ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
栗東に着いたのは、夜だった。
帰りの列車で、二つ離れた席にファインローズがいた。同じ方向へ帰るのだから、そういうこともある。目が合って、どちらも何も言わなかった。あの娘は窓のほうを向いて、それきりだった。負けた者同士で慰め合う趣味は、たぶん、どちらにもない。
寮の前で、トレーナーは「ゆっくり休んでください」とだけ言って、トレーナー寮へ帰っていった。
行きも帰りも、必要なこと以外は何も言わなかった。わたしも訊かなかった。訊けば、答えられることだけを答えるだろう。それはもう、中山で聞いた。
部屋の明かりは消えていた。ヤマナラシはもう寝ている。荷を床に置いて、そのままベッドに倒れた。列車の揺れが、まだ背中に残っていた。
脚は、いつもと違うところが張っていた。
翌朝、いつもより早く目が覚めた。
外に出ると、まだ暗かった。
栗東の冬は、下から風が来る。阪神では、六甲のほうから横に吹いた。ここは坂の下から吹き上げてくる。二か月経っても、体のほうが構える向きをまだ覚えていない。覚える気がないのかもしれない。
寮を出て、正門のほうへ歩いた。
広場の真ん中に、石像が三体立っている。大昔に走っていたウマ娘たちだと聞いた。名前は覚えていない。ジョセツは通るたびに頭を下げているらしい。
わたしは下げない。石は石だ。誰かに見守られているつもりで走るくらいなら、坂路を一本余計に上ったほうが早い。
その脇を抜けて、練習コースのほうへ回った。
外灯がまだ点いていた。白い光で、必要以上に明るい。植えられたばかりの木が、細い幹のまま等間隔に並んでいる。等間隔なのが、いかにもここらしかった。
阪神の木は、どれも勝手な方向へ伸びていた。誰かが並べたのではなく、ただ長くそこにあったから、あの形になったのだろう。
阪神校には、一年半いた。
目をつぶっても歩けた。どこの角に何があって、どの扉が重くて、どの時間にどこが空いているか、全部知っていた。芝は踏み固められて、坂路の土は、何百人ぶんも掘り返されたあとの色をしていた。あそこは、誰かが長く使ったあとの場所だった。
ここは違う。
まだ誰も、この土を使い減らしていない。
二か月だ。先週も、洗い場の場所を一度間違えた。
しかもその二か月のうち、ここにいなかった日を数えると、案外な数になる。移ってすぐ阪神へ行った。帰ってきて、じきに冬休みで千葉へ帰った。戻って、二週間もしないうちに中山へ発った。
この場所は、まだわたしを覚えていない。わたしも、覚えていない。
中山から帰ってきた、という言い方は、だから据わりが悪かった。帰る、というのは、たぶん、そういう場所に対して使う言葉ではない。
中山は、一年半ぶりだった。船橋から言われるままに移って、一週間で阪神へ発った。それでも、あそこで走った模擬レースのことは忘れていない。
その場所へ行って、七着だった。それで、新しい場所へ戻ってきた。
気がつくと、坂路の下に立っていた。
上るつもりで出てきたわけではない。
一本、上った。
上まで来ると、東の空が白みはじめていた。山の稜線が、阪神で見ていたものよりずっと遠い。阪神の朝は、六甲で行き止まりだった。ここには行き止まりがない。それが良いのか悪いのか、わたしにはまだ分からない。
下りる途中で、ジャージ姿の一団とすれ違った。顔は知っている。名前は知らない。夏に中京から先に移ってきた組だ。向こうもこちらを見て、何も言わずに行った。
それでいい。わざわざ挨拶に来られるより、よほど楽だ。
風は、まだ下から吹いていた。
◆
三日後の午後だった。
樅ノ木の下巻を、返しに行った帰りだった。冬のあいだには読み終わらないと言われていたのに、思っていたより早く終わってしまった。ミスマルミチは少しだけ意外そうな顔をして、次を探しておきますわ、と言った。
その足で、トレーナー棟に寄った。京都記念の書類を受け取るように言われていた。
トレーナーは不在だった。机の上に、封筒が一つ置いてある。名前も何も書いていない。この人はいつもそうだ。手渡す必要のないものは、置いていく。
