七村菜乃花という生き物は、幼少のみぎりより特別の塊であった。
簡単に道に迷うし、頼まれたことをすぐに忘れるし、すぐに意識がお花畑に飛んでいくし。誰にでもできることがまったくできない一方で、彼女には誰にもできないことができた。
天才、あるいはギフテッド。菜乃花の側にいると、そんな言葉を何度も聞いた。しかし欠落の多い彼女には周囲の助けが必要なのも事実であり、それはもっぱら私の担当だ。
その役回りを損に思ったことはない。私たちは友だちだから。私は菜乃花が好きだし、あの子の側にいると楽しいから。
だけど、彼女を見ていると、時々不安になる。
私には何もない。人より秀でた才能なんて何一つとして持っていない。
私は特別じゃない。誰でもできることは私もできるけれど、誰にもできないことは私にもできない。
平凡で、普通で、当たり前で。要領はいい方だけど、それだけで。
そんな自分を受け入れつつも、特別に憧れなかったわけでは決してなくて。
だから簡単に騙されたのだろう。
魔法少女なんていう、わかりやすい特別に。
とまあ、あの子を見ていると色々と考えることもあるけれど。当の菜乃花さんはと言うと、目をきらきら輝かせながら、私のスカートをめくっていた。
「おおー……」
一限が終わった後の放課時間だった。数学の時間を豪快に寝過ごした彼女は、終鈴が鳴ってからようやく起き上がり、ぽやぽやと周りを見渡してから、隣りに座る私を見つけてしゃがみこみ、唐突にスカートをめくって中を覗き込んだ。
なにが起きているかわからないが、実際にその通りのことが起きていた。理の外側を歩く七村菜乃花に世間の常識は通じない。
「ほろびさんがスパッツ履いてる……」
気になったのはそれらしい。
ちらりと周りを見渡すと、同級生の何人かがこっちを見ていた。視線を送ると気まずそうに目を逸らしていく。足を少し動かして、“不都合”が見えないようにする。
「あ、あの、菜乃花さん?」
「なにー?」
「めくらないでもらえる?」
「もうちょっとー」
どうしたものかと困っていると、側で飛ぶれくたと目が合う。彼は妙に神妙な顔をしていた。
「悪くないっちけど、映像的にはちょーっと使いづらいっちねー。できればセンシティヴじゃない絡み方で頼めるっち?」
本当に何言ってんだこいつは。傍観者ぶってないで私を助けろ。
とにかく、自分でなんとかしないといけないらしいので。
「菜乃花、そろそろ怒るよ」
「えー……?」
頭を軽くはたく。外的刺激を入力すると、菜乃花は名残惜しそうに私のスカートから手を離した。
しかし、それで菜乃花の奇行は止まらない。今度の彼女は、私に顔を近づけて鼻をすんすん鳴らしはじめた。
「あ、あ、あの?」
「んー?」
「な、なにしてるの?」
「ほろびさんの、匂いを嗅いでいます」
もう一発はたいてやろうと思ったら、手首を掴まれた。
そのまま、ぐっと押さえつけられる。力を籠めてもびくともしなくなる。
「わ、ちょっと、やめ……!」
「ごめんねー、ほろびさん。ちょっとだけねー?」
「は、恥ずかしいってば……!」
「すぐ終わるからねー」
菜乃花はこれで私よりも体が大きい。というよりも、標準的な体格の菜乃花に比べて私の体は一回り小さい。純粋な力比べになった時、この子に勝つのはこれで結構難しい。
本気を出せばなんとかならなくもないけれど、無理をすれば筋を痛めそうだ。結局は抵抗を諦めて、おとなしく首筋のあたりをすんすんとやられることにした。
……まあ、いいか。実害ないし、菜乃花だし。
「あー! あー! いい感じっち! 今すごくいい感じっちよ! そういうの! そういうの求めてたっち! 使えるっち! これは使えるっちー!」
隣のうるせえのが騒いでいた。こいつは後で殺そうと思う。
れくたに注意を向けたのは少しだけ。顔を向けるというほどのことでもない。ほんの一瞬、視線をちらりと横にやっただけだ。
その一瞬が過ぎて、目線を戻した時。
鼻と鼻がくっつきそうな距離で、菜乃花が私の目を覗き込んでいた。
「ほろびさん」
「な、なのか……?」
「今、何見てたの?」
ぞくりとした怯えは、きっと彼女に悟られた。
菜乃花の赤い瞳はどこまでも澄んでいる。鏡のように曇り一つないそれには、ほのかな怯えをはらんだ私が映し出されていた。
その時、放課の終わりを知らせる鈴が鳴る。音による外的刺激を受けた菜乃花は、ぱっと私の手を離して、自分の席へと戻っていく。
この子は今、何を考えていたのだろう。
菜乃花との付き合いはそこそこ長いけれど、彼女のことをすべて知っているわけではない。むしろわからないことの方が多い。頭の中なんて特にそうだ。七村菜乃花の思考を完璧に理解できる人間は、きっと七村菜乃花の他には存在しない。
それでも、少しでも、菜乃花を理解したくて。
「……私。なんか、変な匂いした?」
「ううん、逆」
ふんわりとした笑みを浮かべる彼女からは。
ぞっとするような、風格が漂っていた。
「消毒液の匂い、しなくなったなって思ったの」