超お世話係!   作:チクワ

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 アラームが鳴る。目を覚ます。くたびれた関節をバキバキと鳴らしながら立ち上がり、部屋の中を見まわした。

 そこには何もない。正確に言えば冷蔵庫と、畳まれた1週間分の服が上下。あとはユニットバスの方に洗濯機があるくらいか。椅子もテーブルも布団もなく、生活感が希薄なこの部屋にただ、自分だけがある。

 人によっては不安になりそうな自室を見ながら、麦茶を流し込んだ。

 

 彩葉さんと自分は幼馴染である。一歳歳上の彼女とそのお兄さん、そして自分と自分の兄は仲が良く、よく遊んだもので。とはいえ人と人のつながり、どこかのタイミングで疎遠にもなる。1度目は彩葉さんのお父さんが亡くなられた時。お葬式で泣いている姿を見て遊びに誘って良いのかと迷った。

 2度目は自分の上京。先んじて東京に来ていた兄の家に住ませてもらっていたのも少し前。

 

 兄は端的に、いじめっ子だった。

 そのくせ優秀なものだから親もなあなあで止めようとしないし、物を取られたり叩かれたりなんて割を食うのはずっと自分。

 そんな彼が上京するって言い始めた時は『どこへなりとも行けや、せいせいする』なんて思ったものだけど、数年するとそんな兄からメールが届く。

 どうやら東京での生活は頼れる人もなく、辛く、苦しかったと。そんなだから心を病んで仕事も辞め、家事も手につかない、と。冷たい事を言えば、だからどうしたとしか。

 人はそんなに変われない。辛いから助けてというSOSを出されても、もしそれを助けたとして、いつも通りになればこの人はまた何か自分から何かを取っていくんだろうなとしか思えなかった。

 

「──学費は出すさかい、おにいのとこに行ったって」

 

 そう言われた時、暴れていればよかったかな。

 もう社会に出ている、全てが自己責任だと理解している、そして頼った相手は肉親とは言えいじめてた相手。断ろうと思えば断れるだけの理由はあった。でもそれ以上に、そこに残る理由もなかった。だって味方がいない。

 ゲーム機もない、お気に入りのサッカー選手から貰ったサイン入りボールも上京費用にメルカリで二束三文。奪う価値も無かったのだろう物を全て段ボールに詰め、ゴミとして捨て、自宅に帰って親にひとつ。

 

「学費も生活費も自分で稼ぐさかい、いらへん。 なんもくれんでええわぁ〜」

 

 何も無ければ取られない、奪われない。

 それだけで心躍った。新幹線に乗って、思ったよりも静かな車内に驚きと感動を覚えながら『彩葉さんに言えなかったな、上京のこと』なんて考えてれば東京。

 それから荒れ切った兄の世話をして、立ち直って社会復帰した兄に彼女ができて、追い出されて今のアパート。

 何もない床の上で座りながら眠って、日差しと共に起きる。最初に口にした言葉は『ラッキー』の一言。だって何も取られないから。

 

「いらっしゃいませー」

 

 バイトの忙しさも、学校の勉強も全て自分のもの。

 そう思うと幸せ、な、はずで、半年もすれば部屋に自分のものが溢れかえると思っていたが。

 

「おっかしーなー」

 

 バイトから帰宅して玄関で靴を脱ぎ、綺麗に揃えてからリビングを見て首を傾げる。なぜだか、何にも食指が伸びない。

 幼馴染と熱中したはずのゲームも、6年間を共に過ごしたサッカーグッズも、中高生が一般にハマってしまうようなエンタメも何もかもが必要ないからと手元から滑り落ちる。

 奪う奪われないではない。

 なにもなくなってしまった。

 

 それに気づいたからといって生活が変わることはなく、いつものようにアパートへ帰っていた時、久方ぶりの顔がそこにいた。

 その日は何故かいつもと違うルートを取っていたから、ある意味では偶然の出会い。

 その人は、階段に倒れ込む様にして。

 

