体育座りの形で眠る青年の横で、フローリングの床に直置きされたスマートフォンが小刻みにその体を揺らしている。衝撃を受け止めるものの無いその振動は遠い意識の中にも響き、3度目の繰り返しが始まろうかという瞬間には細身な手がサイドボタンを力強く押し込み、背中や腰からバキバキと音を鳴らしながら青年はゆらりと立ち上がった。
ふらふら、眠気混じりで冷蔵庫を開ければ麦茶パックの入った『いくらなんでも多くない?』と言いたくなる数の500mlペットボトル。その中から少し色の薄い麦茶を選び、出涸らしのパックを引き抜いて冷えた液体を喉奥に流し込む。
初夏の朝、誰しも水分を取らなければ動く事は能わず。軽く空の容器を洗って逆さまに乾燥カゴに置き、もう一度開けた冷蔵庫の中から2つの弁当箱を取り出すと部屋着の上から青年はエプロンを身につけ、手始めに少し可愛さを感じる弁当箱を開ける。
「昨日の残り物しか無い〜...... 冷凍食品じゃ文句言われるかな」
自分の弁当であればそれも良し。しかし人に作るものとなれば話は別。
昨今厳しい野菜の高騰と彩りの狭間で逡巡して、結局電子レンジのフタと冷凍室を開いたのは、2分後のこと。
「お邪魔します」
形式的なノックの音。鍵を開ける音はしないものの手をかけたドアノブの感触は軽く、どうやら開けておいてくれた様子。とはいえ勢いよく開くことはせず、むしろ、青年は慎重すぎるほどにゆっくりと扉を開き、音を出さないようにしつつ脱いだ靴を揃える。そうして振り返ってみれば、そこには椅子に座り、パジャマのままでパソコンに齧り付く女性の姿。
事前に鍵が開いてる時はいつもこう。慣れた様子でゴミ袋を取り出すと、青年はイヤホンから音を漏らしながら動画に夢中な彼女の視線に入らないよう片付けに勤しむ。
その表情はほんの少しだけ悲しげ。袋に入って行く缶、缶、缶...... その全てがモンスターやドデカミン、レッドブルなどのエナジードリンクであり、過剰な砂糖の溶液。
「美味しいけどさ」
ぼやきながらも手は止めず、いくらか綺麗になってきた頃。
ようやく青年に気づいたのか、部屋主の女性が怪訝な顔をしながらイヤホンを外し、口が開いたままのゴミ袋に机の上の缶を玉入れの如く投げ入れて行く。
「来てたんなら声くらいかけてってば、何回言えばわかるの?」
「7回目ですね〜 それで、声をかけたら『ヤチヨの配信中だから静かに!』って言われたのが今年で...... 6回」
「ぐっ......
「褒め言葉として受け取っておきますね〜、
投げられたペットボトルを受け取り、微笑みながら弥と呼ばれた青年はゴミ袋を横に退ける。自分のアパートから持ってきたリュックを開けると、テーブルの上に弁当箱、台所にラップで包んだパンを出してオーブンに突っ込んだ。
学校に向かう時間まではあと1時間かそこら。そろそろ準備をしようかと立ち上がって制服を取ろうと前へ出した女性の足は、香ばしい匂いに惹かれていつのまにか台所へと歩みを進める。
「彩葉さん、気になります?」
チーン、と完成の音がして、真っ白な皿に乗せられたサンドイッチは朝からでも力強く食欲を揺さぶる、スッと胃袋に入れられそうな一品。これを出来合いのものとして出してくるのだから敵わない、だがそれを口にするのは気恥ずかしい。そんなふうに少しだけモヤつきながらも、彩葉と呼ばれた女性は『別にー』とうわべだけの返答を返し、床に座ってテーブルの上に皿を置く。
「......弥の分は?」
「食べてきましたよ〜、こう見えて早起きですから。深夜も起きちゃいますし」
「おじいちゃんみたいじゃん」
「よく言われます、ルマンド食べますか?」
「それはおばあちゃんのお菓子でしょ」
クスクスと笑う制服姿の彼を見ながら、彩葉は黙々と口にサンドイッチを運ぶ。少し周りを見れば、いつのまにかこれから着る予定の制服は手の届く位置にあるし、起きてからぐちゃぐちゃだったはずの布団は綺麗に畳まれて陽の当たる場所に移動させられていた。それも全て弥がやってくれたのだろう、本来家事に使わなければいけない時間を勉強に割けるのは彼のおかげで、そこに感謝はしている。
弥は、彩葉が上京する前からの知り合い...... いわゆる幼馴染だ。一歳下ではあるものの上京したのは弥の方が先であり、荷解きなり何なりを手伝って貰ううちに、いつのまにか家事などを任せるようになってしまって数ヶ月にもなる。弥はほぼ毎日来てはご飯は作るわ片付けをしてくれるわ、体調が悪ければ看病もしてくれるわで助かっている。
「食べ終わったら洗うので、お皿貸してください。サッと洗ったらサッと消えますね〜」
「......ん」
しかし。しかし、だ。
サンドイッチ片手に体を倒し、机の下から引っ張り出したカバンから財布を取り出すと、何かを察したのか弥は露骨に嫌そうな顔をしてため息を吐いた。
「いらないです......」
「なんで!?」
彩葉は学費、生活費を1人で稼いでいる。そのためにスケジュールいっぱいにバイトを入れ、限界ギリギリの中で倒れそうになることもあった。
そしてそれは弥も同様である。高校生として東京の高校に入ってからは自らの力でお金を稼ぎ、生活費を賄い、彩葉と同じ様に生きている── はず。だのに、彼は彩葉の部屋で作るご飯、弁当、それらの材料を自分で買ってきては対価を求めない。
常識的にもこの状況に甘んじているのはいけないし、自分の感情だけで考えても一歳下の幼馴染にたかっているみたいで納得できていないのだ。
