ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
中山から帰って、三週間が過ぎた。
その三週間で俺がハクセツにさせたことは、1月とほとんど同じだった。
ジョセツを前に置く。ヤマナラシを外に置く。ハクセツをその内側に入れる。前を塞ぐ。開くまで待たせる。開いたら行かせる。三人でできることは、それだけだ。
18人の密度は、3人では作れない。分かってやっている。分かってやっている、という言い方を、俺はこの三週間ずっと使い続けている。
ノートを開く。1月に引いた線の下に、2月の線を引いた。
京都記念。淀、芝2200メートル。シニア級。18人。
距離も、人数も、同じだった。
「同じことをやるんでしょう」
戻ってきたハクセツが、こちらを見ずに言った。
「ええ」
「他に言うことは」
「ありません」
ハクセツは、鼻から短く息を出した。呆れたときの音だ。中山の朝にも、同じ音を聞いた。
「一つだけ、先に言っておきます」
「聞いたわよ、それも」
「もう一度言います」
俺はノートを閉じた。
「今日も、捕まります。前が塞がって開かなければ、そこで終わりです。中山と同じことが起きる可能性は、少しも減っていません」
「減らす気はないの」
「減らす方法を、私は持っていません」
ハクセツは、しばらく黙っていた。
それから、坂の上のほうへ目をやった。
「……あなた、前はもっと嘘が上手かったわね」
「そうですか」
「勝てます、って言ったじゃない。府中でも、阪神でも」
「あのときは、言えました」
ハクセツは何も返さなかった。ただ、少しだけこちらを見て、それから寮のほうへ歩いていった。
背筋は伸びている。中山から帰ってきた日と、何も変わらない。
俺は坂路の下に残って、ノートをもう一度開いた。
書けることは、全部書いてある。ペースの予測。隊列。坂の位置。開いたときに使える脚の量。
そこから先に、書ける欄がない。
◆
日曜の京都は、朝から晴れていた。
2月の空は高く、乾いている。風は弱い。芝は良。淀のターフが、冬の白い光を一面に返していた。
俺は一度、スタンド下の通路で足を止めた。
この場所へ来るのは、三か月ぶりだった。
あのときは厚い雲の下で、トウメイが淀の時計を塗り替えていくのを、双眼鏡の中で見ていた。ハクセツは最も遠い外を回り切って、それでも5バ身届かなかった。
同じターフだ。同じ距離だ。
ただ、今日はトウメイがいない。
パドックの人垣は、思っていたより厚かった。
俺は後方に立って、周回を眺めた。18人。路線混合の重賞。前へ行きたがるウマ娘が、出走表の上でずらりと並んでいる。
白銀の髪が、列に現れた。
体操服に、11番のゼッケン。列の中でひときわ小さい。中山のときより、腰から下がひと回り絞れて見えた。落としたのではない。使ったぶんが、そのまま無くなっている体だ。
俺は出走表に目を落とした。
中山で7着に沈んだハクセツが、3週間後の淀で1番人気を背負っている。
説明はつく。
去年の春、彼女は府中でGⅠを勝った。秋には同じ府中で、重賞をもう一つ勝っている。GⅠを勝った者がGⅡに出てくれば、上に来る。
中山の7着も、あの流れなら仕方がないと読まれたのだろう。数字の並びとしては、順当な1番人気だ。
説明はつく。ついたうえで、まだ何割か残る。
この距離では二度負けている。淀では一度も勝っていない。それを承知のうえで、なお彼女に高い値がつく。その残りが何なのかを、俺は一年半、一度も言い当てられていない。
新潟で11番人気だったとき、俺はそれを安すぎると思った。府中で1番人気になったとき、妥当だと思った。今日は、どちらでもない。
柵の前で、若い声が上がった。
「白いの、来た」
「阪神の子のお姉さんだろ」
「先月、負けてなかったか」
「府中の女王だぞ」
ハクセツは、そちらを一度も見なかった。
顎は、上がっていた。
中山では、引いていた。
地下バ道の入り口で、最後の確認をした。
出走表を広げる。ハクセツ、11番。6枠。
「枠は、中山より使いやすいです」
「そう」
「今日は、前へ行きたいウマ娘が多い。ですが、譲らない相手が何人もいるわけではありません。ハナを主張する者が一人か二人、あとはその後ろを取りに行く形になります」
