ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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※ハクセツ視点


第二十八話 来なかったもの

 栗東に着いたのは、夜だった。

 

 帰りの列車で、二つ離れた席にファインローズがいた。同じ方向へ帰るのだから、そういうこともある。目が合って、どちらも何も言わなかった。あの娘は窓のほうを向いて、それきりだった。負けた者同士で慰め合う趣味は、たぶん、どちらにもない。

 

 寮の前で、トレーナーは「ゆっくり休んでください」とだけ言って、トレーナー寮へ帰っていった。

 行きも帰りも、必要なこと以外は何も言わなかった。わたしも訊かなかった。訊けば、答えられることだけを答えるだろう。それはもう、中山で聞いた。

 

 部屋の明かりは消えていた。ヤマナラシはもう寝ている。荷を床に置いて、そのままベッドに倒れた。列車の揺れが、まだ背中に残っていた。

 脚は、いつもと違うところが張っていた。

 

 翌朝、いつもより早く目が覚めた。

 

 外に出ると、まだ暗かった。

 栗東の冬は、下から風が来る。阪神では、六甲のほうから横に吹いた。ここは坂の下から吹き上げてくる。二か月経っても、体のほうが構える向きをまだ覚えていない。覚える気がないのかもしれない。

 

 寮を出て、正門のほうへ歩いた。

 

 広場の真ん中に、石像が三体立っている。大昔に走っていたウマ娘たちだと聞いた。名前は覚えていない。ジョセツは通るたびに頭を下げているらしい。

 わたしは下げない。石は石だ。誰かに見守られているつもりで走るくらいなら、坂路を一本余計に上ったほうが早い。

 

 その脇を抜けて、練習コースのほうへ回った。

 

 外灯がまだ点いていた。白い光で、必要以上に明るい。植えられたばかりの木が、細い幹のまま等間隔に並んでいる。等間隔なのが、いかにもここらしかった。

 阪神の木は、どれも勝手な方向へ伸びていた。誰かが並べたのではなく、ただ長くそこにあったから、あの形になったのだろう。

 

 阪神校には、一年半いた。

 目をつぶっても歩けた。どこの角に何があって、どの扉が重くて、どの時間にどこが空いているか、全部知っていた。芝は踏み固められて、坂路の土は、何百人ぶんも掘り返されたあとの色をしていた。あそこは、誰かが長く使ったあとの場所だった。

 

 ここは違う。

 まだ誰も、この土を使い減らしていない。

 

 二か月だ。先週も、洗い場の場所を一度間違えた。

 しかもその二か月のうち、ここにいなかった日を数えると、案外な数になる。移ってすぐ阪神へ行った。帰ってきて、じきに冬休みで千葉へ帰った。戻って、二週間もしないうちに中山へ発った。

 

 この場所は、まだわたしを覚えていない。わたしも、覚えていない。

 中山から帰ってきた、という言い方は、だから据わりが悪かった。帰る、というのは、たぶん、そういう場所に対して使う言葉ではない。

 

 中山は、一年半ぶりだった。船橋から言われるままに移って、一週間で阪神へ発った。それでも、あそこで走った模擬レースのことは忘れていない。

 

 その場所へ行って、七着だった。それで、新しい場所へ戻ってきた。

 

 気がつくと、坂路の下に立っていた。

 上るつもりで出てきたわけではない。

 

 一本、上った。

 

 上まで来ると、東の空が白みはじめていた。山の稜線が、阪神で見ていたものよりずっと遠い。阪神の朝は、六甲で行き止まりだった。ここには行き止まりがない。それが良いのか悪いのか、わたしにはまだ分からない。

 

 下りる途中で、ジャージ姿の一団とすれ違った。顔は知っている。名前は知らない。夏に中京から先に移ってきた組だ。向こうもこちらを見て、何も言わずに行った。

 それでいい。わざわざ挨拶に来られるより、よほど楽だ。

 

 風は、まだ下から吹いていた。

 

◆

 

 三日後の午後だった。

 

 樅ノ木の下巻を、返しに行った帰りだった。冬のあいだには読み終わらないと言われていたのに、思っていたより早く終わってしまった。ミスマルミチは少しだけ意外そうな顔をして、次を探しておきますわ、と言った。

 

 その足で、トレーナー棟に寄った。京都記念の書類を受け取るように言われていた。

 トレーナーは不在だった。机の上に、封筒が一つ置いてある。名前も何も書いていない。この人はいつもそうだ。手渡す必要のないものは、置いていく。

 

