ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
第二十七話 アメリカJCC
一月の栗東は、朝がいちばん冷える。
坂の下で息を吐くと、白くなって、すぐに散った。ハクセツはもう坂の上にいる。
俺はストップウォッチを握ったまま、上りきったところに目をやった。
仕上がりは悪くない。時計も、動きも、去年の秋より一段いい。
問題は、そこではなかった。
ノートを開く。二週間前に書いた線が、まだそのまま残っている。
アメリカJCC。中山、芝2200メートル。シニア級以上。十八人。
ハクセツが自分から指定してきた一戦だ。
寮の前で、ハクセツは「2200を入れて」と言った。理由は言わなかった。俺は訊こうとして、やめた。
見当がつかなかったわけではない。2200という数字を、この時期にハクセツが口にする理由は、そう多くない。
ただ、当たっているかどうかを確かめるには、言わずに済ませたいことを言わせなければならなかった。
「今日から、少し形を変えます」
坂を下りてきたハクセツに、俺はそう言った。
汗の粒が額に浮いている。息はもう整っていた。
「大外以外を、やるのね」
「ええ」
ハクセツは、鼻から短く息を出した。呆れたときの音だ。
「先に言っておきますが、あなたが払うものは二つあります」
俺はノートを閉じた。数字を見せる場面ではない。
「一つは前に言いました。壁に捕まる。詰まれば止まる」
「聞いたわ」
「もう一つは、まだ言っていません」
ハクセツの目が、わずかに細くなった。
「前の位置を取って、バ群の動きに合わせれば、最後の一発だけに全部は残せません」
風が、坂を下から吹き上げてきた。
「あなたの脚は、長く保つようにはできていない。短く、鋭い。その代わりに誰よりも速い。位置を取りに行くというのは、そこへ行くまでに脚を使い、周りが動くたびに合わせて使うということです。その鋭さを少し削って、代わりに道中の余裕を買います」
「……削るの」
「削ります」
ハクセツは何も言わなかった。
俺は続けた。言い切らないと意味がない。
「2200は、最後の一瞬だけに全部を残して走れる距離ではありません。中山は坂が二回来る。道中に余裕がなければ、直線を向く前に終わります。だから買います。買うために、削ります」
しばらく、ハクセツは坂の上のほうを見ていた。
「わたしの一番いいところを、少し捨てろってことね」
「そうです」
「それで、勝てるの」
俺は答えなかった。
勝てると言い切れる材料はない。中山の2200は、ハクセツが一度も走ったことのない造りだ。十八人が前に詰まる。逃げる連中が多い。そこへ、初めての形で入っていく。
答えを持っていないのではない。持っている答えを、言わないだけだ。
「――やってみましょう」
それだけ言った。
ハクセツは俺の顔を一秒だけ見て、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「ずいぶん、はっきりしない言い方をするのね」
「……そういう日もあります」
午後、練習コースに三人を並べた。
ジョセツと、宝塚から借りたヤマナラシ。事情は簡単に説明した。宝塚は二つ返事だった。「うちの子にも勉強になるわ」と言って、貸し一つな、とヤマナラシを連れてきてくれた。
「ジョセツは前。ヤマナラシは外。ハクセツは、その内側」
「え、」
ヤマナラシが顔を上げた。耳が、ぴくりと立つ。
「あ、あの……わたしが、ハクセツさんを、塞ぐんですか」
「塞いでください」
「そ、そんな……」
困った顔のまま、こちらとハクセツを交互に見ている。ヤマナラシは一年半、ずっと隣を走ってきた。塞げと言われたことは一度もないだろう。
「遠慮したら、意味がありません」
「……は、はい……っ」
ハクセツの動きが止まった。
「……内?」
「ええ」
「わたしが、内に入るの」