ハクセツは黙って聞いている。
「流れは速くなります。ただし、淀みません。競り合いにならないぶん、隊列は縦に伸びます」
俺は、そこで一度言葉を切った。
三週間前、同じことを言った。中山で、俺は同じ順番でこの理屈を並べた。速い流れなら隊列は縦に伸びる。伸びれば隙間ができる。そう踏んで、あの子を中団の後ろに置いた。
伸びなかった。
「伸びれば、隙間ができます」
それでも、そう言った。他に言えることを、俺は三週間かけて一つも手に入れていない。
「位置は前と同じです。最後方までは下げないこと。中団の後ろ。前が塞がる場所です」
「開くまで待つのね」
「待ってください」
「開かなかったら」
「その日は、そこまでです」
ハクセツは、ふっと息を吐いた。
「それも、聞いたわ」
地下バ道は、暗く、短い。
コンクリートの天井が光を切り取っている。中山でも、この道を歩いた。あのときハクセツは、船橋から電車で20分だと言った。今日は何も言わなかった。
言うことがないのか、言わないことにしたのか。俺には測れない。
係員の誘導に従って、白い背中が薄暗がりの奥へ遠ざかっていく。
見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。
バインダーを小脇に抱えて、スタンドへ向かった。
双眼鏡を上げる。本バ場に、18人が出てきていた。
淀のターフが、レンズの中に広がっている。3コーナーのあたりで地面が持ち上がり、その先で落ちていく。あの坂を過ぎれば、あとは平らだ。平らな道が、短い直線までまっすぐ続いている。
三か月前、あの坂の途中でトウメイが抜け出した。
白銀の髪を探す。すぐに見つかった。列の中でいちばん小さい。
ハクセツは、坂のほうを見ていなかった。
俺は双眼鏡の中で、その横顔を数秒だけ追った。
枠入りが始まった。白銀の髪が、ゲートの中へ消えていく。
スタンドの唸りが、じわりと高さを変えた。
俺は、その音の底に耳を置いた。
一年半かけて覚えた作業だ。歓声の層の下に、ターフを蹴る音がある。彼女が来るとき、それは必ず外側から鳴った。バ群の外にいるから、他の足音と混ざらない。俺はその一つだけを、歓声の中から拾い上げられるようになった。
今日、彼女は18人の中にいる。
◆京都記念(GⅡ・京都 芝2200m 右 晴 良)
ガシャン、と音が鳴って、18人が一斉に飛び出した。
『スタートが揃いました。先手を取ったのは9番ハクエイホウ、内から一気にハナへ立ちます。二番手に7番アトラス。続いて2番、14番、15番――』
双眼鏡の中で、先頭が一人に決まった。
9番が、誰にも絡まれずに前へ出ていく。抵抗はない。二番手の7番も、並びかけようとはしなかった。ハナを主張したのは一人。残りは、その後ろを取りに行った。
競り合いが、起きない。
流れは速い。だが、誰も潰し合っていない。
隊列が、伸びはじめた。
先頭から二番手まで、二番手から先団まで、そして先団から中団まで。前へ行きたい者が順に前へ収まって、そのぶんだけ、後ろとの間が空いていく。
三か月前、この同じターフで、俺は正反対のものを見た。何人もがハナを争って、流れが速くなりすぎて、そして前が全部潰れた。あの日は競り合いがあった。今日はない。同じ速さでも、まるで別の走りになる。
伸びた。
俺は双眼鏡を握り直した。
ハクセツは、中団の一番後ろにいた。
外から二人分ほど内。前に四人、右に一人。囲まれている。頭の位置は動かない。前の背中を見ているだけだ。
中山と同じ形だった。ただ、中山と違って、前との間隔が少しずつ開いていく。
『向正面、隊列は縦に長くなりました。先頭ハクエイホウ、二番手アトラスとの差は3バ身。先団は2番以下、15番、14番、8番、16番。中団は離れております』
スタンドの唸りが、少しずつ厚くなっていく。
俺は耳の置き場所を探した。見つからなかった。彼女の足音が鳴るはずの外側に、今日は誰もいない。
3コーナー。
淀の坂が、レンズの下から迫り上がってきた。
起伏に差しかかった瞬間、隊列の形が崩れはじめた。
崩れたのは、前ではなかった。
