ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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1970年
第二十七話 アメリカJCC


 一月の栗東は、朝がいちばん冷える。

 

 坂の下で息を吐くと、白くなって、すぐに散った。ハクセツはもう坂の上にいる。

 俺はストップウォッチを握ったまま、上りきったところに目をやった。

 

 仕上がりは悪くない。時計も、動きも、去年の秋より一段いい。

 問題は、そこではなかった。

 

 ノートを開く。二週間前に書いた線が、まだそのまま残っている。

 アメリカJCC。中山、芝2200メートル。シニア級以上。十八人。

 ハクセツが自分から指定してきた一戦だ。

 

 寮の前で、ハクセツは「2200を入れて」と言った。理由は言わなかった。俺は訊こうとして、やめた。

 見当がつかなかったわけではない。2200という数字を、この時期にハクセツが口にする理由は、そう多くない。

 ただ、当たっているかどうかを確かめるには、言わずに済ませたいことを言わせなければならなかった。

 

「今日から、少し形を変えます」

 

 坂を下りてきたハクセツに、俺はそう言った。

 汗の粒が額に浮いている。息はもう整っていた。

 

「大外以外を、やるのね」

「ええ」

 

 ハクセツは、鼻から短く息を出した。呆れたときの音だ。

 

「先に言っておきますが、あなたが払うものは二つあります」

 

 俺はノートを閉じた。数字を見せる場面ではない。

 

「一つは前に言いました。壁に捕まる。詰まれば止まる」

「聞いたわ」

「もう一つは、まだ言っていません」

 

 ハクセツの目が、わずかに細くなった。

 

「前の位置を取って、バ群の動きに合わせれば、最後の一発だけに全部は残せません」

 

 風が、坂を下から吹き上げてきた。

 

「あなたの脚は、長く保つようにはできていない。短く、鋭い。その代わりに誰よりも速い。位置を取りに行くというのは、そこへ行くまでに脚を使い、周りが動くたびに合わせて使うということです。その鋭さを少し削って、代わりに道中の余裕を買います」

「……削るの」

「削ります」

 

 ハクセツは何も言わなかった。

 俺は続けた。言い切らないと意味がない。

 

「2200は、最後の一瞬だけに全部を残して走れる距離ではありません。中山は坂が二回来る。道中に余裕がなければ、直線を向く前に終わります。だから買います。買うために、削ります」

 

 しばらく、ハクセツは坂の上のほうを見ていた。

 

「わたしの一番いいところを、少し捨てろってことね」

「そうです」

「それで、勝てるの」

 

 俺は答えなかった。

 

 勝てると言い切れる材料はない。中山の2200は、ハクセツが一度も走ったことのない造りだ。十八人が前に詰まる。逃げる連中が多い。そこへ、初めての形で入っていく。

 答えを持っていないのではない。持っている答えを、言わないだけだ。

 

「――やってみましょう」

 

 それだけ言った。

 ハクセツは俺の顔を一秒だけ見て、それから、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「ずいぶん、はっきりしない言い方をするのね」

「……そういう日もあります」

 

 午後、練習コースに三人を並べた。

 

 ジョセツと、宝塚から借りたヤマナラシ。事情は簡単に説明した。宝塚は二つ返事だった。「うちの子にも勉強になるわ」と言って、貸し一つな、とヤマナラシを連れてきてくれた。

 

「ジョセツは前。ヤマナラシは外。ハクセツは、その内側」

「え、」

 

 ヤマナラシが顔を上げた。耳が、ぴくりと立つ。

 

「あ、あの……わたしが、ハクセツさんを、塞ぐんですか」

「塞いでください」

「そ、そんな……」

 

 困った顔のまま、こちらとハクセツを交互に見ている。ヤマナラシは一年半、ずっと隣を走ってきた。塞げと言われたことは一度もないだろう。

 

「遠慮したら、意味がありません」

「……は、はい……っ」

 

 ハクセツの動きが止まった。

 

「……内?」

「ええ」

「わたしが、内に入るの」

 

 ハクセツが中央に来てから、俺は一度も内を通らせていない。一年半、そう決めてやってきた。あの末脚を、二度と壁に殺させたくない。そう言ったのは俺だ。

 

「前が塞がった状態で、待ってください。開くまで動かない」

「開かなかったら」

「開かないこともあります。今日は、開かない日も作ります」

 