ハクセツが中央に来てから、俺は一度も内を通らせていない。一年半、そう決めてやってきた。あの末脚を、二度と壁に殺させたくない。そう言ったのは俺だ。
「前が塞がった状態で、待ってください。開くまで動かない」
「開かなかったら」
「開かないこともあります。今日は、開かない日も作ります」
ハクセツは口を開きかけて、閉じた。
一本目で、もう分かった。
ジョセツの背中が近づいた瞬間、ハクセツの首の高さが変わった。ほんの少し、上がった。
去年の秋から、俺はハクセツの耳を見ている。集中しているときは、わずかに前へ傾いたまま固定される。道中ずっとそうだ。ぶれない。それが俺の見てきた値だった。
今日は、ぶれた。
前が塞がった三完歩のあいだ、ハクセツの耳は二度、後ろへ引かれた。
外へ出たがっている。
外へ出るなと言われている。
「一度戻ってください」
俺は手を挙げた。三人が輪を描いて戻ってくる。
「どうでしたか」
「気持ち悪いわね」
ハクセツは前を向いたまま言った。
「前が見えないのよ。あの子の背中しかない。どこが開くのかも、いつ開くのかも分からない。大外なら、全部見えるのに」
「見えません。それがバ群の中に入るということです」
「……何よ、それ」
「あ、あの」
ヤマナラシが、小さく手を上げた。すぐに引っ込めかけて、それでも言った。
「わたし、いつも……そっち側なので」
ハクセツが、初めてそちらを向いた。
「そっち側?」
「その……前が塞がっているほう、です。デビューしてから、ずっと。……前が見えないのは、わたしには、ふつうです」
言い終えてから、ヤマナラシは自分の言ったことに驚いたように、口を結んだ。尻尾が一度、落ち着かなく揺れた。
ハクセツは何も言わなかった。
俺は説明の言葉を探して、見つからなかった。
大外は設計できる。距離のロスと、残っている脚と、坂の位置。全部が数字で並ぶ。俺が一年半やってきたのはそれだ。
バ群は並ばない。隣が動くからだ。いつ開くかは、開くまで誰にも分からない。走っている本人にしか分からず、しかもその本人が、いま分からないと言っている。
「開いたら行く。それだけです」
「それだけ?」
「それだけです」
ハクセツは、今度こそ本気で呆れた顔をした。
「あなた、いつもはもっと細かいことを言うでしょう」
「ええ」
「今日は言わないの」
「言えないんです」
言ってしまってから、しまった、と思った。
ハクセツは何も返さなかった。ただ、少し長くこちらを見ていた。
夕方まで、七本やった。
三本目で一度、開いた隙間に入れた。ハクセツは自分から入っていった。四本目は失敗した。ジョセツが少し外に膨れて、ハクセツは行き場をなくし、そのまま流して終わった。
五本目、六本目。少しずつ、待てるようになった。
だが、三人だ。
本番は十八人いる。前が塞がるだけではない。横も、後ろも、斜め前も塞がる。壁が動く。開いた隙間が、入る前に閉じる。
ジョセツとヤマナラシを二人並べたところで、あの密度にはならない。分かってやっている。
七本目が終わって、三人が息を整えているあいだ、俺はコースの脇に立っていた。
ハクセツが、ヤマナラシに何か短く言うのが見えた。声は届かない。
ヤマナラシの耳が、ぴん、と立った。それから、勢いよく頭を下げていた。
「春日」
宝塚が、いつのまにか隣にいた。
「足りひんやろ」
「足りない」
「まあ、そらそうやわな。俺らの担当で実践形式のバ群作ろう思たら、あと十人ほど要るで」
宝塚は笑った。それから、少し声を落とした。
「他所に頼むんか」
「頼みません」
「せやろな」
宝塚はそれ以上訊かなかった。
頼めば貸してくれる陣営はあるかもしれない。だが、こちらが何を仕込んでいるかを、そのまま渡すことになる。まだ一度も走らせていない形を、走る前に知られるのは避けたい。
「ほんなら、どないすんの」
「レースでやります」
宝塚は、へえ、という顔をした。