 

 

「......ん、ヤバ」

 

 物思いに耽って何分を同じ姿勢で過ごしていただろうか。夏の熱気で結露した水滴がペットボトルから滑り落ちて意識を現実に戻せば、時計はすっかり登校時刻を指している。台所には作りかけの弁当が置かれたままで、それはつまり彼女のカバンにお昼ご飯がないと言うこと。

 今から彩葉さんの学校に行けば昼までに間に合うだろうが、そうすれば自分が遅刻確定なわけで、そこは天秤。ご飯と出席日数であればもちろん取り返しのつかない出席日数の方が優先されるべき事項であると、論ずるまでもないが。

 

「まあいいでしょ〜」

 

 

 

 

 

「ん......? あ、あれっ......」

 

 1時間目の古典を終え、喉の渇きを潤そうといつものようにカバンの中を探る。弁当箱が入れられているシンプルな紺色の手提げ袋の中、そこには別に入れなくても良いって言っても弥が突っ込んでくる冷えた麦茶のボトルがあって、ある、はずで......

 

「彩葉、どしたん?」

 

「......弁当箱、忘れて来たかも」

 

 焦ったわたしの様子に対し、友人である芦花、真実が覗き込んで心配そうな表情を見せた。

 

「ほんと? 私のおかずちょっとわけたげよっか?」

 

「珍しいね、彩葉が忘れ物なんて」

 

「あはは、ちょっと昨日忙しくって......」

 

 失敗したな、と思いながら作り笑いで大丈夫と2人にひらひらと手のひらを見せる。いつも弥が作って入れておいてくれるからそれに慣れてしまって、油断してしまった。弥も高校生だ、バイトもしてて忙しいのだから来れない事だってあるはずで、そこに甘えていた私の落ち度ではある。

 とはいえ食事も無しで午後の授業を乗り切れるかと言われればギリギリのライン。購買で買えはするものの、何百円とするパンなんてこれを買わなければ何食分になるのに、って考えが頭を支配して買うに買えない。

 どうしようかな、と廊下に出て校庭を見下ろして黄昏ようとすれば、あるものが見えてギュンと心臓が脈打つ。

 

「ちょ、ちょっとごめんっ!」

 

 不思議そうな顔の2人を置いて、いつもなら絶対にやらない速さで廊下を疾走する。道中階段ですれ違った次の授業の準備に向かう先生へごめんなさいと形だけの謝罪を投げつけながら誰もいない下駄箱まで降りてくると、そこには紺色の手提げ袋を左手に、右手で電話をかけようとしていた弥がこちらにその手をひらひらと振っている。

 他校の生徒が侵入なんて騒ぎになるどころの話じゃないのに、何故この人はそんなに余裕そうなのか。丁重に手提げ袋を受け取り、私の焦りとは対照的な彼のおでこを軽く小突く。

 すると弥はいくらかオーバーに小突いたところを両手で押さえると、久しぶりに見た驚愕の表情を見せた。

 

「え〜、届けに来ただけなのに......」

 

「それはありがとうだけど、そっちだって学校あるんだよね?」

 

「朝は病院行ってから行くって電話してあるから、多少の遅刻はセーフになりますよ?」

 

 はあ、と大きな溜息が出ずにはいられない。

 たかが弁当だ。それを、しかも他人に届けるために学校を病欠、それも仮病でなんて信じられない。しかもそこそこ急いだのだろう、髪はいつもよりもボサボサで、仕方がないから軽く整えてやる。

 

「ゴミとか付いてます?」

 

「いいから、じっとしてて」

 

 キュッ、と口を閉じた弥の髪に触れると昔遊んでいた時とはすっかり変わった事を思い知らされる。黒の方が多かった髪の毛は今では遠目に見ると総白髪にしか見えず、肌は血色が悪い。

