ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
ローズステークスでの勝利から数日が過ぎた。
船橋で走っていた頃はレース後数日も脚に違和感が残っていたが、今のわたしの脚に鉛のような疲労感はなく、穏やかな朝を迎えていた。
最近分かってきたことだが、わたしのトレーナーは地方である船橋は言うに及ばず、中央である阪神のトレーナーの誰よりもレース後の身体のケアに対して適切かつ丁寧だ。
「あのっ……ハクセツさん」
朝の身支度を整えていると、背後から遠慮がちな声がした。
振り返ると、同室のヤマナラシがモジモジと指を絡ませながら立っていた。彼女の視線は宙を泳ぎ、ウマ耳は相変わらず自信なさげにぺたんと伏せられている。
「その……改めまして、ローズステークスの優勝、おめでとうございますっ。寮のテレビで見てて、あの、すごくかっこよくて……!」
「……そう。ありがとう」
「それで、あの、もしよかったらなんですけど……今日のお昼、一緒にお祝い、させてくれませんか……?」
顔を真っ赤にして上目遣いで尋ねてくるヤマナラシに、わたしは小さく息を吐いた。
誰かと連れ立って出かけるなど、船橋にいた頃は考えもしなかったことだ。群れれば足を引っ張られる。それがわたしの常識だった。
だが、恐る恐るわたしの顔色を窺うこの気弱なルームメイトに対して、無下に断る気にはなれなかった。
「……別にいいわよ。今日の午後はオフになっているから、ゆっくりできるし」
「ほ、本当ですかっ!? やったぁ……!」
ぱぁっと花が咲いたように笑うヤマナラシ。
嬉しそうに尻尾を揺らす彼女を見ながら、わたしは呆れたように肩をすくめた。
◆
午前中の軽い調整を終え、わたしはトレーナー室のパイプ椅子に腰を下ろした。
向かいの席では、いつも通りトレーナーが分厚いバインダーを開き、何やら細かな数字を書き込んでいる。
「今日の午後だけど、少し寮を空けるわ」
「構いませんよ。明日の本格的な追い切りに備えて、今日は心身のケアに努める日ですから。……どこへ行くんですか?」
「ヤマナラシが、お祝いをさせて欲しいって言ってくれているのよ。駅前のカフェかどこかで適当に……」
その言葉を聞いた瞬間、バインダーの上を走っていたトレーナーのペンがピタリと止まった。
彼は顔を上げ、わたしを真っ直ぐに見据えた。
「駅前のカフェ、ですか」
「ええ。何よ、甘いものを食べるなとか、今さらそういう食事制限の話?」
「違います。今のあなたが、あまり無防備に人前に出るべきではないという話です」
淡々とした声色だったが、そこには明確な警告が含まれていた。
「いいですか。今のあなたは、もう無名の地方出身者ではありません。休日に駅前のカフェなどに行けば、ちょっとした騒ぎになるのは目に見えている」
「……大袈裟ね。誰もわたしの顔なんて……」
「世間の熱を甘く見ないことです。あなたに余計なストレスをかけさせるわけにはいかない」
そう言うと、トレーナーはバインダーのポケットから一枚のメモ用紙を取り出し、机の上に滑らせた。
「行くなら、ここを使ってください。駅からは少し離れますが、背の高いソファで仕切られた奥まったボックス席がある洋食屋です。席は私が電話しておきます」
「あなたねぇ……」
気にしすぎでしょう、と言葉を続けようとしたが、その真剣な目を見ていると言い返そうとする気持ちも失せてしまう。
わたしは深い溜息をつきながらも、そのメモ用紙を乱暴にポケットへねじ込んだ。
「……言っておくけど、感謝なんかしないからね」
「必要ありません。万全の状態で秋華賞へ向かうための、リスク管理の一環です。……楽しんできてください」
再びバインダーに目を落とすトレーナーに背を向け、わたしは部屋を出た。
リスク管理。そう言い切る彼の声が、不思議と冷たくは聞こえなかった。