「2200を、これから何本か組みます。エリザベス女王杯まで、まだ十か月ある」
「勝ちにはいくんやろ」
「行きます」
嘘ではなかった。行かせる。ハクセツは勝ちに行く。俺も勝たせに行く。
ただ、勝てなかったときに手元に何が残るかを、俺はもう数えはじめている。それをハクセツには言わない。言えば走らなくなる。
「春日、お前最近ちょっと変わったな」
「そうですか」
「せや。前は、答え持ってから喋とったやろ」
宝塚はそれだけ言って、ヤマナラシのほうへ歩いていった。
出発は、二日後の朝だった。
荷物をまとめたハクセツが、寮の前に立っている。
「中山ね」
「ええ」
ハクセツは、それきり何も言わなかった。
彼女が中山のゲートに入るのは、これが初めてだ。
そのことを、俺は知っている。
知っているだけで、それが今日ハクセツの中でどういう重さを持っているのかは、測れなかった。
「行きましょう」
「ええ」
ハクセツは先に歩き出した。
背筋が伸びている。俺はその半歩後ろについて、坂を下りた。
◆
日曜の中山は、朝から晴れていた。
空は高く、乾いている。風はあるが強くはない。芝は良。この冬の関東らしい、水気の抜けた乾いた光が、スタンドの白い壁を照り返していた。
アメリカJCC。GⅡ、芝2200メートル。
俺はスタンド下の通路で一度足を止め、目の前の景色を見上げた。
中山。
この場所で、俺はハクセツを初めて見ている。
一年半前、模擬レースのコースだった。地方から来たばかりの小柄なウマ娘が、内で詰まって、それでも最後に脚を伸ばした。あの日俺が見たのは、殺された刃だった。
あれから、ハクセツはここに一度も立っていない。
新潟。阪神。京都。府中。刃を研ぐ場所は、いくらでもあった。ただ、中山にだけ縁がなかった。
偶然だ。俺が避けたわけではない。
だが、避けなかったと言い切れるかどうかは、自分でも分からない。
パドックの人垣は、朝から厚かった。
俺は後方に立って、周回を眺めた。十八人。シニア級の路線混合。ティアラ路線では一度も顔を合わせたことのない名前が、いくつも並んでいる。
この舞台には、世代も、路線も、関係がない。強い者から順に、ただ並ぶ。
白銀の髪が、その列に現れた。
体操服に、七番のゼッケン。GⅠではない日の、飾りのない格好だ。列の中でひときわ小さい。
この子が赤と白を纏ってこの列を歩くのを、俺は三度見ている。秋華賞、ヴィクトリアマイル、そして二か月前の淀。あのときハクセツは、世間が望む楚々とした美少女という虚像を、隅々まで模して着ていた。纏うための服ではなく、剥ぐための服だった。
今日は、剥ぐものがない。
声が上がった。
「――ハクセツだ」
「ほら、あの、妹の」
「阪神の子の、お姉さんだって」
柵のいちばん前で、若い男が連れの女に何か説明している。女が背伸びをして、こちらを指した。
俺は出走表に目を落とした。二番人気。
人気の内訳を、俺は正確には知らない。ヴィクトリアマイルを勝った。エリザベス女王杯で二着に来た。その二つで足りるはずだが、それだけではないことも分かっている。
先月、妹がGⅠを勝った。
白い髪の姉妹。楚々とした美少女が二人。新聞がその言葉を使い、写真を並べ、世間はそれを面白がった。ハクセツの名前は、この一か月で、走りとは別のところで売れた。
二か月前、京都でハクセツは五バ身ちぎられている。
その事実は、この人垣のどこにも見当たらない。
ハクセツは周回の列の中を、いつも通り歩いていた。
声のほうを一度も見ない。世間が何を見て何を言おうと、この子はそれを受け取らない。去年の秋、俺がそう書きつけた癖は、いまも変わっていない。
ただ一つだけ、違うところがあった。
顎がわずかに引かれている。
パドックのハクセツは、いつも顎を上げている。相手を見下ろすような、あの角度で。世間の見立てを鼻で笑い、ゲートが開いた瞬間に全部叩き割る――そういう顔で歩く。
