おぎゃあと生まれたその時から、七村菜乃花は怯えていた。
原初の恐怖とは多くの場合闇を指すが、菜乃花の場合は光だった。暖かく穏やかな胎内から追い出され、しわしわのまぶたをやっとの思いで開いた時に、瞳に突き刺さったけたたましい光。大人からすれば柔らかな調光も、新生児の菜乃花にとっては深刻な脅威であった。
七村菜乃花は光を怖がったが、闇は闇で怖かった。その他にも音を怖がり、振動を怖がり、雨も風も雷も怖がった。柳の葉が揺れるのは幽霊みたいで怖かったし、凄まじい速度で走っていく車も電車も怖かった。海の広さも山の大きさも、雄大な空もその果てにある宇宙も怖かった。
怖くないのは、両親と夜空ほろびだけだった。
夜空ほろびとの出会いは極めて一方的にはじまった。母親に半ば強引に連れ出された公園の砂場の端っこで、何一つ視界にいれないようにじっと地面を見つめ、黙々と砂を積み上げていた七村菜乃花のもとに夜空が突っ込んできたのだ。
元気いっぱいに意味もなく、ただ走りたいから走っていた五歳の夜空は、砂場のへりにつんのめって顔面からずざざっと着地した。その際、菜乃花が積み上げていた砂の山は無惨に潰れたが、二人にとっては些事だった。強烈な外的刺激を食らった菜乃花は混乱を抑えるのに必死であったし、砂だらけの夜空は擦りむいた額も気にせずに、そこにいた少女に興味を津々と向けていた。
五歳児の愛嬌を存分に振るい、夜空ほろびは七村菜乃花に屈託のない笑みを向ける。
なにしてるの、いっしょにあそぼう。
二人の交流はそんな言葉からはじまるかと言えば、そんなことはなかった。限界を超えた菜乃花が、母のもとに泣きながら逃げ出したからだ。同年代の子どもという外的要素は、当時の菜乃花にはあまりにも刺激が強かった。
ファースト・コンタクトこそ散々であったが、それで諦めなかったのが夜空である。当時の夜空は無敵であった。七村菜乃花とは対照的に快活で、好奇心旺盛で、愛嬌に満ち溢れ、世界のすべてに愛されるような少女だった。実際、夜空ほろびは世界の大体すべてに愛されていた。両親から受け取った愛を最愛の弟に惜しみなく還元し、それでも有り余す笑顔と愛嬌を周りに好き放題に振りまいては、周囲の人々からも愛される。その頃の夜空にとって、世界はどこまでも輝いていた。
だからこそ、菜乃花が取った拒絶反応とでも呼ぶべき行動は夜空にとっては未知のことで、それゆえに強く興味を抱いた。
つまりはこう思ったのだ。おもしれー女、と。
確かに菜乃花はおもしれー女ではあったが、夜空は夜空でおもしれー女だった。菜乃花を見かけるたびに容赦なく突撃し、遊びに誘ったり、歌を歌ったり、踊ったり飛んだり跳ねたり。好き放題に暴れる夜空ほろびは、菜乃花にとってはもちろん恐怖の対象となった。世界にはこんなに怖い生き物がいるのかと、震えて眠った夜もある。あんな子とは絶対に仲良くなるもんかと、菜乃花は幼いながらに固く心に誓った。
その誓いは三日で破られた。恐るべきは夜空ほろびの手腕である。当時の夜空にとって誰かをの心を解きほぐすことなど造作もなく、無類の愛嬌と奔放な純心に根負けした菜乃花は、たった三日で自身のスコップを夜空に差し出した。それは菜乃花にとって自分の世界に誰かを受け入れるという決心を意味していたが、その時の夜空は手で豪快に砂を掘り起こす遊びに熱中していたので、差し出されたスコップには気づかなかった。
二人の交友は小学生になってからも続いていく。
幼稚園ですら馴染めなかった菜乃花にとって、小学校という高度な社会を生き伸びる頼みの綱は夜空ほろびにほかならず、夜空もまたそれを受け入れた。元気で明るい夜空ほろびと、その後ろをついて歩く七村菜乃花。二人のあり方は、この頃には概ね完成されていたと言ってもいい。
