ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~ 作:geko
秋華賞の激闘から数週間。短い休養期間を経て、わたしたちのトレーニングは再び阪神校のターフで始動していた。
休養から戻ったわたしの脚は、驚くほど軽かった。
秋華賞の消耗が完全に抜け落ち、また一から研ぎ直された刃のような感覚。その感触を確かめるように、わたしはターフを蹴るたびに少しだけ笑みがこぼれそうになるのを抑えていた。
「ほら、ヤマナラシ! 腕の振りが小さい!」
「ひゃっ、は、はいぃっ……!」
相変わらずだ。
併走しながら隣を走るヤマナラシに檄を飛ばしつつ、わたしは内心で苦笑した。
わたしがいない間も意識して走っていたと本人は言っていたが、フォームの癖はなかなか抜けない。
コースの脇では、宝塚トレーナーとトレーナーがタイムを計りながら何事か話し合っている。二人の同期トレーナーが並んでいる光景は、阪神校の日常になりつつあった。
「お疲れさん! 二人ともええタイムやで」
戻ってきたわたしたちに、宝塚トレーナーが明るく声をかける。その隣で、トレーナーは手元のバインダーに数字を書き込んでいたが、ふとペンを止めてヤマナラシの脚元へ視線を落とした。
「宝塚、少しヤマナラシの脚を見させてもらっていいか。左脚に、わずかに違和感がある気がする」
「えっ、マジで? 助かるわぁ。こういうのは春日に任せるのが一番やからな」
「少し診ましょう。こちらへ」
トレーナーがヤマナラシを促し、コースの脇のベンチへと連れて行く。
「……担当の宝塚トレーナーがやれば良いじゃない」
わたしが呟くと、宝塚トレーナーは苦笑しながら頭を掻いた。
「いやぁ、こういうんは正直、春日に頼めるんやったら頼んだ方がええねん。あいつのケアの腕、ほんまに別格やから」
わたしは少し離れた場所でヤマナラシの脚を丁寧に診始めたトレーナーの背中を眺めた。
「やっぱり……わたしのトレーナーって、そういうとこ細かい部類なの?」
口に出してから、「わたしのトレーナー」という言葉が自然に出てきたことに少し引っかかった。だが、宝塚トレーナーは特に指摘することもなく、ただ懐かしそうに笑った。
「細かいっちゅうか……あいつには、ああなった理由があるんよな」
宝塚トレーナーがタオルで首の汗を拭きながら、遠い目をした。
「トレーナーの育成学校におった頃のことやけどな。ある時、あいつがケアとか怪我予防について人一倍詳しいのが気になって、軽い感じで聞いてみたんや。『なんでそんなに詳しいん?』って」
「それで?」
「そしたら、珍しく少しだけ昔の話をしてくれてな」
宝塚トレーナーの声が、いつもより少しだけ静かなトーンになった。
「昔、春日が子供の頃に、古いレース映像で見たウマ娘がおったんやて。無敗のままダービーを制した、時代の寵児って呼ばれたウマ娘。トキノミノルっていうんやけど、知っとる?」
わたしは頷いた。
地方にいた頃、古いレース雑誌で名前だけ見たことがある。無敗のまま中央の頂点に君臨し、しかしダービーの直後に脚の怪我で引退した、幻のウマ娘。
「その走りを見て完全にやられてしもたらしくてな。そこからトキノミノルのことを色々調べたんやて」
「……それで、怪我で引退したことも知った」
「そや。当時の医療やケアの水準では、どうにもならへんかった。春日は子供ながらに、トキノミノルが怪我なく走り続けとったらどうなってたんやろう、って思ったらしくてな。……だからあいつは、自分が担当するウマ娘だけは、満足するまで走り続けられるようにしたいって、誰よりも必死にケアを勉強したんやって」
わたしは何も言えなかった。
地方の16戦。誰も気にも留めなかったわたしの脚の疲労を、初対面で見抜いたあの男。一晩で四パターンのレースプランを書き上げ、そのすべてに脚への配慮が込められていたあの計画書。
