はじまりはたしかピアノだった。
小学校の体育館の片隅に置かれた、古びたグランドピアノから紡がれる旋律に、八歳の私は呆然と立ち尽くしていた。
聞いたことのない曲だった。歌はなく、旋律だけが美しく調和する、耳慣れない大人びた曲。奏でられる音はきらきらと光をまとって舞い上がり、体育館の片隅に踊るように響き渡る。
鍵盤の上に指を滑らせる七村菜乃花は、いつも私の後ろをついてくるだけの少女とは違う顔をしていて。
まるでそれは、天使のようで。
曲が終わってもしばらく私は動けなかった。胸を包む幸福に、体の動かし方を忘れてしまった。
菜乃花の指先が紡ぎ出したものには、それだけの力があった。
「それ、なんのきょく?」
やっとの思いで言葉を絞り出す。喉がからからに乾いていたことを覚えている。
菜乃花はそこではじめて私に気づいたように、表情を二三変えて、恥ずかしそうに答える。
「しらない。なんとなく、ひいてみただけ」
それが恥ずかしさからくる嘘か、それとも本当のことだったのかは知らない。
どちらでも同じだと思った。その程度で、私が感じたものは薄れたりしないから。
「ほろびちゃんもピアノひけるよね? いっしょに、やる?」
いいことを思いついた、と菜乃花は微笑む。
悪くないアイディアだった。私にもピアノは弾けた。お父さんから教わったクラシックだとか、あるいは弟が好きだったアニメの主題歌だとか。そういうものをそこそこに練習して、そこそこに弾くことはできた。
だけど私のピアノなんて、あくまでも八歳のそこそこだ。
それでも、なまじ齧っているだけに、わかってしまった。
菜乃花が特別だってことに。
「ううん。ピアノはもうやめたの」
たぶん、笑って言えたと思う。
嘘ではない。この日以降、私が鍵盤に触れることは二度となかった。
似たようなことは他にもあった。たとえばそれは、国語の授業の時に。私は昔から本が好きで、漢字も自然に覚えていったから、国語の成績はいつだって上位だった。
菜乃花はテストで上位に入るような子ではない。しかしあの子が書いた読書感想文は全国コンクールで賞を取った。作文も苦労しながら書くわりに、あの子が書く文章には人を惹きつける特別なものが宿っていた。
七村菜乃花は特別だ。誰でもできることはできないのに、誰にもできないことをやってのける。その才能には誰もが気づいていたし、天才肌を理由に菜乃花は色々なことを許されていた。
あの子は特別だから。菜乃花といるとそんな言葉を何度も聞いた。私だって何度も言った。時々不安になるあの子を抱きしめて、菜乃花は特別なんだと何度も何度も囁いた。
そんな、あの子の才能に。
憧れる気持ちが、なかったと言えば、嘘になる。
夜空ほろびは特別ではない。誰でもできることは当たり前にできるけれど、誰にもできないことは当たり前にできない。覚えが早くて、要領が良くて、なんだってできたけれど、それだけだ。菜乃花のような特別でもなければ、何かの分野で一番になったこともない。
今ならわかる。普通なんてそんなものだ。特別じゃないならそのくらいで十分だ。ただそれを受け入れれば済むだけの話だった。
だけど八歳の私は、そんな道理を受け入れるにはあまりにも幼くて。
あのピアノの旋律が、どうしても忘れられなかった。
特別な何かになろうとして、できることならなんでもやった。
みんなと仲良くなろうとした。悩んでいる人がいれば寄り添った。求められれば笑顔で応えた。精一杯に愛嬌を振りまいた。できる限り正義の味方であろうとした。
夜空ほろびでいるために、無敵の少女を演じ続けた。
それくらいやらないと、菜乃花の側にはいられないって思ってたから。
自分でも上手くやれていたつもりだった。私が無敵を演じれば何もかもうまくいくって信じていた。しかし私の演技は人間関係の破綻を招いて、それでどうしようもなく知ってしまった。
特別ではない自分の限界を。凡人に過ぎない自分の終点を。
どれだけ特別を演じたって、本物にはなれないことを。
そうして私は私を捨てた。
何者かであることを、自分から捨ててしまった。
*****
胃袋からせり上がってくるものを、すべてその場にぶちまけた。
お腹の中はほとんど空だった。よだれ混じりの胃酸が喉を焼き、酸っぱい不快感だけを吐き出した。それでもまだ吐きたらず、何度も何度も嘔吐する。
