乙骨憂太は、車に静かに乗り込んだ。車は滑らかに走り出し、目的地である小学校へと向かっていた。
車内では、五条悟が今回の任務について、いつもの軽やかな口調で説明を始めた。
「場所は小学校。極めて普通のね」
憂太は少し意外そうに目を丸くし、素直に聞き返した。
「普通の……ですか? 凄く呪われた特別な場所じゃないんですか?」
五条悟は穏やかにうなずいた。
「うん、そう。小学校とか病院みたいに、多くの人が集まって、さまざまな感情が高ぶりやすい場所は、どうしても負のエネルギーが溜まりやすいんだ。それで生まれるのが呪霊だよ」
「なるほど……そういう原理だったんですね」
憂太の率直で純朴な反応を聞き、助手席に座る禪院真希は小さくため息をついた。彼女の胸には、わずかな苛立ちと同時に、どこか心配に似た感情が混じっていた。
この少年は本当に何も知らない。リカという強大な力を持っているのに、基礎的な知識すら欠けている。それが戦場で命取りにならないか——そんな思いが、真希の心をよぎった。
「コイツ、素人じゃねーか。リカの力は認めるけど、基礎がなっちゃいない」
五条悟は明るく笑いながら答えた。
「うん! だって何も知らないイカれた一般人が、突然強い力を持っちゃったタイプだからね。だからこれからちゃんと使い方を学んでいくのさ」
真希は眉を寄せ、呆れたように続けた。
「イカれた、とか本人の前で堂々と言うのかよ。私はかなりナヨナヨしたヤツに見えるんだけど。リカはともかくとして」
「憂太の場合、実は逆なんだよね。肉体の資質は元々あったんだろうけど、何よりメンタルの強度がずば抜けてる。数千万人を殺してしまったという事実に直面しながら、次に出てくる言葉が『それに見合う価値ある存在になろう』だったんだよ。しかもその方法が、愛と勇気と絆だって……」
五条悟が大きく声を上げて笑うと、真希は露骨に顔をしかめた。彼女の心には、複雑な感情が渦巻いていた。この少年の思考は、確かに異常だ。普通の人間なら耐えられない重荷を背負いながらも、それを「価値あるもの」に変えようとする姿勢が、逆に恐ろしく感じられた。
それを静かに聞いていた乙骨憂太は、胸の奥で少し寂しさを覚えながらも、控えめに口を開いた。
「そんなに……変でしょうか? 罪のない、無辜の人々をたくさん消してしまいました。なら、せめて消えてしまった命が無駄にならないよう、僕がそれに見合うだけの価値ある成果を残すべきだと……僕はそう思います」
「前言撤回。お前は本当にイカれてるよ」
その言葉に、憂太の胸にわずかな痛みが走った。自分はやはり周囲から「異常者」として見られている。それでも、彼は静かに受け止めた。過去の罪を償うために、自分はこれからも前へ進まなければならない——そんな決意が、心の底にしっかりと根を張っていた。
やがて車は目的地の小学校に到着した。五条悟はすぐに術式を発動させ、戦闘が予想される区域全体を強固な結界で覆い隠した。
憂太と真希は、その結界の中へと慎重に足を踏み入れた。瞬間、乙骨憂太の全身に言い知れぬ嫌な感覚が走り抜けた。冷たい指が背筋を這うような、不快で鋭い気配。胸の奥がざわつき、緊張が一気に高まる。
「真希さん……注意してください。何か、います」
「そりゃあいるでしょ。それを祓うために私たちはここに来たんだから」
「それは……そうなんですが……」
憂太の呪力操作はまだとても未熟で雑だった。彼は常に呪力を無意識に垂れ流しており、そのエネルギーは周囲の空間に広がり続けていた。制御されていない呪力は天然のセンサーのように働き、何か異物に触れると、その反応がすぐに憂太へとフィードバックされてくる。
彼自身、その感覚に少し戸惑いながらも、心の中で冷静に分析しようと努めていた。五条悟先生に次ぐ強さを持つ自分の無意識のセンサーを、容易に遮ることができるほどの存在は、多くの者にとって明らかな脅威であることを、憂太はぼんやりと感じ取っていた。
「僕が先行します」
「あ!?」
「リカちゃん、お願い」
『うん、行くよ』
次の瞬間、リカの存在が乙骨憂太を優しく包み込んだ。呪霊の仮面がゆっくりと生成され、それを起点としてリカの全てが憂太の肉体と深く接続された。
強大な呪力とともに、愛と勇気と絆が純粋なエネルギーとなって体内へと流れ込み、彼の身体能力と戦闘性能を大幅に向上させた。
今や特級過呪怨霊と融合したこの特別な状態を、『呪霊化』と呼ぶのが最も相応しいだろう。
憂太の胸には、温かくも強烈な力が満ちていくのを感じていた。リカの愛が、自分を支えてくれている——その実感が、彼に静かな勇気を与えていた。
「雑魚を祓う。タイミングを合わせて」
『うん』
憂太が軽く腕を振るうと、彼の呪力が周囲に広がり、一定以上のパワーを持たない弱い呪霊たちが一瞬で掃討された。すると、ゆっくりと、圧倒的な存在感を放つ巨大な呪霊がその姿を現した。