 ハクセツは口を開きかけて、閉じた。

 

 一本目で、もう分かった。

 

 ジョセツの背中が近づいた瞬間、ハクセツの首の高さが変わった。ほんの少し、上がった。

 去年の秋から、俺はハクセツの耳を見ている。集中しているときは、わずかに前へ傾いたまま固定される。道中ずっとそうだ。ぶれない。それが俺の見てきた値だった。

 

 今日は、ぶれた。

 前が塞がった三完歩のあいだ、ハクセツの耳は二度、後ろへ引かれた。

 

 外へ出たがっている。

 外へ出るなと言われている。

 

「一度戻ってください」

 

 俺は手を挙げた。三人が輪を描いて戻ってくる。

 

「どうでしたか」

「気持ち悪いわね」

 

 ハクセツは前を向いたまま言った。

 

「前が見えないのよ。あの子の背中しかない。どこが開くのかも、いつ開くのかも分からない。大外なら、全部見えるのに」

「見えません。それがバ群の中に入るということです」

「……何よ、それ」

 

「あ、あの」

 

 ヤマナラシが、小さく手を上げた。すぐに引っ込めかけて、それでも言った。

 

「わたし、いつも……そっち側なので」

 

 ハクセツが、初めてそちらを向いた。

 

「そっち側?」

「その……前が塞がっているほう、です。デビューしてから、ずっと。……前が見えないのは、わたしには、ふつうです」

 

 言い終えてから、ヤマナラシは自分の言ったことに驚いたように、口を結んだ。尻尾が一度、落ち着かなく揺れた。

 

 ハクセツは何も言わなかった。

 

 俺は説明の言葉を探して、見つからなかった。

 大外は設計できる。距離のロスと、残っている脚と、坂の位置。全部が数字で並ぶ。俺が一年半やってきたのはそれだ。

 バ群は並ばない。隣が動くからだ。いつ開くかは、開くまで誰にも分からない。走っている本人にしか分からず、しかもその本人が、いま分からないと言っている。

 

「開いたら行く。それだけです」

「それだけ?」

「それだけです」

 

 ハクセツは、今度こそ本気で呆れた顔をした。

 

「あなた、いつもはもっと細かいことを言うでしょう」

「ええ」

「今日は言わないの」

「言えないんです」

 

 言ってしまってから、しまった、と思った。

 ハクセツは何も返さなかった。ただ、少し長くこちらを見ていた。

 

 夕方まで、七本やった。

 

 三本目で一度、開いた隙間に入れた。ハクセツは自分から入っていった。四本目は失敗した。ジョセツが少し外に膨れて、ハクセツは行き場をなくし、そのまま流して終わった。

 五本目、六本目。少しずつ、待てるようになった。

 

 だが、三人だ。

 本番は十八人いる。前が塞がるだけではない。横も、後ろも、斜め前も塞がる。壁が動く。開いた隙間が、入る前に閉じる。

 ジョセツとヤマナラシを二人並べたところで、あの密度にはならない。分かってやっている。

 

 七本目が終わって、三人が息を整えているあいだ、俺はコースの脇に立っていた。

 

 ハクセツが、ヤマナラシに何か短く言うのが見えた。声は届かない。

 ヤマナラシの耳が、ぴん、と立った。それから、勢いよく頭を下げていた。

 

「春日」

 

 宝塚が、いつのまにか隣にいた。

 

「足りひんやろ」

「足りない」

「まあ、そらそうやわな。俺らの担当で実践形式のバ群作ろう思たら、あと十人ほど要るで」

 

 宝塚は笑った。それから、少し声を落とした。

 

「他所に頼むんか」

「頼みません」

「せやろな」

 

 宝塚はそれ以上訊かなかった。

 頼めば貸してくれる陣営はあるかもしれない。だが、こちらが何を仕込んでいるかを、そのまま渡すことになる。まだ一度も走らせていない形を、走る前に知られるのは避けたい。

 

「ほんなら、どないすんの」

「レースでやります」

 

 宝塚は、へえ、という顔をした。

 

「2200を、これから何本か組みます。エリザベス女王杯まで、まだ十か月ある」

「勝ちにはいくんやろ」

「行きます」

 