◆
トレーナーが手配した洋食屋は、メインストリートから一本裏に入った、ひっそりとした佇まいの店だった。
案内されたのは店の奥にある、背の高いビロードのソファで仕切られたボックス席だった。これなら座ってしまえば周囲から顔を覗き込まれる心配もない。
オムライスを頬張るヤマナラシは、「こんなに静かなお店、初めてです……」と少し緊張しつつも、嬉しそうに目を細めていた。
食後の紅茶が運ばれてきた、その時だった。
店の奥、レジ横の壁に掛けられた小さなテレビから、聞き覚えのあるファンファーレのBGMが流れてきた。
『さあ、いよいよ来週に迫りました、トリプルティアラの最終決戦・秋華賞!』
情報番組のスポーツコーナーだった。
画面には有力ウマ娘たちの顔写真が並び、スタジオのコメンテーターたちが賑やかに言葉を交わしている。ふと、その中の一人が声を張り上げた。
『今年の注目は、なんと言ってもローズステークスを勝ったハクセツでしょう! 見てください、この白く透き通るような肌と髪! 地方からやってきた、楚々とした純白のシンデレラですよ!』
『いやぁ、本当に可愛いらしいですよね。守ってあげたくなるような小柄な身体で』
わたしは、持っていたティーカップをソーサーに置いた。カチャリと、少しだけ固い音が鳴った。
画面には、パドックを歩くわたしの姿が大写しにされている。
『ただ、レースの評価としてはどうでしょう。前走はかなり鮮やかな勝ち方でしたが』
『うーん、そうですね。前走は逃げウマ娘が競り合って、完全に前が潰れる展開になりましたからね。彼女の末脚が見事だったのは確かですが、かなり展開に恵まれたフロックという見方も強いです。本番の秋華賞で、中央のトップクラス相手に純粋な力勝負になった時、あの華奢な身体でどこまで通用するか……』
テレビの中の大人たちは、好き勝手な言葉でわたしを消費していく。
わたしは紅茶を一口含んだ。冷め始めた紅茶の苦味が、舌の上を静かに広がっていく。
――話題性のある『地方出身の可憐な美少女』という見た目だけを持ち上げ、肝心の走りについては「展開に恵まれただけ」と切り捨てる。彼らにとってのわたしは、秋華賞という舞台を彩るための一時的なマスコットでしかないのだ。
「……ハクセツ、さん」
向かいの席から、不安げな声が聞こえた。
見れば、ヤマナラシが泣きそうな顔でわたしとテレビを交互に見ている。気弱な彼女なりに、テレビの無神経な言葉がわたしを傷つけていると感じ取ったのだろう。
テーブルの下で、自分の拳が微かに震えているのに気づいた。
腹立たしい。今すぐあの画面を叩き割ってやりたい。
わたしがどれだけの覚悟で、あのトレーナーと一緒に過酷なメニューをこなして『華奢な脚』を鍛え上げてきたか、何も知らないくせに。
だが、わたしは静かに深く息を吸い込み、テーブルの下の拳をゆっくりと開いた。
「……気にすることないわ、ヤマナラシ」
わざとらしく、ふっと鼻で笑ってみせる。
「ああいう連中は、分かりやすい物語が好きなだけよ。『地方から来た可憐でひ弱なウマ娘が、エリートたちに力負けして散っていく』。……彼らが望むなら、パドックまではそのイメージ通りの『楚々とした美少女』でいてあげるわ」
冷めた紅茶を一口飲み、わたしは意地悪く目を細めた。
「その代わり、ゲートが開いた瞬間に、そのおめでたい幻想ごと全員まとめて撫で斬りにしてあげるけれどね」
わたしの言葉に、ヤマナラシは一瞬目を丸くした後、ほっとしたように、けれどどこか畏敬の念を込めたような眼差しで小さく頷いた。
胸の奥で燃え上がる怒りは、もはや熱を伴っていなかった。
それは冷たく、鋭く研ぎ澄まされた反骨の刃となって、静かに本番への時を待っていた。
◆
洋食屋でのささやかな祝勝会から数日後。
午前中の授業を終えてトレーナー室に入ると、デスク越しのトレーナーが一枚の書類を差し出してきた。