ああ、そういうことか。
トレーナーがわたしの末脚に惹かれた理由は、最初から聞いていた。でも、なぜあれほどまでにケアに執念を燃やしているのかは、今この瞬間まで考えたことがなかった。
「……ちなみに、宝塚トレーナーはそのウマ娘のこと知ってたの?」
「もちろん。俺もトキノミノルのことは知ってたから、春日の話を聞いた時にめちゃくちゃ分かるわってなってな。そこから一気に仲良くなったんよ」
宝塚トレーナーは照れくさそうに笑い、コースの方へ視線を向けた。
その視線の先で、トレーナーがヤマナラシの脚に丁寧に手当てを施しながら、何事か静かに話しかけている。
ヤマナラシが小さく頷きながら、安心したように表情を緩めていた。
わたしはそれをただ黙って見つめた。
言葉にするつもりはなかった。ただ、胸の奥で何かがすとんと落ちた気がした。
やがてケアを終えたトレーナーが立ち上がり、こちらへ戻ってきた。
「軽い熱感があった。今日はここまでにした方が良いだろう。今夜冷やして、明日の朝もう一度確認する」
「助かったわ、春日。ヤマナラシちゃん、どうやった?」
「すごいっ……! 自分じゃ全然気づかなかったのに……! ハクセツさんがいつも自慢するのも分かりますっ!」
ヤマナラシの無邪気な声が、乾いた冷たい空気に響いた。
「なっ……じ、自慢なんてしてないわよ! 適当なこと言わないで!」
顔に熱が集まるのを感じながら、わたしは思いきり声を荒げた。宝塚トレーナーがけらけらと笑い、トレーナーが小さく息を吐くのが視界の端に見えた。
冷え始めた阪神校に、束の間の笑い声が溢れた。
◆
あれから数日。本格的な冬の寒さが阪神校を覆い始めていた。
秋華賞の後にトレーナーが言った、『考えて走る』という言葉。
その答えを探すための新しいメニューは、すでに始まっていた。
最初に渡された内容は、拍子抜けするほど真っ当なものだった。
バ群の中での位置取り。
前後のペースの把握。
周囲の動きを見ながら仕掛けるタイミングを決め、必要なら進路を変える。
「まずは数日、試しましょう」
初日にトレーナーはそう言った。
「合うかどうかは、それから判断します」
「……随分と慎重ね」
「秋華賞の一戦だけで答えを出すべきではないと言ったのは、私ですから」
そう言われれば、反論はできなかった。
翌朝から、全体練習に混じっての併走が始まった。
わたしはいつものように最後方。
だが、これまでの練習とは違う。
前を走るウマ娘たちの位置を見ろ。
ペースを測れ。
どこが空くかを考えろ。
仕掛ける前に、外だけでなく内の進路も確認しろ。
やることが多い。
最初の一本。
前の二人が横に広がったのを見て、その間が閉じる前に一段前へ出た。
その判断自体はうまくいった。
だが、最後の直線。
いつものように身体を沈め、一気に踏み込もうとした瞬間――ほんの僅かに、脚が躊躇った。
前にいる娘の位置が気になった。
外へ出すべきか。
このまま行くべきか。
考えたのは、一瞬だった。
たったそれだけだった。
けれど、身体が弾けるまでに、いつもより一拍かかった。
「……遅いですね」
一本を終えて戻ると、トレーナーが先に口を開いた。
バインダーへ視線を落としたまま、ストップウォッチの数字を書き込んでいる。
「何が?」
「最高速度に入るまでです。いつもより踏み込みが一つ多い」
わたしは黙って、自分の脚を見下ろした。
疲れてはいない。
重くもない。
なのに、確かにさっきの加速は気持ちが悪かった。
二日目も似たようなものだった。
今度は前のペースを正確に読み、いつもより早い位置から動くことができた。
進路も詰まらなかった。
トレーナーの組んだ練習としては、成功なのだろう。
それでも最後の伸びは、いつものわたしではなかった。
三日目。
前の動きを見る。
位置を測る。
進路を選ぶ。