 嘘ではなかった。行かせる。ハクセツは勝ちに行く。俺も勝たせに行く。

 ただ、勝てなかったときに手元に何が残るかを、俺はもう数えはじめている。それをハクセツには言わない。言えば走らなくなる。

 

「春日、お前最近ちょっと変わったな」

「そうですか」

「せや。前は、答え持ってから喋とったやろ」

 

 宝塚はそれだけ言って、ヤマナラシのほうへ歩いていった。

 

 出発は、二日後の朝だった。

 荷物をまとめたハクセツが、寮の前に立っている。

 

「中山ね」

「ええ」

 

 ハクセツは、それきり何も言わなかった。

 彼女が中山のゲートに入るのは、これが初めてだ。

 そのことを、俺は知っている。

 知っているだけで、それが今日ハクセツの中でどういう重さを持っているのかは、測れなかった。

 

「行きましょう」

「ええ」

 

 ハクセツは先に歩き出した。

 背筋が伸びている。俺はその半歩後ろについて、坂を下りた。

 

 

 日曜の中山は、朝から晴れていた。

 空は高く、乾いている。風はあるが強くはない。芝は良。この冬の関東らしい、水気の抜けた乾いた光が、スタンドの白い壁を照り返していた。

 

 アメリカJCC。GⅡ、芝2200メートル。

 

 俺はスタンド下の通路で一度足を止め、目の前の景色を見上げた。

 

 中山。

 この場所で、俺はハクセツを初めて見ている。

 一年半前、模擬レースのコースだった。地方から来たばかりの小柄なウマ娘が、内で詰まって、それでも最後に脚を伸ばした。あの日俺が見たのは、殺された刃だった。

 

 あれから、ハクセツはここに一度も立っていない。

 新潟。阪神。京都。府中。刃を研ぐ場所は、いくらでもあった。ただ、中山にだけ縁がなかった。

 

 偶然だ。俺が避けたわけではない。

 だが、避けなかったと言い切れるかどうかは、自分でも分からない。

 

 パドックの人垣は、朝から厚かった。

 俺は後方に立って、周回を眺めた。十八人。シニア級の路線混合。ティアラ路線では一度も顔を合わせたことのない名前が、いくつも並んでいる。

 この舞台には、世代も、路線も、関係がない。強い者から順に、ただ並ぶ。

 

 白銀の髪が、その列に現れた。

 

 体操服に、七番のゼッケン。GⅠではない日の、飾りのない格好だ。列の中でひときわ小さい。

 この子が赤と白を纏ってこの列を歩くのを、俺は三度見ている。秋華賞、ヴィクトリアマイル、そして二か月前の淀。あのときハクセツは、世間が望む楚々とした美少女という虚像を、隅々まで模して着ていた。纏うための服ではなく、剥ぐための服だった。

 

 今日は、剥ぐものがない。

 

 声が上がった。

 

「――ハクセツだ」

「ほら、あの、妹の」

「阪神の子の、お姉さんだって」

 

 柵のいちばん前で、若い男が連れの女に何か説明している。女が背伸びをして、こちらを指した。

 

 俺は出走表に目を落とした。二番人気。

 人気の内訳を、俺は正確には知らない。ヴィクトリアマイルを勝った。エリザベス女王杯で二着に来た。その二つで足りるはずだが、それだけではないことも分かっている。

 

 先月、妹がGⅠを勝った。

 白い髪の姉妹。楚々とした美少女が二人。新聞がその言葉を使い、写真を並べ、世間はそれを面白がった。ハクセツの名前は、この一か月で、走りとは別のところで売れた。

 

 二か月前、京都でハクセツは五バ身ちぎられている。

 その事実は、この人垣のどこにも見当たらない。

 

 ハクセツは周回の列の中を、いつも通り歩いていた。

 声のほうを一度も見ない。世間が何を見て何を言おうと、この子はそれを受け取らない。去年の秋、俺がそう書きつけた癖は、いまも変わっていない。

 

 ただ一つだけ、違うところがあった。

 

 顎がわずかに引かれている。

 パドックのハクセツは、いつも顎を上げている。相手を見下ろすような、あの角度で。世間の見立てを鼻で笑い、ゲートが開いた瞬間に全部叩き割る――そういう顔で歩く。

 

 今日は、引いている。

 

 地下バ道の入り口で、俺は最後の確認をした。

 出走表を広げる。ハクセツ、七番。四枠。十八人立ての、内寄りの中。

 

