“……ミコト? なんでここに?”
私は空から舞い降りてきた彼女にそう尋ねた。彼女の右手には、白色の外装を施したショットガン「
ミコトは私のほうを向くことも、問いに答えることもなかった。ただ右腕を少し上げ、人差し指で何かを呼ぶような動作をする。
その瞬間、私の上着の内ポケットがもぞもぞと動き、何かが高速で飛び出してきた。それはミコトのもとへ移動してぴたりと止まる。そこでようやく私は正体に気づいた。それは「朱色の羽根」だった。
「皆さん、知らないと思いますので一応説明を……。私は、翼から離脱した羽根が感知した振動を音として認識することができる特殊な力を持っています。この力を使い、私はこの状況を常に聞いていたといえば、私がこの場に現れた理由についてはある程度察することはできると思うのですが……ご理解いただけましたでしょうか?」
その話し方も、普段のどこか抜けたような様子とは異なり、酷くよそよそしい。だが、その凛とした後ろ姿からは、少なくとも私やアビドスに対する敵意は感じられなかった。
「ん、じゃあ改めてやろうか」
ヒナをじっと睨んでいたシロコが、銃を構え直してそう呟く。しかし、アヤネが血相を変えてそれを制止した。
「ま、待ってください! ゲヘナの風紀委員長と言ったら、キヴォトスでも匹敵する人物を見つけるのが難しいほどの、強者中の強者ですよ! ここでは下手に動かず、一旦交渉するのが吉です! どうしてそんなに戦うのが好きなんですかっ!」
必死に訴えるアヤネの勢いに押され、シロコもわずかに動揺しつつ銃口を下げる。アヤネが改めてゲヘナ側との通信を試みようとしたその時、それよりも早く、この緊張感に満ちた場にはそぐわない柔らかな言葉が響き渡った。
「久しぶりだね、ヒナさん。二年ぶりぐらいかな?」
ミコトが親しげに問いかける。それを受けたヒナは、わずかに目を細めた。
「……えぇ、そうね。あなたとはできる限り会いたくはなかったのだけれど」
「……どうやら私はずいぶん嫌われてるみたいだね。ちょっと傷つくなぁ」
ミコトは困ったように微笑むが、ヒナの態度は変わらない。
「はぁ、そんなつまらないことを話に来たわけではないでしょう? あなたほどの人間が」
ヒナの溜息混じりの言葉が、対等な強者としての敬意と、同時に拭いきれない警戒心を物語っていた。
先ほどの張り詰めた雰囲気とは一転し、鳳月ミコトがキヴォトス屈指の武力を持つ空崎ヒナとこの状況でフランクに言葉を交わす光景。それを見て、アヤネをはじめとするアビドスの一同はまたも動揺を隠せずにいた。だが、それは風紀委員会側にとっても同様であった。
「……はぁ!? シャーレは先生が超法規的な権力を持つ“だけ”の組織ではなかったんですか!? それに……あの委員長とあんなにフランクに……うらやま……失礼な!! あの下衆は一体何者です!?」
感情が先走るアコに対し、チナツは「いい加減にしてください」と言わんばかりの冷ややかな視線を向けた。
「……行政官。あの方がシャーレの部長です。……あと、それも事前にお渡しした資料に記載されています」
それでもなお理解が追いつかないアコとイオリは、さらにチナツを問い詰める。
「で!? 結局あれはいったい誰なんだよ!」
「イオリさん、あなたもですか……」
深くため息をついたチナツは、ミコトの方へ視線を向けた。その様子は以前協力した時とは異なり、こちらへ向けられるかすかな敵意と、底の見えない重圧を感じさせていた。
「彼女も名乗っていましたが、あの方は鳳月ミコト。元連邦生徒会調停室副室長であり、現在は連邦捜査部シャーレ部長、および連邦捜査長官の任に就いている人物です。詳細な内部情報までは分かりませんが……おそらくは……」
チナツの言葉を遮るように、アヤネが通信を繋いだ。
『こちらアビドス対策委員会です。ゲヘナの風紀委員長ですね、初めまして。現在の状況については理解されていますでしょうか?』
問いかけに対し、ヒナは黙って頷き、再びミコトを見た。