そうやって正しい答えを一つずつ選ぶたびに、胸の奥にある何かが少しずつ濁っていくような感覚がした。
最後の直線。
仕掛ける。
脚は伸びた。
速い。
けれど――気持ち良くない。
走り終えて戻ると、トレーナーは何も言わなかった。
ただ、三日分の記録をバインダーに挟んだ。
「今日はここまでにしましょう」
「……ええ」
わたしも、それ以上は何も言わなかった。
◆
その日の夕方。
朝から胸の奥に引っかかっていたものをどうしても放っておけず、わたしはトレーナー室のドアノブに手をかけた。
一度、深く息を吸う。
言葉はまだ、うまくまとまっていない。
ドアを開けると、トレーナーはいつも通りデスクに向かっていた。
机の上には、ここ三日分のラップタイムが並べられている。
「……少し、いい?」
挨拶もそこそこに切り出したわたしに、トレーナーはペンを置いて顔を上げた。
「ええ」
それだけだった。
わたしは向かいの椅子に座り、机上の紙を見る。
赤い線で囲まれている箇所があった。
最後の加速区間。
どの日も、そこだけが微妙に鈍い。
「……数字にも出てるのね」
「ええ」
トレーナーは否定しなかった。
「位置取り自体は悪くありません。仕掛ける場所も、初日より三日目の方が明らかに良くなっている」
「でも、最後が遅い」
「はい」
やっていることは全部正しい。
前を見る。周囲を見る。最も効率の良い進路を選ぶ。
それなのに、最後の一歩だけが鈍る。
わたしは膝の上で拳を握った。
すべてを撫で斬るだけの純粋な末脚。
前を見て、横を見て、正しい進路を探す。
そのたびに、最初の踏み込みが浅くなる。
全身を一気に投げ出すはずの瞬間に、ほんの僅かな迷いが混ざる。
ふと、トレーナーが顔を上げた。
そして、バインダーを閉じる硬い音。
「……器用に立ち回ろうとすれば」
ぽつりと、わたしが口を開いた。
ほぼ同時に、
「……ペースや展開に気を取られれば」
トレーナーもまた、低く静かな声を発した。
言葉が途切れる。
わたしは小さく息を吸い、トレーナーの言葉を引き取るように言った。
「……わたしの末脚は、きっと鈍る」
「ええ。少なくとも、この三日間はそうなっています」
トレーナーの指先が、机に並んだ記録を軽く叩いた。
「位置取りは良くなった。判断も早くなった。ですが、最高速度に入るまでが僅かに遅くなっている。あなたの場合、その僅かな遅れが一番大きな武器を削ってしまう」
視線が交差する。
わたしが感じていた違和感を、トレーナーは数字で見ていた。
「器用さなんていらないわ」
「ええ。あなたの勝ち筋を鈍らせてまで、器用になる必要はありません」
「わたしは、後ろから全部撫で斬りにできればそれでいい」
トレーナーは一度、机上のメニューへ視線を落とした。
そしてペンを取り、真っ当な練習メニューの上へ無造作に一本の斜線を引く。
「ならば、戦術眼の定義を変えましょう」
ペン先が止まった。
「すべての展開に対応するためではない。器用に進路を選ぶためでもない。己の最高速度を叩きつける、ただ一瞬の隙を見極めるためだけの眼を」
「……随分と偏った戦術眼ね」
「あなたに必要なのは、たぶんそのくらい偏ったものです」
思わず、口元が緩んだ。
「春の頂上決戦、ヴィクトリアマイル。そこへ至る道筋。極限まで末脚の切れ味だけを尖らせて、本番へ向かいます」
「いいわ。最高に尖った刃に仕上げましょう」
「ええ、任せてください。……秋華賞の走り、その先へ行きましょう」
話し合いを終え、トレーナー室を出ると、廊下には冷たい空気が張り詰めていた。
窓の外を見下ろせば、枯れ芝のターフが寒空の下で静かに春を待っている。
胸の奥にある刃は、もう迷うことなく真っ直ぐに一つの頂点だけを向いていた。
ヴィクトリアマイル。ティアラ路線のエリートたちが集う春の決戦で、常識ごと、この脚で斬ってやる。
息を吸い込むと、肺を満たす冬の空気が、心地よいほどに冷たく、鋭かった。