「枠は悪くありません」

 

 ハクセツは黙って聞いている。

 

「前へ行くウマ娘が多い。序盤は速くなります。ですが、今日はそれに乗らないでください」

 

 いつもと逆のことを言っている自覚はあった。

 

「最後方まで下げないこと。中団の後ろあたり。前が塞がる場所です」

「……ええ」

「大外は使いません」

 

 ハクセツの喉が、小さく動いた。

 

「一年半、あなたに外を回らせてきました。今日はその外を、自分から捨てます」

 

 言葉を選んでいる時間はなかった。それでも、選ばずに言った。

 

「開くのを待ってください。開かないうちに動けば、そこで終わります。開いたら、迷わず行ってください」

「開かなかったら」

「その日は、そこまでです」

 

 ハクセツは、少し長く俺を見ていた。

 それから、ふっと息を吐いた。

 

「――ずいぶん、勝つ気のない言い方ね」

「勝ちに行きます」

「そう」

 

 地下バ道は、暗く、短い。

 コンクリートの天井が光を切り取っている。この道を、俺は何度もハクセツと歩いた。これから走る者にとっては、最後の静けさだ。

 

 その静けさの中で、ハクセツが小さく言った。

 

「……船橋から、電車で二十分よ」

 

 俺は返す言葉を持たなかった。

 

「実家からでも、一時間かからないの。子供のころから、ずっとあったわ。すぐそこに」

 

 足音が、天井に高く跳ね返る。

 

「レースで走ったこと、なかったのよね」

 

 それきり、ハクセツは前を向いた。

 俺は半歩後ろで、その白い後ろ姿を見ていた。

 

 測れなかった。

 いま口から出たものが、ハクセツにとって重かったのか、軽かったのか。言わずに済ませられたのに言ったのか、言わずにいられなかったのか。

 

 一年半、俺はこの子の全部を数字にしてきた。時計、歩幅、脚の残り、坂の位置。数えて、並べて、線を引いてきた。

 いま出てきたものは、どの欄にも入らない。

 

 係員の誘導に従って、白い背中が薄暗がりの奥へ遠ざかっていく。

 見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。

 

 それから、バインダーを小脇に抱えてスタンドへ向かった。

 双眼鏡を上げる。

 本バ場に、十八人が出てきていた。

 

 中山のターフが、レンズの中に広がっている。

 冬の午後の光が、乾いた芝の上を一面に走っていた。そして、その先に坂がある。ゴール板の手前で地面がせり上がり、その向こうがまた落ちて、遠くでもう一度上がる。京都の平らな直線とも、府中の長い平坦とも違う。走る場所が、そもそも起伏している。

 

 ハクセツを探した。

 

 すぐに見つかった。列の中でいちばん小さい。白銀の髪が、光を受けて跳ねている。乾いた冬の芝の照り返しが、その髪の上で一度、強く白くなった。

 

 ハクセツは、坂のほうを見ていた。

 ゴール板の先の、盛り上がったところを。

 

 そのとき、外の列から一人が近づいた。

 黒い髪。長い。歩幅が大きい。レンズの中でも、周りとは明らかに違う歩き方をしていた。

 

 スピードシンボリ。

 

 一番人気。去年の暮れ、この場所で有馬記念を勝っている。

 そのウマ娘が、ハクセツの脇を通った。

 

 ハクセツは坂を見ている。視線は動かない。誰が横を通ろうと、今日のハクセツが見ているのはゴール板の先の起伏だけだ。

 

 通りしなに、スピードシンボリの歩幅が縮んだ。

 

 二完歩。それだけだった。すぐに戻って、また元の大きな歩き方に戻る。実況も、スタンドも、誰も気づいていない。ハクセツも気づいていない。

 

 顔が、わずかに横を向いていた――ように、見えた。

 

 この距離だ。断言はできない。レンズの向こうで、光の加減がそう見せただけかもしれない。

 ちょうどそのとき、乾いた芝の照り返しが、ハクセツの白い髪の上で強く跳ねていた。眩しかっただけかもしれない。

 

 スピードシンボリは、そのまま前へ歩いていった。

 俺はバインダーを開かなかった。

 ハクセツを測るために構えたレンズが、今日は関係のないものを一つ拾った。書く欄がない。

 

