ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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第四話 ローズステークス

 新潟での激闘を終えてからの数週間。俺はまず、ハクセツの脚から蓄積した疲労を完全に抜き去ることに専念した。入念なケアを経て、危うかった脚元に確かな芯が通ったのを見届けた後、ついにプランDの最終段階――芝への適応へと移行した。

 

 最初に芝コースへ連れ出した朝のことを、俺はよく覚えている。

 ダートしか走ったことのないハクセツが、初めて芝の上に脚を踏み出した瞬間だった。一歩、また一歩と慎重に歩を進め、やがてゆっくりと駆け始めた彼女の動きが、数十メートル先で突然、鋭く変わった。

 

 首が下がり、ストライドが深く沈み込む。

 まるで長い眠りから目が覚めたように、彼女の身体が芝の弾力に応えて弾け始めた。ダートで力任せに砂を掘っていた脚が、芝の上では刃のように鋭く、しかし滑らかに地面を捉えている。

 俺がストップウォッチを確認すると、軽く流しただけのラップタイムが、想定を大きく上回っていた。

 

「……思ったより、早く噛み合った」

 

 思わず独り言が漏れた。ハクセツの芝適性の高さは数字で把握していたつもりだったが、実際にこの目で見ると、データが、恐ろしいほどの現実として迫ってくる。

 コースを一周して戻ってきたハクセツは、目を爛々と輝かせて俺を見た。

 

「ねえ、どうだった? 今のラップ」

「想定以上です」

「もう一本行っていい?」

「駄目です。今日は感触を確認するだけで十分です」

 

 ハクセツは盛大に顔をしかめたが、俺がバインダーに数字を書き込む手を止めないのを見て、渋々と引き下がった。

 だが、その赤い瞳の奥に灯った火は、練習が終わった後も消えることなく燃え続けていた。

 

 

 そして九月二週。秋の気配が僅かに混じり始めた阪神校。最終追い切りの芝コースで、俺は双眼鏡越しに明確な変化を確信していた。

 

 芝の上を滑るように駆ける白い影。

 ダートの深い砂を力任せに掘り進むような重いフットワークは、もうそこにはない。地方十六戦の疲労は完全に抜け落ち、徹底したフォーム修正が、ついに芝の上で完璧な解答を弾き出していた。

 

「……仕上がりましたね」

 

 息一つ乱さずに戻ってきたハクセツにスポーツドリンクを渡しながら、俺はバインダーを閉じた。

 

「軽いわね、芝って」

「ええ。今のあなたなら、中央の芝でも誰より速く飛べる。……明日の本番に向け、指示を一つ修正します」

 

 ハクセツが、スポーツドリンクを飲む手を止めてこちらを見た。

 新潟の時のような反発はない。彼女自身も、自分の脚が生まれ変わったことを自覚し、俺の言葉の意図を正確に読み取ろうとするアスリートの顔になっていた。

 

「明日の『ローズステークス』は、前に行きたがる逃げのウマ娘が多数揃っています。序盤からハナを奪い合う、激しいペースになるでしょう」

「じゃあ、また最後方からごちゃごちゃ観察しろって言うの?」

「いいえ。全体の観察は今回は不要です」

 

 俺が首を振ると、ハクセツの耳がピクリと動いた。

 

「最後方に控えるのは同じですが、意識するのは仕掛けのタイミング、それ一つだけで構いません。前がハイペースで削り合い、失速してバ群が凝縮したところを、新潟と同じように大外から強襲してください。距離ロスなど気にしなくていい。あなたの今の末脚なら、大外からでも届きます」

「……本気で言ってる? 阪神の直線は、新潟ほど長くないんでしょ」

「ええ。ですが、阪神の直線の最後には急坂が待ち構えています。序盤に競り合った者たちは、あの坂で確実に脚が止まる。ですが、後方で誰にもマークされずに走れれば、あなたの脚力なら、あの坂を問題なく駆け上がれます」

 

 俺の指示を聞いたハクセツは喉の奥で小さく笑うと、獰猛な肉食獣のように目を細めた。

 

「最高ね。そういう分かりやすい指示を待っていたのよ」

 

 

 翌日。阪神レース場。

 秋のGⅠ『秋華賞』への切符を懸けたトライアルレースのパドックは、異様な熱気に包まれていた。

 

 十八人立ての十五番枠。俺の隣を歩くハクセツは、単勝三番人気という支持を集めていた。

 だが、周囲の視線や観客のヒソヒソ話から伝わってくる評価は、決して彼女の実力を手放しで認めるものではなかった。

 

「新潟の二着は、前が勝手に潰れたハイペース展開に恵まれただけ」

「今回も逃げウマ娘が多いから、展開待ちならワンチャンスあるかも」

 

 ――それが、三番人気という数字の正体だ。

 依然として彼女は『展開待ちの地方出身者』という色眼鏡で見られている。一番人気に推されている有力ウマ娘・オカクモの陣営も、こちらを一瞥しただけで、すぐに視線を外した。

 

「……腹立たしいわね」

「ええ。今回の評価、単なる『展開への期待値』に過ぎませんね」

 

 不満げに鼻を鳴らすハクセツに、俺は短く告げた。

 

「あなたの舞台です。存分に、撫で斬りにしてきてください」

 

 ハクセツは言葉を返す代わりに、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべて本バ場へと向かっていった。

 

◆ローズステークス(GⅡ・阪神 芝1800m 右 晴 良)