先頭の9番は、脚の回転を変えない。三番手の2番も、坂を上りながら位置を保っている。単騎で行った者と、その後ろを一人で追った者。二人だけが、自分の脚だけを使ってここまで来ていた。
削られたのは、その後ろだった。
先団を作っていた四人が、坂の途中で一斉に苦しくなった。15番が下がる。14番が下がる。8番も、16番も。速い流れに置いていかれまいと脚を使い続けた者が、坂に差し掛かってまとめて底をついた。
前が潰れたのではない。前を追った者が、潰れた。
『淀の坂、先団が苦しくなってまいりました。先頭は変わらずハクエイホウ、二番手アトラス、三番手に2番――』
双眼鏡の中で、坂の上に空白が生まれた。
下がってくる四人と、まだ残っている三人。その間に、道が一本、はっきりと開いた。
ハクセツが、動いた。
外へ二人分。それだけだ。前を塞いでいた壁は、もう壁ではなくなっていた。下がってきた者たちが、勝手に道を空けていく。
そこへ入った。
――鳴った。
一完歩。ターフを蹴る、あの音。歓声の底で、確かに一度だけ鳴った。
俺は双眼鏡を握った手に力を入れた。次が来る。二完歩目、三完歩目と続いて、それが連なって、前を走る者が順に後ろへ流れていく。ローズステークスで、リゲルステークスで、府中で。俺が何度も見てきた、あの連続が。
来なかった。
音は、一度で終わった。
次の一完歩は、他の17人の足音の中に紛れて、二度と分かれてこなかった。
バ群の中にいるからだ。外にいないからだ。理屈は分かっている。分かっていて、俺の耳は、その先を拾えなかった。
4コーナー。
坂を下りきって、18人が短い直線を向く。
『さあ直線、先頭はハクエイホウ、粘る! 外から11番ハクセツが上がってきた!』
ハクセツが、前へ出ていた。
残り300。開いた道をまっすぐ通って、ハクセツは先頭の外に並びかけていた。速い。
だが、俺が知っている速さとは違う。長く長く脚を伸ばして前を斬り伏せていく、あの伸び方ではない。開いていた分の距離を、一息で詰めただけの速さだった。
並ぶ。
抜く。
――そこで、止まった。
残り200。ハクセツは先頭に立っている。だが、そこから先が出てこない。半バ身。それ以上、離れない。
外された9番が、下がらなかった。一度抜かれた首が、もう一度上がってくる。単騎で行って、坂で使わなかった脚が、そこにまだ残っていた。
『ハクエイホウ、しぶとい! 内から13番も来た!』
内。
俺は双眼鏡を左へ振った。中団から、もう一人上がってきていた。柵沿いを、まっすぐ。
三人になった。
残り100。
ハクセツの脚が、上がりはじめた。回転が落ちる。腕の振りが大きくなる。2200メートルが、彼女の体の中で終わりかけている。
だが、外の9番も上がっていた。内の13番も上がっていた。三人が三人とも、同じように終わりかけている。
誰も抜け出さない。
誰も止まりきらない。
板が、来た。
三つの影が、ほとんど同じ形のまま、レンズの中を横切っていった。
『――ゴールイン! 際どい、際どい!』
俺は、双眼鏡を下ろした。
淀のスタンドが、一拍遅れて騒ぎ出した。誰の名前も呼ばれていない。周りの人間が、口々に何かを言い合っている。前の列の男が、隣に「白いのだろ」と言った。別の誰かが「いや9番だ」と言った。
俺は、どちらとも言えなかった。
一年半、俺は音で先に知ってきた。彼女が前を斬りはじめた瞬間に、その後の全部が決まっていた。板を過ぎるより前に、俺は結果を持っていた。
今日は、持っていない。
掲示板を見上げた。
しばらく、何も出なかった。
やがて、数字が入った。
11。その下に9。さらに下に13。
脇に、勝ちタイムが並んだ。2分14秒8。
スタンドが、少し大きくなった。歓声というほどのものではない。堅い決着に対する、納得の音だ。
俺は、掲示板の一番上の数字を、しばらく見ていた。
勝った。
その二文字を頭の中で組み立てるのに、思ったより時間がかかった。
◆
表彰式が始まるまでに、少し時間があった。
俺は関係者用の通路から、ターフの端まで出た。ここから先には出られない。柵の内側に立てるのは、走った者だけだ。
ハクセツが、レース場の中央にいた。
係員に案内されて、台に上がる。カメラが何台か向いた。ハクセツは正面を向いて、それだけをしていた。笑いもしないし、手も上げない。