 廊下を戻る途中、扉が一つ、半分開いていた。

 

 中は暗い。壁に白い四角が浮かんで、その中で誰かが走っている。かたかた、と乾いた音がしていた。

 映写機の音だ。

 

 通り過ぎようとして、足が止まった。

 画面の中の芝が、乾いていた。冬の関東の光だ。

 

 中山。

 

「閉めないでよ。熱がこもるの」

 

 声がした。

 

「入るか、行くか、どっちかにしなさい」

 

 ファインローズだった。

 

 わたしは、扉を開けて中へ入って、半分だけ閉めた。

 

 部屋は狭かった。机が一つと、椅子が二つ。ファインローズは机に肘をついたまま、白い四角を見上げていた。振り返りもしない。

 

 画面の中では、十八人が中山の坂を上っていた。塊のままだ。縦に伸びていない。

 

「あんたも見るの」

「通りかかっただけよ」

「ふうん」

 

 ファインローズは、目を離さなかった。

 

「私はもう四回見たわ。四回見て、四回とも同じところで一杯になるの。三コーナーの入り口。……分かってるのよ、そんなこと。行った脚が坂で戻ってこないのは、いつものことだから」

「直るの、それ」

「直らないわよ。私がそういう作りなんだから」

 

 言い方に湿ったところはなかった。自分の寸法を、他人のことみたいに口にする。

 

「直らないものを、何回も見るのね」

「見るわよ。腹が立つでしょ」

 

 わたしは、自分の走ったものを外から見るのが、あまり好きではない。

 走っているあいだに見えていたものと、画面に映っているものは、まるで別のものだ。どちらが本当なのかを決めなければいけない気がしてくる。だから、見ない。

 この娘は、四回見る。

 

「じゃあ、何を見てるの」

 

 ファインローズが、口の端を上げた。

 

「――そう。それを訊いてくれるのを待ってたのよ」

 

 机の上のつまみを回す。フィルムが逆に走って、坂を上っていた十八人が、坂を下りていった。

 

「見てなさい」

 

 もう一度、正しい向きに回りはじめる。

 三コーナー。四コーナー。塊のまま曲がって、直線を向く。

 

 外から一人が上がってきた。黒い髪。バ群の中を通ってきた脚で、坂を上りながら、まだ伸びている。

 あの日、わたしが包まれているあいだに、内側の、わたしより前のところを削るように通っていった人だ。音でしか知らなかったものを、わたしはいま、初めて目で見た。

 

 画面の端で、白いものが動いた。

 外へ出てくる。残り200のあたりで、ようやく。

 

 ファインローズが、机を指で一度叩いた。

 

「そこ」

「……」

「あんた今回、大外から来なかったじゃない」

 

 わたしは、何も言わなかった。

 

「四コーナーで、外はあいてたわ。あんたが出てくると思ったのよ。いつもそうだから。私が一杯になって、下がって、それでも前にしがみついてると、外から白いのが来るの。あれで何回持っていかれたと思ってるの」

「……」

「今回、来なかった。ずっと待ってて、来なかったのよ」

 

 ファインローズは、そこで初めてこちらを向いた。

 

「気持ち悪いったらないわ」

 

 わたしは口を開いた。

 何か言おうとして、言葉が出てこなかった。

 

 言えることはあった。中団の後ろにいた。前が塞がっていた。開くのを待った。全部、本当のことだ。

 それを並べても、この娘が言ったことには、何も返らない。

 

 答えを持っていなかった。

 持っていないことに、いま気がついた。

 

「……あなた、十一着だったでしょう」

「そうよ。それが何」

「別に」

「腹が立つわね」

 

 ファインローズは鼻を鳴らした。

 

 あの日から、わたしはいろいろな言い方を聞いた。伸びなかった。詰まった。位置が悪かった。見立てが甘かった。どれもあの日の中で起きたことだ。

 大外が無かった、という言い方だけは、誰もしなかった。

 

 トレーナーもしなかったし、わたしもしなかった。

 したのは、いつも前を走っていて、いつも抜かれていた側だった。

 

 ファインローズは立ち上がって、映写機のスイッチを切った。

 白い四角が消えて、部屋が急に暗くなった。

 

「次は前で待ってるから」

 

 扉を開けながら、彼女は言った。

 

「ちゃんと来なさいよ」

 

 返事をする前に、扉は閉まっていた。

 

 わたしは、暗い部屋にしばらく立っていた。

 フィルムはもう回っていないのに、機械のほうだけが、まだ熱を持っていた。

 

◆

 