「URAから、勝負服の申請書が届いています」
「勝負服?」
聞き返すと、彼は淡々と説明を続けた。
「秋華賞はGⅠレースです。出走にあたり、あなた専用の勝負服を作成する手続きが必要になります。デザインのイメージがあるなら、聞かせてください」
「……あなたが適当に決めるんじゃないの?」
「勝負服はあなたのものです。大舞台で身に纏う衣装に、私が口出しするべきではないでしょう」
それだけ言うと、彼はバインダーに目を落とし、こちらが口を開くのを静かに待つ姿勢に入った。
わたしは腕を組み、机上の申請書を見下ろした。
頭の片隅を、数日前に洋食屋のテレビから流れてきた無神経な声がよぎる。
あの後も、スポーツ紙の端で『少女時代の吉永小百合を思わせるルックス』などという、勝手な見出しを目にしたばかりだった。
どうやら世間は、何がなんでもわたしを『地方から来た可憐で華奢な美少女』という枠に当てはめたいらしい。
だったら、徹底的にその期待に応えてやろうじゃないか。
彼らが望む通り、いかにもか弱そうな着せ替え人形の姿でパドックを歩き――ゲートが開いた瞬間に、そのおめでたい虚像ごと、わたしの脚で粉々に叩き割ってやる。
「……赤と白。それに、和をモチーフにして」
「和のモチーフ、ですか」
「ええ。どこからどう見ても、楚々とした純日本風美人に見えるような、綺麗で大人しそうなやつ」
わざと皮肉っぽい笑みを浮かべてそう告げた。
理由なんて一言も説明していない。だが、わたしの顔を真っ直ぐに見返したトレーナーの瞳には、微かな光が宿っていた。
この男は、わたしがどういう意図でそのデザインを指定したのか、言葉にしなくても読み取っているのだろうか。
……どちらにせよ、トレーナーは余計なことは何も聞いてこなかった。
「……分かりました。赤と白の、和モチーフですね。あなたの希望通りに手配しておきましょう」
「頼んだわよ」
短く請け負うトレーナーに背を向け、わたしはソファに腰を下ろした。
秋華賞まで、あと三週間。
胸の奥で研ぎ澄ませている反骨の刃に、また一つ、鋭い切っ先が加わった気がした。
◆
十月。秋華賞の前夜。
消灯時間を過ぎた寮の部屋は、水を打ったように静まり返っていた。隣のベッドからは、すっかり寝入ってしまったヤマナラシの規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
わたしは暗闇の中、ベッドに浅く腰掛けたまま、手の中にある冷たい金属の感触を親指でそっと撫でた。
すり減り、細かな砂がこびりついたままの鉄の塊――関東オークスの蹄鉄だ。
怪我の影響もあって、惨敗したあの日の記憶。どうしてもそれを手放す気になれず、中山から阪神へ移る時も、ただ無造作に荷物の奥底へ放り込んでいたものだった。
ひんやりとした無骨な重みが、手のひらを通して身体の奥へと伝わってくる。
地方の深い泥にまみれ、休みなしのローテーションで十六戦を走り抜いてきた日々。
中山の模擬レースで、あの変わり者のスカウトに出会った日。
自らの脚を、芝を走るための刃へと叩き直した、地獄のような数ヶ月。
長い遠回りだった。
だが、このすり減った鉄の重みと、そこに染み付いた泥の記憶があったからこそ、わたしは今日まで一度も折れることなく、反骨の刃を研ぎ澄ませることができたのだ。
明日、わたしは勝負服に袖を通し、世間が望む『楚々とした美少女』という虚像を纏って京都のターフに立つ。
そして、ゲートが開いた瞬間にそのすべてを叩き割り、同世代の頂点に立つ連中を、最後方から撫で斬りにする。
蹄鉄を強く握り込み、その硬い感触を手のひらに深く刻みつけると、わたしはそれを音を立てずに引き出しの奥へと戻した。
目を閉じれば、秋の京都の風が、もうすぐそこまで吹いてきている気がした。