五歳の頃から無敵であった夜空ほろびは、小学校に入ってからも無敵であった。明るく優しく元気が良く、要領は良く運動神経も良く真面目で勤勉で優秀で、友だちは多く誰とでも分け隔てなく接し先生からの信頼も篤くグループを組む時はいつだってリーダーで、高学年になってからは児童会長を務めるような子どもであった。
天下無敵の夜空ほろびに、七村菜乃花が引け目を感じなかったかと言えば嘘になる。彼女の特別であることに不安を抱いた菜乃花は、そんな弱音を口にしたこともある。すると夜空は慈愛の笑みを浮かべ、何一つ心配ないと菜乃花をぎゅっと抱きしめた。
高学年に上がる頃には菜乃花は完全に籠絡されており、夜空なしでは生きていけないと半ば本気で信じていた。大きくなったら結婚するのだとも信じていた。一方夜空はそこまで深く考えていなかった。無敵であるがゆえの楽観。世界はきっと何もかも良くなるという慢心。それがこの魔性の女を作り上げていた。
*****
「ちょっと待った」
菜乃花の口からぽつぽつと語られる回想を、天海先輩が挙手で止めた。
「無敵の愛嬌? 元気で明るい? みんなのアイドルほろびちゃん?」
「アイドルとまでは言われてませんけど」
「なんでそれが、こうなるの?」
いつの間にか私たちの間近に座り、ふんふんと興味深そうに話を聞いていた天海先輩は、そう言って私を指さした。
「いや、まあ、その……。色々あって」
「色々って?」
「あんまり突っ込まれると困るんですけど……」
理由なら、ある。きっかけもある。
しかしそれを話すのは、少々どころではなく気が引けた。
「……嫌になっちゃって」
「なんかあったの?」
「えっと、その。あんまりいい顔ばっかりしてると、揉めるんです。私の周りで。だから……」
慎重に言葉を選んでいると、菜乃花が代わりに話しはじめた。
「小学生の頃のほろびさんは、もってもてだったの」
「ほほう。もってもて」
「やばかったの。とんでもなかったの。下級生には懐かれて、上級生には可愛がられて、男女問わず週イチペースで告白されて。野球部の大野くんもサッカー部の宮坂くんもみんなほろびさんが好きだった。あとたぶん、音楽の小野田先生も」
「ちょっと、菜乃花!」
私は菜乃花を止めようとしたが、その力は私にはなかった。私は今も草地に押し倒されていて、菜乃花は私の手首を押さえつけている。
「ほろびさんがその気になれば、女も男も片っ端からオチちゃうから。誰とでもすぐに仲良くなって、軽率に愛嬌を振りまいて、相手だけその気にさせて。全盛期の夜空ほろびと言えば、泣く子も惚れる魔性の女で有名だった」
「ち、違う……! あの時はただ、みんなと仲良くなりたくて……!」
「みんなと仲良くなるなんて、普通はできないんだよ。だけどあの頃のほろびさんにはそれができた。みんながほろびさんのことを好きだった。バレンタインの時なんか、毎年大戦争だったんだからね」
「だから、六年の時はその日学校休んだじゃん!」
「それが火に油を注いだんだよ。私たちの学級の絆って、ほろびさんあって成り立っていたようなものだったから。留め金が不在になったあの日は、無差別ファイトレディーゴー、みたいな?」
菜乃花の口から語られるのは、まごうことなき我が黒歴史である。
私はただみんなと仲良くなりたかっただけなのに、周囲の人間関係が果てしなく破綻していって。それが私のせいであることに気がついたのは、小学校を卒業する間際になってのことだった。
さすがに反省したので、中学進学を期に無愛想であることを心がけるようになった。おかげで今のところは平穏な日々を過ごせているのだけれど。
「まったく困ったものですよ。みんなして勘違いしちゃってさ」
菜乃花は妖しく笑って顔を寄せる。
「ほろびさんは、菜乃花のものなのにね」
一番勘違いしているのは間違いなくこいつである。
「ちょっと、あの、菜乃花さん?」
