ウマ娘競バ史 1968 ~winning post 10 2026プレイ記~   作:geko

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第九話 冬休み

 十二月下旬。リゲルステークスでの圧勝から数日が過ぎ、阪神校にも本格的な年末の空気が漂い始めていた。

 吐く息が白く染まる、冷たい冬の朝。俺はウマ娘たちが暮らす学生寮の前で足を止めた。

 

 やがて、扉が開く音とともに、ハクセツが姿を現した。

 厚手のコートに身を包み、肩から大きなボストンバッグを提げた、年相応の冬の私服姿だ。今日から年末年始の短いオフ期間を利用して、千葉の実家へと帰省する。

 

「……見送りなんて、わざわざ来なくてもよかったのに」

 

 俺の姿を認めるなり、ハクセツは呆れたように小さく息を吐いた。

 

「担当ウマ娘の体調管理はトレーナーの義務です。新幹線のホームまで同行しますよ」

「大袈裟ね。荷物くらい自分で持てるわ」

 

 俺が手を伸ばすよりも早く、彼女はボストンバッグを抱え直して歩き出した。俺はその小さな背中を追い、並んで駅へと向かった。

 

 阪神校から新大阪駅までの道程は、これといった会話もなく過ぎていった。

 電車に揺られる間、彼女は車窓を流れる冬の景色をじっと眺めていた。

 秋華賞の後に見せていたような、他者を威嚇するような鋭い気配は今の彼女にはない。リゲルステークスで証明された圧倒的な実力が、彼女の内に静かな余裕をもたらしているようにも見えた。

 

 年末の帰省ラッシュでごった返す新大阪駅。

 喧騒に包まれた新幹線のホームで、俺たちは列車の到着を待っていた。

 足元から這い上がってくるようなコンクリートの冷気が、冬の深まりを感じさせる。周囲には、大きな荷物を抱えた家族連れや学生たちの姿が目立っていた。

 

「実家では、しっかり休んでください。走り込みはほどほどに」

 

 俺が静かに念を押すと、ハクセツはマフラーに口元を埋めたまま不満げに目を細めた。

 

「はいはい、分かってるわよ。秋華賞からリゲルステークスまで、ずっと気を張ってたんだから。少しは休むわ」

「ええ。肉体的な疲労よりも、精神的なテンションを一度完全にフラットに戻すことが目的です。この半年間であなたが経験した熱量は、少なからず見えない疲労を蓄積させていますから」

 

 俺が理屈を重ねると、彼女はうるさそうに片手を振った。

 

「分かったってば。しばらくはターフのことも忘れて、こたつで丸くなってるわよ。……もっとも、向こうがそれを許してくれるかは分からないけれど」

「向こう、ですか」

「実家の家族よ。……特に、妹がね」

 

 ハクセツは白い息を吐き出しながら、どこか面倒くさそうに、けれど微かな姉としての響きを含んだ声で言った。

 

「親御さんと、妹さんにも、よろしく伝えてください」

「……ええ、あの子も待ってるでしょうね。二つ下の妹なんだけれど、わたしが中央の芝で走っているのをテレビで見てから、自分もうずうずしてるみたいだから。帰ったら、どんなレースだったのか、阪神校がどんなところか、根掘り葉掘り聞かれるに決まってるわ」

「あなたの妹さんなら、素質はあるはずです。いずれ、同じターフに立つ日も来るかもしれませんね」

「やめてよ。あの子が来たら、わたしのペースが狂うわ」

 

 ハクセツが本気で嫌がるように首を振ったその時、ベルの音と共に滑り込んできた新幹線が、冷たい風を巻き起こして目の前に停まった。

 乗降口のドアが開く。ハクセツはボストンバッグを持ち直し、列車のステップへと足を踏み入れる直前で、ふと振り返った。

 

「……じゃあ、行ってくるわ」

「ええ。良いお年を」

「来年も、せいぜいこき使ってあげるから覚悟しておきなさい。……トレーナー」

 

 ハクセツは不敵な笑みを残し、車内へと消えていった。

 やがて発車を知らせるベルが鳴り響き、ドアが静かに閉ざされる。窓ガラスの向こうで、彼女が小さく手を上げるのが見えた。俺も無言のまま、短く会釈を返す。

 

 重々しいモーター音を響かせながら、巨大な鉄の塊がゆっくりと滑り出し、やがて加速して冬の青空の下へと消えていく。

 新幹線が去った後のホームには、吹き抜けるような冷たい風が残された。

 

 俺はコートの襟を少しだけ立て、彼女が残していった空白の時間を確かめるように、静かに息を吐き出した。

 吐息は白く濁り、喧騒の冬の空へと溶けて消えた。

 

 

 ハクセツが帰省してから、トレーナー室には静寂が落ちていた。

 

 普段なら、彼女が持ち込む冬の冷気や、ターフを蹴る足音の残響、あるいは意見をぶつけ合う時の熱量がこの空間を満たしている。

 だが今の部屋には、壁掛け時計の秒針の音と、エアコンの駆動音が単調に響いているだけだった。

 

 俺は一人デスクに向かい、来年のヴィクトリアマイルへ向けたシミュレーションを繰り返していた。

 リゲルステークスでのタイム、ラップの推移、バ群が崩れる瞬間の軌道データ。それらを過去のヴィクトリアマイルの展開と照らし合わせ、彼女の末脚が最も破壊力を増す一瞬の射線を弾き出す。