今日は、引いている。
地下バ道の入り口で、俺は最後の確認をした。
出走表を広げる。ハクセツ、七番。四枠。十八人立ての、内寄りの中。
「枠は悪くありません」
ハクセツは黙って聞いている。
「前へ行くウマ娘が多い。序盤は速くなります。ですが、今日はそれに乗らないでください」
いつもと逆のことを言っている自覚はあった。
「最後方まで下げないこと。中団の後ろあたり。前が塞がる場所です」
「……ええ」
「大外は使いません」
ハクセツの喉が、小さく動いた。
「一年半、あなたに外を回らせてきました。今日はその外を、自分から捨てます」
言葉を選んでいる時間はなかった。それでも、選ばずに言った。
「開くのを待ってください。開かないうちに動けば、そこで終わります。開いたら、迷わず行ってください」
「開かなかったら」
「その日は、そこまでです」
ハクセツは、少し長く俺を見ていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「――ずいぶん、勝つ気のない言い方ね」
「勝ちに行きます」
「そう」
地下バ道は、暗く、短い。
コンクリートの天井が光を切り取っている。この道を、俺は何度もハクセツと歩いた。これから走る者にとっては、最後の静けさだ。
その静けさの中で、ハクセツが小さく言った。
「……船橋から、電車で二十分よ」
俺は返す言葉を持たなかった。
「実家からでも、一時間かからないの。子供のころから、ずっとあったわ。すぐそこに」
足音が、天井に高く跳ね返る。
「レースで走ったこと、なかったのよね」
それきり、ハクセツは前を向いた。
俺は半歩後ろで、その白い後ろ姿を見ていた。
測れなかった。
いま口から出たものが、ハクセツにとって重かったのか、軽かったのか。言わずに済ませられたのに言ったのか、言わずにいられなかったのか。
一年半、俺はこの子の全部を数字にしてきた。時計、歩幅、脚の残り、坂の位置。数えて、並べて、線を引いてきた。
いま出てきたものは、どの欄にも入らない。
係員の誘導に従って、白い背中が薄暗がりの奥へ遠ざかっていく。
見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。
それから、バインダーを小脇に抱えてスタンドへ向かった。
双眼鏡を上げる。
本バ場に、十八人が出てきていた。
中山のターフが、レンズの中に広がっている。
冬の午後の光が、乾いた芝の上を一面に走っていた。そして、その先に坂がある。ゴール板の手前で地面がせり上がり、その向こうがまた落ちて、遠くでもう一度上がる。京都の平らな直線とも、府中の長い平坦とも違う。走る場所が、そもそも起伏している。
ハクセツを探した。
すぐに見つかった。列の中でいちばん小さい。白銀の髪が、光を受けて跳ねている。乾いた冬の芝の照り返しが、その髪の上で一度、強く白くなった。
ハクセツは、坂のほうを見ていた。
ゴール板の先の、盛り上がったところを。
そのとき、外の列から一人が近づいた。
黒い髪。長い。歩幅が大きい。レンズの中でも、周りとは明らかに違う歩き方をしていた。
スピードシンボリ。
一番人気。去年の暮れ、この場所で有馬記念を勝っている。
そのウマ娘が、ハクセツの脇を通った。
ハクセツは坂を見ている。視線は動かない。誰が横を通ろうと、今日のハクセツが見ているのはゴール板の先の起伏だけだ。
通りしなに、スピードシンボリの歩幅が縮んだ。
二完歩。それだけだった。すぐに戻って、また元の大きな歩き方に戻る。実況も、スタンドも、誰も気づいていない。ハクセツも気づいていない。
顔が、わずかに横を向いていた――ように、見えた。
この距離だ。断言はできない。レンズの向こうで、光の加減がそう見せただけかもしれない。
ちょうどそのとき、乾いた芝の照り返しが、ハクセツの白い髪の上で強く跳ねていた。眩しかっただけかもしれない。