 白髪自体はヤチヨに似てて少し羨ましく思わなくもないけれど、髪質自体は良くなくて、どうしても心配な方が勝ってしまう。そんな彼の髪を整えて満足し、鼻を鳴らせば次に感じたのは背後からの視線。嫌な予感がして振り返ろうとすれば、それよりも早く肩を掴まれて階段の影に連れ込まれる。

 何事かと思えばそこには真実と芦花の2人がいて、2人ともチラチラと不思議そうに弥の方を見ていた。

 

「あれって、前に言ってた幼馴染?」

 

「そうだけど......  えっ、真実、真実さーん? 何か言ってよ、怖いんだけど」

 

「話がちーがーうー......」

 

 なんだと言うのか。確かに、前に一度だけ弥の話をしたことはある。上京してこちらに友人はいるのかと言う類の話の中で、ちょこちょこおじいちゃんみたいな幼馴染がいるという話ぐらいではあるが。

 しかし、今真実に肩を掴まれてぐわぐわと揺らされている理由が読めずにいると、興奮気味な真実の言葉ですぐさま理解させられた。

 

「何がおじいちゃん?! なにあれ、結構なイケメンじゃん!」

 

 ああ、確かこの子は割と面食いというか、ミーハー気味なタイプだったなと思い返す。プロゲーマーグループの『ブラックオニキス』のリーダー、帝アキラへの熱狂的なファン活動なんかは近くで見て来たわけで、ああいう『俺様系の危険な男』タイプが好きなのであれば、向こうで下駄箱の裏からこちらを覗き込んでイケメンという言葉にピースを送ってくる男のニュートラルな表情は確かに真実好みではあるだろう。

 一皮剥けば、にへにへ笑うルマンドが好きなおじいちゃんだが。

 

「あの......」

 

 どうしたものかな、と思いながらも揺らされていると靴を脱いで上がって来た件のイケメンが柱の影から顔だけを出し、声をかける。

 その姿に芦花は少し警戒した様子を見せ、真実は私の肩から手を離して少し緊張した様子を弥に見せる。その人、真実より歳下なんだけれど。

 

「ごめんなさい、お騒がせして。 謝罪も込めて〜なんですけど......」

 

 そう言って手元から出て来たのは、ラップで丁寧に包まれているウサギの様な切り方をされたりんご。受け取った真実が冷たいと口に出したあたり、保冷剤か何かに包んできたのだろう。意外性のある贈り物に、これには警戒していた芦花も少しだけ表情を緩ませた。

 

「上手くできたので食べてください。あとルマンドもあげます」

 

 出た。ちゃんと冷やしてるし。

 

「ちゃんと彩葉さんのお弁当にも入ってますからね」

 

「別に良いってば...... ほら帰る、用事は終わったんでしょ」

 

「はい。今日はハンバーグですから」

 

「はいはい、ありがと」

 

 

 

 

 

「久しぶりに食べると美味しいねー、おばあちゃんのこと思い出しちゃうな」

 

 ピッと軽く開き、袋から取り出したルマンドをザクザクと口の中で咀嚼しながら、じんわり広がる優しい味に真実の顔が綻ぶ。グルメ系インフルエンサーのお口に合った様で何より。

 箸でハンバーグを4等分し、その中から一欠片を口に運べば、すっかり冷めているのにジューシーさは消えておらず、空腹が幸せな形で満たされていく感覚に幸福感が染み渡る。いちいち持って来てくれた弥を強く叱れないのは、これを楽しみにしている面も私にあるから。

 ルマンドを二口で食べ終わった真実に一口が大きいな、なんて思っていれば、芦花の視線がこちらに向いていることに気づく。

 

「彩葉、すっかり顔色良くなったよね」

 

「え? そ、そうかな......」

 

「あ、私も思ってた。一年の最後の方とか、真っ白だったもんね?」

 

 意識した事は無かったな、と自分の顔をペタペタ触りながら思う。ちゃんとご飯を食べて、いくらか疲れを取る時間も取れて、それも多分──

 

「幼馴染くんのおかげって感じ?」

 

「うぇぇ?!」

 