拍手が起きて、すぐに収まった。GⅡの表彰は短い。
秋華賞で3着。エリザベス女王杯で2着。この場所でハクセツが一番上に立つのは、初めてだった。
三か月前、俺はこのターフで、淀だけがまだ彼女に答えを返していないと思っていた。
答えは、返ってきた。
読み方が、分からなかった。
◆
控え室前。
引き揚げてきたハクセツの体操服は、背中まで濡れていた。
三週間前と同じだ。2秒8負けた日と、4分の3バ身勝った日で、布の濡れ方が同じだった。
ハクセツは掲示板を見た。一番上を確かめて、それだけで目を戻した。長くは見なかった。
「開いたわ」
ハクセツが言った。
「だから行ったの」
俺は、次を待った。
次は、来なかった。
「それだけですか」
「それだけよ」
濡れた前髪を指で払う。いつもの仕草だ。
「坂で、あなたの前にいた四人が下がりました。速い流れについていって、そこで底をついたんです。空いたのはそのせいです」
「そうなの」
「見えていませんでしたか」
「見てないわ。前が空いたから、出ただけよ」
俺は出走表を開いて、もう一度閉じた。開いても、訊きたいことがそこに書いてあるわけではない。
「直線を向いたとき、先頭との差はどのくらいに見えましたか」
「知らないわ」
「抜いたときは」
「抜いたわよ」
「そのあと、離せませんでした」
「離せなかったわね」
事実だけが返ってくる。三週間前と同じ返し方だった。ただ、三週間前は、その事実に順番があった。開かなかった。待った。閉じた。また待った。脚が来なかった。あの日ハクセツは、自分の内側で起きたことを、起きた順に並べて渡してきた。
今日は、並べるものがない。
俺は、一つだけ訊いた。
「坂で外へ出たとき、私はあなたの足音を一度だけ聞きました」
ハクセツが、こちらを見た。
「そのあとが、聞こえませんでした。17人の中に混ざって、二度と分かれてこなかった」
「……それで」
「あの日、あなたは音でわかったと言いました。内側を、削るみたいに通っていったと」
ハクセツは、少し黙った。
「今日は」
俺が訊くと、ハクセツは軽く肩を上げた。
「覚えてないわ」
嘘をついている顔ではなかった。
「開いたところに出て、前がいたから抜いて、板が来たのよ。その間のことを訊かれても、話すことが無いの」
持っていないのか、言わないことにしたのか。
地下バ道の前でも、俺は同じことを考えた。二度目も、答えは出なかった。
「5月まで、レースはありません」
俺は、そう告げた。
「三か月空きます」
「ふうん」
ハクセツはそれ以上訊かなかった。次はどこか、とも、あと何回やるのか、とも。
三週間前は、訊かれた。
淀の日が、少し傾いていた。
バインダーを開いた。
勝ちタイム、2分14秒8。1着。着差、3/4バ身。3着まで、さらにアタマ。
ペースの推移。隊列の伸び方。先頭が単騎で行ったこと。二番手が並びかけなかったこと。
3コーナーの坂で先団の四人が底をついたこと。空いた地点。外へ出た完歩数。直線で先頭に立った残り200の地点。
全部、書けた。
一つも欠けていなかった。俺が朝に読み上げたものと、ターフの上で起きたことが、一行ずつ順に重なっていく。
流れは速くなる。競り合いにはならない。隊列は縦に伸びる。伸びれば隙間ができる。
その通りになった。
書き終えて、最後の行にペンを置いた。
三週間前、俺はそこに一行だけ、数字にならないものを書いた。
音でわかった、と本人は言った。
今日は、書くことがなかった。
俺はしばらく、その空白を見ていた。
中山で、俺の測ったものは全部外れた。外れたから分からなかったのだと、俺は思っていた。当たれば別のものが見えるはずだと、どこかで思っていた。
今日、全部当たった。
そして、三週間前より遠い。
ペンをしまって、バインダーを閉じた。表紙の下に、まだ何も書かれていない行が一つ残っている。俺はその欄を、去年の暮れに自分で作った。作ったきり、二か月で一度しか埋まっていない。
埋め方を、俺はまだ知らない。
通路の向こうで、次のレースを告げる場内放送が鳴った。
俺は立ち上がって、ハクセツのほうへ歩いていった。
勝った日の帰り支度は、負けた日と何も変わらなかった。