 十八人が、ゲートへ向かう。

 風が正面から吹いている。芝は乾いている。前へ行きたがるウマ娘の気配が、もう砂埃のように前へ出始めていた。

 

 枠入りが始まった。

 

 四枠七番。白銀の髪が、ゲートの中へ消える。

 

 勝ちに行かせる。

 その言葉に嘘はない。ただ、俺はもう一つ別のものを数えていて、それをあの子には渡していない。

 

 最後の一人が入った。

 

 中山の空が、静かになった。

 

◆アメリカJCC(GⅡ・中山 芝2200m 右 晴 良)

 

 十八のゲートが一斉に開き、十八人のウマ娘が中山の芝を蹴った。

 

『スタートしました。まずまずのスタートを切りまして、先手を主張するのは内の各ウマ娘。行く気十分であります』

 

 俺は双眼鏡の中で、七番を探した。

 

 いた。中団の、やや後ろ。

 俺が言った通りの位置だ。無理に下げていない。無理に上げてもいない。前にも横にもウマ娘がいる場所。

 

 この一年半、ハクセツがこんなところにいるのを、俺は一度も見たことがない。

 

『隊列が決まってまいりました。逃げるのは十三番、十八番。これに五番、十番が続きます。一番人気の十二番スピードシンボリは中団、内めを進んでおります』

 

 流れは速い。

 前へ行きたがる者が四人。互いに譲らず、序盤から競り合っている。速い流れは前を潰す。潰れた分だけ、後ろから来る脚に道が空く。

 

 空くはずだった。

 

 最初の坂を上る。

 中山は一周のうちに二度、地面がせり上がる。向正面の途中で一つ、そして最後の直線でもう一つ。ここは、ただ長いだけの2200ではない。上げて、下ろして、また上げる。脚を削る造りをしている。

 

『一周目のスタンド前を通過。ハイペースであります。中団はやや詰まり気味、縦長にならず一団のまま流れております』

 

 詰まっている。

 

 俺は双眼鏡を握り直した。

 速い流れなら隊列は縦に伸びる。伸びれば隙間ができる。だが今日は伸びなかった。前が競り合っているのに、後ろがそのまま塊で追いかけている。

 十八人が、ひとかたまりで坂を上っている。

 

 その中に、ハクセツがいる。

 

 外に出る道がない。内も、前も、横も塞がっている。

 俺が指示した位置は、俺が思っていたよりずっと狭かった。

 

 向正面。三コーナーが近づく。

 

『三コーナー、動き出しました。十二番スピードシンボリ、バ群の中を押し上げてまいります』

 

 黒い髪が、バ群の外側を回らずに、内へ入った。

 

 外を回れば楽に上がれる位置だ。それをしなかった。三、四人分の壁の、その隙間へ、上から押し込むように入っていく。塞がって、開いて、また塞がる。開いた瞬間に、もう次の隙間へ移っている。

 迷いがなかった。

 開くのを待っているのではない。開くと分かっている場所へ、開く前に脚を向けている。

 

 ――ああ。

 

 双眼鏡を持つ手に、力が入った。

 あれは、俺がハクセツに教えられなかったものだ。

 開いたら行く。それだけです。俺はそう言った。言えることが、それしかなかった。

 いま目の前にあるのは、その先にあるものだった。

 

 四コーナー。

 

『最終コーナーを回ります。先頭は五番。十二番スピードシンボリ、内から上がってまいりました』

 

 ハクセツは。

 中団の内で、包まれていた。

 

 前に二人。外にも一人。斜め前が塞がり、そこが開いたと思った瞬間に、外から一人が寄せて閉じた。

 ハクセツが待っている。待つように言ったのは俺だ。

 

 待っている。

 三完歩。四完歩。

 

 直線に入った。

 

『さあ直線、先頭は五番、外に十六番。しかし十二番スピードシンボリ、これは強い! バ群を割って抜け出してまいりました!』

 

 黒い髪が、前を捉えた。

 バ群の中を通ってきた脚で、坂を上りながら、まだ伸びている。

 

 ハクセツの前が、ようやく開いた。

 残り、200。

 

 ハクセツが外へ出た。

 俺は双眼鏡の中で、その一完歩目を見た。

 

