翌日の昼休み。
一歩一歩を踏みしめながら階段を登る。手すりを握る手に体を預けて、ギプスで固めた右足になるべく負担をかけないように。
普段なら運動とも呼べない簡単な動作。それでも息は上がるし、体中の傷も痛む。
たった十数段の階段を登るだけで、いつもの数倍の時間がかかった。それでも誰かに手伝ってもらうという選択肢はなかった。
この先には一人で行かなければならない。私が、一人で。
やっとのことで登りきり、軽く息を整えてから扉を開くと、清涼な風がさっと吹き込む。
扉の向こうで、春風が踊っていた。
開けた屋上に置かれた小さな花壇。ベンチに腰掛け、空になったランチボックスを脇において談笑する生徒たち。ぽつぽつと人気がある中を、張られたフェンスを支えに歩いていく。
屋上の片隅で、校庭を睨みながら、彼が佇んでいた。
「鮫田先生」
「あ?」
呼びかけると、先生はじろりと私を睨む。
あるいは、ただ見ただけなのかもしれない。それでも睨まれたと感じてしまうのは、その人相の悪さゆえか。
「どうした。なんか用か」
「先生が呼び出したんじゃないですか」
「……ああ、お前か」
「夜空です。夜空ほろび」
「知ってるよ」
昨日この人に呼び出されたので、わざわざここまで来たのだ。
最初は高等部の職員室に(勇気を出して!)行ったのだけれど、あいにく鮫田先生は不在だった。近くの先生にたずねて探した末にたどりついたのが、よりにもよって学校の屋上。
ただでさえ足に怪我しているのに。文句の一つは言ったっていいだろう。
「足痛いんですから、こんなとこまで来させないでくださいよ」
「悪かったな。他は平気か?」
鮫田先生は私の足をちらりと見る。ついで、腕とか頭とか、包帯が巻かれている部分を順番に。
質問には答えなかった。それよりも確認しなければならないことがある。
「先生に聞きたいことがあって」
「……ち?」
かたわらに飛ぶれくたを、むんずと掴んで。
「失礼します」
思い切り、ぶん投げた。
「ちー!」
間の抜けた悲鳴を上げながら、れくたは鮫田先生の顔面向かってまっすぐに飛んでいく。
しかし、直撃はしない。顔に当たる前に、鮫田先生は正確にれくたを捕球した。
「ち、ちぃ……」
私は鮫田先生を見る。
鮫田先生も私を見る。
「やっぱり。見えていたんですね」
この人にはれくたが見えている。
普通の人間であれば、見えないはずのれくたの姿が。
「どこで気づいた」
握りしめたれくたを、鮫田先生は無造作に放り捨てる。
怒りはない。かと言って、関心もなさそうだ。いかなる感情も宿さないまま、彼は聞く。
「先生だけだったんです。昨日、私の怪我を気にしてくれた人は」
一昨日、私は体中に怪我をした。灰の獣との戦いの中で作った怪我だ。
認識調整がかけられたその怪我には、昨日一日誰一人として気づかなかった。家族も、クラスメイトも、友人も。天海先輩でさえ、気にする素振り一つなく自由奔放に私を振り回した。
ただ一人、鮫田先生を除いては。
「その怪我。俺はてっきり、天海のやつらにつけられたもんだと思ったんだがな」
「いじめられてませんよ。本当に」
「ならいい。……とは、言えねえか」
この人はただ、本当に心配してくれていたのだろう。怪我だらけの私を見て、高校生の先輩たちによからぬことをされたんじゃないかと。
この呼び出しだって、きっとそれが本来の用だったはずだ。天海先輩がいない場所で、いじめの事実を確認するために私を呼び出した。あくまでも一人の教育者として。
しかし、彼はただの教育者ではない。この人にはもう一つの顔がある。
「先生がヒーローだったんですね」
鮫田先生には怪我に関する認識調整がかかっていない。
それはつまり、彼があの夜の関係者であることを意味していた。
「ああ、そうだ。お前は?」
「魔法少女です」
「そうか」
端的に呟く。驚く素振りもなければ、特別興味を持つ様子もない。
彼がヒーローであることは大方察しがついていた。しかし、わからないこともある。
「昨日の怪人騒ぎの時は何してたんですか。あんなに大変だったのに」
「ガキどもが頑張ってんだ。見守りたくなるのが大人だろ」
「死にそうでした」
「死にやしねえよ。バーン・デザイアは加減を知ってる。女子供に本気出すようなやつじゃねえ」
近くで見ていた、ってことらしいけれど。
色々とムカついた。手のひらの上で泳がされていたことも。あの戦いが子どもの頑張り扱いされたことも。バーン・デザイアとかいう怪人に、手加減されていたことも。
抗議の意志を籠めて先生を見上げる。鮫田先生も私を見た。頭から爪先まで、一通り観察してから、最後に私の目を見た。
「お前はまだ、はじまったばかりか」
「はい。昨日のあれが二話目だそうです」
「二話目?」
「間違えました。二回目です」