 

 ゲートが開き、十八人のウマ娘が一斉に芝を蹴る。

 事前の情報通り、第一コーナーへ向けて複数のウマ娘がハナを主張し、バ群は序盤から激しいペースで引っ張られていった。

 その喧騒から完全に切り離された最後方。ハクセツはただ一点、己の刃を解き放つその瞬間だけを静かに待ち侘びていた。

 

 やがて、勝負所の第四コーナー。

 ハイペースで消耗した先頭集団の脚が鈍り、バ群が密集して巨大な壁を作り出す。一番人気のオカクモが抜け出しにかかる中、最後方にいたハクセツは、迷うことなくその分厚い壁の外――大外へと進路を持ち出した。

 

 距離のロスなど、今の彼女には関係なかった。

 

 直線。ターフを蹴る音が、爆発音のように弾けた。

 万全の状態に仕上がった華奢な脚が、芝の上を飛ぶように加速する。それはダートで見せた力技ではない、滑らかで鋭い加速だった。

 大外から、一陣の白い風が突き抜けた。前にいる十七人を、まとめて撫で斬りにする極上の末脚。

 

 そして、残り200メートル。阪神名物の急坂が、先頭を走るオカクモの脚を捕らえた。序盤から激しいペースを刻んできた消耗が、最後の最後で脚に牙を突き立てた形だった。

 

 だが、ハクセツは違った。後方で一切の脚を使わず温存し、そして練習で叩き込まれた一点に全てを賭けた彼女の末脚は、坂の勾配すら踏み台に変えて加速していく。

 研ぎ澄まされた日本刀の切れ味が、スタンドの地鳴りのような歓声を切り裂き――ハクセツは抜け出していたオカクモを一瞬で捉え、そのまま一バ身以上の差をつけてゴール板を駆け抜けた。

 

『勝ったのはハクセツ! 地方からの移籍組が、堂々の中央芝重賞制覇です!』

 

 実況の絶叫が響く中、俺は双眼鏡を下ろし、小さく息を吐いた。

 勝ち時計は1分49秒0。着差は一バ身と四分の一。

 圧倒的だった。フロックだと軽く見ていた陣営を黙らせるには十分すぎるタイムだ。プランDの無謀な綱渡りは、今この瞬間、秋華賞の本番へ向けた絶対的な確信へと変わった。

 

 控え室前。

 一番に帰ってきたハクセツは、泥一つついていない体操着の胸を張り、俺の前に立って勝ち誇ったように笑った。

 

「どう? 言った通り、中央の連中を黙らせてやったわよ」

「ええ。見事な末脚でした。これで心置きなく、来月の本番へ向かえますね」

 

 秋華賞への切符をその手で掴み取ったハクセツへ、俺は静かに頷き手元のバインダーを閉じた。

 

 

 その日の夜。

 俺は阪神校の裏手にある、古びた定食屋のパイプ椅子に座っていた。

 六月、ハクセツと出会う前に宝塚と二人で油の浮いた肉野菜炒めをつついていた、あの見慣れたテーブルだ。だが、今日テーブルの中央に置かれているのは、豪勢な刺身の盛り合わせと瓶ビールだった。

 

「いやぁ、まさか一年目で重賞を勝つ奴が身内から出るとはなぁ。しかも、あのローズステークスを大外一気やで!」

 

 すっかり出来上がっている宝塚が、赤い顔でビールグラスを突き出してきた。俺は自分のグラスに注がれたウーロン茶で、軽くそれに応じる。

 

「相手は世代のトップクラスや。今日の祝勝会くらい、お前もビール飲んだらええのに」

「俺はまだ何も成し遂げていないよ。それに、明日からは秋華賞に向けた調整が待っているからな」

「出た出た、春日の十八番『徹底管理』。……まあ、その執念があの末脚を引き出したんやろうけどな」

 

 宝塚は呆れたように笑い、手元のビールを煽った。

 

「そういや、うちのヤマナラシちゃんも寮のテレビでレース観とったらしいで。同室のハクセツちゃんがごぼう抜きするの見て、えらい興奮しとった。……あの子もあの子なりに、あの走りに火ぃつけられたみたいや」

 

 その言葉に、俺は短く「そうか」とだけ返した。

 気弱なルームメイトが前を向くきっかけになったのなら、あの不器用な担当ウマ娘も、少しは鼻高々になるかもしれない。

 

「で、どうなんや。次は本番……秋華賞やろ」

 

 宝塚が少しだけ真面目な声色になり、割り箸を置いた。

 俺は手元のウーロン茶のグラスを見つめ、静かに首を振った。

 

「ローズステークスはあくまでトライアルだ。今日勝ったことで、本番では間違いなく徹底的にマークされる。大外一気という手札も、もう簡単には通用しない」

「……せやな。中央の連中もアホやない」

「でも、中央で二戦走り切った彼女なら、どんな包囲網でも崩していける。……そこで勝たなければ、俺たちの証明は完結しない」

 

 グラスの中の氷が、カランと小さな音を立てた。

 六月にこの定食屋で燻っていた時には、影も形もなかった確かな熱。それが今、俺の胸の奥で静かに、だが強烈に燃え続けている。

 来月、十月。言い訳の利かない世代の頂上決戦。

 

 俺は冷えたウーロン茶を一気に飲み干し、決戦の地となる京都レース場へと思いを馳せた。

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