「今日はやってくれましたね、ほろびさん。私の誘いを蹴って、先輩と二人で遊ぶなんて。菜乃花の気持ちを知っておきながら」
「知らない知らないほんとに知らない……!」
「でも、私のこと好きって言ったよね? それってつまり、そういうことでしょ?」
「とーもーだーちー! とーもーだーちーとーしーてー!」
「だったらもう、何されたってしょうがないよね……?」
「よくない! なんにもよくない!」
心の闇をさらけ出した菜乃花さんには容赦がなかった。結論はすでに決まっていて、後はどう理由をこじつけるか、みたいな。気分的には魔女裁判にかけられているのに近く。
「先輩、助けてください、先輩……!」
一縷の望みをかけて天海先輩に助けを求める。しかし先輩はゆるりと首を振った。
「夜空くん。無罪は諦めたほうがいいんじゃないかなぁ」
「先輩!?」
「いいとこ懲役刑ってとこだね。死刑は免れるようがんばってみるけど、終身刑は覚悟しておいてほしいかも」
「ほんとに私そこまで悪いことしました!?」
先輩はにやにや笑うばかりで、助けてくれそうな気配はない。
この人のことが少しだけわかってきたような気がする。物事には積極的に波風を立てに行くタイプ。ヒーローやめたほうがええんちゃうか。
「ほろびさん、また別の女のこと見てる」
「先輩のこと女って言うのやめない?」
「そうやって誰にでも擦り寄って、色目使って。ほろびさんには菜乃花がいるのに」
「だからそんなんじゃないってば!」
「菜乃花にはほろびさんしかいないのにぃ……!」
菜乃花のふくれっ面が近づいてくる。いっぱいの感情をなみなみと満たした瞳が大きくなる。
「ほろびさん、ほろびさん、ほろびさん……」
後少しで、唇と唇が触れてしまいそうな距離になって。
「ごめん菜乃花……!」
押し倒された姿勢のまま、できる範囲で首をそらして。
「正気に、戻れっ!」
頭突きを一発叩き込んだ。
菜乃花に手を上げるような真似はしたくなかったけれど、こうなってしまっては仕方ない。七村菜乃花は外的刺激に弱い。止めるんだったらこれしかないのだ。
果たして試みは上手くいった。反撃を食らった菜乃花は、ごろごろと草地に転がって目を回す。その拍子に、彼女の胸のあたりからねろんと出てくる黒い塊。
瞳のない黒猫だ。
「お、出てきたっちね」
ポップコーンを片手に、れくたが人ごとのように言う。
「おつかれっち、ほろびちゃん。なかなかいい感じだったっちよ。後はあの黒猫をやっつければ終わりっちー」
どこまでも部外者めいた気楽な発言に、ゆるやかな殺意がわいた。あの害獣か、この黒猫か。果たして私はどっちを仕留めるべきなのだろう。
とにかく今はこの寸劇に終止符を打つべく、猫に手を伸ばす。
黒猫は逃げなかった。大人しく座ったまま、近づく私をじっと見上げていた。それどころか自分から私に近づいてくる。その身にふわふわとした闇をまとって、二又の尾をしなやかに揺らしながら。
実在と非実在の隙間をすり抜けるように。
とぷん、と。私の胸に潜り込んだ。
「え」
「ち?」
私とれくたの困惑が重なる。
猫の姿は、ない。どこにもない。それはもう消えてしまった。
どこに?
私の中に。
「え、ちょっと、マジっちか? これは聞いてないっちよ!?」
焦るれくたの言葉は、耳元で弾むばかりでほとんど頭に入ってこなかった。
どくどくと心臓が高鳴って、その場にうずくまる。たちの悪い風邪を引いた時のような強い悪寒。異常を感知した体が急速に発熱し、額から脂汗が流れ出す。
体の様子もおかしいが、それ以上におかしいのは心の方だ。
頭の中に猫の鳴き声が響く。それは脳内でこだまのように反響し、響くごとに徐々に大きくなっていく。
闇、が。
誰にも言うまいと、固く封じていた、心の闇が。
とどまることなく、溢れ出す。