この人はおそらく歴戦だ。私とは違う。長くやってきたのであろう風格がある。それでも、撮影のことは知らないのかもしれない。
そのほうがいいと思った。裏側なんか知ったところで、ただ気分が悪くなるだけだから。
「俺たちのようなやつは稀にいる。超常的な力と、何かを果たす使命を託されて、日々が運命にまみれちまうようなやつ。大体は敵だ。だけど味方も、たまにいる」
「先生には味方がいるんですか?」
「いや、昔の話だ。今はいない」
不思議な響きをする言葉だった。
辛さや寂しさを小さく丸めて、強がりでコーティングしたような。だけど、そんな痛みにも慣れきってしまったような。長い時を経てきたのであろう感情に含まれた複雑な色彩に、ただ戸惑ってしまう。
「天海先輩は違うんですか?」
「違う。あいつは」
先生はそこで一度言葉を切る。
「夜空、察しはついてんだろ。答えてみろ」
「なんですかそれ」
「教員の特権だ」
別に私は、自分の推理を聞いてほしいわけではないのだけれど。
まあでも、先生のご指名だ。答えるのは生徒としての責務である。
「天海先輩は役者です。あの人はあくまで、ブラスター・スパークというヒーローを演じていたに過ぎません。人間離れした動きもちょこちょこしていましたけれど、超常的な力というほどのものは最後まで見せませんでした」
一昨日の夜にあらわれたヒーローと、昨夜怪人と戦っていたヒーローは、姿形は似ていても明確な違いがある。
戦闘力――というよりも、超常的な力の有無だ。
灰の獣を一撃で倒したあのヒーローは、全身の装備を駆動させ、激しい雷光を纏っていた。しかし昨日のヒーローは、そんな不思議な力は一切使うことなく、ただただ徒手空拳だけで勝負していた。
それでも音速を振り切る身体能力には舌を巻くが、超常現象こそが“こちら側”の証明であるのならば、あの人はやはり私たちとは違う。
「先輩は、概ねただのゴリラです」
「赤点だ」
「間違えました。一般人です」
「……まあ、おまけしてやる」
鮫田先生はガリガリと頭をかく。短く嘆息し、言いづらそうに切り出した。
「天海のことは、随分昔に助けたんだ。まだまだ俺が未熟だった頃だ。思い出したくもねえくらいに無様なヒーローだったさ。傷だらけで、泥まみれで、ズタボロになりながらやっとの思いで敵を倒して、本当に間一髪ってところで助けられた」
先生はフェンスの向こうに目を向ける。
「あいつ、あの時泣いてたよ。泣きながら、ありがとうって言ってた。泣かせちまったのは俺なのにな」
晴れた空に春風が舞っている。
「それからしばらくして、いつの間にかヒーローの真似事なんかしはじめた。わざわざ俺に似せた装備まで作りやがって。危ねえからやめろって言ったんだが、まったく聞きやしねえ」
きっと、憧れてしまったのだろう。
私が天海先輩に見たのと同じものを、彼女はこの人に見せられたのかもしれない。どんなに泥臭くたって、強く立ち上がるヒーローの背中を。
その気持ちはよくわかる。私だってそうだった。
あんなものを見せつけられて、何もせずにいられるほど、若さってやつは大人しくしていられない。
「とにかく、あいつはこっち側じゃない。一応、ただの一般人ってことになっている」
「それじゃあ、音速超えていたのは?」
「知らん。なんか、超えた」
なるほどな……。
あまりにも豪快な説明に思わず頷きたくなる。しかしながら、意志の力で誘惑を断ち切り、説明を求めてれくたを見た。
「
静かにしていたれくたが突然に喋りだす。それを聞いて、鮫田先生は眉をひそめた。
「夜空。こいつは?」
「害獣です。戯言を放ちます」
「そうか」
「ひどくないっち……?」と言って、れくたはふよふよと飛ぶだけのぬいぐるみに戻る。鮫田先生もさもありなんと頷いた。こういう不思議なものも、この人は見慣れているのかもしれない。
「先生がヒーローだってこと、天海先輩は知ってるんですか?」
質問の答えはすぐにはなかった。言葉を整理する少しの時間。
「ヒーローっつうのは、つまるところ理想だ。誰かにとっての遠い憧れ。こうなりたいという理想像。曲がりなりにもそういうもんになっちまったからには、俺はそう演じることにしている。着ぐるみの中身なんか、わざわざ教えるもんじゃねえ」
「私はヒーローの中身があなただと知っても、幻滅しませんでした」
「そりゃお前が俺の中身を知らないからだよ、中学生」
鮫田先生は、そこではじめて表情を見せる。
意地悪な、からかうような、見透かすような、そんな笑み。
「よう、どうだ魔法少女。お前はお前を演じられそうか?」
「……私、は」
ずっと、疑問に思っていたことがある。
私が魔法少女になった理由。あの日必死になって夜道を走った理由。魔法少女になる以前から漠然と抱いていた問いかけ。