 考えていたことを見透かされていたかの様に芦花が放った言葉に、つい声が裏返った。それを聞いた真実は『図星ー?』とケタケタ笑いながら手を叩く。

 

「じゃあさ、幼馴染くんと再開した時の話教えてよ。地元の相手と上京先で会うことってあんまり無くない?」

 

「えぇー......」

 

 言わなきゃダメ? と溜息混じりの声を出すが、真実も芦花も興味の視線を外してはくれない。どうせ今言わなくてもいつかまた問われるのだろう、そう思えば、今言ってしまったほうが楽か。

 ええいままよ、と、夏空に思念を送りながら、思い出すのは上京してきて初めてのの冬の事。

 

 

 

 

 

「お疲れ様でしたー」

 

 バイト先のドアを開き、空を見上げればしとしとと雪が空から落ちてくる夜。

 その日は信じられないほどの激務で、クリスマスシーズンはまだ一年目である彩葉の元にも容赦なく降りかかっていた。忙しくなるほど普段からミスのある後輩のミスも増え、客の母数が増えるほど些細なことや存在しない出来事に対するクレーム、クレーマーへの対処も過酷なものになる。

 毎度ごめんね、と謝罪する店長の言葉も何十回目、ついに彩葉が家路に着くことができたのは終業を1時間ほど過ぎた頃である。

 

「つかれた......」

 

 笑顔を維持できたのはドアを閉めるまで。

 ジャリジャリと積もらない程度の雪が溶けたアスファルトを歩くその足取りはフラつき、寒さを跳ね除ける為に身につけたコートは、普段ならそこまで気にならないはずの重さすらも自身を地面に引き倒そうかと背中を引っ張っている。

 

 寝不足からくる頭痛も、無理が体にのしかかった倦怠感も仕事中だからこそ無視できた。しかしすでに退勤してしまった今は体を奮い立たせることもできず、身体の全てがシャットダウンへの準備を進めていた。

 落ちそうな瞼、折れて伸ばせなくなりそうな膝。

 それでも家には帰らなければいけないと、ヤチヨの歌をイヤホンから流し、溢れてしまいそうな涙をどうにか引っ込めながら家路を歩く。

 

 元気を絞り出し、電車に乗り込んで立ちながら眠りそうになりつつも改札を抜け、ようやくアパートに戻ることができた時、フッと──

 

「うぅ......」

 

 階段を登ろうとした時、濡れた段差に滑って転んでしまった。

 足首を軽く捻った以外は幸いにも怪我は無いが、力が抜けてしまって立つ事もままならず、ついに限界が来たことを悟る。

 もうダメかも、そう思った時、涙でぼやけた視界に白い髪の毛を携えた男の人が写った。その人は私の片耳からイヤホンを外すと、優しく芯のある声で呼びかけた。

 

「動けますか?」

 

「すみません、足が......」

 

「足首?」

 

「は、い」

 

 少ない問答をするとその人は軽く考える素振りを見せてから、ごめんねと一言おいて捻った足を軽く触る。すると私の口から呻きに似た息が吐かれ、彼は軽く息を吐いた。

 

「部屋は何号室? 連れてくから」

 

「大丈夫、です」

 

 その時、ふわっと身体が浮く。

 次の瞬間には視点がいつもよりも高くなっていて、驚きと共に何故か、ほんの少しの懐かしさと安心感が心を通り抜ける。ずっと前、外で遊んでいる時に感じたものがその背中から、温かさと共に流れて来て、少しだけ口角が上がった。

 

「大丈夫じゃないでしょ、怪我してる時くらい他人頼って良いんじゃない」

 

 問答無用で私を背負ったその人の目は、少し澱んでいた。でも、その奥には優しさが見えて、安心が冷たい体を溶かしてくれる様で──

 

「ねえ、何号室? ねえ、おーい? あれ──」

 

 

 

 

 