スピードシンボリは、そのまま前へ歩いていった。
俺はバインダーを開かなかった。
ハクセツを測るために構えたレンズが、今日は関係のないものを一つ拾った。書く欄がない。
十八人が、ゲートへ向かう。
風が正面から吹いている。芝は乾いている。前へ行きたがるウマ娘の気配が、もう砂埃のように前へ出始めていた。
枠入りが始まった。
四枠七番。白銀の髪が、ゲートの中へ消える。
勝ちに行かせる。
その言葉に嘘はない。ただ、俺はもう一つ別のものを数えていて、それをあの子には渡していない。
最後の一人が入った。
中山の空が、静かになった。
◆アメリカJCC(GⅡ・中山 芝2200m 右 晴 良)
十八のゲートが一斉に開き、十八人のウマ娘が中山の芝を蹴った。
『スタートしました。まずまずのスタートを切りまして、先手を主張するのは内の各ウマ娘。行く気十分であります』
俺は双眼鏡の中で、七番を探した。
いた。中団の、やや後ろ。
俺が言った通りの位置だ。無理に下げていない。無理に上げてもいない。前にも横にもウマ娘がいる場所。
この一年半、ハクセツがこんなところにいるのを、俺は一度も見たことがない。
『隊列が決まってまいりました。逃げるのは十三番、十八番。これに五番、十番が続きます。一番人気の十二番スピードシンボリは中団、内めを進んでおります』
流れは速い。
前へ行きたがる者が四人。互いに譲らず、序盤から競り合っている。速い流れは前を潰す。潰れた分だけ、後ろから来る脚に道が空く。
空くはずだった。
最初の坂を上る。
中山は一周のうちに二度、地面がせり上がる。向正面の途中で一つ、そして最後の直線でもう一つ。ここは、ただ長いだけの2200ではない。上げて、下ろして、また上げる。脚を削る造りをしている。
『一周目のスタンド前を通過。ハイペースであります。中団はやや詰まり気味、縦長にならず一団のまま流れております』
詰まっている。
俺は双眼鏡を握り直した。
速い流れなら隊列は縦に伸びる。伸びれば隙間ができる。だが今日は伸びなかった。前が競り合っているのに、後ろがそのまま塊で追いかけている。
十八人が、ひとかたまりで坂を上っている。
その中に、ハクセツがいる。
外に出る道がない。内も、前も、横も塞がっている。
俺が指示した位置は、俺が思っていたよりずっと狭かった。
向正面。三コーナーが近づく。
『三コーナー、動き出しました。十二番スピードシンボリ、バ群の中を押し上げてまいります』
黒い髪が、バ群の外側を回らずに、内へ入った。
外を回れば楽に上がれる位置だ。それをしなかった。三、四人分の壁の、その隙間へ、上から押し込むように入っていく。塞がって、開いて、また塞がる。開いた瞬間に、もう次の隙間へ移っている。
迷いがなかった。
開くのを待っているのではない。開くと分かっている場所へ、開く前に脚を向けている。
――ああ。
双眼鏡を持つ手に、力が入った。
あれは、俺がハクセツに教えられなかったものだ。
開いたら行く。それだけです。俺はそう言った。言えることが、それしかなかった。
いま目の前にあるのは、その先にあるものだった。
四コーナー。
『最終コーナーを回ります。先頭は五番。十二番スピードシンボリ、内から上がってまいりました』
ハクセツは。
中団の内で、包まれていた。
前に二人。外にも一人。斜め前が塞がり、そこが開いたと思った瞬間に、外から一人が寄せて閉じた。
ハクセツが待っている。待つように言ったのは俺だ。
待っている。
三完歩。四完歩。
直線に入った。
『さあ直線、先頭は五番、外に十六番。しかし十二番スピードシンボリ、これは強い! バ群を割って抜け出してまいりました!』
黒い髪が、前を捉えた。
バ群の中を通ってきた脚で、坂を上りながら、まだ伸びている。
ハクセツの前が、ようやく開いた。
残り、200。
ハクセツが外へ出た。