「ええ。連邦捜査部部長さんにある程度状況説明はしてもらっているわ。大まかな内容としては、事前通達なしでの他校自治区における無断兵力運用、および他校生徒との衝突」
ヒナは目を閉じ、事務的に事実を述べる。しかし、再び目を開けたその眼光は鋭かった。
「……けれど、そちらが風紀委員会の公務を妨害したのも事実。違う?」
その一言に、アビドスの子たちは痛いところを突かれ、一瞬言葉に詰まった。セリカやノノミが反抗的な姿勢を見せるものの、キヴォトス最強の一角であるヒナが放つ威圧感は、彼女たちの動きを縛るに十分なものだった。アヤネが「得策ではない」と制止しようとしたその時、ミコトが深くため息を吐いて割って入った。
「そもそも……先ほどあなたが言った通り、ここはゲヘナ学園の自治区ではない」
ミコトはヒナを真っ向から睨みつけて言い放つ。
「自治区では、その区画の自治を行う機関の規則が遵守され、逸脱したものへの制裁権も自治体に存在する。そして他校もそれを尊重すべきだ。……どう考えても、このアビドスは風紀委員会、ひいてはゲヘナ学園の規則が及ぶ範囲ではない、あなたもそう思うでしょう?」
ミコトの冷徹な正論に対し、ヒナは何が言いたいの?と促すような視線を向けた。それを汲み取ったのか、ミコトはさらに言葉を重ねる。
「私が来た目的は、なにもアビドスを助けるために来たんじゃないんですよね〜……」
「じゃあ、あなたはいったい何を?」
「ふふっ、いい質問ですね。っとその前に、私の仕事の話をしましょうか……」
鳳月ミコトは、いつものどこか掴みどころのない雰囲気で語り始めました。
「シャーレ長官としての実務として、二つ以上の学園間をまたいだ組織の衝突が生じた場合、もしくは学園内における内紛が生じた場合、それを仲裁する、という仕事があります。これは、連邦捜査規則でもあり、キヴォトス憲章でも明記されています。ですから、この状況は私の介入しなければならない業務っていうわけですね〜わかりましたー?」
ミコトは左手の人差し指を頭の横でくるくると回しながら説明を続けます。対するヒナは、その言葉を険しい表情で受け止め、問い返しました。
「じゃあなぜ、こちらに敵意を向けているの? そんな銃なんか持ち出して……」
その問いに、ミコトの動きがぴたりと止まります。
「そうですねぇ……」
彼女は逆手に持っていたショットガン「Pomp & Circumstance」を鮮やかに回転させ、人差し指をトリガーにかけました。その瞬間、空気は一変し、彼女の口から放たれたのは事務的かつ冷徹な言葉である。
「……ゲヘナ風紀委員会へ、此度の他の自治区域内での無許可の軍事的行動、および連邦捜査部顧問の拉致監禁未遂と思われる発言。以上のことより連邦捜査長官 鳳月ミコトより連邦捜査規則に基づき、”連邦生徒会長の権限を代行して”、直ちに停戦、および全戦力の撤退勧告を行う。この勧告を直ちに受け入れない場合、我々は直ちに戦闘態勢に移行し、無条件降伏もやむないものと考えよ」
淡々と告げられたその言葉は、連邦生徒会長に並ぶとも称される彼女の圧倒的なカリスマ性と権威を孕んでおり、戦場を深い静寂で包み込んだ。
その場に流れる緊迫感は、もはや一触即発という言葉すら生ぬるいものだった。
「……それを言うっていうことは、私たち風紀委員会を相手にして、アビドスとあなたで、”戦略的勝利”が可能っていう認識でいいのかしら……。私には、とても平和ボケしたあなたに、アビドスを抱えながら私を倒せるとは思えない」
ヒナの放つ絶対的な強者の威圧感に対し、ミコトは臆するどころか、どこか楽しげにすら見える薄い笑みを浮かべたまま言葉を返す。
「まぁ、あなたの相手をするのはかなりキツイけれど……いろいろとやりようはあるからね。例えば、あなた以外の風紀委員会を殲滅する、とかね」
その言葉は決してハッタリなどではない。先ほど「法条レイ」として見せた圧倒的な機動力と、一枚一枚の羽を独立して操作する人智を超えた戦闘能力。彼女が本気で風紀委員会の軍勢を標的に定めれば、たとえヒナが護衛に回ろうとも防ぎきれないだけの「力」があることを、ヒナ自身も本能的に察知していた。