 伸びない。

 開いた道は、確かにあった。前も空いていた。脚も残っていた。

 だが、あの音がしなかった。ターフを蹴る音が、爆発しなかった。

 

 いつもならここで、前を走る者が順に後ろへ流れていく。撫で斬りにされていく。俺はそれを何度も見てきた。刃が振り抜かれる音を、スタンドの地鳴りの中でも聞き分けられるようになっていた。

 

 今日は、鳴らなかった。

 一完歩ごとに、前を追う。追っているのは分かる。だが差が縮まらない。坂に入って、伸びが鈍った。前を行く者たちが、一人も後ろへ流れてこない。

 

『スピードシンボリ、先頭でゴールイン。二着は十六番フィニィ。三着は――』

 

 白銀の髪は、その列のずっと後ろにいた。

 

 着順が出るまでの数十秒が、やけに長かった。

 七着。

 

 俺は掲示板を見上げた。勝ちタイムと、着差。

 二秒八。

 

 織り込んでいたはずだった。

 初めての形で、初めての場所へ入る。前哨戦だ。一つ取りこぼしても、エリザベス女王杯までに間に合えばいい。手元に何が残るかを数えてから、俺はこの子を送り出した。

 

 二秒八という数字は、その計算の中になかった。

 

 勝てないかもしれない。それは考えた。二着、三着、五着。そのあたりまでは、頭の中に置いていた。

 七着で、二秒八。それは取りこぼしではない。

 

 完敗だった。

 

 スタンドの人垣が動きはじめる。

 俺は双眼鏡を下ろした。レンズが冷えている。指がかじかんでいた。いつから風が冷たくなっていたのか、覚えていない。

 バインダーには、まだ何も書いていなかった。

 書くことは山ほどある。ペースの推移、隊列が縦に伸びなかった理由、坂の位置、包まれた地点、外へ出るまでにかかった完歩数。全部、後で数字にできる。

 

 できるが、いま書きたいのはそれではなかった。

 三コーナーで、あの黒い髪は開く前に脚を向けていた。

 俺は、あれを教えられない。数えても出てこない。ハクセツの中に無いものを、外から入れる方法を、俺は持っていない。

 

 控え室へ向かう通路は、来たときより長く感じた。

 

 

 控え室前。

 

 引き揚げてきたハクセツの体操服は、背中まで濡れていた。

 最後の直線で外へ出るまでに使ったもの、包まれていた四コーナーで使ったもの、その全部が、飾りのない布の色を変えている。

 

 ハクセツは掲示板を見なかった。

 名前が載っていないことを、知っているからだろう。掲示板に出るのは五着まで。今日はその下だ。

 

 代わりに、ターフのほうを向いていた。

 表彰へ向かう黒い髪が、遠くに見える。歓声はまだ続いている。

 

「開かなかったわ」

 

 低い声だった。

 

「ええ」

「三コーナーからずっと、外にも内にも道がなかったの。前が塞がって、開くのを待って、開いたと思ったら閉じたわ。それを何回か繰り返して、直線を向いたら、もう終わってた」

 

 事実だけを、順番に並べていた。悔しさも、言い訳も乗っていない。

 その並べ方が、かえって耳に残った。

 

「それから、脚が来なかった」

 

 ハクセツは、そこで一度言葉を切った。

 

「最後に外へ出たときにはもう、残ってなかったのよ。道はあったの。前も空いてたわ。なのに、脚が残っていなかった」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「あなたが言った通りね。削って、買ったのよ。削れたのは分かったけど――買えたものが、どこにあったのか分からなかったわ」

 

 俺は、慰めの言葉を探さなかった。

 探しても意味がない。今日は運が悪かった。枠が。展開が。どれも本当だが、どれも足りない。二秒八という数字は、そういう言葉が届く範囲の外にある。

 

 だから、こう言った。

 

「私の見立てが甘かったです」

 

 ハクセツが、顔を上げた。

 

「速い流れなら隊列が縦に伸びると思っていました。伸びれば隙間ができる。あなたを中団の後ろに置いたのは、そこを通してやれると踏んだからです」

「……伸びなかったわね」

「伸びませんでした。前が競り合っているのに、後ろが塊のままついていった。あの造りの2200で、十八人がそうなることを、私は勘定に入れていませんでした」

 

 言いながら、指先がまだ冷たいことに気づいた。

 