「受け取ってってばっ」
「俺がいいって言うんです、それでいいじゃないですか〜」
「わたしがダメなの! せめて少しだけでも貰ってよ!」
「まだ言います? 何回目ですかこの言い合い...... 大丈夫ですってば」
大丈夫じゃないだろう、なんてことは同じ様な生活をしているからわかる。きっと家計簿をつければ彼の場合は火の車だ。だからこそ何回でも対価を受け取れと口酸っぱく言っていると言うのに、弥は嫌そうに視線を外す。
「何がダメなのかわかんないですよ、だってそうじゃないですか?」
ぶぅ、と不満げな顔をしながら、弥は視線を上げる。机よりも上の位置にあるそこには、アクリルスタンドの飾られた神棚があった。
「彩葉さんは食費が節約できて、家事や洗濯に勉強時間と推し活を奪われないでハッピー」
そして視線を落とし、ぐで、と机の上にだらけさせていた体を起こして自分を指差す。
「俺は料理作れて楽しい、Win-Win!」
感謝だけ貰えればそれでオッケー、というような笑顔を見せ、彼はまた体をだらけさせ始めた。確かに助かってる、勉強時間もヤチヨの配信が余裕を持って見れるのも。反論しようにもできない彩葉の姿に『そうでしょそうでしょ』と鼻を鳴らす。
「貰ってばっかりなのに、それをありがとうだけで済ますなんて出来るわけないでしょ...... それとも、わたしから貰うのが嫌、とか......」
頑固なのは理解している。それでも、納得はできなかった。それしか返せるものがないのだから、それをいらないと言われたら、貰う側はどうすればいいのか。そんな事を口走って、最終的には卑下まで入ってきてしまったあたりで、ミスったなと顔を逸らした。
恥ずかしさから頬に熱が入って行くのを感じる。
数秒、沈黙があった。
次に声を発したのは、弥から。
「......もらいます」
「は?」
「貰うの嫌じゃないです、なんならいっぱいください......」
折れた。
ふじゅーpayのバーコードを差し出しながら、弥は申し訳なさそうに彩葉の表情を窺っている。それは決してお金が欲しいから、というわけではなく、彩葉に卑下させてしまった引け目と一瞬だけ見えた悲しげな顔がどうにもダメだったから。
弥にとって、彩葉は東京では貴重なうわべで話さなくていい友人。出来る限り真面目なキャラをバイト先や学校で演じている彼にとって、昔と同じ感覚でお互いをいじったり、自分のままで居ていい彩葉の部屋とそのお世話は何にも変え難いもの。
その居場所は、彩葉がいつも通りでいることが何より大事。自らが納得しきれないことでも折れなければ今を維持することはできない。
「......じゃ、どのくらい?」
「ん〜、今月分は大体──」
対して、彩葉の声は心なしか嬉しそうに跳ねる。
歳下にたかっているみたいだとか、感謝のお返しだとか、色々理由をつけはしたが、結局は恩返しがしたかっただけ。
ふじゅーpayでの送金を終え、お互い学校へ行き、バイトを乗り越え──
「ただいまぁ〜......」
ヤチヨの歌が流れているイヤホンを外し、限界から帰り道で流した涙の跡を作りながら、彩葉は畳まれたままの布団に身体を預けて意識を手放す。
次に目を覚ませば、台所から味噌が香る。そこにはエプロンを着けた弥がスマホからヤチヨの歌を流し、鼻歌混じりで晩御飯の準備をしていた。
彩葉が起きたことに気づくと、弥は鍋の火を止めて彩葉の近くに腰を下ろし、彼女の目の下を優しく擦る。
「クマ、薄くなってきましたね〜......」
感慨深いような、安心したような。そんな声色が優しく耳を撫でた。
前まではメイクを濃くしなければ隠せなかったクマ。バイト、勉強、バイト、勉強、家事...... 休む暇のなかった彩葉が携えた無理の軌跡が薄くなって消えようとしている事実に溢れた安堵は、彩葉の初めて聞く声として響く。
「でも鍵閉めないで寝ちゃうのはダメですよ〜、本当にびっくりしましたからね?」
「ん、ごめん......」
寝起きゆえか淡白な返答。それを色付けたのは腹の音。誰のものかと言われれば、眠気が吹っ飛ぶほどに顔を真っ赤にした人のものである。
「はは、ご飯にしましょうか」
「はー...... 手伝うよ」
「じゃ、ソレ焼いてください」
ヤチヨの歌を聴きながら、熱したフライパンの上で踊るピーマンの肉詰めと漏れる肉汁を見下ろす。
思えば、弥が何を趣味としているかというのを彩葉は知らない。やはり料理かと思い聞いて見たことはあるが、弥は首を振って『趣味っていうより必要なことって感じ』と否定していたし、彼の部屋にも行ったことが無いからそこから読み取ることもできない。
思ってたより何も知らないな、なんて思いながら彼のスマホ画面を見ていれば、弥はそれを持ち上げてポケットにしまった。
「......彩葉さんの影響ですね〜、配信見てみたら結構面白くて」
そう言って、恥ずかしそうに頬をかく。
わたしたちは一応高校生。別におじいちゃんが若い趣味に手を出したわけじゃないんだから堂々とすれば良いのに、と思うけど。こういうところがおじいちゃんっぽいのかな。
「──ごちそうさま」
洗い物を終え、帰る彼の後ろ姿を見送る。
道中猫に驚いたり、角から出てきた人にぶつかりそうになったりしてる姿を見て笑いそうになってしまった。
部屋に戻り、鏡の前で薄くなったクマを撫でる。
いつかは無くなるのかな、これも。