ヒナはその発言に、より一層の警戒を表すように目を細める。
「……私がいてそれをさせるとでも?」
「どうだろうね? 試してみる……?」
カチャリ、とミコトが愛銃「Pomp&Circumstance」の白い外装に覆われた銃身を持ち、引き金に指をかけた。それと同時に、背後に広げられた朱色の羽が静かに、しかし迎撃の態勢をとるように鋭く逆立つ。
対するヒナも、その小柄な体躯からは想像もつかないほどの重圧を放ちながら、愛用のマシンガンを真っ直ぐにミコトへと向けた。
この状況に、アビドスのメンバーも少し焦りを覚えている。先ほどまでは便利屋や法条レイとの共闘により何とか抑えていた風紀委員会だったが、キヴォトス最強の一角でもある空崎ヒナの加勢によって、ほとんど勝機はなくなっていた。アビドス側にとっては、もはや停戦を行うしか選択肢がない状況。
対して風紀委員会も、シャーレ長官である鳳月ミコトからの撤退勧告を受け、相手の戦力が未知数であること、そして何より自分たちの委員長がここまで警戒している人物であることから、両者ともに先ほどと比べれば明らかに戦意はなくなりつつあった。
しかし、戦意の消失とは裏腹に、二人の強者が放つプレッシャーによってこの場は限界まで熱されていく。
まさに一触即発。息が詰まるようなその状況下で、アヤネが耐えかねたように小さく呟く。
「あぁ、この場にホシノ先輩がいてくれたら……」
そのような弱音を口からこぼしたアヤネのほうを、空崎ヒナは信じられないものを見るかのように目を見開いて見つめた。
「ホシノ? それってまさか、小鳥遊ホシノ?」
「うへ~、こいつはまた何があったんだか。すごいことになってるじゃーん」
その場にふらりと現れたのは、今まさに名前が挙がったばかりの小鳥遊ホシノ本人だった。
「ごめんごめん、ちょっと昼寝しててね~、少し遅れちゃった」
のんびりとした調子で言うホシノをアビドスの面々は一斉に責め立てるが、彼女の登場によって、それまで一触即発だった場の空気は目に見えて緩和されつつあった。ミコトもホシノの姿を確認すると、静かに銃口を下げて翼の力を抜く。ヒナもまた、現れたホシノを見て驚きに目を丸くしていた。
これまでの大まかな経緯を説明されると、ホシノは「ふむふむ」と頷き、ヒナの方へと歩み寄っていく。
「ゲヘナの風紀委員会かぁ、便利屋を追ってここまで来たの?」
気さくに話しかけるホシノに対し、先ほどまで毅然と振る舞っていたヒナは、なぜか口を閉ざしたまま複雑な視線を返すことしかできない。
「うーん、事情はよく分からないけど、対策委員会はこれで勢ぞろいだよ。ということで、あらためてやり合ってみる? 風紀委員長ちゃん?」
ホシノが不敵に微笑みながらそう告げると、ヒナは何かを思い出すように少し考え込む様子を見せた。しかしその直後、ホシノの後頭部にミコトの手刀が容赦なく叩き込まれる。
「うげっ!? いったいなぁ……何するのさ? ミコトちゃん」
「せっかく緊張状態が解けたのに軽々しくそんなこというからですよ。 まぁ、この状態にしたのは私ですけど……さすがに私だって本気で事を構えたくはないんですよ!それに、アビドスの代表たるあなたの発言は今はそんなに軽くない、私だって今回問題を起こした側の風紀委員ならまだしも、被害を受けた側のアビドスとも戦闘はしたくないんです」
頭を押さえるホシノをミコトが呆れたように諭していると、ヒナがふと、独り言のように呟いた。
「……1年の時とはずいぶん変わった。人違いじゃないかと思うくらいに」
その言葉を聞き逃さず、ホシノはヒナの方を振り返る。
「……ん? 私のこと知ってるの?」
「情報部にいたころ、各自治区の要注意生徒たちをある程度把握していたから」
そう答えるヒナの視線が一瞬だけミコトへと向き、そしてすぐにホシノへと戻った。
「特に小鳥遊ホシノ、あなたのことを忘れるはずがない。あの事件の後、アビドスを去ったと思っていたのだけれど」