廊下を戻る途中、扉が一つ、半分開いていた。
中は暗い。壁に白い四角が浮かんで、その中で誰かが走っている。かたかた、と乾いた音がしていた。
映写機の音だ。
通り過ぎようとして、足が止まった。
画面の中の芝が、乾いていた。冬の関東の光だ。
中山。
「閉めないでよ。熱がこもるの」
声がした。
「入るか、行くか、どっちかにしなさい」
ファインローズだった。
わたしは、扉を開けて中へ入って、半分だけ閉めた。
部屋は狭かった。机が一つと、椅子が二つ。ファインローズは机に肘をついたまま、白い四角を見上げていた。振り返りもしない。
画面の中では、十八人が中山の坂を上っていた。塊のままだ。縦に伸びていない。
「あんたも見るの」
「通りかかっただけよ」
「ふうん」
ファインローズは、目を離さなかった。
「私はもう四回見たわ。四回見て、四回とも同じところで一杯になるの。三コーナーの入り口。……分かってるのよ、そんなこと。行った脚が坂で戻ってこないのは、いつものことだから」
「直るの、それ」
「直らないわよ。私がそういう作りなんだから」
言い方に湿ったところはなかった。自分の寸法を、他人のことみたいに口にする。
「直らないものを、何回も見るのね」
「見るわよ。腹が立つでしょ」
わたしは、自分の走ったものを外から見るのが、あまり好きではない。
走っているあいだに見えていたものと、画面に映っているものは、まるで別のものだ。どちらが本当なのかを決めなければいけない気がしてくる。だから、見ない。
この娘は、四回見る。
「じゃあ、何を見てるの」
ファインローズが、口の端を上げた。
「――そう。それを訊いてくれるのを待ってたのよ」
机の上のつまみを回す。フィルムが逆に走って、坂を上っていた十八人が、坂を下りていった。
「見てなさい」
もう一度、正しい向きに回りはじめる。
三コーナー。四コーナー。塊のまま曲がって、直線を向く。
外から一人が上がってきた。黒い髪。バ群の中を通ってきた脚で、坂を上りながら、まだ伸びている。
あの日、わたしが包まれているあいだに、内側の、わたしより前のところを削るように通っていった人だ。音でしか知らなかったものを、わたしはいま、初めて目で見た。
画面の端で、白いものが動いた。
外へ出てくる。残り200のあたりで、ようやく。
ファインローズが、机を指で一度叩いた。
「そこ」
「……」
「あんた今回、大外から来なかったじゃない」
わたしは、何も言わなかった。
「四コーナーで、外はあいてたわ。あんたが出てくると思ったのよ。いつもそうだから。私が一杯になって、下がって、それでも前にしがみついてると、外から白いのが来るの。あれで何回持っていかれたと思ってるの」
「……」
「今回、来なかった。ずっと待ってて、来なかったのよ」
ファインローズは、そこで初めてこちらを向いた。
「気持ち悪いったらないわ」
わたしは口を開いた。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
言えることはあった。中団の後ろにいた。前が塞がっていた。開くのを待った。全部、本当のことだ。
それを並べても、この娘が言ったことには、何も返らない。
答えを持っていなかった。
持っていないことに、いま気がついた。
「……あなた、十一着だったでしょう」
「そうよ。それが何」
「別に」
「腹が立つわね」
ファインローズは鼻を鳴らした。
あの日から、わたしはいろいろな言い方を聞いた。伸びなかった。詰まった。位置が悪かった。見立てが甘かった。どれもあの日の中で起きたことだ。
大外が無かった、という言い方だけは、誰もしなかった。
トレーナーもしなかったし、わたしもしなかった。
したのは、いつも前を走っていて、いつも抜かれていた側だった。
ファインローズは立ち上がって、映写機のスイッチを切った。
白い四角が消えて、部屋が急に暗くなった。
「次は前で待ってるから」
扉を開けながら、彼女は言った。
「ちゃんと来なさいよ」