俺は双眼鏡の中で、その一完歩目を見た。
伸びない。
開いた道は、確かにあった。前も空いていた。脚も残っていた。
だが、あの音がしなかった。ターフを蹴る音が、爆発しなかった。
いつもならここで、前を走る者が順に後ろへ流れていく。撫で斬りにされていく。俺はそれを何度も見てきた。刃が振り抜かれる音を、スタンドの地鳴りの中でも聞き分けられるようになっていた。
今日は、鳴らなかった。
一完歩ごとに、前を追う。追っているのは分かる。だが差が縮まらない。坂に入って、伸びが鈍った。前を行く者たちが、一人も後ろへ流れてこない。
『スピードシンボリ、先頭でゴールイン。二着は十六番フィニィ。三着は――』
白銀の髪は、その列のずっと後ろにいた。
着順が出るまでの数十秒が、やけに長かった。
七着。
俺は掲示板を見上げた。勝ちタイムと、着差。
二秒八。
織り込んでいたはずだった。
初めての形で、初めての場所へ入る。前哨戦だ。一つ取りこぼしても、エリザベス女王杯までに間に合えばいい。手元に何が残るかを数えてから、俺はこの子を送り出した。
二秒八という数字は、その計算の中になかった。
勝てないかもしれない。それは考えた。二着、三着、五着。そのあたりまでは、頭の中に置いていた。
七着で、二秒八。それは取りこぼしではない。
完敗だった。
スタンドの人垣が動きはじめる。
俺は双眼鏡を下ろした。レンズが冷えている。指がかじかんでいた。いつから風が冷たくなっていたのか、覚えていない。
バインダーには、まだ何も書いていなかった。
書くことは山ほどある。ペースの推移、隊列が縦に伸びなかった理由、坂の位置、包まれた地点、外へ出るまでにかかった完歩数。全部、後で数字にできる。
できるが、いま書きたいのはそれではなかった。
三コーナーで、あの黒い髪は開く前に脚を向けていた。
俺は、あれを教えられない。数えても出てこない。ハクセツの中に無いものを、外から入れる方法を、俺は持っていない。
控え室へ向かう通路は、来たときより長く感じた。
◆
控え室前。
引き揚げてきたハクセツの体操服は、背中まで濡れていた。
最後の直線で外へ出るまでに使ったもの、包まれていた四コーナーで使ったもの、その全部が、飾りのない布の色を変えている。
ハクセツは掲示板を見なかった。
名前が載っていないことを、知っているからだろう。掲示板に出るのは五着まで。今日はその下だ。
代わりに、ターフのほうを向いていた。
表彰へ向かう黒い髪が、遠くに見える。歓声はまだ続いている。
「開かなかったわ」
低い声だった。
「ええ」
「三コーナーからずっと、外にも内にも道がなかったの。前が塞がって、開くのを待って、開いたと思ったら閉じたわ。それを何回か繰り返して、直線を向いたら、もう終わってた」
事実だけを、順番に並べていた。悔しさも、言い訳も乗っていない。
その並べ方が、かえって耳に残った。
「それから、脚が来なかった」
ハクセツは、そこで一度言葉を切った。
「最後に外へ出たときにはもう、残ってなかったのよ。道はあったの。前も空いてたわ。なのに、脚が残っていなかった」
俺は黙って聞いていた。
「あなたが言った通りね。削って、買ったのよ。削れたのは分かったけど――買えたものが、どこにあったのか分からなかったわ」
俺は、慰めの言葉を探さなかった。
探しても意味がない。今日は運が悪かった。枠が。展開が。どれも本当だが、どれも足りない。二秒八という数字は、そういう言葉が届く範囲の外にある。
だから、こう言った。
「私の見立てが甘かったです」
ハクセツが、顔を上げた。
「速い流れなら隊列が縦に伸びると思っていました。伸びれば隙間ができる。あなたを中団の後ろに置いたのは、そこを通してやれると踏んだからです」
「……伸びなかったわね」
「伸びませんでした。前が競り合っているのに、後ろが塊のままついていった。あの造りの2200で、十八人がそうなることを、私は勘定に入れていませんでした」