ヒナの口から出た「あの事件」という言葉に、今度はホシノの方がぴたりと言葉を失い、沈黙してしまう。砂漠に流れる気まずい静寂を破ったのは、再びため息をついたミコトだった。
「はいはい。では、両陣営の代表者がそろったところで、風紀委員は全軍の撤退に応じてくれるんですかね? あとアビドスも、これ以上の戦闘行為は行うのをやめるように警告します」
ミコトの言葉に促されるように、ヒナは愛用のマシンガンの銃口を空へと向け、完全に戦闘態勢を解いた。
「まあいい、本来私も戦うためにここに来たわけじゃないから。誰かさんのせいで一触即発にはなったけれど……」
「…そうですね、その件はまぁ、元凶であるあなたのところの行政官にもきつく言っておいてください」
「……言われずともするわ。アコ、通信を切って速やかに反省文の作成に移りなさい」
ヒナは冷ややかな声でそう告げると、アコは我に返り、ひとこと挨拶をした後、通信を切った。その後、背後に待機していた風紀委員の面々に即時の撤収命令を下した。そのあまりに素早い対応にイオリは驚愕するが、それ以上に誰もが耳を疑う出来事が起きる。
次の瞬間、ゲヘナ最強の風紀委員長、空崎ヒナがアビドスの面々に向かって深く頭を下げたのだ。
「事前通達なしでの無断兵力運用、そして他校の自治区で騒ぎを起こしたこと。このことについては私、空崎ヒナより、ゲヘナの風紀委員会の委員長として、アビドスの対策委員会に対して正式に謝罪する」
その場にいたアビドスの一同も、そして身内である風紀委員たちも、開いた口が塞がらない様子で固まっている。
「今後、ゲヘナの風紀委員会がここに無断で侵入することはないと約束する。どうか許してほしい」
ヒナはそう言って頭を上げると、今度はミコトへと視線を向けた。
「また、今回の騒動の原因は我々風紀委員会側にあることを認め、連邦捜査局から課されるあらゆる懲罰を謹んで受けることを約束する」
すかさずイオリが「しかし便利屋の処分は――」と食い下がろうとしたが、ヒナから放たれた無言の圧力に屈し、渋々ながらも撤収準備に取り掛かった。
「まだ未遂ですし、それに警告にも素直に従ってくれましたから、今回はお咎めなしということで。今回問題を起こした生徒に関しては、そちら側で相応の対応をよろしくお願いしますね」
「えぇ、承知した」
こうして、嵐のようだった風紀委員会は瞬く間にアビドス自治区から去っていった。あとに残されたのは、激しい戦闘によって無数の弾痕が刻まれた瓦礫の山と、砂漠の静寂だけだった。
事態が解決したのを見届けると、ミコトもまた、声をかける暇すら与えずに朱色の翼を羽ばたかせて夕闇の空へと飛び去ってしまった。
「……」
「……あの、委員長……。どうかされましたか?」
アビドスからの退却中、ずっと黙り込んでいた私の様子を伺うようにチナツが問う。
「いえ……随分と大胆にやってくれた、と思って」
そう呟くと、少し前を歩いていたイオリの肩がビクッとはねた。誤解を生みかねない発言をしてしまったことを、私は少し後悔する。
「……別にアコや、この作戦に参加した風紀委員のことを責めているわけじゃないの。ただ、あの“大鳥”の目的が気がかりなだけ」
そう言うと、チナツは少しピンと来なかった様子でまた尋ねてきた。
「大鳥……とは、あのシャーレ長官のことでしょうか?」
チナツの純粋な疑問に、私は小さく息を吐き出しながら、夕闇に沈んでいくアビドスの境界線を振り返った。
「……そうか、あなたたちは彼女がまだトリニティにいた頃を知らないんだった」
私が歩みを止めれば、チナツもまた、私の少し前で立ち止まり、こちらに振り返る。
「……大鳥とは、トリニティ総合学園のティーパーティーに所属していた時の、鳳月ミコトの異名。彼女が連邦生徒会にいたときの活躍もそれなりに聞いたことがあるでしょうけれど――トリニティにいた当時の様子は、詳しくは話せない。ただ一つ言えるのは、当時のゲヘナ上層部の頭を、彼女が相当に悩ませたということだけよ」