 次に起きると、見慣れた天井があった。

 まだ残っている頭痛が先程までの苦痛と安心を夢じゃないと通達し、布団をどかした時に走った足首の痛みを確認してみれば、湿布と軽いテーピング。

 テーブルの上にはドアを開ける為に使ったのであろう鍵が置かれていて、セロテープで貼り付けてあるメモにはクセのある字で『開ける為に使いました、カバン開けてごめんなさい』と。

 

 キッチンの方を見れば、背負ってくれた白髪の彼が鍋に火をかけ、ポットの電源をつけて立っている。

 その背中には少しシミができていて、濡れていたコートの私を背負ったからだということはすぐにわかった。

 

「おはようございます、どーぞ」

 

 手渡されたマグカップは温かく、淹れたばかりのはちみつレモンが黄金色の輝きで古ぼけた蛍光灯の光を反射する。飲み込めば、気つけの様な酸味と疲労を癒す甘みが染み渡って、ほぅ、と優しく息が漏れた。

 

「足首は少しの間安静にしたほうがいいです。変えのシップはそこに買って来てあるので、張り替えるなら自分で」

 

「あの、ありがとうございます。 ご迷惑を......」

 

「いやいや、緊急事態にしても女性のカバンをあさっちゃったし、頭下げるのは俺の方です」

 

「いやいやいや......!」

 

 助けてもらった上に頭まで下げさせてしまったことにバツの悪さを感じ、こちらこそとまた私も頭を下げる。

 しっかり布団を敷いて、しかも布団が濡れない様にタオルまで間に入れてもらって。しかもこのタオル、私のものではない。きっと彼が持っていたものだろう。

 助けられた側として、そこまでされては立つ瀬がない。

 

「それじゃ、起きたので......」

 

 そういうと彼は鍋の火を止める。

 無事を確認したわけだから、助けた側がこれ以上関わるのは特別な事情でもなければ必要のないこと。故に帰宅の準備を進めようとしているのだろうと、せめて見送る程度はしようと立ち上がれば、彼は微笑んだ。

 

「風呂入ってください」

 

「えっ」

 

 すでに沸いていたお風呂に肩まで浸かり、大きなため息を吐きながら、善意と手助けの濁流に流されるままの自分に『もぉ〜......』と戒めの声をあげる。

 全部問答無用で渡されている感じ。ご飯も作ってくれるらしく、流石にそれは申し訳ない、それくらいは自分でやると言ったものの。

 

「1人で作って1人で食べるの、寂しいんですよ〜? 恩返しだと思って作られてください」

 

 断りにくい。

 しかも少し見えた材料は冷蔵庫に入れておいたものじゃなかったから、おそらく彼が買って来た物だろう。

 これじゃあご飯を作られるのが恩返し、と言ったところで、返した分よりもっと多くの恩が積み重なっていくだけ。どうしたものかな、と思いつつもお風呂から上がり、テーブルの上に広げられた光景に目を疑う。

 ソースのかかったハンバーグと付け合わせのほうれん草、味噌汁、きゅうりの浅漬けに白ごはん。

 

「ご飯だけはレトルトでごめんなさい、でも多分美味しいですよ〜」

 

 一度、ほっぺをつねる。

 夢ではないことはわかっていた。でも、それでも信じられなかった。

 頑張って頑張って、自分のやらなきゃいけないこと一つも落とせなくて、辛かったこの一年、年の瀬が近づくクリスマスを前にした今。

 報われた、なんて図々しすぎるかもしれないけれど、その無条件の優しさが心のボーダーラインで堰き止めていた辛さを胸の奥から押し出して、味噌汁の水面に一滴、波紋を作り出した。

 

「ごめ、なさ」

 

「謝らなくていいんです、今はごはん、食べましょう?」

 

 小さく頷いて、箸を持つ。

 ハンバーグも、ほうれん草も、味噌汁も浅漬けも美味しくて、優しさがある。

 

「ごちそうさま、でした」

 

「ふふ、それはよかったです」

 

