病院の長い廊下は、どこか冷たく静まり返っていた。
白い壁に埋め込まれた蛍光灯の光が、淡く床を照らし、ところどころに置かれたベンチの影を長く伸ばしている。
その一角に、乙骨憂太は一人で立っていた。黒髪が額にかかるのをそのままに、神妙な表情で視線を落としている。
可愛らしい童顔は、いつもより少し大人びて見え、黒い瞳には深い思索の色が浮かんでいた。そこへ、足音も軽やかに五条悟が現れた。
銀髪が無造作に揺れ、碧眼がいたずらっぽく細められている。190cmを超える長身は、病院の廊下でも異様な存在感を放っていた。
彼はいつものように、掴みどころのない笑みを浮かべて乙骨に近づいた。
「やぁ、乙骨憂太くん。今回の件はどうだった?」
声は軽薄で、天気の話でもしているかのようだった。
乙骨はゆっくりと顔を上げ、落ち着いた、しかしどこか知的で軽やかな口調で答えた。
「学びが多かったです。戦闘時の僕と呪霊化したリカちゃんは、かなりマイナス寄りの精神性を有しているのは重要です」
その言葉の響きに、五条の眉がわずかに上がった。
マイナス寄り——。
乙骨がその表現を使うとき、それは明確に『人に害する性質が高い』というニュアンスを含んでいた。
特級加重怨霊である以上、元の里香の性格よりも加虐性が増すのは理の当然だ。しかし乙骨は、心の中で静かに線を引いていた。
五条が自分の意見を無視したり、都合よく捻じ曲げたりするような行動は、決して許容範囲外だと。五条は壁に軽く背を預け、腕を組んで乙骨の顔を覗き込んだ。
「へえ。で、君は? 君はどうなんだい、乙骨憂太くん。通常時の君なら『被害者がいる可能性』は認めても、ほとんど考慮せずに攻撃に移っていたはずだよね。
けどあの時は、明らかに躊躇ってた。どうして?」
乙骨は一瞬、視線を逸らした。
黒い瞳に、わずかな揺らぎが走る。
彼は静かに息を吐き、穏やかな声で返した。
「リカちゃんがマイナスなら、僕はプラスの行動を取っている……と、そういう解釈ですか?」
「かもしれない、という話だけどね」
五条は肩をすくめ、にやりと笑った。その笑みは軽やかだったが、碧眼の奥には鋭い光が宿っていた。
「君は案外、優しい人間なのかもしれないよ」
その言葉が落ちた瞬間、乙骨の表情がはっきりと曇った。不快感が、童顔に露わに浮かび上がる。彼は声を低く抑えながらも、はっきりと言った。
「冗談はやめてください。優しいなら、これほど切り替えは早くないですよ。数千万人を殺してでも、価値あるものにしようと考える人間が優しいはずがありません。
僕は破綻者です。だからこそ、輝く明日を目指して光に進める人種なのでしょう」
乙骨の声は穏やかさを保っていたが、その奥底から静かな熱が滲み出ていた。
光とは、彼にとって尊いものだった。
正しいことを、正しい時に、正しく行える——。しかし正論だからこそ、時に人を傷つけ、通用しないこともある。
正論を行える人間は、精神的な逸脱者だ。そしてそれを推し進めるだけのスキルも、必ず伴う。乙骨自身がその逸脱者であることを、彼は冷徹に自覚していた。
もし彼が正しいとされる世界が実現すれば、それは彼と同じような精神で全てが左右される、混沌とした優劣社会に他ならない。だからこそ、彼はそれを認めようとしなかった。
「僕が変なのは自覚しています。それと頑張るのは別の話です。怪物と呼ばれようと、僕は好きなように頑張ります。他の人にかけた迷惑も、かけた迷惑より作り出した価値が上回れば、帳尻も合うでしょう。数千、数万人の人に報いるのは大変ですが、諦めてしまえば無駄死にです」
乙骨の言葉には、静かな決意が込められていた。しかし五条の目には、その決意の裏側にある危うさが映っていた。
コンコルド効果、あるいはサンクコスト効果。
損失が出ると分かっていながら、過去に注いだ時間や労力、命を惜しんで撤退できなくなる心理。
殺した人間を惜しみ、突き進んだ結果、さらなる損失を積み重ねる未来が、五条にはぼんやりと見えていた。五条は軽くため息をつき、いつもの飄々とした調子を崩さずに言った。
「優しい人間が冷酷な側面を持つことも、またあり得ると僕は思うよ。逆にリカちゃんみたいな『愛する人ファースト』が、実は己の欲だって当然あるよね」
乙骨はわずかに目を細め、相手の言葉を慎重に吟味するように返した。
「人間は多面的で、使い分けるという話ですか?」
「そうだよ。君の愛だって、恋愛的な意味の他に、友愛とかもっと広げる余地はある。全てをリカちゃんのために使うのもありだし、別の愛を見つけるのも、アリ、だ。解釈と可能性は無限にある。誰かを選ぶかは自分で決めることになるけどね」
乙骨は小さく息を吐き、どこか苦しげに笑った。
「なんていうか……先生みたいですね」
「ははっ、僕はグレートティーチャーだよ?」
五条は胸を張り、明るく笑い飛ばした。
「それだけ失敗や成功も積み重ねてきた、ということさ」
乙骨が静かに、しかし真剣な目で尋ねた。
「最強も失敗してきたんですか?」
「いや、別に?」
五条は肩をすくめ、軽やかに首を振った。
「失敗っていうのは、その経験を成功にできないヤツが使う言葉だからね。僕は違う。ただ……最強と完璧はノットイコールだけさ」
二人の声が、病院の静かな廊下にゆっくりと響いていく。
(最強と完璧は同じじゃない。大きな失敗から学んだことが先生にもあるのかな)
五条の軽やかな言葉と、乙骨の深い静けさが、奇妙に絡み合う。
時間が来て、立ち上がる。廊下の先では、かすかな足音が遠ざかっていく。
二人の会話は終わった。