「ティーパーティー……! トリニティの最高権力機関に彼女が……。ゲヘナの上層部が頭を抱えるほどの存在だったということは、当時から一筋縄ではいかない人物だったのですね。現在の連邦捜査長官という肩書も、その頃からの実績を踏まえれば納得がいきます……」
チナツが息を呑む。その隣で、ずっと聞き耳を立てていたイオリもまた、視線を泳がせながら私の言葉を待っていた。
私は、彼女が先ほど見せたあの不敵な微笑みを思い出す。
「それに加えて、彼女の持つ謎の力……一枚一枚の羽を独立して自在に操作する能力。私もあの力については初めて知ったわ。あれを本当に自在に、彼女自身の速度と並ぶ最高速度で射出されたら、風紀委員会の重装甲だろうが、アビドスの防壁だろうが、あらゆる防陣が一瞬で鉄屑に変えられる。私が防衛に回ったとしても、あなたたち全員を守りきりながら彼女を制圧するのは、万に一つの可能性もないわ。だからこそ、あの場での撤退勧告は『絶対』だった」
「そこまでの、怪物……。ですが委員長、あの方は現在、シャーレの長官として先生をサポートする立場のはずでは?」
チナツの指摘はもっともだった。しかし、だからこそ私の胸には拭いきれない不穏な予感がくすぶっている。
「ええ。だからこそ、気がかりなのよ」
私は視線を落とし、自らの手を軽く握りしめた。
「彼女は基本的に、仕事に情熱を持たない、いえ、必要以上のタスクを行わない主義…。そして、権力にも興味がないからこそ、調停室長の座すら譲って副室長に収まっていたような人間。そんな彼女が、なぜ連邦捜査長官として、連邦生徒会長の権限を代行してまで、あのタイミングで直接戦場に介入してきたのか……」
アビドスを守るため、ではない。彼女ははっきりとそう口にしていた。
「……『大鳥が動く時、天秤が大きく傾く』。私が諜報部にいたころ、一部で囁かれていたその言葉が本当なら、あの場所に、あるいはあのアビドスという学園には、私たちがまだ知り得ない何かが隠されているのかもしれないわ」
重苦しい沈黙が風紀委員会の撤退列を包み込む。私はもう一度だけアビドスの空を見上げ、深くため息をついた。
「それに、あの大鳥が、私の速度に追いつけないわけがない……」
「それは……いったいどういう?」
怪訝そうに首をかしげるチナツに、私は淡々と言葉を紡ぐ。
「彼女の持つ“剛翼”はキヴォトスでおそらく唯一、長時間、高速での飛行と移動が可能な力を持っている。――私が思うに、彼女は『キヴォトス最速』といって差し支えない実力と力を持っているわ」
私はそのまま空を見上げながら目を閉じる。あのとき、私が見た光景とその違和感から導かれるのは…
「彼女は……初めから、風紀委員会が介入し、戦い始めるよりも前から……
居たのよ、上空に
チナツの顔を見れば一瞬で顔色が悪くなる。
無理もない、わたしもその存在に気づいたときに寒気を感じたほどだ。
「そして、私を待っていた―なんのために?。そして……」
そこまで言って、私は今話そうとした言葉を喉の奥に飲み込んだ。
「……何でもない、早く帰るわよ」
「は、はい!!」
大鳥に関してはそこまで話しても構わないが、こちらに関しては下手に口にするべきではない。
私が現場にたどり着く直前、まるで入れ替わるように路地裏の闇へと消えていったあの不気味な穴だらけの翼――あの影が何者なのか、今の話を踏まえればおおよその見当はつく。
鳳月ミコトが連邦捜査長官としてあの場を強制的に幕引きにしたのは、風紀委員会の暴走を止めるためだけではない。あの異形の翼を持つ存在を追うため、あるいはその痕跡を隠蔽するためだったのではないか。
だからこそ、このことはゲヘナの誰でもない、シャーレの先生にだけは直接話しておかなければならなかった…。
不穏な思考を振り切るように、私は歩調を速める。夕闇が濃くなるアビドスの砂漠を背に、私たちはゲヘナへの帰路を急いだ。
風紀委員が撤退する直前のことー。
「シャーレの先生」
不意に声をかけられて振り返る。
“ん? 私?”