 

 ペンの滑る音が室内に響く。

 ハクセツがいないことで作業は滞りなく進む。ペンを動かす手は止まらないのに、視線が時折、向かいの空のパイプ椅子へ流れていた。

 あの獰猛な赤い瞳。一切の妥協を許さない純粋な刃。彼女の走りを観測するためだけに最適化されたこの部屋は、彼女自身がいなければ、ただの空虚な箱に過ぎない。

 

 午後、データをまとめた俺は、ふと外へ出た。

 霜の降りた枯れ芝のターフを歩きながら、視線を上げる。そこには誰もいない。つい数日前まで、荒い息を吐きながらターフを蹴り、あの獰猛な瞳でこちらを睨みつけていた彼女がいたはずの空間だけが、ぽっかりと空洞のように残されていた。

 

 俺は立ち止まり、無意識にバインダーを開いていた。

 そこにある数字と文字の羅列を視覚でなぞる。ただのインクの染みにすぎないそれらが、彼女の刃の切れ味を確かに証明していた。

 

 バインダーを閉じ、再び歩き出す。

 

 静まり返った食堂で簡素な食事を済ませ、湯に浸かり、眠りにつく。

 そんな淡々とした日常のサイクルを、ただ機械的に繰り返していく。年の瀬特有の慌ただしさとは無縁の、止まったような時間。

 食事の味も、冬の空気の冷たさも、いつもと何一つ変わらない。

 ただ、あの苛立たしげな声や、ターフを蹴る足音がないという物理的な事実だけが、静かな空白となって俺の傍らに横たわっていた。

 

 

 十二月三十日。年の瀬も押し迫った関西の繁華街。

 古びた赤提灯が下がる大衆居酒屋の中は、忘年会を楽しむ客たちの喧騒と、焼き鳥の煙に包まれていた。

 

「いやぁ、この時期に飲む酒の味は格別やな!」

 

 向かいの席で、宝塚がビールのジョッキを勢いよく空にした。

 テーブルの上には、食べかけのモツ煮込みや串焼きが並んでいる。俺はビールの入ったジョッキを傾けながら、彼の景気のいい飲みっぷりをただ眺めていた。

 

「それにしても、配属一年目からGⅠ出る同期が出てくる思わんかったで」

「彼女の努力があってこそだ、俺は手助けをしたにすぎない」

「またそういう可愛げのないこと言う。まあでも、ヤマナラシちゃんも負けてへんで。冬の間みっちり走り込んで、見違えるようにバネが強うなったわ。お互い、ええ一年やったなぁ」

 

 宝塚は新しく運ばれてきたビールに口をつけながら、嬉しそうに目尻を下げた。

 配属されてから半年以上。お互いに担当ウマ娘を持ち、手探りながらも確かな前進を感じている。

 この喧騒の中で飲む酒は、何よりの美酒だった。

 

「それにしても」

 

 宝塚がふと真面目な顔つきになって俺を見た。

 

「なんか雰囲気変わったな、春日」

「……そうか?」

「そや。配属された頃は、なんちゅうか『歩くデータ辞典』みたいな冷たさがあったわ。ウマ娘の脚のケアには異常に執着するくせに、どこか一歩引いとるっちゅうか、競技そのものには興味がないような顔しとった」

 

 宝塚は枝豆を口に放り込み、ジョッキの水滴を指で弾いた。

 

「でも今は違う。ハクセツちゃんっていう一人のウマ娘の全部を背負っとる顔になっとる。……あの子のことホンマに大事にしとるんやな」

 

 宝塚の真っ直ぐな言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。

 

 大事にしている、という感傷的な表現が正しいのかは分からない。

 俺はただ、あの日中山の模擬レースで見た、全てを切り裂くような彼女の末脚を、極限まで研ぎ澄ませたいだけだ。

 あの刃が誰にも折られることなく、ライバルたちが集う頂上の舞台で、すべてを撫で斬りにする瞬間を観測する。そのために必要な要素を最適化し、彼女の脚を守り抜いているだけのこと。

 

「……俺はただ、彼女の刃を研ぎ澄ますための最適解を探しているだけだ」

 

 俺が淡々と返すと、宝塚は「はいはい、そういうことにしとこか」と呆れたように笑った。

 

「ま、理由はなんでもええわ。せやけど、ええ顔になったで」

 

 宝塚はジョッキを掲げ、俺も黙ってジョッキを合わせる。

 カチン、という音が、周囲の喧騒に紛れて消えていった。

 

 数時間後。店を出ると、深夜の冷たい風が容赦なく頬を刺した。

 宝塚と駅前で別れ、俺は一人、静まり返った夜道を歩く。吐く息は相変わらず白く、冬の寒さはまだしばらく続くだろう。

 

 ポケットに手を入れ、夜空を見上げる。

 俺自身が変わったという宝塚の言葉の真偽は、俺には分からない。

 ただ、物理的に彼女が不在であるこの冬の空白が、春への飢餓感を静かに煽っていることだけは確かだった。

 

 この冬が明ければ、やがて春が来る。

 まずは地元での前哨戦、阪神ティアラステークス。

 そしてその先に待つ五月の府中――ヴィクトリアマイルという決戦の舞台。

 あの研ぎ澄まされた白い刃が、その頂点ですべてを切り裂く日のことを思い描きながら、俺は冷たい風の中を真っ直ぐに歩き続けた。

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