春の午後、陽光が校舎の窓ガラスに柔らかく反射していた。
乙骨憂太はいつものように、静かな足取りで校庭の端を歩いていた。黒髪が風に軽く揺れ、童顔の整った顔立ちは、どこか儚げで愛らしい印象を周囲に与えていた。
制服の袖を軽くまくりながら、彼は今日も周囲の喧騒を静かに観察していた。生徒たちの笑い声、遠くで響く部活動の掛け声を受け止めていた。しかし、その平穏は唐突に破られた。五、六人のガタイの良い不良たちが、道を塞ぐように彼を取り囲んだ。
リーダー格の男は、唇の端を歪めて笑いながら、ゆっくりと近づいてくる。目には明らかな悪意と、楽しげな残虐性が浮かんでいた。
「乙骨ぅ〜、ちょっと裏に来いよ。そのかわいい顔、殴りたいんだ。頼むよぉ〜」
乙骨憂太は足を止め、穏やかな黒い瞳を不良たちに向けた。表情に動揺の色はなく、むしろ静かな好奇心すら感じられるほど落ち着いていた。彼は軽く首を傾げ、いつもの知的で軽やかな口調で答えた。
「僕の顔が殴りたいんですか? ならここでやりましょう。僕は逃げも隠れもしませんよ」
一瞬、周辺の空気が凍りついた。
不良たちの顔が、次第に怒りに歪んでいく。
「へっ……誘ったのはお前なんだからァー!!」
次の瞬間、殴り合いが始まった。
最初の一撃は、リーダー格の男の右ストレートだった。重い拳が、風を切って乙骨の顔面めがけて飛んでくる。しかしその拳は、空を切った。
乙骨の身体は、常人のそれを遥かに超えた速度でわずかに横にずれ、攻撃を紙一重でかわしていた。特級加重怨霊リカとの契約によって、彼の身体能力は飛躍的に向上していた。
筋力、反射神経、動体視力——すべてが人間の限界を凌駕する。だが、その力の制御は、憂太とリカの間で分割されていた。
憂太はまだ「これは喧嘩だ」と冷静に認識し、相手を傷つけすぎないよう加減しようとしていた。一方、リカはまったく違う認識を持っていた。これは「殺し合い」だった。
憂太を傷つけようとする存在は、すべて排除すべき脅威。彼女にとって、人間の価値観など意味を持たない。ただ、憂太を守るという純粋で狂気じみた衝動だけが、そこにあった。
不良の一人が背後から飛びかかり、乙骨の肩を掴もうとした瞬間——異変が起きた。
「なっ……?」
乙骨の目が見開かれた。突然、空間が歪んだ。目に見えない巨大な鉄塊が、不良の身体を上空から叩きつけるように押し潰した。
骨が砕ける嫌な音が響き、肉が裂け、内臓が飛び散る。真っ赤な血飛沫が、まるで熟れたトマトが弾けたように周囲に飛び散った。
「うぎゃあが!?」
短い悲鳴が上がったが、それはすぐに別の叫びにかき消された。二人目、三人目……不良たちが次々と、不可視の圧力に押し潰されていく。公衆の面前、校庭の真ん中で、血と肉片が飛び散る惨状が一瞬にして広がった。
生徒たちの悲鳴が遠くから聞こえ始め、周囲がパニックに陥りかける。乙骨憂太の顔から、血の気が完全に引いた。
(……僕のミスだ)
胸の奥で、冷たい後悔がゆっくりと広がっていく。
(リカちゃんがここまでやるなんて。今回は過程が悪かった。僕が……あの人たちを排除したいと、ほんの少しでも望んでしまったから。リカちゃんはそのまま僕の意思を汲んで、行動してしまったんだ)
彼は自分の内側に潜む負の感情を、常にフラットに観察してきたはずだった。しかし、わずかな苛立ち、わずかな「面倒だ」という思いが、契約を通じてリカに伝わってしまった。
特級過呪怨霊は、人間の価値観を尊重しない。
折本里香を触媒とした呪いそのもの——負のエネルギーの塊は、人に危害を加えることを何より得意とする。
過ぎた時間は、もう決して戻らない。
乙骨は震える声で、必死に呼びかけた。いつもの落ち着いた軽やかさが失われ、切実な響きが混じっていた。
「リカちゃん、駄目だ。これ以上はッ!!」
だが、その声はリカの狂気の咆哮に飲み込まれた。白い一つ目の巨大な怪物が、一瞬だけその姿を現実世界に現した。
巨大な影が校庭を覆い、狂気と憎悪に満ちた声が響き渡る。
『憂太をォオ、傷つける、のは許さないぃぃいい!! 全部纏めて、消えろ!!』
次の瞬間——爆発が起きた。世界が白く染まった。
凄まじい衝撃波が周囲を襲い、校舎のガラスが一斉に砕け散り、地面が大きく抉れる。
空気が引き裂かれ、悲鳴すら飲み込むほどの破壊の渦が広がった。乙骨憂太と不良たちとの対決が始まってから、およそ十秒後の出来事だった。
半径三十キロメートルが、丸ごと消滅した。校舎も、街並みも、行き交う人々も、遠くに見えていた山々の稜線さえも、跡形もなく吹き飛んだ。
残ったのは、巨大なクレーターと、焼け焦げた黒い大地、そしてその中心に立ち尽くす、乙骨憂太の小さな姿だけだった。風が、灰と塵を巻き上げて彼の黒髪を乱す。
乙骨はゆっくりと膝をついた。童顔の顔に、深い後悔と痛みが刻まれていた。黒い瞳の奥には、いつも抑えていた静かな熱意が、今は苦渋の色に変わって揺れていた。
「……やってしまった」
静かな声が、廃墟と化した世界に溶けていった。
彼は両手で顔を覆い、指の隙間から零れる灰を見つめながら、心の中で繰り返した。
「やってしまった以上、しょうがない。奪った人命を無駄にしないために、僕は人を助ける。リカちゃん、一緒に頑張ろう」
『うん、頑張ろうね、憂太。憂太が望むならなんでもしてあげる』
狂乱から理性を取り戻したリカは元気な返事をする。
リカの狂気が、自分の中のわずかな闇と共鳴してしまった結果。
自分が、結局は破壊の引き金になってしまったという事実が、胸を鋭く抉っていた。
遠くで、残った警報が虚しく響く中、乙骨憂太は静かに立ち上がり、灰色の空を見上げた。
「まずは、逃げないと」
穏やかで知的だった青年の表情に、初めて、己の内なる怪物と本気で向き合う決意のようなものが、静かに宿り始めていた。
【乙骨憂太 特級呪詛師と認定】
【折本里香を特級過呪怨霊と認定】
【処刑対象と判定】
【執行者 五条悟】