「そう。あなたに伝えておいたほうがいいことがある。これは直接言っておいたほうがいいと思って」
彼女のその真剣なその表情に、ただごとではない気配を感じ取る。
「なんの話?」
「……カイザーコーポレーションのこと、知ってる?」
「う~ん、まぁざっくりとは…ね」
そう答えると、彼女はさらに表情を険しくした。周囲の喧騒から距離を置くようにそっと見渡してから、声を一段と潜めて言葉を続ける。
「これはまだ
「……どういうことか、教えてくれる?」
私がそう言うと、彼女は私の後ろをちらりと見た。視線に釣られるように私が振り返ると、その先には降り注ぎ始めた太陽の光を跳ね返し、真っ白に光る広大なアビドス砂漠のみが広がっている。
「アビドスの捨てられた砂漠……あそこで、カイザーコーポレーションが何か企んでいる」
「アビドスの砂漠で……カイザーコーポレーションが?」
驚きを隠せない私に、それ以上の言及を避けるように小さく頷いた。
「あと、法条レイ、だったかしら…。彼女にも、気をつけたほうがいい」
「…それはなぜ?」
先ほどまでアビドスと共に戦ってくれたはずの彼女。その名を名指しされた意図が掴めず問い返すと、彼女は少し困ったように眉をひそめた。何かの確信があるというよりは、あまりに不穏な「何か」を察知したゆえの、割り切れない表情だった。
「こればっかりは先生にも言えない。でも、十分警戒はしておいたほうがいい」
“…分かった、気をつけておくよ”
私の真剣な返答に、彼女はどこかホッとしたように肩の力を抜いた。
「……一応ね。じゃあまた、先生」
「うん、気をつけてね。」
私がそう言うと、彼女の口元にほんの少しだけ、張り詰めた戦場には似合わない穏やかな微笑みが浮かんだ。
しかしそれも一瞬のこと。すぐに冷静沈着な風紀委員長としての表情へと戻ると、彼女は翻って退却していく部隊の後方へと合流した。
砂漠の風に吹かれながら、そのままゲヘナへの帰路へと歩んでいく彼女の小さな、けれどあまりに大きな背中を、私はただ静かに見つめていた。
「先生~!なにしてんるですかー!行きますよー!」
”あ、うん。すぐ行くよ”
そうノノミに言われた私はアビドスの生徒たちとともに学校へと戻っていった。
「これで全部です!積み終わりました!」
便利屋のオフィスにあったものをすべて車に詰め込んだ便利屋の面々は、アビドスから離れようとしていた。
次はどこに行くのかをムツキに尋ねられたアルは、「うーん……」という声を漏らし、特に行先が決まっていないことに気づく。それに対してムツキはゲヘナに戻ることを提案するも、便利屋のみんなからはあまりいい反応は見られなかった。ゲヘナに戻れば、またあの風紀委員会との気まずい関係や、万魔殿からの面倒な視線に晒されることになるからだ。
「みんな、気を付けてね」
不意に響いた声の方へ目を向けると、シャーレの先生がこちらに向かって手を振りながら歩いてきていた。
「な、なな、なんで来たのよ! あんた、アビドスのことを手伝っている身でしょう!?」
アルは急な先生の登場にうろたえて大声を出すが、ムツキはそんなアルの方を少し不満げな顔で見つめる。
「うーん、それはそれとして、アルちゃんは先生と仲良くしたくないの〜?」
「はい、そうですね。風紀委員会と戦うときも、お世話になりましたし……」
「悪意があるようには見えないし……それに私たちはもうここを出て行くんだし。わざわざ敵対しなくてもいいでしょ」