 週の終わりだった。

 

 夕食の時間が終わると、栗東の食堂には広さだけが残る。卓の数が、いまここにいる人数と合っていない。

 

 残っていて、と言われていた。

 隅の卓に焼き網が出ていて、下で炭が赤くなっている。

 

「おばさんに頼んだら、貸してくれたの」

 

 ジョセツが得意そうに言った。この子は、そういうことを頼める。

 

「お餅がまだこんなにあるんだもん。悪くなっちゃう前に食べないと」

 

 実家から持たされた餅だ。年末に母が箱へ詰めるだけ詰めて、この子が両手で抱えて運んできた。

 

 卓の向こうで、ヤマナラシが座りかけては座り直していた。腰を落ち着けるまでに二回かかっている。

 

「あ、あの……こんな、してもらわなくても……」

「勝ったんでしょう」

「か、勝ちましたけど……」

「なら、めでたいのよ」

 

 ヤマナラシの耳が、ぴん、と立った。

 

 ジョセツが網の端から一つ取って、皿に落とした。熱いらしく、指先で二度持ち替えている。

 

「はい、ヤマナラシちゃん。砂糖醤油と海苔、どっちにする?」

「え、あ、その……」

「両方でもいいよ」

「……りょ、両方で……」

 

 ジョセツはもう一つ取って、片方を砂糖醤油の小皿へ落とし、片方に海苔を巻いて、二つ並べてヤマナラシの前へ置いた。

 

「甘いのとしょっぱいのを交互にしたら、いくらでも食べられるよね」

「食べ過ぎよ」

「えー、お正月だもん」

「正月はとっくに終わったわ」

 

 わたしは、網の端で焦げはじめているのを見ていた。

 

「わたし、見ていないのよ。あの日はこっちの用があったから」

「……はい」

「どうだったの」

 

 ヤマナラシは、湯呑みを両手で包んだまま、少し考えていた。

 

「……うまく、言えないんですけど。気づいたら、前に、誰もいなくて」

 

 言いながら、ヤマナラシの手が、湯呑みの上で一度だけ動いた。前へ出る形だった。本人は気づいていない。

 

「そう」

「……はいっ」

 

 ヤマナラシは、それきり言葉を探すのをやめたようだった。うまく言えないのなら、それでいい。走った本人が持って帰ったものを、他人の言葉に置き換える必要はない。

 

「ヤマナラシちゃん、勝ったあとどうだったの。誰かに何か言われた?」

「え、えっと……宝塚トレーナーが、よかったな、って」

「それだけ?」

「そ、それだけです……」

 

 それだけ、と言った顔が、少し緩んでいた。

 

「もっと言ってもらわないと。ねえ」

 

 ジョセツが身を乗り出して、ヤマナラシが「い、いいですっ」と両手を振った。

 

 一年半前、この娘はわたしを昼に誘った。ローズステークスの後だった。

 あのときも、こんな顔をしていた。

 

「……お姉ちゃん」

 

 ジョセツが箸を置いた。

 

「先週、お姉ちゃん、中山だったでしょ。……その、こういうの、いま、どうかなって」

 

 誘っておいて、誘ったことを気にしている。この子は昔から、そういうところで手間をかける。

 

「別に。勝った負けたなんて、普通のことよ」

 

 網の上で、白いものが少しずつ膨らんでいた。

 

「それより、そっちの端が焦げてるわ」

「あっ」

 

 ジョセツが慌てて箸を伸ばして、ヤマナラシが皿を寄せて、しばらく卓の上が騒がしくなった。

 餅は、ふくらむと音がする。皮が割れて、中から湯気が出た。ヤマナラシが小さく声を上げて、ジョセツが笑った。

 

「お姉ちゃん、次は京都だよね」

「ええ」

「わたし、三月なんだ。チューリップ賞。……誕生日の次の日だよ、それ」

「知ってるわ」

「えー、覚えてたの?」

「当たり前でしょう」

 

 ジョセツが、えへへ、と笑った。

 

「わ、わたしは、来月……すみれステークス、です」

「今度は見に行くわ」

「えっ」

「見られて困るなら、勝ちなさい」

 

 ヤマナラシの尻尾が、卓の下で一度揺れた。

 

 外は、とうに暗い。広い食堂の、この隅だけが明るかった。炭の匂いと、焦げた餅の匂いが、天井の高いところまで上がっていく。

 

 網の上では、次の餅がふくらみはじめている。

 誰も、それを見ている以外のことをしていなかった。

 

 二月は、もうすぐそこだった。

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