私は中学生だ。
私は魔法少女だ。
私は夜空ほろびだ。
私は。
私は、何者なんだろう。
「すぐに答えを出す必要はない。学校ってのはそういうことを考えるための場所だ。焦んじゃねえぞ、気長にやれ」
「……とんでもない、宿題、出しますね」
「それが教師だ」
数学だったら解けばいい。英語だったら覚えればいい。学校で渡される宿題なんて、どれも手順と答えが決まっていて、その通りにやるだけで花丸が貰える簡単なものだ。
だけど、この宿題には、手がかりなんて一つもなくて。
「先生は、いつからヒーローを演じてるんですか?」
自分で言葉にしてから、妙にしっくりと来た。
私は道化を、先生は役割を、そして天海先輩は理想の姿を演じている。きっと私たちは、そういうものなのだろう。
あるいは、私たちだけではなく、誰だって。
「十五年だ」
「……っ」
何も言えなかった。
何も言えなくなってしまった。
私の半生よりも長い時間を、一つのことに費やすことの意味なんて、想像すらもつかなかった。
私にとって、これはただの撮影で。ほんの一時巻き込まれた面倒事で。いつかは片付く日常の変調にすぎなくて。
そういうものだと、思っていたけれど。
「長くない、ですか?」
「お前からしたらそうだろうな」
「いつ終わるんですか?」
「終わるといいな。ヒーローが戦わなくていい世の中なんて、そんな日がくりゃ最高だ」
痛みはない。悲しみもない。軽く笑ってすらもいる。とっくに飲み込んでしまった事実のように、さっぱりとした言葉。
だけど、本当にそれでいいのだろうか。
想像力が膨らむ。嫌な方向に結びつく。自分だったらなんていう仮定が、境遇の親近感を材料に、急速に予感を結実させる。
「先生は」
聞くべきではないとは、なんとなくわかっていた。
ヒーローというのが理想像であるのなら、これはその理想を剥がす質問だ。きぐるみのチャックを開いてはいけないことなんて、子どもだって知っているのに。
それでも私は知りたかった。知らなければならなかった。
「ヒーローが、好きですか?」
その質問にも、彼はさっぱりと答えてしまう。
「好きとか嫌いとか、そんなんじゃねえ。呪いみてえなもんだよ」
先生は、かすかに笑って。
「だって、世界は救わなきゃいけねえだろ」
私にはわかった。わかってしまった。
この人の気持ちが。彼がどんな思いでヒーローをしているのか。
だってそれは、私と同じ答えだったから。
しかし、同じようでも言葉の重みがまるで違う。十五年の月日が伴った言葉は、あまりにも遠い覚悟を帯びていた。なまじ理解が及ぶばかりに、その重さと遠さに足がすくむ。
そんな覚悟を、この人は、一人で。
「……それなら」
私はもともと、この人に助力を求めに来たはずだ。変身ができないから助けてほしいって。それが本来の用だった。
そんな打算なんて、今はどこかに行ってしまった。
胸の中から込み上げてくる感情を説明することはできない。どうしてこんな気持ちになっているのか。どうしてこんなにも胸が熱いのか。とめどなく湧き出すものに、頭の中がただただ必死になっていく。
「私も、いっしょに、戦いますから……!」
声が震えていたことには遅れて気がついた。
込み上げるものが瞳から勝手に流れ落ちていく。どうしてだろう。これはなんなのだろう。わからない。手の甲でこすっても止まらない。
それでも私は、きっと、なにかをしたくて。
「泣いちまうようじゃ、まだダメだな」
鮫田先生は、私に歩み寄って。
頭を、くしゃりと撫でた。
「夜空、背負うなよ。逃げていい。投げ出していい。魔法少女だかなんだか知らねえが、そんなことは忘れていい。世界だったら俺が救う。だからお前は無理すんな」
私たちの間には線がある。
ヒーローとか魔法少女とか、そんなものではない。もっと当たり前で、見落としてしまうほどに些細な、大前提。
「お前はまだ、ガキだろうが」
そのまま彼は、屋上の出口に向かっていく。その背中にかけようとした言葉は、鳴り響く予鈴に阻まれて消えていった。
目元についたものを拭く。
私はどうすればいいのだろう。
中学生として。魔法少女として。夜空ほろびとして。何者でもない私として。私はどうすればいいのだろう。
私は、どういう私になりたいんだろう。
「れくた」
「ち」
答えは出ない。すぐには無理だ。これからいっぱい考えなければならない。
今はただ、おぼろげながら抱きはじめた疑問を、そのまま読み上げた。
「大人って、どうやったらなれるのかな」
「さあ、どうっちかね」
屋上からぞろぞろと出ていく生徒たちの波を追う。
もうすぐ授業がはじまる。次は社会だ。いつもだったら退屈な時間だけど、今日は少しだけ身が入るような気がした。
私も、はやく、大人になりたいから。