カヨコやハルカの言葉に、アルはぐっと言葉を詰まらせる。先生はそんな彼女らを拒絶することなく、ずっと優しい笑顔で見つめ続けていた。
「どこかに行っちゃうの?」
先生の問いかけに、アルは胸を張って見せる。
「ま、また別の依頼を求めて、ちょっと移動するだけよ! 私たちを必要とする戦場はキヴォトス全土に広がっているんだから!」
「……そっか。また会おうね、アル。みんなも」
先生が穏やかにそう告げると、アルの表情がぱっと明るくなり、嬉しそうに笑った。
どうやら彼女たちも、このアビドスの地が、そしてあの柴関ラーメンがすっかり気に入ったらしい。また絶対にラーメンを食べに来る、と口々に言い合う。
「それじゃあね、みんな」
「ええ、また会いましょう。フフ、次に出会う時は、もっと恐ろしいアウトローになった私たちを見せてあげるわ!」
アルたちは先生とモモトークの連絡先を交換し、この場で別れることにした。
車が走り出し、バックミラーに映る先生の姿がどんどんと小さくなっていく。
そんな時だった。車の真上から、夜風に混じって冷徹な声が降ってきた。
「悪いが、少し時間をもらおうか、便利屋」
「きゃっ!?」
上を見上げる暇もなく、車の前方の地面に、何かが凄まじい勢いで落ちてくるのが見えた。土煙を上げながらも、その人物は寸分の乱れもなく綺麗に着地を決め、アルたちの車の前に立ちはだかる。
車を急停車させ、フロントガラス越しにその姿を確認したカヨコが、低く呟いた。
「あ……例の、ブラックマーケットの指名手配犯……」
その言葉を聞いた瞬間、アルの思考は完全に停止した。
(え……? もしかして私、カイザーPMCだけじゃなくて、とんでもない凶悪犯から依頼を受けてたの……!?)
「ん? アルちゃんどうしたの? 顔が引き攣ってるよ〜?」
ムツキが面白そうにアルの顔を覗き込むが、アルの心臓はバックバクだった。もしかしたらとんでもないヤバいことに巻き込まれたのかもしれない――そんなアルの焦りを置き去りにして、目の前の人物は、顔を覆っていたカラスマスクをゆっくりと外して話し始めた。覗いたのは、あの「デスポットのディーラー」こと、法条レイの素顔だった。
「先日は怖い思いをさせてしまい、申し訳なかったね。ぜひリピーターとなってほしかったのだが……その様子だと、ここを去るのだろう?」
不敵に微笑むレイ。カヨコやムツキは「怖い思い?」「リピーター?」と首を傾げるが、アルは持ち前のアウトローとしてのプライド(と見栄)を総動員して、すぐに背筋を伸ばした。
「……っ、別に構わないわ! だって私たちは便利屋68、キヴォトスの闇に生きるアウトローだもの! これしきの賭け、乗らないわけはないでしょう? 今度アビドスに来るときには、ぜひ再トライ(リベンジ)させていただくわ!」
「ふっ……頼もしいな。では、次回の賭けの条件も考えておくよ、陸八魔アル」
そこまで話が及んで、ようやくカヨコたちも察した。あのカイザーPMCの基地で、法条レイがアビドスだけでなく自分たち便利屋をも巻き込んで仕掛けた、あの命がけの「賭け」のことを。そして彼女こそが、ゲヘナの風紀委員長すら警戒するブラックマーケットの支配者であることを。
「……それでなんだが、君たちに新しく依頼をしたい。依頼内容は――」
レイは細められた瞳で便利屋の面々を見据え、その本題を切り出した。