 手慣れた様子で食器を片付けると彼はお茶を淹れ、それを差し出してくる。

 その間、何も聞かれなかった。アパート前の階段で倒れているのも、ご飯を前にして泣き始めるのも普通じゃないのに、それを気にしてはいても決して聞こうとはしない。

 

「聞かないんですね」

 

「嫌でしょ〜、人に話すの」

 

 独り言なら聞こえて来ちゃうかもしれないけれど、と彼は続ける。

 

 ぽつ、ぽつ。

 下を向いて、()()()が溢れる。

 

 ソリの合わない親の話。生活費、学費を自分で稼がなければいけない話。

 

「全部、やらなきゃ......」

 

「......どうして、そんな一人で頑張らなきゃいけないんですか?」

 

「どう、して...... 何でなんでしょう」

 

 バイトの理不尽も何もかもを溢して、最後に漏れたのは古い幼馴染の話だった。

 

 父親が亡くなって、兄が上京して、2人。

 私にとって彼は逃げ場みたいなもので、時折こちらの家に来てゲームだけしていくあの時間が楽しかった。

 それでも幼馴染は何も言わず上京してしまったという話をすると、それまで優しい顔でうん、うんと相槌を打っていた彼の表情が強張り、口元を抑え始めた。

 どうしたことだろうとその顔を見る。

 

 少し鋭い目つき、白髪、間延びした喋り方。白髪は記憶の中よりも多くなってはいるが......まさかと思い、彼が隠している右手中指の腹を見た。もし私の考えが合っていれば──

 

「切り傷...... 弥!?」

 

「いやその、彩葉さんだとは思ってなくて......」

 

 弥の指には昔兄弟と喧嘩した時の切り傷がある。そしてこの反応、自分を助けてくれたのが幼馴染であったと言う事実に、なんだか拍子抜けする。

 

「......んゔーっ!!」

 

「彩葉さァん?!」

 

 その辺にあったタオルを顔に持って来てうずめ、出せる限りの声量で恥ずかしさを打ち消す。

 何を隠そう、一緒に遊んでいた時期はむしろいじめられて泣いている弥を慰める側だったわけで、自認としては頼れるお姉さん...... というわけではないけれど、それと似た様な形だったと言うのに、今ではそんな歳下の前でボロボロになっているのだから、恥ずかしくてたまらない。

 なんなら今も涙は出て来ているし、感情が迷子。

 そんな私の背中をさすり、やれ言わなかったのは普通に忘れててだの、ずっと申し訳ないな〜と思ってただの言いはするが、それで私の感情がどうにかなるわけではない。

 

 結局落ち着いたのは数分あと。

 弱みを見せたことはもう吹っ切るしか無いのだとヤケクソになり、少し冷めたお茶を啜っていれば、弥の視線は机の上にある缶やまだ開けられていない実家から持って来た荷物へと向けられる。

 それらと、私と、空の月と。視線をぐるぐるローテーションさせて微笑んだところで、弥はこう言った。

 

「俺、明日から彩葉さんのお世話しますね!」

 

 

 

 

 

「大体そんな感じ、かな」

 

 一通り話し終えると、真実はパックのジュースから伸びたストローを咥えたまま動かなくなり、芦花はといえば、すりすりと私の手のひらを両手で取り、大切そうにさすっている。

 もちろん恥ずかしいところや親に関する話は端折ってはいるものの、芦花は私の無理を、真実は弥の行動に対して思うところがある様子。

 

「あの感じで家事できるの?!」

 

「あの感じって......」

 

「......彩葉、辛かったら私にも相談してくれていいからね?」

 

「あ、うん。それはもちろん」

 

 まあ確かに目つきは鋭いしあの髪色だし、家事の方に振り切ってるのは意外な印象を与えるかもしれない。

 話し終わっても終わらない真実からの追及と芦花からの心配に苦笑いしながらも、あの時運良く弥が通り掛からなかったらどうなっていただろう?

 きっと今よりもっとギリギリの綱渡りで、と言うところまで考え、やめた。

 今は今で、そこにもしもは無いのだから。

 

 

 

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