言いながら、指先がまだ冷たいことに気づいた。
「あなたを、私が塞ぎました」
ハクセツはしばらく黙っていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。いつもの音だ。
「言うと思ったわ」
「……そうですか」
「あなた、そういうところがあるのよ。全部自分のせいにしようとするの」
ハクセツは、濡れた前髪を指で払った。
「わたしが選んだのよ。2200を入れてって言ったのはわたし。開くまで待てって言われて、待ったのもわたし。外に出るのが遅かったのも、脚が残ってなかったのも、わたしよ」
そして、こう続けた。
「それを全部あなたのせいにされたら、わたしは今日、何をしに来たのか分からなくなるでしょう」
俺は、返す言葉を持たなかった。
持たないまま、ひとつだけ思っていた。
ハクセツはいま、俺の見立てが甘かったという話を、こちらへ渡し返している。そういうことを言える子だとは、一年半見てきて、初めて知った。
いや。
できるようになったのか、もともとできたのか、それすらも俺には測れない。
「次は、どこ」
ハクセツが訊いた。
「京都記念です。二月。同じ2200」
「同じことをやるの」
「同じことをやります」
ハクセツの目が、少しだけ細くなった。
「あと何回やるの」
「決めていません。届くまでです」
嘘ではなかった。だが、全部でもなかった。
十一月まで、あと十か月ある。使える2200は、そう多くはない。その中で、あと何回ハクセツに今日と同じ思いをさせることになるのかを、俺はもう数えている。
数えていることは、言わない。
ハクセツは、それ以上訊かなかった。
表彰式のファンファーレが、中山の空に流れ始めた。
ハクセツはそちらを見ていた。
黒い髪が、スタンドの歓声の中に立っている。スピードシンボリは今日、バ群の中を通って勝った。ハクセツが今日できなかったことを、当たり前のような顔でやってのけた。
三コーナーで、開く前に脚を向けていた。
俺には、あれを教えられない。
「ねえ」
ハクセツが、前を向いたまま言った。
「あの人、内から来たわね」
俺は、双眼鏡を握っていた手の感触を思い出した。
「見えていたんですか」
「見えないわよ。包まれてたもの」
ハクセツは、ようやくこちらを向いた。
「音でわかったわ。外じゃなかった。内側の、わたしより前のところを、削るみたいに通っていったの」
俺は、その言葉をそのまま受け取った。
バインダーに書ける形をしていなかった。数字にも、線にもならない。だが、俺が双眼鏡で見たものと、同じものだった。
「……そうです」
「そう」
それだけ言って、ハクセツはまた前を向いた。
バインダーを開いた。
勝ちタイム。着差、二秒八。七着。ペースの推移。隊列。包まれた地点。外へ出た残り200の地点。
俺はそれを、ありのまま書いた。ごまかす欄はどこにもなかった。
書き終えて、最後の行に一つだけ、数字にならないものを書いた。
――音でわかった、と本人は言った。
ペンを止めて、それをしばらく見ていた。
一年半、俺はこの子を外から測ってきた。時計と、歩幅と、脚の残りと、耳の角度で。
今日、俺の測ったものは全部外れた。外れたところで、この子は自分の内側から、俺の見たものと同じ景色を持って帰ってきていた。
測るだけでは足りない。
そう思ったのは去年の暮れだ。あれから二か月経って、俺はまだ、その次の道具を持っていない。
風が冷たくなってきた。
ハクセツが、白い息を吐いた。
「帰りましょう」
「ええ」
俺たちは、中山を背にして歩き出した。
スタンドから、まだ歓声が聞こえている。
この場所に、ハクセツはようやく立った。立って、七着だった。
二月にもう一度来る、とは言わなかった。京都記念は淀だ。中山に戻ってくるのがいつになるのかは、まだ決まっていない。