、他陣営の駆け引きの質も全く違います。九月のトライアルでいきなり初芝、初の中央重賞というプレッシャーを背負わせる前に、一度、中央の重賞の空気を実戦で吸わせておきたかった。あなたが走り慣れているダートなら、少なくとも足元への戸惑いは排除して、レース全体の空気に集中できます」

「……慣れるためだけの、試走ってこと?」

「そうです。ですから今回のレース、あなたには一つ指示を出しておきます」

 

 俺はバインダーから視線を上げ、不満げな赤い瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

「道中は最後方に控えてください。そして、第四コーナーでは迷わず大外へ持ち出すこと。内には絶対に突っ込まないでください」

「大外? 距離ロスが出るじゃない」

「ええ。ですが今のあなたの脚なら、大外からでも届きます。それより内を突いて壁に捕まる方がずっと痛い」

 

 ハクセツの肩が、わずかに強張った。

 

「あの末脚を、二度と壁に殺させたくない。だから今回は大外一択です。距離ロスを気にする必要はない。あなたの末脚はそれを補って余りある」

 

 ハクセツは呆れたように大きく息を吐き、背もたれに体重を預けた。

 

「随分と自信があるのね、わたしの脚に」

「最初から信じていますから」

 

 投げやりに言い捨てようとしたハクセツが、その一言で少し口を閉じた。

 やがて彼女はふいっと窓の外へ顔を向け、短く言った。

 

「……はいはい、分かりましたよ。お堅いトレーナー様」

 

 その尖った言葉とは裏腹に、彼女の耳はわずかに前傾し、戦いに向けた鋭い緊張感を纏い始めている。

 

 夏の強い日差しが差し込む車内で、俺は再びバインダーに目を落とし、新潟での最終調整のシミュレーションを再開した。

 

 

 新潟レース場、ダートコース。

 夏の強い日差しが照りつけるパドックは、重賞特有の熱気と喧騒に包まれていた。

 

 十五人立ての十五番枠。単勝オッズは十一番人気。

 周囲のトレーナーや観客たちの視線は冷ややかだ。パドックを周回するエリートたちの中で、地方から来た小柄な白いウマ娘は、あからさまに「数合わせ」か「記念出走」の値踏みをされていた。

 

 六月の中山校。俺はあの時、スタンドからただの一観客として彼女の走りを品定めしていた。だが今は違う。担当トレーナーとして、彼女の隣に立ち、コースへと送り出す側にいる。

 嘲笑にも似た視線の中、ハクセツは微塵も動じていなかった。ただ静かに、瞳の奥にどす黒い闘争心を隠して歩様を進めている。

 

 ハクセツが俺の前で立ち止まる。

 長い指示は不要だった。新幹線の中で言うべきことはすべて伝えてある。

 

「迷わず、外へ」

 

 俺が短く一言だけ告げると、ハクセツは小さく鼻を鳴らして本バ場へと向かった。

 

◆レパードステークス(GⅢ・新潟 ダ1800m 左 晴 稍重)

 

 ゲートが開き、土煙が舞う。

 大外十五番枠から飛び出したハクセツは、俺の指示通り、全く無理をすることなくすっと最後方に控えた。

 第一コーナーへ向けて、前のウマ娘たちが激しいポジション争いを繰り広げる中、バ群の最後尾にぽつんと離れた白い影だけが、不気味なほど静かに構えている。俺はスタンドから双眼鏡を構え、その挙動を追った。

 

 道中、彼女の耳は静かに前傾したまま固定されていた。

 第四コーナーで大外へ持ち出す、その一点だけを研ぎ澄ませた集中の静けさだ。

 

 だが、向正面の半ばを過ぎたあたりだった。

 ファインダー越しの彼女の視線が、じわりと前の獲物へと吸い寄せられていく。

 首の位置がわずかに下がり、コーナーを待つという意識すら消え失せ、ただ前を走る連中を撫で斬りにすることだけが彼女の世界になっていく。

 

(……もう、待てなくなってきたな)

 

 タイミングを計るという理性が、本能の熱に少しずつ溶かされていく。

 それがこの娘の強さであり、まだ制御しきれていない部分でもあった。

 

 やがて勝負所の第四コーナー。

 先頭集団がスパートをかけ、バ群が一気に密集する。内に突っ込もうとする者、外へ持ち出そうとする者、各陣営の思惑が交錯する中、ハクセツは迷いなく外へと進路を取った。

 

 指示通りだった。

 

 だが、コーナーの遠心力に引っ張られたのだろう。彼女の進路は想定よりさらに外へ外へと膨らみ、気づけばあまりにも極端な大外回しになっていた。

 

 距離のロスが大きすぎる。いくら直線の長い新潟とはいえ、最後方からあそこまで外に持ち出してしまっては届かないかもしれない。頭では分かっていても、俺の喉が自然と締まる。

 

 だが次の瞬間、俺の浅薄な計算は根底から打ち砕かれた。

 稍重で水気を含んだ重い砂を、華奢な脚が蹴り割る。

 地方を十六戦生き抜いた暴力的なパワーが爆発した。大外から、白い弾丸が飛んできた。

 絶望的な距離ロスをものともせず、ハクセツは前を走るエリートたちをごぼう抜きにしていく。実況が驚愕と共に十一番人気の名を叫び、スタンドが大きなどよめきに揺れた。

 

 一人、また一人と飲み込み、本命の先頭集団を撫で斬りにする。残り100メートル。先頭に立つウマ娘の背中が、ハクセツに飲み込まれていく。

 あと半バ身、いや、あとストライド一つ――だが、ゴール板は容赦なかった。完全に並びかけたその瞬間、勝負は終わっていた。

 

 

 結果は、クビ差の二着だった。

 大外を回った分の距離ロスが、最後の最後で響いた形だ。

 控え室前に戻ってきたハクセツは、肩で荒い息をしながらも、酷く不機嫌そうな顔で俺を睨みつけた。

 

「……あーあ、負けちゃった。やっぱり、負けるのは腹が立つわね」

「ええ。ですが、十五番枠から最後方に控え、あの大外回しでクビ差まで迫りました」

 

 俺はバインダーを閉じ、泥だらけの体操着を纏った担当ウマ娘を真っ直ぐに見据えた。

 

「あなたの末脚は、中央の重賞でも通用する。その確信を得るには十分すぎる結果です」

「……でも、届かなかった。大外のロスがなければ勝てたんじゃないの」

 

 ハクセツが悔しそうに唇を噛む。俺は静かに首を振った。

 

「今回は大外のロスではなく、大外で届きかけたことの方が重要です。内を突いて末脚を殺されれば、クビ差どころか着外だった可能性もある。あの判断は正しかった」

「……膨らみすぎたのは事実でしょ」

「ええ。ですから次の課題はそこです。大外への持ち出し方、コーナーでの遠心力の制御。末脚を最大限に活かすための大外の精度を、これから徹底的に磨いていきましょう」

 

 ハクセツはしばらく黙って俺を見つめ、やがて短く鼻を鳴らした。

 

「次は芝よ。今日の鬱憤、全部あっちで晴らしてやるんだから」

 

 悔しさに歪みながらも、その赤い瞳に悲壮感は欠片もない。

 

 次なる九月のローズステークス。言い訳の利かない芝での完全な力勝負へ向け、俺たちは確かな手応えとともに新潟の地を後にした。




 ヤマナラシの元ネタはウイポで朝比奈さんから譲渡される、『アスペントゥルース67』です。
 命名はアスペンを日本語訳して、ヤマナラシとなっています。
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