憂太は一気にこれを殲滅するため、両手に呪力を集中させ、強力な砲撃の準備を始めた。発射の瞬間が迫ったその時、真希の鋭い大声が響き渡った。
「待て!! 中に子供もいる!!」
「……ッ」
憂太の動きが一瞬止まった。子供——その言葉が、彼の心を強く揺さぶった。過去に自分が奪ってしまった無数の命が、脳裏をよぎる。
もうこれ以上、誰かを傷つけたくない。そんな思いが胸を締め付けた。リカの声が、無邪気でありながらも冷たく響いた。
『もうたくさん殺したんだから、別に一人くらい良くない?』
「え?」
『無駄死を価値ある死にする為に、人々の明日を光輝く希望の明日にする為に。私達が前に進むために。殺す。邪魔なものは全部轢殺して前へ進む。それが憂太の道だよね』
「それは、そうだけど、助けられる命を見捨てるのは嫌なんだ」
『なら子供は死んでいると仮定する。結果はあとで確かめよう。助けられる命なんて存在しない。見捨てるなんて思考は意味がない。だから砲撃発射』
「え、あっ」
憂太の制止も虚しく、集められた呪力が一気に発射された。強大なエネルギーの塊が、巨大な呪霊の体をまっすぐに貫いた
乙骨憂太が放った強力な呪力の砲撃は、巨大な呪霊の体をまっすぐに貫いた。呪霊は緑色の粘つく血飛沫を激しく噴き上げながら、大きくのけぞり、そのまま重い音を立ててゆっくりと倒れていった。
憂太の胸に、激しい焦りが広がった。子供がいるかもしれない——その思いが頭を支配し、彼は倒れた呪霊の死体の中へと、ほとんど無我夢中で突っ込んでいった。
力任せに呪霊の肉塊を両手で掻き分け、吹き飛ばしながら、必死に子供の姿を探し始めた。心臓が早鐘のように鳴り、息が荒くなる。もしも子供がこの中に閉じ込められていたら、自分は絶対に助け出さなければならない。
そんな強い責任感と罪悪感が、憂太の行動を駆り立てていた。
「おい、乙骨! まず落ち着け!」
真希が素早く駆け寄り、憂太の肩を強く掴んでその動きを制した。彼女の声には、苛立ちと同時に本気の心配が混じっていた。
「呪霊の死体がまだ残っている。生命力を超えるダメージを喰らった呪霊は、普通ならすぐに消滅するはずなんだ。なのにこうして形を保っているということは、まだ完全に死んでいないぞ。油断するなよ」
乙骨憂太は、真希の言葉を聞いてハッと我に返った。自分の焦りが危うい判断を招きかねないことに気づき、胸の内で深い後悔がよぎった。自分はまだ戦い方が下手だ。感情に流されやすい。だが、真希の冷静な指摘に、彼は素直に頷いた。
「そ、うだね……うん、ありがとうございます、真希さん」
二人は互いに背中を預けるような形で警戒を強め、呪霊の巨大な死体を慎重に調べ始めた。憂太は死体の表面を丁寧に撫でるように探りながら、心の中で何度も自分に言い聞かせていた。焦ってはいけない。
リカの力に頼りすぎてはいけない。真希さんの言う通り、油断は命取りになる——。すると、突然、弱々しく震える声が、静かな戦場に響き渡った。
「誰か……助けて……」
その声に、憂太の心が大きく揺れた。子供だ。間違いなく子供の声だ。恐怖と痛みに満ちた、幼い声。憂太は咄嗟にその方向へ駆け寄ろうとした。
胸の奥から、守りたいという純粋な衝動が溢れ出す。もうこれ以上、誰にも傷ついてほしくない。自分と同じような罪を、誰にも背負わせたくない——そんな思いが、彼の足を動かした。
その瞬間、後ろから真希の鋭い叫び声が飛んできた。
「それは罠だ!」
真希は迷わず、力強く乙骨憂太の体を蹴り飛ばした。憂太の体が横に吹き飛ばされ、地面に転がった直後、彼が立っていた場所から、鋭い刃のようなものが突然突き上がった。
次の瞬間、その刃は真希の右足を深く切り裂いた。真希の顔が一瞬、激痛に歪む。血が勢いよく噴き出し、彼女の右足は大きく損傷していた。憂太は地面に倒れたまま、驚愕と罪悪感で胸が締め付けられた。
自分の迂闊な行動が、真希を傷つけてしまった。彼女を危険に晒してしまった——その事実が、憂太の心を激しく苛んだ。すると、リカの声が、憂太の頭の中に直接、甘く響いた。
『どうする? 憂太。子供を助けるの? あの女を助けるの? 呪霊を殺すの?』
乙骨憂太は、地面に片膝をついたまま、ゆっくりと立ち上がった。胸の内で、激しい葛藤が渦巻いていた。子供を助けたい。真希さんを助けたい。そして、この呪霊を完全に倒したい。
どれも譲れない。どれも大切だ。
揺るぎない決意を込めて答えた。
「全部だ、リカ。100%の愛を僕に」
リカは嬉しそうに、甘く優しい声で返した。
『わがままな憂太。でも、だから、そんな貴方が好き。大、大、大好き。私のすべてをあげる』
憂太の瞳には、困難に立ち向かう全てを焼き尽くす太陽の如き光が宿っていた。