すぐにでも駆け寄りたくなる衝動を理性で抑える。
黒猫に入りこまれた菜乃花はうずくまったままじっとしている。顔色は伺えない。様子はおかしいが、体調がおかしいというのはまた少し違う。
まるでそれは、羽化する寸前の蛹のような。
「れくた」
なにが起こるかわからない。あの子がどうなってしまったのかもわからない。
今は何よりも情報が必要だ。
「あの黒猫に入られたらどうなるんだっけ」
「さっき言った通りっちよ」
菜乃花が動く。胸を抑えたままふらりと立ち上がる。
「あの猫には、心の闇を引き出す能力があるっち」
彼女が顔を上げる。赤い瞳はギラギラとした強い輝きを秘めていた。
私が知る菜乃花はこんなに強い目をする子だったか。こんなに飢えた瞳をするような子だったか。
剥き出しの欲求と突き刺すような渇望。見たことのないそれに少し怯む。
「菜乃花……?」
「ほろび、さん」
吐息のように漏らされた声は、聞き覚えのない響きを宿していた。
熱に浮かされたように火照る顔。獣のように荒い息。向けられる視線が火傷しそうなくらいに熱い。
しかしなぜ。
どうしてあの子は、私に、あんな目を。
「ずっと、不思議に思ってた」
独り言のように菜乃花は呟く。
「森羅を紐解くのは簡単だった。万象を読み解くのは簡単だった。自然の法則は方程式の集合で、社会のルールは文化の積層で、そこに生きる人々は斥力を伴った情報の総和で、特別も普通も有意も無為も情熱も喪失もエントロピーの濃淡に過ぎなくて。だけど一つだけ、どうしてもわからないことがある」
ふらふらと重心を左右に揺らしながら、菜乃花は自分の胸をぐっと抑える。
「ほろびさんは、どうしていつも、菜乃花の側にいてくれるの?」
疑問を正しく理解できている自信はなかった。
あの子の思考は時々理解の外側を抜けていく。スイッチが入った時の菜乃花の相手は私でも荷が重い。
「あれが、菜乃花の闇……?」
「みたいっちね。気をつけるっちよ、ほろびちゃん」
「どうすればいい?」
「もちろんこういう時は愛だっち。愛の力で心の闇を浄化するっち!」
「それ以外で」
「それ以外!?」
そっちもそっちで荷が重い。何を期待しているんだ私に。
れくたと小声で相談していると、菜乃花は不満そうに私を見ていた。
この子の前で内緒話は悪手だったか。まあ、どのみちれくたのアドバイスは当てにならない。自分の言葉で答えるしかない。
ただ、考えてもよくわからなかったから。結局、思ったことをそのまま答えた。
「菜乃花のことが好きだからだよ」
沈黙が夕焼けの河川敷を包む。
ややあって、菜乃花はふんわりと微笑んだ。
「そっか」
菜乃花は、心の闇なんて微塵も感じさせない柔らかな笑みを浮かべて。
「じゃ、殺すね」
その笑みのまま殺意を向けた。
「な、菜乃花……?」
「そんなこと言われたら、もう殺すしかないじゃん」
「なんで!? どういうこと!?」
「あのね、ほろびさん。命には終わりがあるの。国家も文明も永遠じゃないの。人類種もいつかは滅ぶの。宇宙だってやがては熱を失って、果てしなく広がる冷たい闇に行き着くの。菜乃花もそう。ほろびさんだってそう」
「う、うん……?」
「それならせめて、ほろびさんは、菜乃花がね?」
「理由になってないよ!?」
菜乃花は恍惚の笑みを浮かべた。
「だってね。死だけは、永遠なんだよ?」
うっわぁ……。
今日の菜乃花さんパねえな……。
「知ってるんだ。ほろびさんが変な事件に巻き込まれてることも。そのせいで危ない目に遭ってることも」
「う、うん。まあ、そうだね」
たしかに危ない目には遭っている。今とか特に。
「でも、ほろびさんには死んでほしくない。そんなことは許せない。ほろびさんの永遠が、菜乃花以外に奪われるなんて絶対だめ」
「うん……?」
「だからほろびさんは、菜乃花がこの手で永遠にしてあげる」
「お前は何を言っている?」
「ほろびさんだって、そっちのほうがいいよね?」
「よくないよ!? 全然よくないよ!?」
私の言葉を聞いているのかいないのか。熱っぽい目をした菜乃花は、ゆらゆらとした足取りで近づいてくる。
その姿はなんだか這い寄る蛇のようで。
「全部ほしいの。全部全部菜乃花のものにしたいの。ほろびさんの特別も、ほろびさんの永遠も。愛も、言葉も、血も肉も」
いつになく機敏に踏み込んだ菜乃花は、絡みつくように私の脚を払って草地に押し倒す。
そのまま勢い良く私の手首を押さえつけて。
「菜乃花……?」
熱を帯びた飢えた瞳が。恍惚に歪む頬が。
開かれた口の奥にちろりとうねる赤々とした舌が。
ひたすらに強烈な意志を、私に向けて照射した。
「おいしそう……」
「ひっ……!」
「味見くらいなら、いいよね……?」
「待って! 待って! 私何されるの!?」
身震いするほどの身の危険。手足に力を籠めて暴れてみるが、ぐっと押さえつけられていてびくともしない。
私だってそれなりに本気を出しているはずなのに、今の菜乃花はそれ以上に本気だ。理性のブレーキがどうにかなってしまったのか、とんでもない力で私の手足を地面に縫いつける。
「だ、誰か……!」
助けを求めて周りを見る。
果たして希望はそこにいた。れくたではない。あいつはハナから当てにしていない。
希望とは天海先輩のことである。
「いやぁ」
私と菜乃花の後を追ってきたのだろう。いつの間にか土手に腰掛けていた先輩は、私と目が合うと、にやにや笑って手を振った。
「ほら、ヒーローって民事不介入だからさ」
「先輩……?」
「まあまあ、私のことは気にしないでもらって。こういうことは当人同士でよく話し合ってだね」
「先輩! 見捨てるんですか! 先輩!」
「正直に言おう。後輩たちの痴態はいい肴になる」
「正直すぎる!」
ダメだあの人、完全に観戦ムードだ。その手に缶ビールが握られていないのが不思議なくらいにどっしりと構えていらっしゃる。おまけにいつの間にか天海先輩の隣に居座ったれくたも、どこからか取り出したポップコーンをぱりぱりやり始めていた。
ちょっと前は私が観戦する側だったのに、今ではすっかり立場が逆転してしまっていて。
「ほろびさん!」
先輩に向けていた意識が、菜乃花の声に無理やり引き戻される。
「菜乃花を見て。他の女なんか見ないで。菜乃花だけを見てよ」
「見てる見てる、すごく見てる」
「菜乃花とは遊びだったの? 飽きたら捨てて、すぐ次の女に乗り換えるの?」
「こ、殺される……!」
何を怒られているのかまったくわからないが、とにかく菜乃花は昂ぶっていた。遊びとは。女とは。彼女の論理はまったく理解できなかったが、下手に刺激すれば永遠にされてしまうことだけは理解した。
「菜乃花には、ほろびさんしかいないんだからぁ……」
ぽたりと、頰に雫が落ちる。
菜乃花が泣いていた。大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、綺麗な顔で泣いていた。
涙で濡れた瞳の中に、黒く渦巻く闇が見えた。
七村菜乃花の闇が見えた。