「あなたを、私が塞ぎました」

 

 ハクセツはしばらく黙っていた。

 それから、ふん、と鼻を鳴らした。いつもの音だ。

 

「言うと思ったわ」

「……そうですか」

「あなた、そういうところがあるのよ。全部自分のせいにしようとするの」

 

 ハクセツは、濡れた前髪を指で払った。

 

「わたしが選んだのよ。2200を入れてって言ったのはわたし。開くまで待てって言われて、待ったのもわたし。外に出るのが遅かったのも、脚が残ってなかったのも、わたしよ」

 

 そして、こう続けた。

 

「それを全部あなたのせいにされたら、わたしは今日、何をしに来たのか分からなくなるでしょう」

 

 俺は、返す言葉を持たなかった。

 持たないまま、ひとつだけ思っていた。

 ハクセツはいま、俺の見立てが甘かったという話を、こちらへ渡し返している。そういうことを言える子だとは、一年半見てきて、初めて知った。

 

 いや。

 できるようになったのか、もともとできたのか、それすらも俺には測れない。

 

「次は、どこ」

 

 ハクセツが訊いた。

 

「京都記念です。二月。同じ2200」

「同じことをやるの」

「同じことをやります」

 

 ハクセツの目が、少しだけ細くなった。

 

「あと何回やるの」

「決めていません。届くまでです」

 

 嘘ではなかった。だが、全部でもなかった。

 十一月まで、あと十か月ある。使える2200は、そう多くはない。その中で、あと何回ハクセツに今日と同じ思いをさせることになるのかを、俺はもう数えている。

 数えていることは、言わない。

 

 ハクセツは、それ以上訊かなかった。

 

 表彰式のファンファーレが、中山の空に流れ始めた。

 ハクセツはそちらを見ていた。

 黒い髪が、スタンドの歓声の中に立っている。スピードシンボリは今日、バ群の中を通って勝った。ハクセツが今日できなかったことを、当たり前のような顔でやってのけた。

 

 三コーナーで、開く前に脚を向けていた。

 俺には、あれを教えられない。

 

「ねえ」

 

 ハクセツが、前を向いたまま言った。

 

「あの人、内から来たわね」

 

 俺は、双眼鏡を握っていた手の感触を思い出した。

 

「見えていたんですか」

「見えないわよ。包まれてたもの」

 

 ハクセツは、ようやくこちらを向いた。

 

「音でわかったわ。外じゃなかった。内側の、わたしより前のところを、削るみたいに通っていったの」

 

 俺は、その言葉をそのまま受け取った。

 バインダーに書ける形をしていなかった。数字にも、線にもならない。だが、俺が双眼鏡で見たものと、同じものだった。

 

「……そうです」

「そう」

 

 それだけ言って、ハクセツはまた前を向いた。

 

 バインダーを開いた。

 勝ちタイム。着差、二秒八。七着。ペースの推移。隊列。包まれた地点。外へ出た残り200の地点。

 俺はそれを、ありのまま書いた。ごまかす欄はどこにもなかった。

 

 書き終えて、最後の行に一つだけ、数字にならないものを書いた。

 

 ――音でわかった、と本人は言った。

 

 ペンを止めて、それをしばらく見ていた。

 一年半、俺はこの子を外から測ってきた。時計と、歩幅と、脚の残りと、耳の角度で。

 今日、俺の測ったものは全部外れた。外れたところで、この子は自分の内側から、俺の見たものと同じ景色を持って帰ってきていた。

 

 測るだけでは足りない。

 そう思ったのは去年の暮れだ。あれから二か月経って、俺はまだ、その次の道具を持っていない。

 

 風が冷たくなってきた。

 ハクセツが、白い息を吐いた。

 

「帰りましょう」

「ええ」

 

 俺たちは、中山を背にして歩き出した。

 

 スタンドから、まだ歓声が聞こえている。

 この場所に、ハクセツはようやく立った。立って、七着だった。

 

 二月にもう一度来る、とは言わなかった。京都記念は淀だ。中山に戻ってくるのがいつになるのかは、まだ決まっていない。

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総合評価:672/評価:8.29/連載:21話/更新日時:2026年09月19日(土) 09:00 小説情報

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総合評価:6494/評価:8.58/連載:104話/更新日時:2026年09月19日(土) 23:00 小説情報


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