返事をする前に、扉は閉まっていた。
わたしは、暗い部屋にしばらく立っていた。
フィルムはもう回っていないのに、機械のほうだけが、まだ熱を持っていた。
◆
週の終わりだった。
夕食の時間が終わると、栗東の食堂には広さだけが残る。卓の数が、いまここにいる人数と合っていない。
残っていて、と言われていた。
隅の卓に焼き網が出ていて、下で炭が赤くなっている。
「おばさんに頼んだら、貸してくれたの」
ジョセツが得意そうに言った。この子は、そういうことを頼める。
「お餅がまだこんなにあるんだもん。悪くなっちゃう前に食べないと」
実家から持たされた餅だ。年末に母が箱へ詰めるだけ詰めて、この子が両手で抱えて運んできた。
卓の向こうで、ヤマナラシが座りかけては座り直していた。腰を落ち着けるまでに二回かかっている。
「あ、あの……こんな、してもらわなくても……」
「勝ったんでしょう」
「か、勝ちましたけど……」
「なら、めでたいのよ」
ヤマナラシの耳が、ぴん、と立った。
ジョセツが網の端から一つ取って、皿に落とした。熱いらしく、指先で二度持ち替えている。
「はい、ヤマナラシちゃん。砂糖醤油と海苔、どっちにする?」
「え、あ、その……」
「両方でもいいよ」
「……りょ、両方で……」
ジョセツはもう一つ取って、片方を砂糖醤油の小皿へ落とし、片方に海苔を巻いて、二つ並べてヤマナラシの前へ置いた。
「甘いのとしょっぱいのを交互にしたら、いくらでも食べられるよね」
「食べ過ぎよ」
「えー、お正月だもん」
「正月はとっくに終わったわ」
わたしは、網の端で焦げはじめているのを見ていた。
「わたし、見ていないのよ。あの日はこっちの用があったから」
「……はい」
「どうだったの」
ヤマナラシは、湯呑みを両手で包んだまま、少し考えていた。
「……うまく、言えないんですけど。気づいたら、前に、誰もいなくて」
言いながら、ヤマナラシの手が、湯呑みの上で一度だけ動いた。前へ出る形だった。本人は気づいていない。
「そう」
「……はいっ」
ヤマナラシは、それきり言葉を探すのをやめたようだった。うまく言えないのなら、それでいい。走った本人が持って帰ったものを、他人の言葉に置き換える必要はない。
「ヤマナラシちゃん、勝ったあとどうだったの。誰かに何か言われた?」
「え、えっと……宝塚トレーナーが、よかったな、って」
「それだけ?」
「そ、それだけです……」
それだけ、と言った顔が、少し緩んでいた。
「もっと言ってもらわないと。ねえ」
ジョセツが身を乗り出して、ヤマナラシが「い、いいですっ」と両手を振った。
一年半前、この娘はわたしを昼に誘った。ローズステークスの後だった。
あのときも、こんな顔をしていた。
「……お姉ちゃん」
ジョセツが箸を置いた。
「先週、お姉ちゃん、中山だったでしょ。……その、こういうの、いま、どうかなって」
誘っておいて、誘ったことを気にしている。この子は昔から、そういうところで手間をかける。
「別に。勝った負けたなんて、普通のことよ」
網の上で、白いものが少しずつ膨らんでいた。
「それより、そっちの端が焦げてるわ」
「あっ」
ジョセツが慌てて箸を伸ばして、ヤマナラシが皿を寄せて、しばらく卓の上が騒がしくなった。
餅は、ふくらむと音がする。皮が割れて、中から湯気が出た。ヤマナラシが小さく声を上げて、ジョセツが笑った。
「お姉ちゃん、次は京都だよね」
「ええ」
「わたし、三月なんだ。チューリップ賞。……誕生日の次の日だよ、それ」
「知ってるわ」
「えー、覚えてたの?」
「当たり前でしょう」
ジョセツが、えへへ、と笑った。
「わ、わたしは、来月……すみれステークス、です」
「今度は見に行くわ」
「えっ」
「見られて困るなら、勝ちなさい」
ヤマナラシの尻尾が、卓の下で一度揺れた。
外は、とうに暗い。広い食堂の、この隅だけが明るかった。炭の匂いと、焦げた餅の匂いが、天井の高いところまで上がっていく。
網の上では、次の餅がふくらみはじめている。
誰も、それを見ている以外のことをしていなかった。
二月は、もうすぐそこだった。