喉が裂けて吐瀉物の中に血がまじる。臓腑は自分のものではないようにぶるぶると痙攣し、震える手足でその場に膝をつく。
私の体が、私を拒絶している。
「ほろびさん!? 大丈夫、ほろびさん!?」
菜乃花の様子はいつも通りに戻っていた。私がよく知るあの子は、私がよく知るあの子のように、心配そうに私のもとに駆け寄った。
そんなあの子を。
思い切り、突き飛ばした。
「来ないで」
裂けた喉からは、血に汚れた声が出た。
気分は最悪だった。最低で、劣悪で、醜悪で、それでもやっぱり最悪だった。
胸の中に殺意が渦巻く。
殺したい。なんでもいいから殺したい。殺してしまえば、きっと少しはマシになる。
人殺しは異常だ。殺人鬼は特別だ。そうなってしまえば、私はもう普通じゃない。
あんなに憧れた特別に、すぐにだって手が届く。
なら、誰を殺せばいいのだろう。
れくただろうか。あの害獣を殺せば、いくらか胸がすくだろうか。
私だろうか。命に終止符を打てば、この空虚も少しは埋まるだろうか。
それとも。
菜乃花を。
「いや、だ」
そうだ。そうしよう。
全部、菜乃花が悪いんだ。
「いやだ、いやだ、いやだ」
菜乃花さえいなければ、私はピアノが好きでいられた。
菜乃花さえいなければ、私は特別なんて知らずにいられた。
菜乃花さえいなければ、私は普通を受け入れられた。
菜乃花さえいなければ。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ」
殺せばいい。それで終わる。望んでいたものが手に入る。
菜乃花だって私を殺そうとしたんだ。
私が菜乃花を殺したっていいだろう。
「ああああああああああああああああああああああああああ!」
獣じみた絶叫が河原に響く。不快で、醜い、獣の叫び。
それが自分の喉から出ていることに、少し遅れて気がついた。
「ほろび、さん……」
なんだ。
見るな、私を。
特別な菜乃花が、何者でもない私を。
何者かであることを、自分から捨てた、私を。
私は逃げたんだ。自分から。菜乃花から。
本当は菜乃花の側にいる理由なんて、ない。私を壊した特別に未練がましく執着しているだけだ。特別になれなかった私が、特別なこの子の側にいていいわけがない。
なのに、どうして。
どうしてまだ、そんな目で私を見る。
「ほろびちゃん、落ち着くっち! それは増幅された心の闇だっち! ほろびちゃんの本当の気持ちじゃ――!」
「黙れ」
耳元で騒ぐ害獣を叩き落とす。地に落ちたそれの首筋を思い切り踏み潰す。
意味がなかった。
こんなことをしても意味がない。こんなことをしても特別にはなれない。
特別にはなれない。
私には何もない。
……………………いいや。
あるじゃないか。特別になる方法が。
そのつもりで求めた力だったんだろう。
なら、自分のために使ったっていいはずだ。
「れくた」
無力感を、憎悪で固めた、刃物のように鋭い音。
私の声だ。
「変身しよう」
「だめだっち、その力は、そんな風に使っていいものじゃないっち……!」
「これ以上、私は私でいたくない」
「ほろび、ちゃん……!」
踏み潰されたままれくたは鳴く。意見は聞いていない。こいつの意志なんて関係ない。
スマートフォンを取り出して、黒いリボンのアイコンをタップする。
華々しいエフェクトが散って、変身がはじまる。その資格を問う認証がはじまる。
まずは愛。世界を包む愛はあるか。
「ほしいならいくらでもあげる。どうせ私にはそれしかない」
認証が通る。ハートのエフェクトが散る。
そして正義。悪を滅ぼす正義はあるか。
「役割を果たせばいいんでしょ。どうせ私にはそれしかない」
認証が通る。星のエフェクトが散る。
最後になぞなぞがあらわれる。スマートフォンの画面上に表示されたなぞなぞは、今まで見たものとは少し違った。簡素な白地の背景に問題だけが表示されている。レイアウトは必要最小限で装飾なんて一つもない。
問題文は短かった。
『夜空ほろびを捨てますか?』
私は答えた。
「捨てる」
今までで。
一番簡単な問題だった。
「どうせ私には、何もない」
瞬間、スマートフォンがけたたましい光を放った。
最後の認証が解かれる。抑え込まれていた力が解き放たれる。
足元に広がる魔法陣。舞い散る光。舞い踊る星々。輝く星屑が螺旋を描く。制服のリボンが光にほどけ、粒子となって宙に溶ける。
そして。
私は。